ひとりマーケティングのためのデータ分析

StoryPart

Chapter 3 > Section 2

9月上旬 10:40
街中

綾子は、銀行からの帰路にいた。

9月に入っても秋の気配など微塵も感じさせない街並みを、歩く。容赦なく街を刺す強い日差しを避けるようにして、綾子は建物の影を次へ次へと踏みながら会社へと向かっていた。


しばらくして、以前「OLのためのビジネスデータ分析」を買い求めた駅近くの書店のあたりまでやってくると、うつろな面持ちで書店に入っていく安堂の姿をみとめた。

綾子 あれ!?安堂さん…
綾子 よーし、こっそり行ってびっくりさせちゃおっと。

悪戯ごころから、綾子は書店へ足を踏み入れた。

平日の、それも開店して間もないこの時間だ。客足は、まばらであった。

綾子は人波のカムフラージュをあきらめて、何やら物色している安堂の傍らへ、本棚の陰をわたって近づいていった。

綾子 安・堂・さんっ!

RS1部 安堂 ぅわ!

RS1部 安堂 …なんだ綾っちか。びっくりしたなー…。
どしたの? こんなところで。
綾子 銀行の帰りですよ。…前から安堂さんが来るのを見つけたんです。まったく私に気づかれる様子でもなかったので、ちょっといたずらしてオドカシちゃおうと…。へへ。
RS1部 安堂 それは…気づかなかった…。
綾子 安堂さん、なーんかムズカシイ顔されてましたから。心ここに非ず、ってカンジでしたよ。
RS1部 安堂 いや…イカンね。シャキッとしないと。
綾子 …ところで、何をお探しでしたか?

そう言って、安堂が胸の前で広げている本の表紙を、綾子は首をかしげて覗き込む。

綾子 …新版…企業会計…分析、論?
綾子 うわちゃー…マンガじゃないんですね。私はてっきり…今日発売の「鬼貫ヒットマン十兵衛」の最新刊でも買いに来たのかと…。
RS1部 安堂 はは。渋いな。…今日はたまたまだよ。ホント、いい時に見つかったな。…オレの威信のためにも。
RS1部 安堂 この為原って人の書く本…仕事に役に立つことから…好きでね。今日はこの先生のあたらしい本が出る日なんで、調達しに来た次第さー。
綾子 ひゃー…すごいですねー。ちょっぴり意外…でしたけど。
RS1部 安堂 もしかして。ギャップに萌えた? …いや、まいったな。オレ、妻帯者だし綾っちを泣かせてしまうことに…。
綾子 萌えてません。泣きません。…問題ナッシングです。
綾子 でもひょっとして…私は “レポートの安堂さん” がつくられた秘中の秘を今知ってしまったんじゃないですか? メモメモ…
RS1部 安堂 それは…綾っちの口を封じとかないとやばいじゃん…。鬼貫十兵衛のように、ここで亡き者にしてくれようか…。
綾子 ひっ!
RS1部 安堂 …ぶはは。ともあれ、今は営業に力を入れないとイカン折だし、みんなレポートのことなんか眼中にないだろうから…どぉってことないけどね~。
綾子 そうなん…デスカ?
RS1部 安堂 冗談はさておき。目的の本を確保したことだし…それじゃあ行くよ。
あと、綾っち。「鬼貫十兵衛」持っておいでよ。いつも世話になってるし、買ったげる。
綾子 いえいえ、そんなつもりじゃ。自分で買いますから。
RS1部 安堂 いいのいいの。ここは先輩を立ててくれよ。持っておいで。
綾子 じゃあ…すみません。ありがとうございます。
RS1部 安堂 ほいさ。

