ひとりマーケティングのためのデータ分析

StoryPart

Chapter 2 > Section 3

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泣き崩れる田中の左傍に、寄り添うように近づいて数度声をかけると、綾子はただ無言で背中に被せた手を動かしていた。


綾子は、田中にただならぬ心労があったことを察した。

ここでどんな言葉をかけても安っぽいものになってしまいそうな気がして、綾子はただ傍に寄り添っていることを、選ぶ。


一方、そんなふたりの様子をきょとんとした面持ちで見つめているだけの晴花だったが、目前の出来事を把握して我に返った。

瞬間、人の出入りの頻繁なこの場所で、目を腫らした田中の姿をさらしてしまうことが可哀想に思われる。晴花は綾子の名を呼ぶと、経理課の中にある少人数の会議・応接用の小部屋にむかって人さし指を数度ふった。


晴花は、田中の傍らに歩み寄り、言う。


「田中さん、少し、休もうよ」


そして、綾子とともに両脇から田中を支え、小部屋へと連れていった。


―――田中は、ひどく憔悴しているようだった。

綾子 私、田中さんとしばらくいっしょにいます。経理課に誰もいないのはマズいですから、晴花さん…すみませんけど…向こうはお願いします。
晴花 …わかった。

うなだれる田中に視線を残して、晴花は部屋を出ていった。

ふたりだけの狭い空間に、ただ嗚咽の声だけが漏れる。

綾子にできることは、この状況を見守ることだけだった。


その間、思いがけない言葉を田中に浴びせられたあの日のこと、それ以前の良好な関係、そしてリストラへ舵を切った社長のことなどが、綾子の頭の中をぐるぐるとまわる。



―――どれくらいの時間が経っただろうか。



少し落ち着きを取り戻したふうな田中が、うなだれたまま口を開いた。

田中 …綾っち…
田中 …ごめん…いろいろと………
綾子 あ! そんな。わ、私は…田中さん、ずっと前から…大好きですよ。

田中が再び歩み寄ってくれたことが、綾子にはとてもうれしかった。

心は舞い上がる思いだった。そんな心情が、少し突飛な返答を生み出した。

田中 …アタシは、バカだった。冷静になれば、綾っちや日南さんだって自分の仕事をしてるだけなのに…。
田中 自分がうまくいかないばかりに…。自分に力がないのを認めたくないばっかりに…。綾っちや日南さんにまで責任を押し付けちゃってた…。
綾子 …。
田中 …本当に…ごめん。
綾子 そんな…。いいじゃないですか、もう。これからまた、前のように楽しくいっしょにやっていきましょうよ。
田中 ありがと…綾っち。アタシ、あれから心にずーっと引っかかってたから…。なんだか救われた。
田中 …でも…
田中 ……綾っちたちといっしょに仕事ができるのも、もう…長くはない…の……。
綾子
田中 さっき、社長に呼ばれて言われた…。このまま成績をあげられないなら、9月末をもって辞めてもらう…と。
綾子 ええっ!?
田中 別に…うすうす覚悟はしてたから、もういいと言えばいいんだけどさ。…それよりやっぱり、綾っちとのことが気になってて…。いざ来る時が来ちゃったら、なんか、綾っちたちにしっかり謝っておかないとって気持ちが強くなっちゃって…気づいたら…ここに来ちゃった。
田中 でもダメね…。いざここに来たら…昔の楽しかったこととかが…こう…急に目の前にぶわぁって広がってきて…こんな状況を受け入れるしかないできないのが、なんだかすごくくやしくて…くやしくて…。
田中 自分でもマヌケなほどみっともないことになっちゃった…。
綾子 …。
田中 さて、と。時間も押しちゃったし、これでもお客さんと約束もらってる身。だから、まずいかな。
綾っちたちには迷惑を掛けちゃったけど、やっぱり、わだかまりは残しときたくない。
田中 あとちょっとになっちゃったけど、また以前のようによろしく頼めるかな?
綾子 もちろんですよ。今は私たちこそ、田中さんやみなさんにいらぬご苦労をおかけしてると思いますから…。その分、余計にがんばらないといけない…です。
田中 …よかった。

