ひとりマーケティングのためのデータ分析

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Chapter 2 > Section 2

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7月上旬 10:40
リサーチサービス社

会社に戻った綾子は、一呼吸おいてから外での出来事を晴花に伝えた。

綾子は、ひとたび心のうちに動揺をしまった。以前から僅かながらもこうしたことが起こる可能性を危惧してきたことが、今になって、晴花の前で自分を見せ掛けの平静でいさせるのかもしれない―――そんなことに妙な感心をした綾子だった。

晴花 …何てことが!? そんな!ひどい。
綾子 いえ、タイミングが悪かったんです、きっと。まぁ、こんなことになっちゃたのは残念ですけど…
晴花 だって…私はともかく…綾っち、何も悪いことしてないじゃん! なのに…そんな言い方するなんて。
晴花 うー、ちょっと許せない。わかった、綾っち。私、彼女に綾っちの思いをはっきりと言ってやる!
綾子 ちょ!ちょっと待ってください!晴花さん!
綾子 は、晴花さんの気持ちはうれしいです。けど、けど…私は、そんなことは望んでないですから。
綾子 考えてみてください。私たち、いろんな人間の利害がからむ会社の中にいますから…前から、こんなことも冗談ながらに想定してきたじゃないですか。
綾子 そうそう…考え方によっては、どっちつかずな関係で
…その…もやもやしてるよりは、いいかもしれないですよ…。
綾子 それに、もしかしたら…今の田中さん…ちょっと田中さんじゃなくなっちゃてるだけかもしれませんから。私、この2年ちょっとの間のカンケーが、100%上辺だけだったとは…どうしても思えないですし。
綾子 だから…様子を見ましょ。ね、ね。
晴花 …綾っち、どうかしてるよ。私、賛成できない。
綾子 晴花さん、私、本当にへっちゃらですから。何とも思ってませんから。
綾子 だから今回だけは…私に免じて…お願いします…。
晴花 …たく。綾っちはどこまでも健気だな。賞賛するところか、あきれるところか、私にも分かんないや。
晴花 …わかった。でもこれ以上綾っちを傷つけるようなことを彼女が言ったら、我慢しない。
綾子 (ほっ)
晴花 あーあ、それにしても…。
晴花 小さな会社の中で冷え切った人間関係をひとつやりくりしてかなきゃいけないのか。…そう思うと、すこぶるメンドーだYO!
綾子 …。
晴花
綾子 …ま、このことは忘れちゃいましょ、晴花さん。
綾子 そうだ! 気分転換に お昼においしいクレープ食べに行きましょうよー。私、ホントは電話当番の日だけど、業務課の○○ちゃんに代わってもらいますから。ね!
晴花 …ったく。うん。

晴花はふと、綾子のペースに乗せられている自分に気づく。

口にはしないが、綾子自身にもきっと言い分もあっただろう。にもかかわらず、空気を変えようと痛々しいほど明るくふるまう綾子の姿を目の当たりにすると、「私が綾っちの思いを尊重してあげられなくてどうする」―――という、まるで他人事でも見るかのような憐憫の気持ちにとらわれる。

晴花は綾子の言うように―――当面は、事態を見守ろうと決めた。

7月上旬 17:40
リサーチサービス社

別の日―――。

晴花 …ふあぁあぁー。今日も一日終わったYO。
晴花 それにしても、ここまで暇だとかえって疲れるねー。仕事した気がまったくしないゾ。
晴花 綾っち、私、今日はもう帰ろうと思うけど…どうする? 帰るならいっしょに帰ろ。
綾子 あ!私今日は…もうちょっと残っていきます。せっかく暇だし、ふだん溜めっぱなしの細々した仕事、少し片付けていきます。
晴花 なる。
じゃ、部長に釘刺されないよう、ほどほどにしといた方がいいかも。…「ザンギョーつけるなザンギョーつけるな」うるさいわけだし。
綾子 了解なのれす。

晴花が家路についたのを待って、綾子は『マンガ・OLのためのビジネスデータ分析』を机にひろげる。

綾子 田中さんのこと、気にしないふりをするのもツライな…。でも、気にするそぶりを晴花さんの前で見せちゃったら…
綾子 晴花さんのことだ…きっと私のために…田中さんと衝突しちゃう…
そうなったら…もう本当の意味で…終わちゃう。
綾子 やっぱり…何があってもそれだけは避けないと…。
綾子 何かヒントを探さなきゃ。
綾子 何か…何か…。

やみくもにページをあさる綾子。

綾子 田中さんの誤解を解く方法…田中さんの誤解を解く方法は…と…。
綾子 あーもぅ!…そんな都合のいい手法なんて載ってるわけないじゃん!
綾子 あー! 私はバカ!!
綾子 …ん?

