ひとりマーケティングのためのデータ分析

StoryPart
Chapter1 -First Step

Chapter 1 > Section 1

3月上旬 12:45
Navi in Bottiglia
綾子 [綾子]あー美味しかった。これから、お昼寝でもしたい気分です。
晴花 [晴花]まったくだね。
綾子 あぁ…。ぎすぎすした会社に戻るのは、よけいに気が重いというか…。
晴花 うんうん。でも、そろそろ戻らないとマズイよ。…帰りますか。

ふたりは優美な木椅子の座り心地に未練を残したまま、席を立つ。そして、いつものように財布からポイントカードを取り出して、レジへと向かった。


ホールを切り盛りしているこの店のオーナー夫人・優里は晴花と旧知の仲だ。晴花にとって、唯一心許せる大切な同僚となった綾子も、今では自然とこの親密な付き合いの輪の中に加わるようになっていた。


ふたりは優里と二言三言、ことばを交わす。それから、店をあとにした。


―――会社まで、およそ5分の道のりを歩く。

春の訪れを匂わせる日差しにつつまれ、往来を行き交う人々の足取りがすこぶる軽やかに感じられた。

晴花 ポイント、たまったねー。
綾子 そろそろディナーコースがゲットできちゃいますか。
…とりあえず、これを楽しみにでもして…
イヤなことは考えないようにしまーす。
晴花 とはいえ、会社に本当に倒産されても困るでしょーにさ。
晴花 私なんて…入って1年あまりでまた仕事探しになっちゃうわけで…
くっ…
綾子
晴花 いっそ結婚でもしちゃうか…円満に逃亡できるし。
綾子 …(咳払い)
綾子 えーと、いいですか…晴花さん。順番的には、お相手探しが先のように思いますけど?
晴花 …だよね………………
晴花 …ってうっさいわ! アンタもひとのこと言えないじゃん!

ふたりは、会社まで他愛のない話を続けた。

新しい生活、新しい挑戦を心から歓迎できそうな、この季節だけにしかない清々とした空気が、眼前にひろがる世界を支配している。それは、自分たちのおかれた境遇とのコントラストを容赦なく自覚させた。


「目に映る人々がただ理由もなく恨めしい」

―――そんな身勝手な思いを湧いては潰し、また湧いては潰し…しながら、ふたりは春の街路を並んでゆく。

3月下旬 19:30
会社からの帰路

綾子と晴花は、企業の信用調査やマーケティングリサーチを手掛ける「リサーチサービス社」の経理課に所属している。創業して10年あまりの同社は、全体で30人超の人員を抱える、若く、ちいさく、無名の会社だ。

創業以来大小の紆余曲折を経ながら、同社は成長フェーズに乗れたこともある。

だがしかし―――。
近時は、会社の中の人間なら、誰もが危険水域に近づいていることを肌で感じることができるような状態にあった。


―――綾子らの所属する経理課について、話を移そう。
ここでは、この人物の存在をあげなければならない。

“初江” だ。非常勤の役員で、社長の母親でもある。

初江の仕事は、決算・財務・給与に関係する、会社の経営上機密性が要求される資料を統括し、目の届く範囲で徹底した情報統制を維持することだ。現状、経理部門では、職位のない綾子や晴花らが重要な情報を取り扱っている。そのため、たとえば売上管理は綾子以外が携わることを禁止するといったように、職務領域ごとに専任制を敷いて、責任の所在を明確にして自らのチェックを重ね、外部へ重要な情報が漏えいしないよう睨みを利かせる必要があるのだ。


とはいえ初江は、採用面接からの縁となった綾子らに対して、これまでの日々のなかで小さな信頼を見出してきたところがある。そうして一定の信用を与えたところに、このところは老齢にともなう肉体的な限界が重なった。…自然、初江の出社日数は以前にくらべ減っていく。

