ひとりマーケティングのためのデータ分析

StoryPart

Chapter 1 > Section 2

4月上旬 12:15
会社近くの公園

社内に衝撃を与えた、社長の、突然の決意表明から一日が経った。この日の昼、綾子と晴花は、社内で昼食を済ますことに息苦しさを感じ、示し合わせるでもなく少し離れた公園へと足を運んでいた。


公園に着くと、ふたりは手頃なベンチを見つけ、ハンカチを敷く。そして、心の重さに耐えかねるかのようにしてベンチにドカッ!と身を預けた。

ふたりは、緩慢な手つきで弁当箱をひらき、ミートボールやおにぎりをちびちびと無言で口に運ぶ動作を繰り返した。―――まるで、ただ義務を果たすかのごとく。

晴花 …。
綾子 …はぁ。

頭の中に湧いてくる不安・焦燥・失望―――。

綾子はそんな感情の羅列に葛藤し、口を開くのをためらっていた。

RS1部 安堂 おっと
これはこれは。

そんなとき、ふたりの後方から馴染みのある声が聞こえる。

綾子が声の方向を振りむくと、同じ会社のRS1部に所属する “安堂” が立っていた。

綾子 あ! こんなところで。
RS1部 安堂 [安堂]昨日の今日…だけに社長と同じフロアでメシ食うのは地獄っしょ。
ふだんなら外メシだからいいんだけど、ダメ営業のオレがよりによって…こんな時に昼すぐの来社のアポをもらうとは…皮肉としか言いようがないよ、まったく。
RS1部 安堂 …で、メシだけでもここで食おうと思って逃げてきたら…先客がいらっしゃったようで。

安堂は、綾子らの向かいの芝にドタっと座った。そして、会社階下のコンビニで買ってきた菓子パンの袋を破ってかじりつく。

綾子がベンチに並ぶよう勧めるが、気恥ずかしいのか座ろうとしなかった。

RS1部 安堂 それでなんだけど、昨日の話。夕方、社長がうちの部長と話してるのをさりげなく…とか言いつつ実は必死に聞き耳立ててたんさ。そしたら…社長の考えが少し見えて来たんよ。どうやらよく言うリストラ、という訳では必ずしもないらしい。

安堂は、スーツの内ポケットから手帳を取り出し、挟みこんであったカラーシールを抜き出した。手帳のリフィルに指を這わせ白紙のページで手際よくとめると、そこに小さなシールを次々と貼り付けていく。

晴花 (…安堂さん…自分でダメ営業と言ってたけど…お客さんでもない、私たちを相手にそこまでして説明しようとする姿をいざ目の当たりにすると…)
晴花 (…やっぱり、営業マンらしからぬ無垢な不器用さがありそう。でもこの人には優れたリサーチを上げるって評価するお客さんが多いんだよな…)
RS1部 安堂 …もしもーし! 日南さーん。聞いてる?
晴花 あ!はい。 すみません。
RS1部 安堂 …ま、みんないろいろと大変になりそうだし。じゃ、仕切り直して…
RS1部 安堂 ウチの部を例にして話すよ。これ(図)がウチの部だね。8人いる。
まぁ、社長の言い方は気に入らないが、ここではそのまま言うことにするよ。
営業成績を基準に、青いのは「優秀な人」、赤いのは「劣る人」、そのほかのは「並みの人」だとする。現状、それぞれが2・2・4の比だと仮定しよう。
RS1部 安堂 ある程度の時期を見たら、最も低いところにいる人間を解雇するというわけだ。ここでは、赤いのだね。
そこで…だ。

会社の状況によっては、この空いた枠に、無理をしてでも経験豊富で活きのいい有能な人材を引っ張ってくることも考えているらしい。
RS1部 安堂 すると、「並みの人」だった集団の中にも刺激を受けて切磋琢磨する人間も出てくるだろうと。
そしてまた、最も低いところにいる人間を解雇する。