この本特有の、たきつけるような分析手法のコピーが綾子の目にとまった。

綾子 「…結婚に踏み切れないあなたのための100の条件。デシル3で突破せよ!」…って。
綾子 結婚かぁ…。あぁ、こんなとき、私にも白馬の王子様がいてくれたら…
綾子 「悩むことはないさ、綾子。でもキミの悩む横顔も…また素敵なんだけど」
綾子 …なーんて言ってもらえると予想。いや…希望。
綾子 …ハァ。ますますむなしくなってきた…(汗
綾子 そういや田中さんは…この前あわや結婚っていう話になったんだっけ…。
綾子 でも…
RS3部 田中 (回想)「一時の感情で突っ走れる若さは今のアタシにはないわ」
綾子 …って言ってたんだよねー。カレシさんのことをいろんな面から慎重に見届けたい、ってこと? 恋愛や結婚って…私のモーソーほど単純な話じゃないのかも。
綾子 恋愛、とは違うけど…よく考えてみれば…私だって、田中さんのことそんなに知ってるわけじゃないよね。やっぱり相手の立場になって何かをしようと思うなら…もっと相手のことを知ろうとしないと…ダメかもしれない?
綾子 …だよね!
よし! おぼろげだけど、やるべきことが見えてきたかも!

綾子は、再び『マンガ・OLのためのビジネスデータ分析』に目を落とした。

綾子 この…デシル分析ってパレート分析と同じような趣旨のものなんだ。あ、パレート分析なら…田中さんのお客さんを整理してみて…何か力になれるかもしれない!?
綾子 …合ってるの?
綾子 …やっぱり私は…あれこれ考えるのは苦手。
…とにかく、やってみれば何かが得られるかもしれない。

綾子はディスプレイと対面し、スプレッドシートを立ち上げる。

綾子 まずは…と。
やっぱり…ここ1年あまりの悪いときのデータばかりじゃ偏りすぎだよね。だから、ここ2年ばかりの記録を見たいかな…。
綾子 で、こっから田中さんの企業調査会員の売上データを抜き出して…えーと…とりあえず、id別に売上を集計してみたら何かが見えるかも…。集計なら、この前、ピボットテーブルっていう便利な機能を教えてもらったからすぐ出来るし。
綾子 サクサク…カタカタ カタカタ…ポン!
…こんなところかな。2年の取引をまとめると…田中さんのお客さんは…76社、ですか。
綾子 それから今度は…そう、パレート図。
この…集計したデータからABC分析表と、その次にパレート図を作ってみて、どんな構成になってるかを調べてみよっと。

綾子 えと…
パレート図はこんなところかな。ふぅ~む。棒の並びが…私のポイントの時より、何だか…なだらかーになったような気がする。
綾子 それから、累積の構成比は…仮に 80%・95%でクラス分けするとどんな感じになるかな? ふんふん…およそ半分がAクラス、っていう結果だね。
綾子 でもこれ…同じAクラスでもさ…お客さんによって金額に倍以上の開きができているわけで…ちょーっとばかし、クラス分けが大雑把すぎないかな?
綾子 じゃ、私のポイントの時と同じように、仮にAクラスを 60%で分けてみたとしたら…どうだろう?
綾子 …それでもAクラスはすべてのお客さんに対して 1/4程度、か。まだ、金額に…開きが出てる。
綾子 やっぱり田中さんがパレート図を使って重点管理することを勝手に妄想してみても、この場合、なーんか違和感を感じるなぁ…。どこでクラス分けをしたらいいのか、こうしたケースだと…はっきりしなくない?
綾子 もしかして、こういう↓…ことが言えるのかな。
綾子 累積の構成比をあらわす線グラフの勾配は、すなわち構成を特徴づける、と。
綾子 はじめ急角度で伸びていくもの、これを「メリハリ型」と呼んじゃうと…メリハリ型はAクラスが必然的に絞られてくるし、…逆に最後まで一本調子なもの、これを「平坦型」って呼ぶと…平坦型はそれぞれのクラスの幅も似たようなものになる…のかー。
綾子 メリハリ型は… “お得意さん” がはっきりしているといえるし、だからこそ…そのお客さんを失ったときの恐怖といったら…きっとすごいよね? 対して平坦型は…確かに “お得意さん” と呼べるようなお客さんはいないかもしれないれけど、それだけに…リスクが分散されるところがあるって言えるよね?
綾子 考え方しだいでは、狙ってどちらかに到達させらるのなら、それは「作戦」として意義があるんじゃないのかな…。
綾子 …うは! 私にしてはなかなかいいこと思いついちゃった?