そういって、田中は席を立ち小部屋のドアを開け、外に出る。

田中は晴花に視線を向けた。

田中 …日南さん、いろいろとごめんなさい。
晴花 …え。

晴花は、田中から発せられた唐突な謝罪の言葉の意図をはかりかねた。

思わず間の抜けた返事をかえし、あわてて意図を質そうと言葉を重ねようとしたそのとき、綾子が首を振ってそれを制するしぐさを見せる。


―――田中は崩れたメイクをお手洗いで整えなおすが、瞼の腫れはどうにも簡単に退かせられるものではなかった。

だが所用の時刻もある。田中はついぞあきらめて、外に出かけた。

晴花 …田中さん、大丈夫なの?
綾子 とりあえずは…といったところでしょうか。それで、ですね…

綾子は、晴花に事の顛末を説明した。

晴花 …そっか。田中さん、分かってくれたんだ。今になってみれば、私、彼女を責めないでよかったかもしれない。
綾子 でも事態ははるか先を行ってました。田中さんが…その…具体的なターゲットとなってしまったようですし…。
晴花 …きっとみんな「これからだ」と思ってただろうことを考えると…田中さんも…確かにくやしいだろうな。あらためて考えると。
綾子 ん? そういえば…。
晴花
綾子 田中さん、言ってました。「このまま成績をあげられないなら」って。これって、まだ望みがあるってことですよね?
晴花 言葉の上では…そりゃそうだろうけど…田中さんからは、その可能性があるように聞こえた?
綾子 あ…それは…
晴花 …じゃあ、田中さんはその見込みを限りなく低いと踏んで結果を受け入れようとしてるんだね。私たちに何かできることがあれば力になりたいとは思うけど…ちょっと無理っぽいカンジ?
綾子 そ、そんなことないですよー!晴花さんっ!!もしかしたら、田中さんといっしょに働ける最後の2ヵ月になっちゃうかもしれないんですよ!なのに私たちが全力でぶつからないで後悔残してどーするんですかー。どっちに転んでも、やれるだけのことやってみましょうよー。ね、ね。
晴花 …さては綾っち、最近ひとりで残業してくことが多かったけど…その準備があるような言い方だなー?
綾子 へへ。だって、晴花さんに言ったら、きっと田中さんと衝突しちゃうしー。
晴花 くっ…私のせいか。じゃぁ、全力、というのは大げさだけど、私たちでできることをいっしょに考えてみましょっか。
綾子 ありがとう、晴花さん。私、もし男の人だったら、晴花さんに絶対ホレてた!
晴花 それはうれしいな。けど、綾っちじゃなくて本物の男の人にそう言ってもらえる方がうれしいかも。
綾子 ひどいっ!私は失恋したわけですかっ!
晴花 バカな綾っち。
綾子 …冗談ついでに。今だからぶっちゃけちゃいますけど。
綾子 …この前、見ちゃったんです。私。
晴花 え? 何を?
綾子 晴花さんの、カ・レ・シ を。
晴花
綾子 あ~、言っちゃった言っちゃった。今まで黙っておくのはツラかったんですYO!!
綾子 …このあいだの「翔太くん」さん、やっぱり晴花さんの彼氏さんじゃないですか。その…もぅ、隠すなんて、みずくさいなぁ。
晴花 …どこで、見られてたの?
綾子 駅行く途中のコンビニの前にあるオサレ系のカフェですよー。残業の帰り、たまたまコンビに立ち寄った時に目撃してしまったんです。悪いと思って声かけなかったんですけど…。
晴花 あちゃー…あそこかぁ…。場所選びでポカしたか…。
晴花 うー。もう何も隠せない。…じゃ、正直に言うよ。
綾子 …で、で、歳下の男の子の彼氏って…やっぱり違うもんなんですか? ほら、何かにつけてお姉さん的な甘え方とかされたり…。それからそれから…。
晴花 くらえ!教育的指導! ペシっ!
綾子 …痛ったぁ。
晴花 でも綾っちごめん。翔太くんは、綾っちの期待している「彼氏」では…本当にないの。
晴花 いい歳して他人に言うことでもないと思ってたんだけど…。でもね、翔太くんが…私を…好いてくれているというか…その…
晴花 以前からずーっと私のこと気にかけてくれてるんだけど…私は…私は、翔太くんのことはかわいい弟のようにしか見えなくて…
晴花 彼ね。聞くところによると大学でも勉強できて…空手部の主将で…とにかくいろいろと女子に人気の青年らしいし、何も私じゃなくてもいいのにって思うの…
晴花 彼の前途を考えたら、私は消えてあげる方がいいと思って…。彼には内緒で、携帯やメールアドレスとか、全部変えて連絡もらえないようにしてたんだ…。
晴花 そしたら、このあいだのお昼…
綾子 …バッタリ再会しっちゃった!
晴花 …というわけなの。もう逃げも隠れもできないよね…。あの日、とりあえず話だけでも聞いてほしいと翔太くんからせがまれて…綾っちが私たちを見た日、私の会社帰りにあのカフェで会うことにしたんだ。
晴花 私は…私の気持ちを翔太くんにはっきり言ったの。恋愛対象としては…これからも多分見れないって。
晴花 翔太くんも、理解してくれた。私の存在を感じられるところにいられれば…それでいいって…。だから「急に僕の前から姿を消すことだけはやめてください!」って…。
綾子 晴花さん。贅沢ですよー。…あんなイケメンさんつかまえて、なんて仕打ちですか。
晴花 …でも私は、好きになるのにイケメンかどうかは関係ない…かな、多分。翔太くんの気持ちは本当に私には過分なくらいありがたいとは思うんだけど…やっぱり自分の気持ちの中に…彼の存在はないの。
綾子 …なんだか私にはよーくわかんないけど、レンアイっていうものは複雑そうなもんですよねー。
綾子 …でもですよ。今、晴花さんを「翔太くん」さんに独り占めされるのは…やっぱり困ります。だから、私的にはラッキーだったかな。へへ。あ、変な意味じゃありませんよぉ~。
晴花 …変な意味って何さ。わったしには、わっかんないなー。綾っち、教えてよ、ねぇ、ねぇ!
綾子 …。
綾子 あ…いけない。さっきの話…私、田中さんの携帯に電話しとこっと!えーと、ゼロ、キュウ、ゼロの…。
晴花 ちょっと待ったぁ!!さっきの話…って、まさか私の…
綾子 へっへー!ひっかかったぁー。
大丈夫ですよ、晴花さん。とにもかくにも、田中さんの話、詳しく聞ける機会が欲しいなって思ってるだけですから。
晴花 何ともまぁ…コノヤロ。
綾子 あ、田中さん、今、大丈夫ですか。私です、経理の綾子です。
あのー、ちょっと提案があって電話しました。
えーとですね―――
8月上旬 20:00
Navi in Bottiglia

翌日―――。

綾子 …さ、着きましたよ。ここのお店です。
田中 …ここかぁ。知ってはいたけど…会社の近くだからねー。知らず知らずと敬遠してたもので…。
綾子 ここのお店、晴花さんの別宅みたいなもんですから。リラックスできますよ。
田中 別宅!? …日南さん、そんなすごい人だったんだ。知らなかった。
晴花 …いや、言葉のアヤ…というべきか…。私の高校の時の同級生がさ、オーナー夫人ってな…だけ。
田中 そうなんだ…。 もう、綾っちびっくりさせないでよ。
綾子 ごめんなさーい。ささっ、入りましょう。