…このサイクルを繰り返して、最終的に全員が「優秀な人」で構成される精鋭部隊を実現したい、ということらしい。簡単に言えば、だけど。
綾子 …なんだか魔法みたいな話。
晴花 おいおい。感心してる場合か。綾っち。
RS1部 安堂 魔法をかける方ならいいが、かけられる方はたまったもんじゃないよ。
ヨメさんと幼稚園児のチビ抱えたまま路頭に迷うのは、正直言って勘弁願いたいよ…。
綾子 あの様子だと、私たちだってこうしてフルイに掛けられるのは、同じかもしれませんね。
晴花 まぁね。そうでなくても、社長のスタンス次第で、派遣とか、外注とか、簡単に切り替えちゃいそうな気もするな。
RS1部 安堂 いずれそれをやるとしても、今の社長の力点はRS部隊の改革のほうにあるのは明らかだから、まずはオレたちの問題のはずだと思うけどな。
…という訳だからお嬢様方、これからもどんどんサポートしてくれないと、ヨメさん泣かすことになるのでよろしく。
綾子 晴花 (小刻みにうなずく)。

来客の予定のある安堂は、昼食を済ますとそそくさと戻っていった。


綾子は、社長の当面のターゲットがRS部隊にあることを聞かされると、心のすきにホッとした気持ちが広がっていくのを抑えられなくなった。RS部隊の苦難と自分たちの行く末は表裏一体の関係にある。綾子はこのことを十分に理解していたつもりだっただけに、実効を伴わない安堵の感情が邪魔なものに思えて仕方なかった。


「私は特別な誰かじゃない…遅いか早いかだけで、結局は当事者」

―――咄嗟、そう心に念じる。


「現に私には、何ができる。何も出来っこないじゃないか」

雑多な思いがやがてそこに収束する頃には、失意にも似た萎えた気持ちが再び心を支配しかえした。


ふたりは、春のくすんだ空を時間まで眺めていた。

4月下旬 10:00
リサーチサービス社

月末が迫ったこの日。朝から、商品に関する顧客からの問い合わせの電話が鳴り響く。こうした仕事は、本来、経理課の職責の範疇にない。

しかし、小さな会社だ。

ただでさえ人員の少ない業務課の回線はすぐに埋まる。そうなると、この社では経理課に機械的に転送されるようになっている。このとき、晴花はこうして掛かってきた電話に対応していた。


一方、綾子は、ノルマに追われ、いささか高ぶったふうな出先のRS部員からの電話を受けていた。

晴花 「…はい。システムのことでしたら………あの、すみません…担当がふさがっておりまして…はい…後ほど担当より折り返しお掛けするしか……」
綾子 「えーと、それはむずかしいと思います。
…先日付の小切手は内規に触れますから」
綾子 (受話器の向こうの声)「こn#@$%…*pあ6s!!」
綾子 「…うーん、わ、わかりました…。でも私にはどうにもできないので、とりあえず部長が戻り次第相談してみて折り返します。ごめんなさい」カチャ。
晴花 「…ということですので、申し訳ありません」カチャ。
晴花 …。
綾子 晴花さん、システムですか? 今日の業務課、ただでさえ人いないですしね…。
晴花 綾っちは…また内規と板挟みの融通懇願系電話だな、その感じは。最近は無理言われることが多いなぁ。
綾子 絶対ダメだと分かり切ってることだって、あの日以来みんな余計にたいへんだと思うと、すげなく断りづらくなっちゃって。
おまけにピリピリしてるんで尚更です。
晴花 まぁある意味サバイバルだからねぇ。
さすがに口には出さないけれど「誰がオマエたちの給料を稼いできてると思ってるんだ」オーラが露骨に出てきた人もいるもんな。
晴花 しかしサバイバルなのはこっちも同じわけだし、譲れぬものは譲れぬな。
綾っちなんか何とか微妙なラインで収めようと十分やってるし、そう凹むこともないさ。
綾子 はぃ…。
晴花 ただね。私がドライすぎて…綾っちの所にお助けコールが集中するってのは…たぶんあると思う。 そこは…ごめんなさい。
綾子 ……い、いえ。そのドライさ、実にうらやましいですけど…。

このとき、綾子は不意にあたりを見回して人の気配のないのを確認した。そしてしばらく間をおいてから、小声で晴花に話しかけた。

綾子 ところで、晴花さん。
晴花 …なぁに?