このところの初江は、不定時にふらっとやって来る…そんな存在となっている。でも綾子たちにしてみれば、小うるさい立場の者と接する機会が減って安閑……でもない。


出社した折には、その空白を埋めんと密度の濃いチェックを入れてくる。むろんその日は、綾子たちのルーチンワークはすすむことはない。

だが、初江のそんな厳しい姿勢が、綾子たちの仕事に対して以前と変わらぬ緊張感を与え続けていられる理由となっている―――このことだけは明確だろう。


初江の担うところの役割は、信頼できる肉親にしか果たしえない―――以前と違って初江の活躍の機会が減った今でも、社長はそう考えている。それが、血縁の情を超え、敬意というかたちで社長の内面から滲むのだ。そして会社の中の人間は、その滴りを敏感に感じ取る。―――結果、この会社の中では、彼女は独特の威厳のようなものを纏っていた。

晴花 ぐへぇ…初江さんにつかまってシボられたぁ…。ピークも間近だし、今日は早く帰ってスタミナ温存しとこうと思ったのにさ…。
綾子 まさかの夕方出勤で…今日は完全にノーマークでしたね。仕事中断した分、私もちょっと残したままになっちゃいました。
綾子 …それにしても、売上が減ってから事務の補充なんて口にできる空気はないし、二人で月末をこなすには…今回はちょっとヤバそうな感じですね。
晴花 うーん、もう2年もいる綾っちがそう言うとなると……ますます気が重いな…
晴花
綾子 あ、そうだ! 晴花さん、見てくださいよ~。
晴花 ?
綾子 じゃーん。この前の日曜日、これ、買っちゃったんですよー。カードケース!
○○ブランドのやつです。雑誌で見て一目ぼれしちゃって、それはもう…あちこち探して手に入れたんですッ。
晴花 うわぉ。いいねいいねーいいなー。
でも、どしたの? 綾っちがブランド系のもの買うなんて、珍しいじゃん?
綾子 私たちナーヴのポイント集めてるじゃないですか。で、いつしか自然と、私…服屋さんとか…パン屋さんとか…その辺のポイント集めにも凝りだしちゃって…
うーん。なんだか私、いつか節約上手な “奥さま” になれそうな気がしません!?
晴花 はい?
綾子 ちょっとぉー! 晴花さーん、聞いてますかぁー? もう。
綾子 …ていうわけで、大事なポイントカードを楽しく持ち歩きたくなるようなモノが欲しくなっちゃった…というわけなんですYO(音符
晴花 えー。でも、ケースにお金使った時点でさ、その………節や…………
晴花 …まぁいっか。綾っちのそういうところ、憎めないもんな。とりあえず、ナーヴのポイント集めなら私も協力できるしさ、月末乗り切ったら また、行きましょっか。
綾子 もっちろんでーす。約束ですよ。
4月上旬 20:00
Navi in Bottiglia
ナーヴ 優里 [優里:イタリアレストラン “ナーヴィン・ボティーリャ” オーナー夫人] いらっしゃーい。お仕事おつかれさま。
晴花 せっかくのお休みの日なのに、ホントよかったのかな?
ナーヴ 優里 もォ…。全然オッケーだから気にしないでって。だってさ、ウチのダンナさん…イタリアに研修に行ってるのに…店、どうやって開ければいいのよ?
晴花 でも、料理まで用意してくれたんでしょ?
綾子 えー! ウソ! 優里さんの手料理ですか!?
晴花 そーなの。私たち、ふだんオーナーの料理にはなれてるけど、優里は厨房立たないからね。実に貴重な機会よ。私も高校の時、“うなぎのパイ” 食わされて以来のことだわ。
綾子 それ、お土産とかでよく見るお菓子みたいなやつですよね。「食わされて」って…。あれ、おいしいじゃないですか~!
晴花 いや、ね、優里のはさ。その…姿身がそのま…
ナーヴ 優里 それ以上言ったらこの世からイレースすっぞ!! うう…黒歴史を…
晴花 …すみません。
ナーヴ 優里 もう…! ささ、ふたりとも中にどうぞ。子供も実家に預けてきたことだし、今日は私も久しぶりにわいわいやりたい気分なの。