綾子・晴花・田中は、三人で店の中へと入っていった。

晴花 こんばんwa。
優里 久しぶりじゃない。しばらく来てくれなかったんで、何かあったかと心配してたわ。
晴花 いろいろあってさ…。優里も元気そうで何より。
優里 今日はあたらしいお客さまもご一緒なのね。ようこそいらっしゃいませ。
田中 あ!…どうも。いつも日南さんにはお世話になってます。
優里 いえいえ、こちらこそ晴花がきっとご迷惑をおかけしっぱなしだと思いますけど。よろしく可愛がってやってくださいね。
晴花 アンタは私の保護者か!…ところで、お願いした席、取れた?
優里 もちろん。みなさま、どうぞこちらへ。

優里は店の奥まった席へと三人を案内した。他のお客さんを気にせずに話ができるように……という優里なりの配慮であった。


三人は、これまでとは打って変わって和気あいあいとした空気の中、食事をすすめた。


―――皆が食事をひととおり終えた頃、綾子は田中に尋ねた。

綾子 田中さん、それで…こんな楽しい雰囲気の中、言いづらいんですけど…。この間のこと、教えてもらってもいいですか。
田中 気にしないでよ。今日誘ってくれたのは、きっとそのことだろうとアタシ、思ってたから。
田中 端的に言うね。社長は私に9月の末日をもって退社しろ、と。そうはっきり言われたし、これから開きなおって次の職場を探してみるわ。彼は「結婚して家庭を守ってくれればそれでいい」なんて言ってくれるけど、やっぱり私はまだ第一線で働きたいの。
田中 綾っちや、日南さんが、こうして心配してくれるのはホントにうれしい。なのにふたりに八つ当たりしちゃったりして、その…ゴメンなさい。
晴花 いやだなぁ、そんなこともう忘れなよ。…それにさ、社長の話って あくまで条件つきなんだよね? たしか…成績を上回れさえすれば…
田中 ううん。実は、上回るだけじゃだめなの。それならまだ希望があった。
9月末までに、ウチ(RS3部)の石井くんに1度でも勝(まさ)れ…と言うわけで。
綾子 石井さん!? 3部の係長じゃないですか! 抜群の成績で若いながら異例の抜擢をされた…あの…?
田中 そう。アタシと同い年の。
晴花 吹っかけたよねー…。私までイラっとくるよ。
綾子 いきなりむちゃな要求すぎませんか…それ。
田中 もちろん達成できるなんて、そんなコト、端から考えてないわ。それは、彼と同じ部で仕事をしてきた私が誰よりよくわかってる。かと言って、石井くんにアタシのために協力してもらうってのも…やっぱチガウしね。
おまけにさ、たとえ彼を引き合いにされたことを理不尽だと訴えたとして、彼はアタシと同い年。あの社長にとっちゃ、それは資質を語るに十分な理由なの。上手いこと搾り上げられてしまうのが、目に見えてる…。
綾子 やっぱり…そうなっちゃいますかね…。
田中 …くやしいけれど、現実は厳しいわ。このくやしさを、これからの人生で上手に活かしていけるように、いろいろとがんばってみるしかないよ。自分で言うのも…ヘンだけど。
綾子 何とか…なりませんか、田中さん…。そのくやしさを、これから…じゃなくてこの会社にぶつけてみませんか? 私、田中さんとはもっと仕事がしたいです。
晴花 そうだよ。及ばずながら私たちも力になれることならどんどんするからさ。いっしょにやってみようよ。
田中 …アタシは、アタシは…最後の最後で…こんな素敵な仕事仲間を持てたんだ…。うれしいな…。

田中は、太腿に揃えて置いた両手をじっと見つめた。そして口元をギュッと結ぶ。


―――無言のトキが、過ぎてゆく。


やがて再び顔をあげ、ふたりに対し、田中は言った。

田中 でも、アタシはさ。本当に自分でできること、思いつくことをここ数か月ですべてやってのことだから。…これが私の実力なの。もうこれ以上、背伸びする余裕もないくらい目いっぱい、背伸びしてのことだから。だから…これ以上は無理なの。でも、綾っち、日南さん、ホント…ありがとう。
綾子 …。
晴花 …。