小声で話す綾子の姿に内々の話であることを察した晴花も、つられて小声になる。

綾子 社長の考えのことです。ほら、あの朝礼とか、安堂さんから聞いたこととか…。
綾子 私は、どうしても引っかかってて…。
晴花 …と、いうと?
綾子 あ、えーと…。晴花さんは、社長の考えを聞いてどう思ってるのかなーなんて聞いてみたくもあり…。
晴花 何だ、私のコトなんか気にしてるの?
綾子 そりゃそーですよー。人それぞれの考え方がありますから、シンパシーは気になりますよ。…身近な晴花さんの場合、特に。
晴花 そっか。まぁ、そりゃー…今はこんな苦境に陥ってるけど、社長が話してたようなキャリアを聞かされると、社長は…本当にスーパーマンだなーとは思うよ。でも私はスーパーマンじゃないんで、社長の考えは感情でしか判断できないから…今回の判断は社内の空気的にサイアクだなーと思うだけ、かな。
晴花 綾っち、前言ってたよね。「昔の社長は一緒の目線にまで降りてきてくれた」って。それで私、思ったんだけど、スーパーマンにも2通りの人がいるんじゃないかしら。弱き者のために戦うことを貴ぶ「自己犠牲型」のスーパーマンと、強き者の中で極限を究めようとすることを貴ぶ「自己追求型」のそれ。
晴花 結局はウチの社長はその両面に豹変する人だった、ということじゃないかしら。どっちが正しい、正しくないなんてことを考えるのは、私はあんまり意味がないと思うな。結局は実現できれば、途中、それがどんなに犠牲を強いたとしても、ウチの会社にとってはそれが正義となっちゃうんだしさ。
晴花 どっちにしたって、私たちはこの大きな流れに逆らうことは許されないし、もっともそんな力もないしね。だから、この会社でお給料がほしいなら事態が好転するのをひっそりと願ってるのが一番じゃないかなーって、私は思ってる。
綾子 そう…ですか。
やっぱり、なるようにしか、ならないってことですよね。
晴花 …。

何気なく放った綾子のひと言が、晴花の心に奇妙な引っかかり方をするものを残した。

晴花は、感情だけで仕事を語ったあとに残される虚無感を知っている。それだけに、綾子の心情を慮って十分に言葉を選んだつもりだった。


しかし、言葉によって巧妙に編みこんだつもりでいた心のベールの薄っぺらさを、なぜだか綾子に見透かされた気がした。


晴花は、このところの出来事に嫌気がさし投げ遣りになっている自分が、客観視を装って本音では自分の無気力さを覆い隠しているだけのようにも思えてきた。その招かざる思いに苦い味を覚え、晴花は押し黙って赤面した。


―――晴花との思いの違いを汲んだ綾子は、その後、社長の考えについて晴花との話題で口にすることはなくなった。

5月上旬 14:30
リサーチサービス社

ゴールデンウイーク明けの会社。

毎年、この日はどの部でも旅行や帰省などの土産話が聞かれるところだ。だがリサーチサービス社の人間にとって、この年の休日は多くの者がもやもやを抱えて過ごすこととなった。

それだけに、所々で交わされている会話からは、例年と比べてどこか景気の悪い話が聞こえてくる。

部長が不在のここ経理課も、例外ではなかった。


―――それでも。
綾子らは、それを自虐的なネタへ昇華させ、イヤな空気に抗おうとする。

晴花 え、マジで? じゃ、心の準備もなしに、いきなり彼氏の実家にあいさつに連れて行かれたってコト?
RS3部 田中 …こないだの話したら「んなアホな会社辞めて結婚してしまえばいい」って激昂しちゃって、あれよあれよと…。

RS3部に所属する “田中” が話に興じている。

外出の用事ついでに経理課に立ち寄ったつもりが、いつしか長話になっていた。

晴花 ぷは。この前知り合ったばっかだったよね、確か?
ずいぶんなスピード婚になりそう。
RS3部 田中 [田中]いやいや、一時の感情で突っ走れる若さは今のアタシにはないわー。
実家に着くまで必死になだめて…もうホンっト苦労して…時期尚早だってこと理解してもらったわ。
綾子 強引な展開ですねー。でもそれ、ある意味頼りがいの証かも。
RS3部 田中 っていうより、今辞めるのは、なんか歓迎されそうでイヤだよ。それに逃げ出したみたいだし。
晴花 なーる。一理あるね。
RS3部 田中 …ってイカン。仕事の用で来たのに、ついつい長居しちゃったわ。
RS3部 田中 綾っち、ここの見積書お願い。5度目の説得にしてようやく口説けそうな感触を見せてくれたから、先方の気が変わらないうちに持っていきたいの。…明日の朝一までによろしく頼むわ。
綾子 わかりました。