「晴花の入社から一年経ったこの時まで転職の祝いができていない」………仕事の都合といえど、優里はそれを長く気にかけていた。そんな折、彼女はオーナーである夫の研修にともなって、まとまった休みを取らざるを得なくなった。そこで、綾子ともども食事会をしようと急遽ふたりに誘いの声をかけたのであった。


仕事帰りにナーヴへとやってきたふたりは、降って湧いた店舗貸切パーティーの機会に興奮しつつ、優里とともに彼女が用意した食事を楽しんだ。そのあと、三人でいろいろと話に花を咲かせていた。

綾子 晴花さんがウチの会社に入ってきてくれて一番得したこと…やっぱりナーヴのお店に良くしてもらえることですYO。優里さん、晴花さん、感謝してますYO。
晴花 いやいや私は優里に寄生してるだけなんだな。リサーチサービス受けたのも「優里のお店に近い会社の求人が出てる!」ってのがホントのところだし。転職活動全敗街道まっしぐらのなか…あのときはリサーチサービス社が輝いて見えたわ。
晴花 でも、輝いて見えたのはその時だけ。…中から見る会社はゴタゴタの連続。
綾子 確か…面接、初江さんがメインで進めたんですよね? メイン…というか、社長がひと言もしゃべらなかったとか…!それで受かったんですから…ある意味、伝説ですよね~。
晴花 あの時は「実は初江さんが本当の社長だ、いや、本当の社長だと言ってくれー」って思ったもん。何で社長はしゃべってくれないんだろうって…。私、多分嫌われてるし十中八九ダメだろうなーって思ってた。
綾子 実はですね…その時の話のオチ、私、知ってるんです。後で初江さんから聞いたんですけど、笑っちゃいました! あ~言いたい、けど言えない…!
晴花 え、何、何それ! そんな話初めて聞いた! そんなのあるの?
綾子 ぐふ。ダメなんです~! 初江さんに「ここだけの話」と念を押されてますからー。ぐふふ。
晴花 うぐぅ!何という生殺し。もう時効、時効! いいじゃん、言っちゃいなよ!
ナーヴ 優里 じゃぁ、綾ちゃん。晴花の代わりに私に教えてよ。私なら、いいじゃん。
綾子 じゃぁー、優里さんだけに…。
綾子 ヒソヒソ…「初江さん、履歴書見て適齢期で端麗な晴花さんに目をつけて、いまだ独身の社長のお嫁さん候補として人物をしっかり見てみるよう勧めたそうですけど…「嫁ぐらい自分で決めさせてくれ」って社長…面接の前に拗ねちゃったんですって」…ヒソヒソ。
ナーヴ 優里 えーっ!! この晴花が…晴花のくせに…晴花のブンザイで、社長夫人の候補ぉお!?
綾子 あのぅ…。
晴花 だいたいわかった…。っていうか優里、テメェ…
綾子 …。
晴花 初江さん、気にいってくれたならうれしいんだけど…私なんてキレイでもないし、ましてや愛想もない。何よりたいした経歴もないというわけで…一体何がよかったんだろ?
綾子 もういいや、言っちゃいます。
綾子 なんて言ってたかな…うーんと、こう…「陰の濃さを知る子」だとか言ってました。経歴とかでなく、瞳の中にそんなものを感じたとか…