綾子 …で、今の田中さんのお客さんの構成をどう見るかだけど…
綾子 私がつけてるポイントのパレート図は…RS部のすべての人を対象としているけど…それでも要素(=棒)の数は24だね。反対に…この田中さんのお客さんは…集計した期間だけでも、要素の数は76もある。
綾子 経験がないから分かんないけど…なんか、要素の数が多くなればなるほど…単純な3グループの区別っていうのも却って話を難しくしちゃうような気がする。
綾子 う~ん…クラス分けって奥が深い。結局、今回はどこで分けたらいいのか理由をつけるのが大変そう。
綾子 (きゅるるるるるるる~)
綾子 おなか…すいた…。
綾子 …まぁ、難しいことは明日でいっか…。晴花さんにさりげなく…アドバイスもらっちゃおっと。
7月上旬 15:00
リサーチサービス社

翌日―――。

綾子 突然ですが、晴花さん!
晴花
綾子 あっのぉ~、ですね…。例えばの話。例えばの話で…教えてほしいことがあるんですけど…。
晴花 へ? 私に分かることなら…どうぞ。
綾子 いえ、ちょっとギモンに思って。もしですよ、晴花さんに100人のお客さんがいたとして…グループで管理していく必要が生じたら、やっぱりパレート分析…ですか?
晴花 えっ? どうした急に。また何かやってるの?
綾子 いや、昨日、ふと夢に出てきたというか…。
晴花 どんな夢だYO…。 さてはまた何か考えてるな…。
ま、ここは詮索し…てほしくないところよね? きっと。
綾子 (高速うなずき連射)
晴花 その質問のこたえだけど…。
「何を使うか」はあまり関係ないと思うけどな。分析のツールって、手段にすぎないわけだし。
晴花 だから目的にかなう使い方ができれば、何だっていいんじゃないの? 一度パレート分析やってみて「私のパターンにはまってる」って思えばそれを重視するだろうし、そうでなければ違う目線からもあわせて見てみようとするんじゃないかしら、たぶん。
綾子 なるほど…。やっぱりアプローチのしかたは ひとつしかダメっていうわけじゃないんだ…。
綾子 おかげでモヤモヤが晴れました。晴花さんありがとう。

晴花が家路についたあと、この日も綾子はひとり残って田中のデータと向き合った。

綾子 デシル分析…。
対象を10個のグループに分けて考える管理手法、デスカ…。
私にはちょっと難しそうだけど、ここを突破してやるZO…
綾子 これは…パレート分析と同じような趣旨ということだから、昨日と同じ視点でやってもあんまり意味がないかな…。昨日パレート図は、えーと……金額を基準にして作ってみたんだし…
綾子 そう、デシル分析表ではアプローチを変えて調査チケットの消化(使用)枚数なんかに注目してみよう。ウチの主力サービスの回転にかかわる大事なモノだからね…。
綾子 よしっ。やってみるさぁぁぁあ!