田中は、甲高いヒールの音を響かせながらビルを出て、取引先へと向かった。

綾子 えと、次、さん…はち…たな…さん…しょ…い…

綾子はディスプレイを確認しながら打鍵している。自身は気づいていないが、同時に、言葉にならないような途切れ途切れのフレーズをつぶやいていた。

晴花 綾っち、もしもーし。
綾子
晴花 だいじょうーぶかーい。
綾子 はい? 何がですか。
晴花 …なんかひとりでブツブツ言ってるようだったけど。
綾子 え!? 私? …うーん、そうなんですか。
晴花 綾っちの独り言はめずらしくないし、別にいいんだけどね。
ただ最近は特に…
以前より5割増しくらいになってきたかな…って思ってさ。
綾子 慣れないことやろうとすると、私勝手に…。
晴花 慣れないこと? 綾っちにまだそんなことあったっけ?
綾子 あ、いえ…いや、はい、まだまだです。
晴花 変なの。ま、いいわ。
綾子 …。
晴花 あ! 綾っち。あそこ、田中さんが戻ってきたよ。何かあったのかも。

晴花は経理課の出入口の方向をさし示す。綾子はつられて振り向いた。

―――が、晴花が示したところには誰もいない。

いたずら心を起こした晴花は、その隙に綾子のディスプレイを覗き見た。

綾子 …何ていうか、その。
晴花 …何…ですかこれ?
[Excelワークシート]日付・社員コード・サービスコードと見出しに書かれた3つの項目のデータが行方向にずっしりと記録されている。何の意味があるのかはよく分からない。
綾子 …ポ、ポイント、です…。
晴花 ポイント? あの、インセンティブ計算の?
綾子 いえ、そうでなくて…私が…です…ね…
晴花 ???
綾子 あ!晴花さん! あそこ! 部長です、部長! 帰ってきましたよ。
また今度お話しますから、
今日の所は何も見なかったことにしてくださいっ!!