当事者たる田中の言動が、綾子らにはずしりと重かった。

固まりつつある田中の決意を聞くと、ふたりには、もうこれ以上気持ちを喚起させられる言葉なぞ見つけられそうにもなかった。


―――綾子らは話題を替える。

そして、しばらくワインと他愛のない会話を楽しんだのち、三人は家路へと散っていった。

8月上旬 12:25
会社近くの公園
綾子 田中さん、もう辞める気持ちに傾いているような…そんな感じでしたね。
晴花 …残念だけど。
綾子 でも、くやしいって気持ちは端々から伝わってきましたよ。
晴花 うん。誰だってあんな理不尽な辞めされられ方をされようものなら…。だいたい社長からしたら成績が振るわないと考えてる幾人かの中で、大卒に見合った働きじゃないという理由でしょ? あの社長がスーパーマンだってことは否定しないけど…
晴花 …でも、そのスーパーマンを基準にして大卒の人間にはさらに上を行けっていう考え方はどうなのかな。希少価値だからこそのスーパーマンなんだろうし、それが量産できるなら誰だって苦労しないじゃん。そもそも、その時点でスーパーマンなんて概念はなくなってしまうじゃん。
綾子 そんなスーパーマンの煮っころがしみたいな組織、見たことある!?
綾子 …う! 私は社長じゃないですー。…でもごめんなさい。
綾子 あ、ごめん! つい興奮しちゃった…。ごめんね…。
綾子 ついでだから…私が社長の役になるとして…あのー、なんか世の中には一流の学校に進学するための高校とか、あるじゃないですか。私もよく知りませんけど、なんかエリートさんばっかりだっていう…。社長、もしかしたらそういうの目指してるんじゃないでしょうか?
綾子 …そんなケはあるね。私も、自分の勤めている会社をあまり卑下したくないけど…でも、ウチってそんな器かな。ウチはウチなりに、大手とは違うところで勝負すればいいのに。
綾子 ホント…そうですよ。昔のように…とまではここに来ていいませんけど。ウチ、360°すべてと戦えるビジネスマンの集まり…というキャラ、似合わないです。
綾子 確かにさ、緊急事態だからこそ…社長の改革しようって心意気は分からないでもないんだ。それが性急にヒト切りと結びつくのが悲しいだけで…。もっとさ、長い目で見て適材適所で戦ってくれたらなーって思うな。
綾子 初江さんも、何も教えてくれないけど、いつもの様子から金策に苦労されてるのが…すごく伝わってきますから…。そんなことも、社長の改革を急がせている理由じゃないでしょうか。
綾子 そうだね。ま、確かに…あの様子を見ていると…たいへんだなとは思う。私は所有者ではないから…その辺の本当の苦しさは理解できないけどさ。いや…理解できたとしても、私のような末端の人間までが一切に迎合して行動しろ…なんて環境、ゴメンだわ。
綾子 …やっぱり。
綾子 だからこそ!…田中さん、一矢報いましょうよ!
綾子 …!
綾子 石井さんを超えられれば… もし 辞めるんであっても、最後に社長の鼻を明かすことができるじゃないですか!
綾子 あわよくば、田中さん…辞めないでくれる気になるかもしれませんし。
綾子 それに…社長だって…
結果として 売り上げが上がることが うれしくないわけがありませんっ!
綾子 うん。うんっ!

綾子 …でもどうやって…田中さんの気持ちを動かしたらいいんでしょう…
綾子 …そこだよねー。

綾子 …よし。じゃぁ帰って作戦会議でもするとしますか。
綾子 いえっさー!
8月上旬 12:50
リサーチサービス社

会社に戻った綾子たちは、早速、田中の気持ちを喚起させるための作戦会議?―――らしきものをおこなった。

互いに意見を出し合った末、ふたりはひとつの方針で一致した。

綾子 …うん、私もそう思います。この前、田中さんの心をピクリとも動かすことができなかったから。
晴花 じゃ、決まりだね。
綾子 …では、晴花さん。団結のため斉唱しちゃいますよ! じゃ…私から…
綾子 …感情に訴えかけてもOH!
晴花 …効かなかったYO!
綾子 …だったらリクツでYEAH!
晴花 …攻めてみYO!
綾子 晴花 おー!
綾子 晴花
晴花 …えーとさ、綾っち。私…もう30過ぎてるの。以後、こんなことやらさないでくれるかな?
綾子 なーに言ってるんですか。晴花さん、楽しんでやってましたよ。

その日の夕方、ふたりは、田中に奮起してもらうための材料をいっしょになって用意した。

それをおえると間髪をいれず、綾子は田中に連絡をとった。
綾子は仔細をあかさず、ただ立ち会ってほしい旨を伝える。

結果、「翌日のお昼なら」ということで無事約束をとりつけた。



そして、翌日―――。



その時がやってきた。

8月上旬 12:30
リサーチサービス社
綾子 田中さん、お忙しいとこすみません。どうしても見てもらいたいものがあって…。
田中 え、何、何? なんかこう…スカッとするような面白い話でも入ったの?
綾子 いや、ちがいます。今日のところはまじめな話で…すみません。
田中 まじめって?…もしかして、また私のために?
綾子 はい。
田中 気持ちはうれしいけれど…。このあいだも言った通り、いろいろときび…
晴花 あーもう!
晴花 私たち、この件に関してはしつこくいこうと決めたの。もう逃がさないよ。
田中 えっ!? …日南さん、なんか今まで思ってた人と違うじゃん!?
綾子 ささ、田中さん、私たちの “プレゼン”、こっちで聞いてやってください。
田中 …あ。う、うん。わかった…。