綾子 それでいて “日南晴花” …なーんて名前が輝くように明るすぎて…。心にヘンに引っかかるものがあったと初江さん、言ってました。晴花さんという人間に、光を当ててみたいと思ったって。
ナーヴ 優里 ぷっ。 …私の知る晴花じゃないな、それ。
晴花 わーらーうーなー。でも、こればっかりは優里の言うとおりよ。初江さん、何だか知らないけど買いかぶりすぎよ。
晴花 現に社長なんて、私のことなんて歯牙にもかけてないじゃん。私の仕事でさえ、何やってるかまったく関心ないでしょーって感じだし。
綾子 以前はそんなんじゃなかったんですけどねー。最初は私もよくしてもらいましたし…。右も左もわからない私に…こう、何というか…一緒の目線にまで降りてきて励ましてくれるようなところが…あったんですよ。
綾子 なんだか…カッコイイ大人のヒトだなって憧れたりしました。
晴花 …私には想像不能だな、それは。
ナーヴ 優里 でも不思議なんだけど…社長さん。それなりの地位や…それにお金だって今は苦しいと言え…生活に足るくらいはそれこそ十分だろうし…聞くところによると風貌もイケてるとか…。…なのに何で独身やってるの?
綾子 あ、いろんな説がありまして…。
定番どころとしては…実は…(自主規制)…なんじゃないかって説。
晴花 ポカっ!!
綾子 イテテ…。
で、昔愛した人が忘れられない…って話もあるんですよ…。
ナーヴ 優里 キャ―――――! 何そのピュアマインドな話。
綾子 いや、根も葉もないうわさ話なんですけどね…。
晴花 なんだかな。まぁ、でもそのピュアマインドとやらで、ご飯が食べていけるわけじゃないし。ウチの社長然り、優里然り。会社やお店のかじ取りをするには生き馬の目を抜くしたたかさだってモノを言うよね?
晴花 …だからさ、優里はホントすごいよ。この若さでお店を上手く切り盛りしてるんだから、マジに感心するわ。高校時代は単なるミーハー女だったのに。
ナーヴ 優里 それは晴花の影響でしょーが。インディーズバンドの追っかけやってた頃、スタジオ裏で出待ちのパターンを分析して伝授してくれたのって…一体、どこの誰だったかしら。
綾子 会社じゃ限られた人以外、基本ポーカーフェースの晴花さんが…そんなコトを?
むふふふ…他の人にも教えてあげたいです。
晴花 ぐうぅ…優里このやろー。
ナーヴ 優里 ふふ。それにしても…晴花、綾ちゃんみたいに気の合う同僚ができてよかったじゃないの。傍から見てると…これだけ歳が違うのにまるで壁を感じないって…不思議ね。晴花が私より若くなっちゃったみたいで、正直、私もうらやましいかも。
晴花 ウチの会社ガタガタだし、何ならよろこんで交代しますよー。じゃ、私がここのオーナー夫人としてのお役目を頂くわ? めでたしめでたし。
綾子 お店で愛嬌を振りまく晴花さん…いや、考えたくない。
綾子 …何より…お店乗っ取りそう(ボソっ)
晴花 こぉらぁ綾子!! 丸聞こえだっちゅーに!
綾子 ひぃ。