安堂と別れた綾子は、まっすぐに会社へと戻った。

綾子 ずじゃーん。これ!
晴花 あっ!鬼貫十兵衛! 最新刊?
綾子 あったりまえじゃないですかー。今日発売のですよー。
綾子 もしかして晴花さん…まだ手に入れてないんですかー。ダメダメだな~。
晴花 仕事があるのに、手に入れられるわけないじゃんっ! …あっ!
晴花 さーてーはー…銀行いく途中で抜け駆けしたなー?
晴花 仕事中に、そういうコトしていいのかなー(音符 初江さん来たら言っちゃおっかなー(音符 どうしよっかなー(音符
綾子 それだけは…。晴花さんにも貸しますから!
晴花 え!? いいのぉ~!? なんだか悪いなぁ(音符 初江さんには言わないわ(音符
綾子 ・・・くっ
綾子 いや、私も仕事帰りに買うつもりだったんですけど…本屋さんのところで安堂さん見かけて声かけたら…結局なりゆきで買わせちゃったみたいになっちゃって…。
晴花 安堂さんが? そっか、よかったね。
綾子 …で、安堂さん。他人ひとより優れたレポートを書ける秘訣を、見ちゃったような気がするんです。会計なんちゃらっていう、ぶ厚いハードカバーの本 手にして…。著者で指名買いするくらいですから、見えないトコロで相当に勉強されてるんだと思います。
晴花 マジすか。ふだんはそんな気配を一切出さないのに。表からは見えないけど、なるほど努力家なんだね。
綾子 ホント、家庭思いのいいパパですし、人あたりもいいですし、才能も持ってますし、あとは営業成績がついてこれば完全無欠ですよねー。私や晴花さんの未来の彼氏さんにも、ぜひ備えておいてほしい要件ですよねー。あ、私の場合、もれなくイケメン度がプラスされますけど。
晴花 それ…安堂さんにイケメン度が足りないって言ってるようなもんじゃん。じゃ私、安堂さんの代わりにいっちょやっとくとするか。
晴花 「十兵衛がてつはう、へつどしよつとなる鬼神の技なり」
……ズドキュ―――――ン!
綾子 うっ無念…ドタッ。
晴花 ええぇ! 綾っち!ヘッドショット!ヘッドショットだって…
その死に方はおかしいじゃんYO!
綾子 あ…すみません。このあいだの教育的指導のYAIBAとごっちゃになってました…。
晴花 …。

晴花は、自分にはない、綾子のこんな ‘愛嬌’ が大好きだった。

晴花 …ところでさ、マジメな話。いや、ここだけの話…かな? 綾っちが銀行いってすぐ、安堂さん…外出ついでにこれ持ってきたんだ。
綾子 転…居届?
晴花 うん。くれぐれもここだけの話にしといてね。
私、ついその場の空気で「お幸せですネ」なーんて言っちゃったんだけど…
綾子 …だけど?
晴花 …これ、住所見てよ。
綾子 ん…。戸建、じゃないんですね。
晴花 …ついうっかり、マイホーム建てられたものだとばかり…
私、やらかしちゃったみたい。
綾子 いえ、でもマンション購入されたとか…そんなんじゃないんですか?
晴花 …そうかなって思って、写真地図ソフトのぐるぐるアースで調べたんだ。ここ。

晴花がタスクバーのぐるぐるアースのアイコンをクリックすると、画面いっぱいに街路からの写真ビューが広がる。

綾子 これ、ワンルーム…ですか? え…!? どういうこと?
晴花 …私、まずいよねー。謝るのも…わざわざこの件をむし返すわけだし…
綾子 安堂さんは何て?
晴花 「まぁ、そうでもないよ。ははは」と。
綾子 だったら気にしなくてもいいですよ。安堂さんのことですから、他意をこじつけたりはしませんよ。
晴花 …なら、いいんだけど。
綾子 でもこれ…よく考えてみればひとりになったってコトですよね。
晴花 いや…なら税金・ホケン関係の届けが出てこないとおかしいし…。
綾子 もしかして別居とか…? いろいろと事情がありそうですね。
聞けないけど…。
晴花 だね…。
9月上旬 18:20
リサーチサービス社

その日の夕方―――。
綾子は、毎月の恒例となった “ポイント” のパレート分析をおこなっていた。

綾子 まず、先月のデータをひらいて…っと。
綾子 ABC分析表からパレート図を作ると…こんなところかぁ。
綾子 マーカーでキュッキュッっと…。ん…やっぱり田中さんが1位だ。
いろいろあったけど、「雨降って地固まる」ってこういうコトなんだねー。
綾子 …あ。そういや、私。
綾子 「サービスコード」付けてきたけど、まだ分析したことなかったな…。すこし余裕もでてきたことだし、ちょっと見てみよっと。
綾子 …えと、5月から先月(8月)までのデータをピボットテーブルで集計して…と。
綾子 そのままピボットグラフでファンチャート作ってみればぁ… …カチャ!と。
綾子 できた!
綾子 非定型のお仕事が伸びたなぁ…。特に先月なんか田中さん関係でいろいろやったもんなー。記憶…はグラフにしにくい分、記録した方が仕事を客観的に見られるね。
綾子 …よしっ。私なりの「仕事してます」アピール! これを来月の人事考課の資料にして…
綾子 ボーナスああああああぁぁぁっプ!!! うっしっし…
晴花 んん!? 今、ボーナスアップってひとり言が聞こえたような気が…。
綾子 あ、いや…な、何もないですよー。
晴花 ボーナス出たらさ…アレも、コレも、ソレも買いたいよねー。
晴花 なら綾っち、そのファンチャートを補足する意味でも、田中さんの実績と綾っちの非定型の仕事の実績とで、相関があることを数字にして残しといたりすると…より説得力が増すかもYO。
綾子 でーすーよーねー全部聞かれてるじゃん!
晴花 でも、大きな声で言えないけどさ…この状態でボーナスなんて出るわけないよね…。前もナシだったのに…!
綾子 でーすーよーねー。そりゃそうだ。
晴花 …ごめん。余計なこと言ったかも。
綾子 いや。一瞬、素敵な夢が見れました。とほほ…。
9月中旬 19:00
リサーチサービス社