綾子は、田中の傍に近寄って耳打ちをする。

綾子 ヒソヒソ…田中さん、石井さんのデータ、一度見てみません?…ヒソヒソ。
田中 あ、でも、ウチの部に回ってくる実績表で…だいたいは知ってるよ。彼、ここ最近は70~80万くらいじゃなかったかしら。
綾子 ごもっとも。では、時系列でみる機会、ありました?
田中 それはさすがに…。昔の実績表引っ張ってきて、自分で集計すればできたんだろうけど…さすがに他人のことは視界になんてなかったもの。労力もかかるし…。
綾子 ではここでお見せします…と言いたいところですけど、石井さんの時系列データはメインディッシュですからね~。最初からお見せするわけにはいきませんよー。
綾子 そこでまず、田中さんのからお見せしますね。…もっとも、こちらは田中さんご自身のですから…感覚的につかんでいらっしゃることとは思うんですけど…まぁ一度見てください。
綾子 サッ…こちらです。
田中のZチャート
田中 ジー…グラフ…、あ、いや…ジーチャートだったっけ、確か。以前、どこかで見たことがある。
綾子 そうです、いろんな呼び方があるみたいですけど。で、ですね、田中さんのここ2年の売上をもとに、Zチャートを作ってみました。
綾子 簡単に説明させてください。この、黒いのが直近1年の売上の推移をあらわしています。月ごとの売上高を単純にプロットしたもの、ってカンジですか。
田中 ううーん…。分かってはいるけど…成長のないアタシらしいというか…横ばいの現実をあらためて突きつけられる感じね。胸が痛むわ。
綾子 あの…決して悪意はないですからね。そこだけは誤解しないでくださいよ。
田中 分かってるってー。綾っち、ノープロブレム。
田中 えーと、じゃぁ…この緑の線は、凡例に「売上累計」とあるけど…ということは、直近1年の月ごとの売上をに積み上げていったものね。
綾子 はい。
田中 なんかデコボコじゃなくてどちらかと言えば直線に近い感じになるのは…やっぱり黒い線が…つまりアタシの売り上げが平坦ってことだよなぁ。変な意味で…安定してるというか…我ながらはずかしいよ(汗
綾子 そうですかぁ~? 私はそんなことないと思うけどなー。
綾子 で、で、こちらの赤い線が…ここでは「移動年計」ってことばを使ってますけど…要するにその月を含めてさかのぼること12ヵ月…つまり1年分の売上の累計ですね。
綾子 この移動年計をこうして1つ1つとっていくたびに、計算上の1年のスパンが同じだけ動いていきます。たとえば、8月なら前年9月~当年8月、9月なら前年10月~当年9月…といった具合に。つまり、その月の前年同月の売上が集計範囲から外れるようにして動いていくわけです。
綾子 話は変わりますけど…田中さん。さきほど「変な意味で安定してる」とおっしゃいましたけど…それでも多少は売上にムラがでるってコト、ないですか?
田中 まぁ…それはね。綾っちのZチャートの黒い線、見てもらうとわかるけど…やっぱり3月・9月の決算期はお客さんの予算の関係もあるから…仕事がやりやすいっていえばやりやすい、かな。で、必然的にその前月・翌月あたりはお客さんの財布のひももなかなか固くって落ち込んじゃう…ところはあるよ。
田中 それでもアタシは…いい意味でも悪い意味でもまだ変化は少ない方かな。人によってはその影響が大きく出ちゃう人もいるみたいで…その衝撃を「ローラーコースターアタック」なんて呼んでる人がいるくらい。
綾子 そう、ですか。まぁ、たとえばですけど、もし私が8月に20万を売上げたとして、翌9月には一気に100万を達成しちゃったら…そりゃー、9月の私はうれしくて舞い上がってますよ、きっと。
綾子 ですが…。その翌月の10月にまた20万の売り上げに戻ったとしたら…10月の私は…晴花さん、どうぞ!
晴花 え? じゃぁ…うーんと…「フリーフォールアタック」
田中 ぷっ。
綾子 期待通りの答えが返ってきました!
綾子 こうして…瞬間、瞬間だけを切り取っていくと、その場で一喜一憂するだけで終わってしまいます。
綾子 でも、でもですよ。さっきの8・9・10月の仮の売上の話、8・9月と9・10月の前後2ヵ月のスパンで考えてみると、合計金額って…どちらも120万じゃないですか。
田中 …まぁ…だけど…。
綾子 私もそうですけど…うれしいときには気持ちが大きくなりやすいですし、悲しかったり残念な気持ちな時は…やっぱり必要以上の恐怖や心配なんかを感じちゃうと思います。でも冷静に2ヵ月をならしてみれば…実は同じだったり…なんてさっきのような例もあるわけじゃないですか。
綾子 …だから「一喜一憂」の「一喜」の時はどんどん喜んじゃうのが正解だと思いますし、「一憂」の時には悲観的になりがちなので、一歩引いて移動年計に現状判断のウエイトをかけた方が好ましい!
綾子 …な~んて、この本に書いてありました。この本によるとですね、移動年計線のポイントは「推移の判断を難しくするブレの要因をできるだけ取っ払って、真実の推移をとらえてみよう」なんてところにあるみたいですYO!
田中 (ガクっ)
田中 …なーんだ…ネタ本が、あったのね。綾っち、なんか以前と違う…って素直にびっくりしてたのに。それでも、すごいけどさ。
綾子 …いえ、受け売りの専門なので。
綾子 …と、いうことで、この赤線が田中さんの…その…純粋な動向…ということになるみたいですね。
田中 ???
田中 えーと…。
田中 やっぱ…ごめん、綾っち。励ましてくれるのはうれしいんだけど、おかしいと思うことは…アタシと綾っちの仲だもん。言うべきよね? 綾っちの言いたいことは分かるんだけど。その… “一定のスパンを合計して考えてみよう” っていうやつ。
田中 …それさ。結局のところ、コトを都合よく解釈するだけの方法にすぎないんじゃないかって…アタシは思うんだけど…。一定のスパンを都合よく切り取って合計することと、それを純粋な動向と同義に考えるのは、アタシにはちょっと…どうかと思うんだけど。
綾子 …そう…ですか…?
田中 そのZチャートだって…。
田中 上手く言えないけど、移動年計って、結局はその…毎月のバラバラな数字を集めただけよね? しょせん、バラバラな数字を1年?だっけ?…ずらしながら集めてみたところで、はたしてそれがすなおな動向を示しているって言えるロジックが、アタシには理解できない。だから綾っちの言う「純粋な動向」…って言うのは、どうなのかな?
綾子 …でも……そういう…ことの…ようですし…
田中 あぁ、誤解しないで! 綾っちの気持ちには、感謝してるんだから。
綾子 はぁ…。でも…

晴花 …。

晴花 (こうしたことにはまったくの素人の綾っちにさえ、容赦なくつっこみを入れるような人なんだ…。綾っちにはリクツどうこうと言ったけど、結局は綾っちにしかない熱い思いからエモーションを呼び起こせれば…なんて思ってたのに…。いい意味でも悪い意味でも彼女の人となりが少しだけわかったような気がする…。ナーヴのとき、あれだけ感情に煽ろうがノッてこないはずだよ…)
晴花 (…しかたない。私のせいだ)

晴花 あはははは!
綾っち! ちょっとじらしすぎだYO! ここから私の担当だったYO!