話題は、やがて店のポイントの話に移っていった。

綾子 …優里さん、私のも見てくださいよー!
へへ、これだけ貯めちゃったんですYO。
ナーヴ 優里 わ!知らなかった。こんなにもウチを使ってくれてたの!?
綾子 よく、お母さんと来るんですよ。
けど、お休みの日のたいていお昼すぎなので、優里さんじゃなくてアルバイトさんがホールにいるタイミングだったりしますから。
ナーヴ 優里 …そっか。ホント、ありがとうね。
ナーヴ 優里 ウチね、ポイントは「お得意様にもっともっとファンになってもらって末長くお付き合いさせてもらおう」って目的で始めたんだ。
ナーヴ 優里 キホンさ、私たちね。新規のお客さんを回転させてくんじゃなくて…シンパシーを感じてくれたお客さんに、こう…我が家以上にどっぷり浸かってもらいたいというか…コンサルさんが言うには、どうやら「顧客生涯価値」なんて言うみたいだけど、それを重視していこうって…私のダンナさんは。私は難しくてなんだかよく分かってないけど。
ナーヴ 優里 だから超・お得意さんの綾ちゃんたちには感謝してるわ。これからも贔屓にしてもらえるよう、私も頑張らないとね。
晴花 へー、経営的なお話。優里とはふだんバカ話ばっかりでそういう話をしないから…なんかあらたまって新鮮だねー。
ナーヴ 優里 生々しい話だけど、他のお店との競争もたいへんなのよ。そうは言ってもまだ始めたばっかりの取り組みなんで…手さぐりなんだけどさ。
ナーヴ 優里 …一応、ダンナさんとはこのポイントの制度で、いろいろチャレンジしてみたいねー…なんて話はしてるんだけど、どうすればいいかとなると難しくて…。だから現状は…ただのサービス券でしかないかな。
晴花 私は、サービス券のままでも大歓迎。…まぁでも、単にサービス券と同じものっていうんじゃなく、お店的にも違ったメリットが欲しいっていうか、サービス券とは区別したいとこだね、きっと。
綾子 …。
晴花 どーちまちた綾子ちゃま~。そろそろおねむのじかんでちゅかー?
綾子 ………う”ー
綾子 えっと、なんかすごいなーて思って。
綾子 これだけのお店をやりくりしていくのはきっとタイヘンですよね。でも、自分たちで考えたことをかたちにしていく楽しさみたいなもの…みたいな? そんなことを感じてしまいました。
ナーヴ 優里 わぉ。優等生的な発言ね。…実際は、プレッシャーの方が多いけど、あながち間違ってもないかも。きゃは。
晴花 優里ごめんっ。綾っちは絵にかいたようなピュア女子なんで、狙ってるわけじゃないけどたまーに周囲の空気を氷点下にもってくのよ。ふふ。
綾子 …ひどいですっ!
晴花 …さて、と。冗談はこれくらいにして、そろそろ帰らないと電車がヤバい頃だね。
ナーヴ 優里 そっか、明日も仕事だもんね。今日は楽しかったわ。
晴花 このお礼は必ずするから。優里。
…じゃ、綾っち。帰るぞよ。
綾子 ごちそうさまでした。優里さんの料理も、オーナーさんに決して負けてなかったですよぉぉおぉ。
ナーヴ 優里 まったく綾ちゃん調子いいなぁ。またぜひいらしてね。

四月だというのに外は真冬に逆戻りしたかのような寒さだった。が、ピークを迎えた公園の桜の下にはまだたくさんの人の活気がある。

ふたりは白い息を吐きながら小走りで駅へと向かった。充実した時間を過ごせたことが、終電に急かされていることさえも楽しいことのように感じさせた。

4月上旬 8:30
リサーチサービス社
綾子 はぁはぁ。おは…遅くなりました。電車1本乗りす…
晴花 綾っち、早く!早く! 急遽 全体朝礼やるからRS部に全員集まれって! 今、上から連絡が!
綾子 えー!…ツイてない日はツイてないことがつづくな…。

建物の二階に充てられたRS部(Research & Sales: 調査営業担当部門)は、この会社組織の中で最も広い区画をもっている。それゆえ、全体朝礼など大勢を集めた催事の場としても利用される。綾子らがこのフロアに上ると、社長は皆に背を向け窓の外を眺めるようにして立っていた。


取引先・調査先に直行した者を除いて全員が集まると、総務部長がその旨を社長に伝える。少しの間をとって、社長は集められた者たちの方へゆっくりと身体を向け、いつにもまして平坦な面持ちで口を開いた。


しばらくは、定型的な訓示を冷静に伝えていただろうか。しかし、話題はほどなくすると、めずらしくも社長自身の過去の話へと変わっていった。いくぶん唐突な感のある展開は、綾子らにも一抹の不安を感じさせるものがあった。


―――口調は、徐々に熱を帯びていく。

社長 [リサーチサービス社・社長 “鏑木”]………私が職を替え外資に身を投じてから、それはもうシンプルに リサーチを上げ・売ること これだけを24時間考えるような日々を送ってきた。やがて、年間セールス、リサーチ本数とも awardを争うポジションへ、常に自分の身をおいておけるようになれたものだ。
社長 それも、誇れる経歴がなかったにもかかわらず、私の資質に期待し、声を掛けてくれた当時の上長のおかげだと思っている。その彼の面目を失わせたくない。当時は、そのただ一心でがむしゃらに働いた。
社長 私が入社した当初、私の周りにいるのは高い学歴と煌びやかな職歴を備えた歴戦のつわものばかりだった。…今となっては恥ずべき思い出だが、正直、私は委縮した。私は異質以外の何モノでもない。これを受け入れねばならないことが甚だ苦痛だった。
社長 しかし、私は異質でありながら勝つことができた。
社長 いや…異質だからこそ勝てることにもっと早く気づくべきだった。