週があけ―――この日、出勤停止期間を終えた田中が出社した。

「面目もないこのくすぐったさをどう処理したらいいか」―――最初、田中は社内での居心地の悪さに悶々とした。

が、それもつかの間。

期間中にためこんだ庶務への対応に追われ、ささいな重荷とは向かい合う暇もなくなっていった。


―――日が落ちきった頃、ようやくひととおりのカタがつく。

田中は、その足で綾子たちの待つ経理課へと向かった。

RS3部 田中 ヤッホー(音符
綾子 田中さん! おかえりなさい。
晴花 おかえりなさい。元気そうでよかった!
RS3部 田中 いやー何と言おうか…。あらためて…恥ずかしいね…。
とにかく、またよろしく。
綾子 あ、こちらこそ。
RS3部 田中 早速なんだけど…。
時間をロスしちゃったんで、今月の作戦練りたいんだ。…約束通りこれから付き合ってもらってもいいかな?
綾子 晴花 もちろん。
RS3部 田中 ありがと。
ここのふたりが、今のアタシにとっては心強い一番の味方だから。
晴花 えと、田中さんいない間、綾っちと話してたんだけど…
ね、綾っち。
綾子 あ、はい。
綾子 私たちで計算してみたんですけど、これまでのデータをもとに出してみた、今月の石井さんの売上の予測額です。これらの方法を使ってみて、いくらかは具体的なところが絞れてきたなーとは思ったんですけど…とまれ、見てみてください。
綾子 若干の開きがありますから、勝手ですけど こうしときますね。
RS3部 田中 へぇ。なるほどねー。
アタシの漠然とした想定よりも少ない、のか。これが正解だとしたら…アタシ、見えない部分にある石井クンの存在の大きさにおびえを隠せないな…。
RS3部 田中 ところで…これ、ピュアな数字がベースになってる?
綾子 はい。社長の20万は抜いてあります。
RS3部 田中 …と、いうことはここにいくらか載っかってくると…アタシの想定と遠くもない、か…。

晴花 …そうでもないかも。
RS3部 田中 と、言うと?
晴花 もう田中さんに手のウチを知られちゃったわけだし…今回社長が同じ策を弄しても、下の下策…じゃない? こっからは 田中さんだけでなくみんなの士気をも犠牲にするよな手、だよね。…それでいて田中さんを辞めさせることだけに執念を燃やすよなアレなヒトなら どのみち先行きは火を見るより明らか。…私は、そこまでの人だとは思えないよ。この会社をつくりあげた苦労は、きっと私たちの想像さえ及ばないものだろうし。
晴花 本当はウチの社長……ああは言っても…ツンデレなだけじゃないかな。…たぶん。
RS3部 田中 何…そのツンデレって?
綾子 可愛いのに可愛いって言えずに意地悪しちゃう子いるじゃないですか。…それですよ。
RS3部 田中 え?
晴花 ううん。それだけじゃなくて正確に言えば……ツンの後には必ずデレな展開が王道なんだな。私はどちらかと言うとそのギャップに萌え…
綾子 …は?
RS3部 田中 …はい?