デシル分析表の作成手順をひらきます

綾子 終わった…。めっちゃしんどい…。
デシル分析表
綾子 …で、どうかな。ふんふん…
綾子 確かにお客さんの違いが…セグメント間でハッキリ出たねー。たとえば デシル1とデシル2のお客さんを比べると…消化枚数は構成比にしておよそ13ポイントも差ができるんだ。
綾子 それと、デシル3のお客さんまでで…累積構成比 およそ70% かぁ…。この24社は パレート分析でいう Aクラスのお客さんだね…。ふむふむ…。
綾子 あ! でも待ってよ…。ファンチャートのときのように、ここから視点を下げていくのも…ひとつの見方だよね? うーん、この分析表はまだ掘り下げていかなきゃ…。また 暇をみて…いろいろとツギハギしてくことにしよ。…とりあえず、気になるコトがでてきた…。
綾子 その前に、今日のところは デシル分析表ができたわけですし、ここまでの流れを一度整理しておこうかな…。私、すぐ忘れちゃうから…
綾子 …まず、パレート分析もデシル分析もスタートはこんな感じ↓だったよね。田中さんのお客さんが横にずらーっとならんでいるところをイメージして、全体としてそれが大きな塊になってるような感じかな。
綾子 …で、パレート分析もデシル分析も第一に管理についての道しるべを与えてくれるようなとこがあるんだよね~。端的に言えば「クラス分け」による管理手法。
イメージとしては、私が…この大きな塊を切り分けていく感じ、かな。
綾子 でも、パレート分析とデシル分析では分け方が違うんだった…。
まず、パレート分析では、80:20の法則を下敷きに…金額や数量などの累積の構成比で 80±α%のところで区切って、すべてのお客さんに対する 100-(80±α)% の “お得意さん” をあぶりだす…みたいな趣旨があるよね。それにしたがって段階的に B・C ランクが決まってくるというか…。
綾子 反対にデシル分析では、累積の構成比を基準にした分け方でなくて、お客さんを均等(原則)に10分割したっけ…。ということでその分け方に妥当性があるのかツッコまれても困っちゃうけど…。
でもそれは、パレート分析でだって同じかもしれないじゃん? 数学的な論拠で補強しにくい分、使い手の経験に左右されちゃうだろうし。
綾子 だけどさ、デシル分析って、パレート分析よりセグメントが多いわけだから(10コ:3コ)
たとえばデシル分析の結果、必要なデシルを…必要なタイミングでピックアップすれば
綾子 パレート分析と同じような管理の仕方もできるってことだよね。…そういう柔軟さは、利点のひとつだよなぁ…。俯瞰のファーストステップとしては入りやすいところがなくなくない…?
綾子 でも単純な10コのセグメントに分割するデシル分析は、要素の数が最低でも10個は必要ってコトよね。現実には、1つのセグメントに1つの要素っていうのもヘンだし…運用するとなると、もっともっと要素の数がないと使いにくいんじゃないかしら。
綾子 たとえば…私がクレーム管理をしようと思ったら…ウチの場合いろんなクレームがあるけど、まぁ、似たようなクレームをジャンルとして集約しちゃえば、10コ程度に収められる…かぁ。うん、ならばきっと、パレート分析の方がより使い勝手のいいクラス分けができると思う。
綾子 対して…今回の田中さんのお客さんみたいに、要素の数がある程度多い対象を管理しようと思ったら…デシル分析のほうが融通が利く、という意味では使いやすいような気がするなぁ…。
綾子 …やっぱり、晴花さんの言うとおり、始めから分析手法ありきではダメなんだね。もし分析手法ありきだと…
綾子 「私、デシル分析しました。田中さんのお客さん10コのグループに分けました。クラスごとに違いがあるみたいなので…これでお客さんを管理するといいそうですよ(いや、デシル分析でなければならない根拠は特にないですし、具体的にどう管理すればいいかは知りませんけど…)」
綾子 田中「ムッ!なんでアンタごときに管理の仕方をくどくどいわれなきゃならないの。アンタ、いつから私の上司になった? 私のお客さんなんだから、アンタに指図される筋合いはないわっ(怒)」
綾子 …となるのは想像できる。私のするべきことは、“分析をすること” じゃなくて ”みなさんにとって価値ある可能性を提供すること” だってコト。これを忘れるとイタい目にあいそう。私は「綾っち商店」でサポートを売っているんだから、ニーズをはきちがえないよう気をつけなきゃ。
綾子 ……はふぅ。…ひとりごとを延々と続けるのも疲れたな~。

綾子 よし、と。今日のところは大事な資料が1つ確保できたし…まぁ満足かな。ってことで、帰ろっと(音符
7月上旬 19:50
会社からの帰路

独力でデシル分析表を作り終え、心地よい疲労を感じながら綾子は駅への道を歩いていた。むんむんとした湿気まじりの熱気に、綾子のノドも渇きをおぼえる。


カフェやファストフードの店のシルエットが視界に入るたび、猛烈に渇きを癒したい衝動に駆られるが……ひとり家路をいく身の綾子にはそれを叶える勇気がない。望みを満たせないと考えるや、悪いことに 綾子の渇きはますます強くなるばかりであった。