すると、社長は突然目の前のデスクを平手で荒々しく叩きつけた。

始業間もないこともあり、仕事モードに切り替えられずに半ば話を聞き流していた人間がいる。これらの人間に対し、社長は荒々しい牽制を放った。

社長 周りは資質・経歴を備えたモンスターばかりだ。私がそんなヤツらに迎合したところで、同じ土俵で戦わなければならない。
社長 それでは、やる前から結果は見えているじゃないか。
社長 だから私は寝る間も惜しんで考えた。どうすれば出し抜けるかを。
社長 そしてひとつの結論に達した。それが自分にしかできない戦い方だ。
社長 それすなわち…スピードだ。
社長 私は、幼いころから苦しい家庭環境のなかで育ってきた。少しでも早く身銭を稼げるようにならなければ…と思ってきたのも自然なことだ。だから、高校を出たら大学へ進むという選択肢さえもたなかった。…おかげで私は学に引きずられることがない。そもそも、それが何たるかを知らない。
社長 しかし難しい理屈を極めた者たちは、どうにもそれをこねくりまわすことに精を尽くしたがる。そんな傾向に、あるときふと気づいた。
社長 いわんや、それはスピードを犠牲にするということだ。
社長 もっとも、彼らにとってはスピードなど端から重要視されないものだったのだろう。クオリティこそ正義だと。
社長 …だが待ってほしい。
社長 クライアントの多くは、商品の質もさることながら目前の不安や疑問を一秒でも早くなぎ払いたいという思いに満ちている…これもまた、ビジネスの世界の真理だろう。レスポンスのスピードやタイミングといったものは、その意味では商品そのものを時に2倍にも3倍にも輝かせることのできる一流のスパイスとなりうるものじゃないか。私にとっては幸いなことだが、連中にはそこを軽視している者が多かった。
社長 だから、そこを攻めることに決めたんだ。
社長 しかし、だ。仮にスピードを武器にできたとして、クライアントと永続的な信頼関係を欲する以上、やがて質だって求められてくるだろう。結局両者を満たせられるようにならなければ、ペテンでおわる。いったい到達点として、スピードとクオリティを両立させられる仕組みなんてあるのだろうか…私は悩んだ。
社長 なぜ悩まなきゃいけないのか。…それは理想に振れすぎた話だからだ。今、この場で客観視してみても、現実的な話ではなかったんだ。
社長 だが、当時の私にはその判断ができなかった。いや、もしそれにたる資質があったとしたら、そこですべてが詰んでいただろう。オレは今、この場に立っていないはずだ。
社長 私は、この理想的な仕組みが…ただひとつ “情報ネットワーク” でなら、なし得る…そう踏んだ。誰よりも効率的に情報が入ってくる環境をつくる、これこそが私にとって至高の武器となると。自分が1を投げかけたら10となって帰ってくるようなネットワークが必要だと、その時、思った。
社長 …今思えば、恐ろしいほどの短慮だな。
社長 …それでも現実の問題となれば。いくらバカなオレでも、それにともなう初期コストとして、個別のリサーチに十分な時間をとることができなくなることくらいは容易にわかる。だから私は、情報ネットワークの構築に向けて、未練を残しながらもひとたびクオリティを捨てることを選んだ。
社長 だってそうだろう、とるにたらない者が大きな勝負に出ようというときに、それまでのやり方を踏襲するバカがどこにいるというんだ! ましてや、怪物たちを相手にだ!
自分が間違っていなければ、傍から見たら敗北必定の勝負であっても間隙からきっと勝算が生まれてくる…その一点だけに狂ったように縋ってやってきた。
社長 リサーチャーとしてのプライドは皆無になった。…この時の逆境ぶりは凄まじいものがあったな。ことさらシングルプレーの非を叩かれ…周囲の評価も散々な有様で、さげすむような視線がそれはもう辛かった。いつか結果が出ることを盲信していられなければ、どこかで崩壊してしまっただろう。
社長 だが私は忍んだ。幸いにも、上長だけは理解をくれたからだ。
このとき、私は出来ることをこれ以上なくやり尽くした感がある。今後、この時ほど活動的であることはないだろうというくらいに。…取引先や関係機関が許す限り、それはもうささいな理由をこじつけて、足しげく通ったさ。脈略なんてまったくない。とにかく当時は、どこかで芽が出るにちがいないとしか思わなかった。
社長 外資的なスタイルと離れ、くだらないご機嫌うかがいや御用聞きだってしたんだ。オレ本来の性格が、ツラの皮一枚を隔てた奥で煮えくり返る状況でな。毎日が半端ないストレスだ。しかし、仲間の連中が理屈を吐いている間に、私はできるだけ足を動かし、その足を動かしている間に物事を考えようと決めた以上、自分を演じることはまだ安いことだった。
社長 すべてを犠牲にしてでもやり抜こうと思った。とにかくがむしゃらだった。おかげでプライベートな時間なんてものとも、無縁となった。
社長 ……大切なものも失った。
社長 でも、だ。ある時を境に、一連の仕事に劇的に変化を感じるようになったんだ。
情報探索のコストが…こう…指数関数的に減りだしたことに気がついた。必要な情報が向こうからやってくるようになった…とでも言うべき感覚だ。空気の変化が自分でもはっきりと分かった。
社長 …そう、オレはこのとき、自分のやり方が正しかったことを覚った。
社長 オレが築いたネットワークが最も有効にはたらいてくれたのは、言うまでもなく営業の面だ。だが、付随的に入ってくる各方面の事情は、リサーチを上げるのにも想定以上に役立ってくれた。はなから仮説を絞れることが、いかに時間的・金銭的および労力面でのコストに貢献するか、君たちも肌感覚では理解していることだろう。
社長 もっとも、私の場合、それだけでは終わらなかった。オレがあらゆるものを犠牲にして築いたシロモノは、予想だにしなかった副次的な利益をもたらしてくれた。
社長 昔は強大な存在だったライバルどもが、正面から戦わずとも脇から手を回すだけでいとも簡単に弾かれていく。…会社の中での地位や肩書なんてものは、しょせん脆いものだ、と。はじめは背徳感もあったが、足の引っ張り合いが日常茶飯事な世界に長く浸かると、いつしかそういった黒い部分に手を染めることに躊躇さえ感じることもなくなっていったがな。
社長 …………………………