綾子 …?
田中
晴花 それを説明するのは私の役目なんだ。…聞かれたら、の予定だったけど。じゃーん!
田中 えっ?
晴花 ね? 綾っち。
でもひっぱって、ハードルあげちゃうなんて! いじわるだZO!

そう言って、晴花は綾子にアイコンタクトを送った。

予定外の行動に綾子は驚いたが、状況が改善するのを晴花に託すしかなかった。晴花の意図をくんだ綾子は、晴花ののぞみに沿うようにと、笑顔で首を縦に振った。

晴花 …とは言うものの、実は田中さんのほうが、誰よりその理由を理解できると思ったりして…?
晴花 田中さん。私らと違って、たしか大学出てるんだよね? 経済学部。
田中 …そうだけど。なぜそれを?
晴花 いやだな。私の仕事が…それ(人事周辺)だよ。履歴書管理してるのも私なんで、ごめん。悪気はないわ。
田中 …。
晴花 だからそんな世界が縁遠い私が、こんなこと言うのもアレなんだけど、まぁ笑って聞いてやって。
晴花 あの、ええと。聞くところによると、「景気循環」って考え方、あるみたいじゃん? 何て言ったけ、その…ねぇ、田中さん。
田中 …えっ。
晴花 昨日は覚えたんだけどな。ド忘れ…
田中 …あの、コンドラチェフとかクズネッツ、ジュグラー、キチン…そのへんの波?
晴花 おぉ、それそれ…! たしかナン10年単位の長い波からナンヵ月単位の短い波? …そんなカンジで循環の周期にもいろいろな種類があるんだよね。
田中 …そうね。
晴花 さっき綾っちが言った「純粋な」って言うのは、そういった景気変動の波のような基本的な部分だけを見てみようってことよ。
田中 …はぁ。でもさ、それなら、そんな回りくどいことをしなくても…この…

田中は、Zチャートの黒い線をさして言う。

田中 …この線そのものが、指しているじゃない。まぁ恥ずかしい成績なんだけど…それを除けば、データとしては何ら加工されていない、真実の数字よ。それを私の純粋な動向って言わないのなら…何をもって…。
晴花 えー、そうかな?
じゃ、ちょっと回り道をさせてもらうYO。もし、田中さんが「まぁ横ばいだー」なんて思って安心してるときにさ…カキカキ…
晴花 綾っちの言う、すなおな売上の推移ってものがあるとして…
その背後で、それがこう…カキカキ…
晴花 なっていたことに早くから気づけたのに、それを無視し続けたとしたら、どうよ? …じゃーん。
田中 … … …。
綾子 (字がっ! 効果ボイスがっ! わざとらしい天の声が! 何というベタベタな手を…今時私だってこんな手には…)
晴花 こわいでしょー? やだでしょー? もったいないでしょー?
田中 …ゴクッ……………………………………………たしかに、命取りにはなるわね…
綾子 (んぁ! 効いちゃってるじゃんっ!!)
晴花 …ご、ごめんなの。場をほぐそうと…悪ふざけがすぎましたの…ケシケシ。
晴花 じゃ、あらためて説明すると…
晴花 長い目で見て、田中さんの売上の単純な動きが、今、こんな感じにあるとしてね。もちろん、仮の話。
晴花 私たちはたいていの場合、どうやらこれを、より短いスパンで動く波の影響を受けた形で見ることができるようで。…なんとも社会や会社の情勢、それに個人の行動に由来するような、とか。それを付け加えると…カキカキ…
晴花 …こんなカンジ。
晴花 で、基準にした最初の線を消して…と。ケシケシ…
晴花 この線が…綾っちの言う “純粋な動向” ってコトなんだ。
田中 でもその…
晴花 あっと! 理由は今から。
晴花 これって、実は普段はなかなか見えないもんなの。田中さんが指すZチャートの黒い線のような、単純な時系列の売上データにおいては、こうした “純粋” な動きは隠れちゃう…ということらしくて。
晴花 だからさ、この赤い…移動年計線が大事らしいんだ。“真実の動向” を示すものとしてね。
田中 いや、何でそうなるのよ。赤だって黒だって、同じ時系列のデータじゃん。

田中は、Zチャートの黒い線と赤い線を交互にさした。

晴花 田中さん、大事なコト忘れてる。
田中 …?
晴花 言ってたじゃない。「3月9月はやりやすい」って。
田中 ………それが?