綾子 ノド…からから。今日は晴花さんと一緒じゃないし…こじゃれたお店でひとりでたそがれるのは…もっとつらい。
綾子 だって今日…週末だよ!? きっとカップルばっかじゃん…(ボソッ)
綾子 …私は気弱でダメだなー。晴花さんなら、そんなこじゃれたお店で…たとえひとりでいたって絵になるよな~。うー、お店はあきらめてそこのコンビニで飲み物買おっと…。

とぼとぼとコンビニに入っていった綾子は、しばらくして紙パックのコーヒー牛乳だけを手に店を出てきた。

コンビニの向かいには、綾子の言う「こじゃれたお店」のカフェがある。

橙色の間接照明に照らされる店舗のあたたかな佇まいは、心身ともに疲れた綾子をはげしく誘惑するものだった。

綾子 くぅ…いいな。私も、優雅なひとときを楽しみたい。
綾子 いつかひとりでもああいうお店に入れるように、私も度胸をつけるぞ。
そう思ってコーヒー牛乳にしたんだから!

コンビニの少し外れでコーヒー牛乳の口を開け、左手を脇腹に添える綾子。

そして顔を空に向け、ひと口グッと流し込んだ。


(通行人A)「(何あの子…クスクス)」

(通行人B)「(ヤバい…オレのなかで…何か入ってはいけないスイッチが入ってしまうものを見てしまった気がする…)」
綾子 晴花さん、よくこうやってコーヒー牛乳飲んでる…それでいて全然周りに溶け込んでるのに…私には気のせいか嘲笑の視線がイタイ…。
綾子 …それにしても、晴花さん。よく「早くカレシが欲しい~」なんて言ってるけど…あれ、本当かな?
私にはどうもそんなに本気には思えないんだよなー。何かこう、ガツガツしてるところがまったくないし。
綾子 だいたいあんな素敵な人が…本当にひとりでいたいと思ってなかったら…男の人、放っておかないよね。私が男の人だったら、きっとあんな女性に憧れる…。
綾子 晴花さんは私にとって無二の親友だけど…そう言えば私、晴花さんのこと…昔のこととか、まだまだ知らないことが多いよな…。自分のことはほどんど語らないし…ホント、不思議な人。
綾子 でも…でも…私よりずっとずっとすごい人だったんだよなー。何かいろいろ知ってるし。晴花さん、まったくアピールしないから、私しか知らないけどね。
綾子 うん、私もいつか晴花さんみたいなカッコイイ女性になるぞ!

コンビニの前でひとり気を吐く綾子。

コーヒー牛乳を爽快に平らげんとする銭湯民族の真似をするも及ばない 年齢の割に幼げの残るひとりの女性を、入ってはいけないスイッチが入ってしまった通りすがりの男性たちが、いつしか遠巻きにして見つめていた。


綾子は自分に軽蔑の視線が向けられていると勘違いすると、紙パックを手にしたまま、早足でコンビニを離れようとした。

その時、綾子は「こじゃれたお店」から出てくる見慣れた顔に気がついた。

それは “見慣れた” というのも他人行儀なほど綾子にとって身近な存在のそれだった。

晴花が今、スーツを身にまとった背の高いひとりの男性とともに、うっすらと笑みを浮かべてカフェから出てくるところを認めてしまった。

綾子は思わず並木の陰に身を隠す。

晴花に気づいた様子はない。が、咄嗟、そんな反応をしてしまった自分をなさけなくも思った。何事もなかったようにサラリと場を取り繕える自信が、綾子にはまったくなかった。

綾子 ドキドキ…晴花さん、やっぱり男の人が…? もしかして会社の人?
綾子 そんな…もし会社の人とかだったりしちったら、明日から私は晴花さんとどう接すれば!?
綾子 …あぁ!暗い! 男の人の顔がよく見えないっ!!

店の照明を背にして陰の黒をまとう男の顔が、歩みをすすめるにしたがって街灯のあかりに照らされ、ぼんやりと浮かび上がる。

綾子 あれ!

翔太

綾子 このあいだの…翔太くん…って人?