ひろがる沈黙。

綾子 と、とにかくー。これが社長なりの不器用な応援の仕方ってことじゃないかって晴花さんは…。私は笑っちゃいましたけど。
RS3部 田中 何それ。よく分かんない。何でこんな仕打ちを受けてまで…応援なの?
晴花 振り返って考えてみるとさ、Zチャートでトレンドを見たとき…。勝負のタイミングだって感じが…やっぱりリアルに薫ってくるっていうか…そんなカンジ? あのときは私たちも流しちゃったけど、今回、数字を予測してみた時に確認できた、石井さんのトレンドやパターンなんかに注目してたら…滑稽だけど偶然にしては出来過ぎのような気もするんだよねー。
RS3部 田中 バカな。計算されてる…ってこと?
晴花 はるかに背伸びさせるようで、意外に現実的なラインが…だったりして。
晴花 だって石井さんは…若くして係長になったRS3部の…いわば “象徴” じゃん? そんな人に勝つことができたら…きっと周りにはすごーい成功体験のように映ると思わない?
RS3部 田中 まぁ…かな。少なくとも、アタシにとっては自信になる…のは否定しないけど。でも…
晴花 社長からしたら、みんなを刺激する上でおおきな収穫になるはずじゃ?
綾子 なるほど!
晴花 でも、それは一筋縄ではいかないわけじゃん。田中さんに対して悪意がある訳じゃないけれど、ぶっちゃけて言うならば リソースが違いすぎる相手に戦いを挑むわけだから。…得意先数、…規模、…販売単価、…リピート率と及ばない。
RS3部 田中 …ぐぎぎ。
晴花 …となると、自然、勝つことを視野に入れる以上、今までのスタイルのままでは…
RS3部 田中 …いかなくなるわけだ。
晴花 コクリ。不足分と不確実性をそっくり吸収しようとするなら、必然的に、仕事のスタイルを変えなきゃならなくなりそう。社長…田中さんならそれが可能とふんで狙ったのかも。…もちろん、そうだとしてもコーヒーぶっかけられたのは想定外だとは思うけど。
RS3部 田中 あ、あれは…(カァ)。
綾子 いひひひ。
RS3部 田中 うーん、どうだかなー。でも、なら…何でそんなまわりくどいことをする必要があるのよ。
晴花 もう…鈍いな。ああ見えて田中さんがお気に入りなのよ!
お気に入りだからこそ、自分で殻を破って成長してもらいたい!…なんてトコ、あるかもしれないじゃん。
RS3部 田中 …。
綾子 でも…そしたら初江さんの晴花さんへの見え見えの対応が説明つかないですよ。おかしいじゃないですか。
晴花 だーかーらー。あれは初江さんが勝手に先走ってるだけで、社長の心は田中さんにあるの知らないのよー!そうだって。
綾子 なるほど!物語としてはいいですね。
RS3部 田中 ふ、ふたりとも…さぁ。カンベンしてYO。頼むわ…。
綾子 そーですよ、晴花さん。妄想はダメですっ。
田中さん…そうなんです。最近の晴花さん…サブカルにどっぷり気味なようですから…。まぁ、ここはテキトーに忘れてください。
晴花 ひどっ…。確かに私の妄想かもしれないけどさ…くぅ。
RS3部 田中 じゃ、とりあえずその話は一旦、いやず~っと置かしてもらってぇ…(汗
この73万円あまりを視野に入れてどう行動するか、これを考えていきたいんだけど…いいかな。
綾子 晴花 了解。
RS3部 田中 先月はふたりのおかげてなんとか石井クンと戦えたんだけど…正直言って、今握ってるトコロでほぼ固いと言えるのは、例の○○食品工業さんと、別件の○○製作所さん。はっきり目途はつけられないけど、2件でおよそ30万円を見込んでる。
綾子 ということは、残りのおよそ40万円分がターゲットになる…ということですか?
RS3部 田中 いいや。
やっぱり不確実性にも対処しないと。前回ほどのいい教訓はないわけで。
RS3部 田中 私が考えてるのは、上積みで20万。
日南さんが言ったように、確かにここにきて社長は介入しづらいかもしれない。少なくともアタシが社長の立場なら、盛るにしても前回以上は盛りづらい。ミエミエだしね。
RS3部 田中 でも可能性はゼロじゃない。
やっぱり今回に限っては…勝つからには徹底的に勝っておくスタンスでいきたいわ。
綾子 となると60万…ですか。トータルで90万円ですから…今月もウチでトップを争う水準になりますね。
RS3部 田中 今までのアタシなら、そこであきらめた。ヘンな意味で自信あるわ。
…でもふたりのおかげで、アタシは石井クンと勝負できたんだ。これで本当に最後かもしれないし、そこにゴールをすえてもいいのかなって。
晴花 …でもさ。田中さんを否定するわけじゃないんだけど…
やっぱりこの状況で…そこはあまりにキビしすぎるんじゃないかな…。
そりゃー、できることなら私たちも協力したいけどさ…ここ数日出社できなかった分、田中さんにだってハンデがあるわけだし…。
RS3部 田中 でも…
晴花 …というのもこの前ね、田中さんの見込み先さん…どこか残っていないか綾っちがいろいろ調べてたんだけど…。ね、綾っち。
綾子 …ごめんなさい。やっぱり、前回お出ししたリスト以上の見込み先さん、見つけられませんでした。
RS3部 田中 そう…