晴花は、ホワイトボードからピンク・青・白のカバーのついたマグネットをいくつかはがすと、掌の上に落とした。そしてピンク色のそれをつまんで…

晴花 だから3月・9月は “真実” より…こう…ちょっと高い位置…このへんで、いいかな。…ポンポンペタペタ。

紙の上に置き、テープでとめた。

晴花 で、当然ながら、間にはその反動がくるって趣旨のコト、田中さん言ってたし…。なんで “真実” より…下の…ここらへんに置いておくね。…ポンポン。

今度は青のマグネットを落とし、同じようにテープでとめた。

晴花 あたらしい線は、ピンクと青の影響を元の線の勢いのもとにうけるだろうから、だいたい…このヘンかな…。ポンポン。

つづいて、白のマグネットをそのまま紙の上に置く。

田中 ………ん? どういうコト?
晴花 まぁまぁ。見てて。…ガサゴソ。

引き出しから一本の大きな輪ゴムを取り出すと、輪の1点に躊躇なくハサミを入れる。

そして、一本の紐となった輪ゴムを、紙の上に置かれた白いマグネットの上にテープで貼り付けていった。

晴花 ふふ。できた。
田中 …ん。
綾子 …!
晴花 2つの線、全然違うよね? この例は単純だから、方向性はうかがえるかもしれないけれどさ。
晴花 このさ、一定の期間を通じて規則的に繰り返される波のコト、「季節変動」って呼ばれるらしいんだ。これが、“真実” を覆い隠す要素のひとつになってる、と。
晴花 それにさ。考えてみてよ。大きな季節変動の影響下でさ…
ここでいう「3月9月」と「1月12月」の売上について、同じモノサシで比べられて社長にあーだこーだと言われたとしたら、田中さん、やっぱりどこか理不尽さを感じない?
田中 …いや…まったくもって、その通り。
晴花 …そこに、季節変動を取り除くことの意義があるのね。
晴花 で、もうひとつあるらしくてさ。
田中 え!? まだあるの? その…かく乱要素が。
晴花 …みたいね。「無作為変動」とか「不規則変動」とか呼ばれる性質のものがあるんだって。こっちの変動は呼び名のごとく、作為的でなく不規則で、突発的に、瞬間的に起こるような、全くもって予測できないもの、とかいった関係の修辞がしっくりくるのかな。これも、“真実” を知るにジャマなことは言うまでもないと思うけど。
晴花 じゃ…いまから私がそれを起こしてみせるよ。…ヒョッ。

紙の一端をつまみあげたかと思うと、
晴花は、幾度かそれを上下に細かく揺さぶった。

晴花 …このくらいで、どうだろ。…ピタッ。
田中
綾子 これは…
田中 おどろきだわ…。なんともスマートな結末を導いてみせたこと…。これ以上なく、日南さんの言いたいことがよくわかるわ。
晴花 作為的だったことは、さすがに田中さんには見破られちゃった…。でも説明のため。許して。
田中 いや。ホメ言葉よ。まるでマジックを見ているような手際よさ。
晴花 …じゃ、せひ傾向についてもコメントを。
田中 もはや…
晴花 実は先に登場してもらった線にもそれぞれ名前があって…これとこれ。
晴花 それぞれ「傾向変動(トレンド)」、「循環変動(サイクル)」なんて言うらしいんだ。
晴花 すでに「季節変動」と「無作為変動」は示したから…えとね、つまり時系列データはこう…4つの変動要素が混ぜ合わさってできたもの、って考えることができるじゃん?
晴花 移動年計線は、このうちの「季節変動」「無作為変動」を含まない(と見なせる)ものなの。つまり「傾向変動」と「循環変動」の合成値だけを観察できる、と。
田中 それが…“純粋” の意味か…。なるほど…。
田中 でも日南さん。さっき綾っちに言ったことだけど、バラバラな数字を1年、ずらしながら集めたにすぎないその移動年計線から、季節変動と無作為変動が除去されるロジックが、アタシにはてんで理解できないんだけど。それはなんでよ?
晴花 …じゃ、季節変動だけのときの状態にまで戻していって…。トットッサッ…と。
晴花 この矢印を見れば…種あかしになるかな?
晴花 言うまでもなく、これは “純粋な” 動きから距離をとったもの。青は下方…ということでマイナス、赤は上方ということでプラスの距離を意味するものと考えて。
晴花 で、季節は1年で一巡するね。加えて言えば、毎年こういうパターンが繰り返されていく…ってことに、ならないかな?
田中 あぁ! そっか! 1年のスパンで見れば、季節変動でプラスの方向にはたらく月とマイナスの方向にはたらく月があるわけだから、12ヵ月を足し合わせていけば、結果としてツジツマが合ってくるかたちになるんだ。
晴花 …リクツの上では。キレイさっぱり消えるわけじゃあないけれど。
晴花 残る無作為変動の方だって同じ。少し考え方は違うけど…結局…互いに打ち消しあうような方向で力がはたらくことに、変わりはない。
田中 うーん……………目からうろこ。
いや…遅まきながら、収穫だったわ。ありがとう。
晴花 いや、私も受け売りの専門で、ただ覚えてきただけの薄っぺらい知識だからっ!… 真(ま)に受けないでね! ほんとに!
晴花 さ。綾っち。
移動年計線の意義がわかってもらえたところで、バトンを返すね。
綾子 (…すごいな、晴花さん。想定してなかったコトなのに、付け焼刃を装いながら、さらりと繕っちゃった。おかげで助かったけど…。でもなんで。必要以上に謙虚すぎやしませんか…)
晴花 おいっ! 綾っちー。
綾子 あ、はい…すみません。
綾子 じ、じゃ、続けますね。
もう1度、田中さんのZチャート…確認してみてください。
田中のZチャート
田中 なるほど。移動年計線が、アタシの “真実” に間違いなかった。ごめん綾っち。
田中 アタシは、ここ2年では去年の12月まではゆるーい減少傾向に…やっぱりあったんだ。毎月毎月だけで考えてると、ホント、良くも悪くも横ばいだなーと思ってたけど…少しずつ削ってたんだなー。こんな変化を早くとらえて、本当は対策を打つべきだったかもしれないわ。今思えば…。
綾子 …でも、それ以降は売上の水準をキープできてると言えるんじゃないですか!?この状況の中で、すごいことだと思うんです!!
田中 うーん、でも…そんな誇れることではない、かな。アタシたちの世界は、絶対金額がものをいう世界だから…。
田中 実際、トップクラスの人たちは…もっと高い売上の水準で、被害を最小限にとどめていると思うし…。
綾子 そんな卑下しないで下さいよぉ。実は…上の人たちはもっと苦しんでます。
綾子 こちら…石井さんのチャートです。…ペタ。
石井のZチャート