社長は、何ら思惑の見え隠れする沈黙をつくった。

社長 …とにかく、われわれの原点は “現場” にある。現場の問題をクライアントと共有し、現場の今を足で考え、深く切り込むことができる―――――それこそがわが社の存在意義だ、と。
社長 この10年、これを皆で等しく抱きながら、われわれはクライアントと揺るぎないパートナーシップを築いてきた。
社長 …それが、だ。
社長 世は未曾有の不況ときたもんだ。
多くを言うつもりはないが…わが社も危機的な状況にある。
社長 内々の話だ。勢いに口外すればいらぬ信用不安を招くだろう。その先は…みんなの想像のとおりだ。
君たちの多くは苦しい時をともにしてきた同士だと思う。だからこそ、今この状況を私も冷静に認めているんだ。
社長 不況、なんだ。
景気しだいで顧客の懐具合も変わるだろう。だから仕方ない。
社長 …………………………
社長 本当にそう言えるか?
社長 今一度皆がよく考えてほしい。
社長 われわれの目指してきたパートナーシップは、そういうもの…だったのか?
社長 真の友人たれば、苦しい時にこそ、その存在が大きくなると言う。
言うなればいつどんな時であれ必要とされるモノこそが、本当に必要とされるモノだ。これこそが真実だと思いたい。
社長 何を言いたいか分かるだろう。
われわれが得たはずのパートナーシップは……
社長 片 道 だ け の も の だ。
社長 何とも滑稽じゃないか。コトここに至るまでの鈍感さは、逆に痛快でさえあるな。
社長 …われわれはそれが存在するものと…長きにわたり錯覚してしまった。初心を忘れ、いつしか致命的なミスを犯してしまった。実に残念だが…競合会社の隆盛っぷりを見てもそれを否定できる者がいるなら、ここでよろこんで否定してもらおう。
社長 オレたちは、オンリーワンのプロとしてやってきたはずだった! が、いつしか顧客自身が出した成果の上にあぐらをかいて調子に乗っているだけの、取るに足らない集団になりはてている。なんと愚かなことか!
社長 道を外した理由なんて、コトここに至ってはどうでもいい。オレたちは今一度 … 今一度、強い集団に生まれ変わる必要がある! それだけだ。
そのためには大きな勝負を避けて通れない。何をいわんや。それすなわち、今までのやり方を捨てる必要があるということだ!
社長 …昔のように、オレは…再び、共感の情に欠けた異質な人間と皆に罵られることにもなるだろう。だが構わない。信頼を取り戻すためなら、往時のバカ野郎によろこんで還ろうじゃないか!