失意極まる表情をつくる田中。

それを見て、自然とふたりも押し黙ってしまった。

RS3部 田中 ぷっ。

と思えば、田中は突然表情を崩し、吹き出した。

もっとも田中の沈痛な面持ちは、端からいたずら心のなせるものだ。にもかかわらず、自らが作り出したはずの沈黙にまっさきに耐えられなくなったのも、田中自身であった。

綾子 晴花 はい?
RS3部 田中 いやだなぁ。
ふたりとも、マジに黙っちゃって勘弁。
綾子
RS3部 田中 アタシだって、何も考えもなしに…ってわけじゃないわ。今回ばかりは。
この1週間考えたすえの言葉よ。
晴花 え…。それじゃ…
RS3部 田中 アタシも、このハンデの重さはわかってる。だから、ここからはよーく考えて行動しなきゃいけないと思ったんだ。
RS3部 田中 で、ひとつの方向性に至ったわけで…。名付けて「新規先大開拓作戦」。

綾子 晴花 アリャ…?

RS3部 田中 …まぁ、ふつう…この反応だよね(汗 ふたりとも「それが出来りゃ今までだって苦労しないじゃん」ってカオだし。…わかってたけど。

綾子 あ…あの…。な…何か秘策があるんですよね。あ、あるに違いありませんっ。

RS3部 田中 秘策…かぁ。秘策と言えるかわかんないけど…ウチはリサーチ屋なんで、いっぱい持ってるものと言えば…企業データ。これもリソース。
晴花 まさか、その実(じつ)…

RS3部 田中 いえっす! ローラー作戦!

綾子 晴花 ええええええええぇぇぇぇぇ!

綾子 田中さん、それだけは…それだけは…万単位ですよ…
晴花 そうだよ! ギャンブルだよ! ぜったいに間に合わないよ!
RS3部 田中 …チッチッチッツ。

田中は口角をとがらせながら、唇の前で右手の人さし指を数度左右に払った。

RS3部 田中 それを効率的にやろうってコ・ト。だからふたりの協力が必要なの。
おねがいっ!
晴花 …。
綾子 んー。じゃあ、具体的には…何をしたらいいんでしょうか?
RS3部 田中 とりあえず、いくつか。順番に言ってもいい?
ひとつは…ここ最近のウチの顧客構造を明確にしてみてほしいこと。
綾子 顧客構造…ですか?
RS3部 田中 つまり、この会社がどんな業種のお客さんで成り立ってるのか、構成比を詳しく見てみたいの。
晴花 …。
綾子 それなら…すぐできると思います。今から調べてみましょうか?
RS3部 田中 あ、うん。おねがい。

綾子は自分のパソコンに向かい、田中の望むデータを抽出する。

綾子 お待たせし…
綾子
晴花 ん、どーした?
綾子 あ…いえいえ。何もないです。すみません。
金額ベース…でいいですよね?
RS3部 田中 うん。
綾子 じゃぁ、こんなカンジです。
晴花 えーと…
感覚的にはそうだろうってトコはあったけど…実際、ウチの売上構成比はメーカーさん、商社・卸・流通さんのウエイトがすごく大きいんだね。

田中は、綾子の背後へまわり身を乗り出すようにして画面を覗き込んだ。そして、綾子の頭を二度なでてから微笑んで晴花に言った。

RS3部 田中 そりゃぁ、まぁ…ウチの県は機械産業が屋台骨みたいなもんだし。
関連企業が集積するもんだから、必然的にその周辺産業のウエイトも高くなるってカンジかな。
RS3部 田中 あまねく企業にかんする情報提供サービスを主業とするウチの性格上、顧客の構成比は この県の産業構成比そのものと似てくる…はず…だよね?