晴花からしたら最後までつかめない話だったが、綾子がことさら恥ずかしげな様子で顔を赤らめていたことが、印象的であった。

5月上旬 19:00
Navi in Bottiglia
晴花 えー!?お店を?
綾子 …ええ…開いてるつもりで…。
晴花 …ポイントをつけてみようと?
綾子 そんなところです。
晴花 ぷは。はははははは!
綾子 だ、だから内緒にしてたんですっ!
晴花 あ、いや…ごめん。そんなつもりじゃないの。
その発想は予想だにできなかったんで、思わず。ごめんね。
綾子 …はぁ…
綾子 やっぱり私、意味のないことしてますよね………
晴花 待った待った。 綾っちにはきっと何か考えがあったんでしょう?
それを教えてほしいな。
綾子 ………………
綾子 晴花さんごめんなさい。…私、晴花さんのようには割り切れません。
綾子 …私、やっぱり…今の会社も…それ以上に今の自分も…イヤです。
晴花 どういうこと?
綾子 …この前、晴花さんの言うことを聞いて、確かに、なるほどなと思うところもありました。
…今私がどう感じようと、評価は結果でついてくるっていうのは。
綾子 だから社長のやり方で…もし会社が立ち直ればそれが正しいんだって。その通りですよね。会社を率いる社長の身になれば、そういった大義の前に綺麗ごとなんて言っていられないかもなーって想像しました。
綾子 私も、大好きなこの会社のために、そう思わなきゃ…何度も自分に言い聞かせました。
綾子 だけど、ダメでした。私は、昔の社長を本当に尊敬してましたから。好きじゃない方の社長を尊敬できるほど、私、器用じゃありません。
綾子 今の社長には、やっぱり「ついていきたい」って気持ちが湧かないです…。
晴花 …。
綾子 昔のことですけど…
綾子 私がこの会社に入ってしばらくは、まだ…みんながお互いの仕事を尊重しあうような、いいカンジの空気が残っていました。
綾子 あの頃よく社長が「人間力のバリューチェーンを強みに」なんて言ってたんです。当時は意味がよく分からなかったけど、この前の社長の話を聞かされてたとき、ようやく少しだけ…理解できた気がしました。
綾子 強がった風ではありましたけど、ああ…この人は前の仕事場でひとりで戦ってきたことを本当はよしとしていなかったんだな…って。
綾子 孤独ですよね…。だからこそ…自分の会社ではチームプレイを大切にしたかったのかなって。「人間力のバリューチェーン」なんて言葉には、そんな背景があったように、今になっては思います。
綾子 今、ウチで一番に知名度のある商品になった「事業所トイレと労働生産性調査」なんか良い例だと思うんですけど……これ、以前いた業務課の人の企画なんです。社長は「内勤の目線でしか難しい発想だ」と意外性を気に入り、部門をまたいだプロジェクトチームがつくられたと聞きます。
綾子 私が入社した頃、たくさんの人がこの話をしてくれました。そして口を揃えたかのように「関われてよかった」と。この会社の人たちがほどよく仲良くて活き活きしてるのは、きっと私が高校の文化祭のときに感じたような、みんなで苦労して大きなものを得た経験を、私よりずっとずっときびしい社会の中でしてきたからだろうな…そんなふうに思いました。
綾子 …生意気なこと言ってごめんなさい。私、それで思ったんです。あのときのみんなの活力みたいなものは何だったんだろうって。
綾子 きっと、会社や、商品や、仲間や、社長が好きだったからですよ。…それがたとえ言い過ぎでも、少なくとも嫌いじゃなかった。…単純ですみません。
綾子 友達なんかには「会社ってどこもそんなもんでしょう? 給料もらってる以上、大人になりなよ」なんてよく言われますから、バカなこと言ってるんだろうなぁってのは思います。でも、でも、そんな動機って、単純だからこそ捨てるのは難しい…。
綾子 だから、その気持ちにフタをすることはできませんでした…。
社長が強さや厳しさの先にしかスーパーマンをつくろうとしなくなったのは、自分のコピーだけが欲しくなってしまったことの裏返しなんじゃないかなって思います。結局、信頼できるのは自分しかいない…っていう気持ちというか…。
綾子 社長の言う「人間力のバリューチェーン」が聞かれなくなっちゃったのもそういうことなんじゃないかなーって…。とにかく…今はもう、何だかこの会社自体が昔とは完全に変わってしまいましたし、だれもが目先のことで精いっぱいな会社になっちゃいました。
綾子 でも、でも…です。みんなバラバラになっちゃいましたけど…社長だって、みんなだって、私だって、目指すところはきっと同じはずなんです。この会社にもう一度よくなってほしいって!
晴花 …。
綾子 それなのに…それなのに…今をじっと我慢することしか、私にはできないじゃないですか…。
綾子 …会社がこんな状況だから仕方ない…だから何もできない私は何もせずに、ただ耐えていればいいのかなって…。
綾子 そう思うと、なんだかくやしくて…。
綾子 確かに私は入って2年も経つので、いつもの仕事は一通りはできるようになりました。でもこれって、前の人からあたり前のように受け継いだり、部長から指示されたりしたことをただやってきただけで、自分で考えながら仕事をしてきたなんて自覚はこれっぽっちもありません。
綾子 思えば私は結局ここで何してきたんだろう…って。
綾子 でも、でも…
私は、たとえ終わったとしても…こんなんで終わるのはイヤだって…。
綾子 だから…変わりたいん…です。
綾子 自分はきっとちっぽけだけど、それでも何かしたい…そう思った時…ポイントで何かできないかなと思ったんです。
綾子 お店を開いてるような発想があれば、もっとみんなのことも考えて仕事ができるかもしれないって。
綾子 前、晴花さんにも言いましたけど、ポイントに親近感があるってだけで、正直、はっきりとした方向性とかがあるわけじゃないんです。だから無駄なことをしているんだろうなとも思います。
綾子 でも、むかし学校でやった理科の実験みたいに、誰かに与えられたことを追ってるだけじゃ多分私は変われない。だから…
綾子 だから…自分で…
綾子 …はっ!
綾子 やだ! 私ひとりで勝手にしゃべってま…
晴花 ………っく。
綾子 …は…るか…さん?
晴花 だって、何かと思えばあまりに健気な話じゃないですか………
思わず目から汗がにじんできたわ…。
晴花 …うーん。え~と…
晴花 …そうだ。