綾子はホワイトボードに石井のZチャートを貼り付けた。

田中 えっ!
田中 移動年計、もしかしてアタシより…!? 信じられない…。
綾子 じゃぁ、田中さんのと比較できるよう、重ねてみましょう。
田中・石井のZチャート比較
田中 あっ!
晴花 おー!
綾子 あの…。晴花さん…。
綾子 目が寄ってますけど…。何やってるんですか…。
晴花 …こうすると今はやりの3Dに見える。すごいよ綾っち。
綾子 勘・弁・し・て・く・だ・さ・いっ…(汗
田中 ホントだ…アタシが何とか踏ん張れた年末で、下げ止まれなかった…んだ…。
綾子 でも…ここ最近で…上昇の兆しが出て…ますね。再攻勢のエンジンがかかった…のかもしれません。
田中 アタシが勝負できる、としたら…ある意味またとない好機、とは言える…わけか。ホント(小声で)高慢で憎たらしくてふだんは顔も見たくない社長だけど…もしかしてそこまで考えてのことだったのかな…。いや、まさかよね。
綾子 少なくとも、私たちはこの資料を上げたことはないですよ。だからわかりませんけど…その可能性は…あるかもしれませんね…というかあると信じたいです。
田中 でも…それでも…金額にして、現状、30万の差を埋めるわけかぁー。30万といえば、今のアタシの売上比で…えーと…およそ60%、だもんなー。60%アップ…となると並大抵のことでは…やっぱり苦しい…。綾っちの話を聞いてたら、少し欲が出てきちゃったのにさ。
綾子 え…ほ、本当ですか!! やった!
田中 ま、待って。でも残念だけどそれはかなり難しいことなの。本当に、綾っちたちの気持ちはありがたいけど。
田中 仮に…だよ。私が何とかその30万の差を埋めたとしても、あくまで現状での話。石井くん、上積みしてくるかもしれない。そしたらどっちにしても無理だよー。
綾子 ニコ。
田中 え、なに、何?
綾子 (晴花さんの言ってたとおりのことを聞かれた! いいぞぉ~)
綾子 じゃぁこちらを見てください。これ、石井さんのZチャートの黒い線の部分…つまり直近1年の売上ですね…だけを抜き出したものだと思ってください。
田中 これが…どうしたの?
綾子 平均、いくらだと思います?
田中 ああ…そういうこと。うーん、70くらい?
綾子 そうです。およそ70でした。じゃ、線を引いておきますね。
田中 平均が70だから…アタシの上積みは20万。つまり運が良ければイケると?
綾子 私たちもそれで田中さんに納得してもらえるとは思っていません。だからもっと違った視点から見てみますね。
綾子 …と、いうことで。ここに線を引かせてもらいます。カキカキ…と。
田中 標準…偏差? マーケティングリサーチの世界ではお馴染みだけど…綾っち…そんなことまで勉強してんの? …びっくりさせられっぱなしだわ。
綾子 ですから…受け売りですって。
綾子 さて、この場合、標準偏差はおよそ10万円でした。とういことで80万と60万のところに線を引いたわけです。
田中 …まさか…あれを…
綾子 多分、そうです。こういうことになりますよね?
田中 やられたー! 当初の想定の 80万ラインを据えておけば、およそ 80%overで固いんじゃないか…って言いたいわけかぁー。
([参考]Chapter1-Section3
綾子 はい…。もちろん、過去の行動が石井さんの今後の行動の根拠にもなる…という前提あってのお話でですけど…。
綾子 先月(7月)分…まだ締めたばかりでこのグラフに入れてませんけど、この想定で行けるかどうか、データだけで確認してみたら実績値は72万でしたので…いいんじゃないかなーって…思いますけど、どうでしょう…(汗
田中 右下がりの会社の状況が状況だけに、このデータが正規分布に準ずるものかという点では強引な結論だけど…ホント、綾っちの “プレゼン” には負けたわ。
綾子 強引なのが取り柄です。晴花さんにも言われました…。へへっ。
田中 (ん? 日南さんがなぜ? ま、いいか…)
田中 わかった。アタシ、もう一度やれるだけやってみるよ。可能性は限りなく低いだろうけど、最後にアタシの精一杯の力を出し切って、どっちにころんでも後悔が残らないようにしてみせるわ。
田中 綾っち、日南さん、アタシなんかのために…本当にありがとう。
綾子 晴花 やったぁー!
綾子 これからも私たちがんばりますから。また付き合ってくださいね。
晴花 田中さん、綾っち…まだまだ田中さんのためのプラン、あたためてるよ。だからまた綾っちの話を聞いてあげてね。
綾子 あ!今のでハードルめっちゃ上がったじゃないですか~。晴花さんいじわるー。
田中 そうなんだ。じゃ、また近いうちに聞かせてくれるとうれしいな。綾っち、よろしくね。
綾子 あ!はい…がんばりますー。

ちょうど昼休憩も終わる頃になって、田中は再び外へと出かけていった。


田中の意気の高まりを肌で感じ取ったふたりは、ハイタッチを交わし作戦の成功をよろこんでいた。


しかし、このイベントでエネルギーを使い果たしたと言っていい綾子にとって、この日残った仕事は空回りの連続―――となったことは言うまでもない。

[挿絵]綾子のプレゼン