綾子 …うっひょー。晴花さん…昔のバイト仲間なんて言ってたのにー。私に「モ-ソー」だなんて言って、やっぱりウソじゃーん。
綾子 歳下のカレシか…。
晴花さん、なかなかやるじゃないっスか。むふふ。
綾子 あ、どこ行くんだろ? 追跡ーっ!
綾子 …て、私、ダメだよ。人のプライベートにヘンな好奇心持つもんじゃないよね。今日はおとなしく帰らなきゃ…

綾子は、晴花に気づかれないよう、違う道を選んで駅へと向かった。

その後、いく日かの話。

綾子は田中に関するヒントが何かデータから得られないか、本をあたって少しづつながら試行錯誤を続ける日々を続けた。しかし、田中とのこれ以上の関係悪化を恐れる綾子は晴花を頼ることができず、成果と言えるような成果には、思うようには出会えなかった。


田中とは “あの日” 以後も、仕事の上で必要な最小限のやりとりだけは交わしている。

しかし、無駄話に花を咲かせることは一切なくなった。
「はい」や「分かりました」のフレーズだけで事足りる冷えた関係となっていた。

それでもつとめて、綾子は 表情や声のトーンに昔と変わらない自分の気持ちを投影しようとした。先行きが見えない以上、たとえ無駄であろうとなかろうと、いつだって関係を修復できる用意があること……これを田中に何とかして伝えておきたいと思ったからだ。


―――そんな状態のまま、新しい月を迎えた。

8月上旬 19:00
リサーチサービス社
綾子 ようやく月初めのバタバタがおさまったぁ~。…それにしても、今日はつまんないミスをしちゃって初江さんに怒られちゃったし…。な~んか最悪な気分…。
綾子 でも…せっかく晴花さんに先帰ってもらったし、久しぶりに田中さんのデータをあさってみるかな…。

綾子は『マンガ・OLのためのビジネスデータ分析』をひらく。

綾子 これだ。「Zチャート」。落ち着いたら、これも見ておきたいと思ってたんだ…。
Zチャートで、田中さんの売上データを追跡してみよう。
綾子 その前に、と…。
…これについてもまずは普通の方法で確認しておいた方がよさそうだよね。…いひひ、だんだんデータをあさるコツがみたいなものがつかめてきたような気がするぞぉ…。
綾子 カタカタタ…。カチカチ…。
綾子 ここ2年の売上を棒グラフにすると、こんなところ…ですかぁ。
結構ムラがある? えー、じゃぁ売上の伸びはぁ…ええと…
綾子 どっち!?
綾子 わからない…。

綾子 そうだ! こんな時は…

綾子 「たすけてー! 正義の味方、Zチャートぉ――――――――――!!」

綾子
綾子 「弱きを助け強きをくじく。我らその名も『分析戦隊! Zチャーッツっ!』ただ今 参・上 !」
綾子 (一度やってみたかった! …しあわせ)

RS1部 安堂 あの(汗
綾子 え゛…!? 安堂さんっ! い、いつからそこに!?
RS1部 安堂 今…。明日にしようと思ってたけど…経理課の電気まだついてたから…ごめん(汗
綾子 …。
RS1部 安堂 よ、よ、よろしく頼むよ。それじゃぁ…
綾子 (やってしまった)
綾子 …だ、だってZチャートって、名前がかっこいいじゃないですか、名前がさ…
綾子 Zチャート…どんなものか分かってたのに余計な前フリを入れた自分がバカでした…。さっ…Zチャート、やろっと。

Zチャートの作成手順をひらきます

8月上旬 9:20
リサーチサービス社

セミの鳴き声がもれ響いてくる経理課で、綾子と晴花はただもくもくと目前の仕事を片づけていた。

RS部員の多くが出払って間もないこの時間帯は、とりかかった仕事の手を止められることが必然的に少なくなる。一日の中でも集中して自分の仕事に取り組める好機といっていい。


打鍵音と筆記音、そして紙の擦れ合う音だけが、今、この空間に雑じる。


だからこそ、いつもと調子の違う音には敏感になる。


階上から、すこしの時間を挟みながらまだらに響くヒールの音。力ないその歩みは、徐々に階下へと近づいた。綾子はその音の主を確かめようと、出入口ドアのはめ込みガラスに目を向けた。


垂れた赤みがかった髪が、ガラス越しに田中の顔先を覆っている。


田中が、力なく経理課のドアを開けて入ってきた。

そして顔をあげると綾子らを見つめ、呆然と立ち尽くす。綾子も、晴花も、何が起こっているのか理解できず、ただ沈黙の時が続いた。


そのとき、
突然、田中が崩れた。

口を真一文字に結んだまま、大粒の涙をとめどなく床に落とす。


綾子はその光景に我に返ると、田中の傍に寄り添うように近づいて声を掛けた。

綾子 田中さん… 田中さん…
[挿絵]夏の夜の好奇心