綾子がぶつけた思いの純粋さに、晴花は先日のことを思い出した。

安直に肯定や激励の言葉を返すより、本音で語ろう。そう、思った。

しかし今、たとえ綾子にできることがあったとしても、会社全体からしたらノイズのようなものにすぎないだろう。綾子が本当にその現実を身をもって経験した時に感じる喪失感を思うと、晴花は本音をそのまま伝えるのも憚られるところがあった。


だからこそ、綾子の意思を尊重しつつ、理想と現実とのギャップを受け入れられる “免疫” のようなものをつけておいてあげたいと思った。晴花はどう伝えるべきか、整理するための長い間をつくった。

晴花 …確かに綾っちの言う通り、これから何かをやってみたとしても、折々に「自分の仕事を増やしただけで何も得たものがないじゃん」って感じるようなことがほとんどになるかもしれないね。
晴花 あ、でも誤解しないで。悪い意味で言ってるんじゃないの。
何もできないから今を受け入れるか、それともダメになるかも知れないけど何かやってみるか…その価値をその時に判断できるのは本当に優れたわずかな人だけだって思うもの。
晴花 えーと、……綾っちの場合、まさにあれに、あれに、あれだよ!

そう言うと、晴花は店内のいたるところに飾られたボトルシップを次々とさし示していく。

ガラス越しの麗々しい帆船は、細い首・優雅な肩の膨らみ・肉厚の胴体が特徴的な淡色のワインボトルを殻にまとうことによって、より強烈な個性を帯びる。

晴花 オーナーさんの好みなんだろうけど、もしあれに心を惹きつけられるとしたら、あの狭い口しかないボトルに大きな船が入っているからなんだろうね。どうやって入れたの? とか、組み立てる苦労はきっと半端ないな、とか思うわけじゃん?
晴花 そう、船をつくることだけを考えるとあのビンは邪魔モンでしかないのよ。ビジネス的な言葉だと「非効率な要因の排除」なんて言ったりするもんね。今うちの会社が求めてるのは、この間の社長の話だとこっちの考え方に近いと言ってもいいかな…。
晴花 でもあのビンがあるから中の船の美しさが映える、っていうのもまたあると思わない? 一方では無駄以外のナニモノでなくとも、他方では必要不可欠なモノだったりするというか。
晴花 どっちが正しいのか。状況とか立場とか、いろんな考え方ができて当然だと思うし、世の中単純に割り切れないもんね。けど、もしかしたら綾っちのやろうとしてることは、いずれこの船のビンの方になるかもしれないじゃん。
晴花 そう考えると本当に「無駄なこと」って、決して多くないように思えたりしない?
綾子
晴花 私は、あの会社の悪い時しか知らないし、会社がダメになるのが先か、自分がクビになるのが先か分からないけど、なんかこう、悲観してるというか、いいように変わんないだろーなーって思ってるところがあるかな。正直言うと。だから綾っちのような思いは、今は持てないかな。うらやましくは思うけど。
晴花 でも綾っちは私にとってすごく大事な友達だしさ。だからさ、重苦しいことはちょこっと捨てて、明日からは「綾っち商店」のおもしろそうな取り組みを私にも教えてよね。
綾子 やった!「綾っち商店」はダメダメだけど、何だかとっても楽しい気分になってきた! こんな気持ち、すごーく久しぶりですッ!
晴花 よっしゃ、じゃぁ折角だしオーナーさんの趣味に敬意を表して…ワインをボトルで、ググッと行っときますか。これは私がご馳走しちゃうぞー!
綾子 あは。晴花さん素敵 (ハート
晴花 「すみませーん!ワインのお勧めお願いしまーす」

―――しばらくの後。

ナーヴ 優里 …わたくしお勧めのワイン、ボッテガ・ピンクゴールド・スプマンテでございます。新境地を拓こうとする方には相応しいいわれのある、特別な一品ですわ。うふふ。
綾子 きゃー何ですかこのキラキラ!すごくかわいいですー!
ナーヴ 優里 …ではこちらになさいますか。うふふ。
晴花 うん、うん…(「うふふ」じゃねー… このタイミングで¥4800の代物を…まったく商売上手め…)
[挿絵]綾子の吐露