再びデスクを激しく叩く。が、拳では勢い余った。机上のコーヒーカップがひっくり返り、いくつかの書類を褐色に変えた。


社長の近くにいた業務課の女性社員が機転を利かしハンカチを取り出してそれを拭う。


社長は口を真一文字にして黙している。興奮もピークに達しようかという矢先であっただけに、コーヒーで書類を汚してしまったことよりも、文字どおり話に水を差してしまったことを嘆いているかのようだった。

社長 …(咳払い)。
私は、われわれがクライアントに必要とされる存在に再び還ること。これこそを、今これからの最大の使命と考える。そのため、喫緊の方針としては何より会社を存続させていくこと、当面はこれ以外に望むべき方針などありえない。
社長 すなわち、今のわれわれには既存商品の改善をはかり…などと、悠長に明日の糧のことなど考えている余裕はない。欲しいのは今日、そしてまた明日、この会社が存在することだ。それが、すべてだ!
社長 …。
社長 …的を射ないな。
でははばからず言おう、どんなキレイごともその日をやりくりする金さえなければ、絵にかいたモチだ、と。
社長 今日の糧を調達してこられる者、語弊を恐れずに言えば、時には奪ってさえこられるような者こそ、今、われわれには必要だ!  断言する。
社長 だから私は…
社長 いや…オレは、この会社を成績を挙げられる者だけの精鋭集団としてつくり替える、そう決意した。もう引き返さない。確かに…トップとして心苦しい思いもないわけではない。が、折を見て人材の入れ替えをするつもりだ。

その場にいた誰しもが、不意を突かれた。社長の意思は、皆の想定の範囲を超えたところにあった。皆、動揺を隠さない。


場が、ざわついた。


皆の反応をはかるように、社長はことばを継がずに黙っている。


ますますいやな方向へと想像を掻き立てる、その静寂の長さを嫌ったのだろう…

そのとき、RS部のひとりが、意を決して社長に問うた。

「それはリストラ…ということでしょうか…?」

社長 …。

社長はその男へ刺すように視線をやって、無言で一度頷いた。

社長 …解雇で、という意味でならその通りだ。
しかし、以前の私がそうであったように、当人の努力次第で生き残る道も必ずあるはずだ。それを探れた者だけが生き残る。これが本来、ビジネス社会の原理原則であると、オレは思う。
社長 逆境こそ人間力を高める最高のフィールドだ!
何より自分の力を信じぬけ!
社長 以上!

綾子 …。
晴花 …。

朝礼が終了したら、持ち場に戻る―――そんな単純な原則さえ、しばらくの間、誰もが失するところとなった。ざわつきがこの場を伝染していく。


そんな空気を見かねた総務部長が、両手を小さく広げて、からだ全体で集団を押しやるような仕草を見せる。仕事にかかるよう無言で促された集団は、それぞれがようやく鈍い足取りで、持ち場へと戻りはじめた。


「こんなことを聞かされた以上、いつものペースを取り戻せたりなんかするものか」―――彼らの背中は、そんな心情をありありと代弁していた。

[挿絵]社長の全体朝礼