と言って 田中は一度口を結んでから、ふたたび口元を緩めた。

RS3部 田中 …ま、それはいいんだ。
実は、アタシの見たかったものは…これ。
晴花
綾子 …サービス?
RS3部 田中 そう。この結果。
…アタシがなんとなく踏んできたところと近かった。…「ここが違う」と。
晴花 その心は?
RS3部 田中 アタシの、ターゲティング。
晴花 …。
綾子 「ターゲティング」ですか…? それはいったい…
晴花 まぁまぁ。私たちにもわかるように、田中さんに意図を説明してもらおうよ。

RS3部 田中 いや…何もむずかしい話じゃないわ。
アタシはこれからこの業界に上手に関わりたいと考えてる…ただ、それだけよ。
RS3部 田中 アタシは、ウチ(RS3部)の石井クンや2部の宮地さんのように万能な人間ではないわ。複数のタスクをよどみなく処理していく彼らのようには、アタシはきっとなれない。残念だけど、これはアタシのもてる資質だから…ある意味仕方ないところね。
RS3部 田中 それでも現実は待ってくれない。そんなアタシはどう勝負すればいい?
彼らと同じフィールドでフォロワーとして甘んじる?
RS3部 田中 …結局、そのスタンスでアタシは足元をすくわれた。
アタシの活路は…つまるとこ、どこかで競争優位をもつしかない。…そうじゃない?
何だかんだで、安堂さんの存在は、そんなコトを端的に証明してくれてる気がするの。
綾子 (ストレートすぎdesu…田中さん…(汗
RS3部 田中 だから競争優位をつくるには、ニッチ(適切)な領域に全精力を傾けるしかない。そこに行きついた…というわけ。その答えが、この「サービス」の業種にあると。
RS3部 田中 …えと、ちょっと待って。

田中は 左手に抱えたポケットファイルから、一枚の紙片を取り出した。

RS3部 田中 これ、なんだけど…。
綾子 …経済新聞のコピー?
RS3部 田中 アタシ…この1週間さ、先走る気持を抑えられなくて…。
家にじっとしていられなくて、県の中央図書館で連日のように籠ってた。
RS3部 田中 何かヒントはないか…。何かヒントはないか…って経済関係の資料や新聞を手当たり次第流し読みしてたの。
RS3部 田中 綾っちに出してもらった…この…顧客構成比を見たいと思ったのも…この県の産業構成比についての資料を見ていたとき。
RS3部 田中 ホント…いろいろあってから…ここに来るまでもう気分的にも沈んじゃって…自分からあれこれ情報を求めてこなかったわけだから…。圧倒的な勉強不足よね。この1週間、そのことを大いに反省させられたわ。
RS3部 田中 …特にこれなんか。トントン。

田中が、机の上に置かれた記事の小見出しを数度叩く。

綾子らは、再度その場を覗き込んだ。

晴花 あっ。これ、BBI(ビジネス・ブレイン・インテリジェンス)社の調査…。
RS3部 田中 それも、社名入りの提言調査ときた…。もうね…。
知らなかったアタシもどうだと思うけど、あまりに土俵が違い過ぎて、ウチの現状にもおもわず納得しちゃうトコだわ…。
綾子 すごいですね…。でもこれが田中さんのターゲティングと、どう関係…してくるんですか?
RS3部 田中 そうね。そこなの。
…ここに円グラフ、あるじゃん。

田中は、紙面の円グラフを指した。

RS3部 田中 BBIが引用してる県民経済計算――付加価値といって、ここでは簡単に売価から原価を引いたものと考えてくれればいいと思うんだけど――実は、この付加価値額の集計結果が、県下の製造業とサービス業とじゃほとんど同じだった…そんなことが指摘されているの。
綾子 (???)
RS3部 田中 ところがどうだろう…綾っちのコ・レ。

今度は、綾子のディスプレイのヘリを二度つつく。画面には、先ほど綾子が作成した顧客の業種別構成比(金額ベース)が、表示されたままになっている。

RS3部 田中 ウチは調査会社。その性質上、限られた業界だけでなく、全方向と取引してる。
RS3部 田中 その意味では、この記事のような顧客の勢いが、ある程度取引に反映されててもいいはず。
RS3部 田中 でもさ、実際はどうだろう。ウチ、メーカー(製造業)とくらべてサービスのお客さんの売上が、何でこんなに少ないの? そう…感じない?
つまり県下のサービス企業が積極策で付加価値を高めているのに、ウチはそれにまったくと言っていいほど噛んでいけてないってことよね。
RS3部 田中 結局ウチは、サービス業のお客さんと向き合えてない。
…まぁ あくまでこれはカンにすぎないんだけど。
綾子 なるほど。難しいですけど…なんとなく分かりました。
…すごいですね! 晴花さんっ!
晴花 うん、すごい!
でも、田中さんは鋭いから…きっとまだまだ考えがあるのかも。
RS3部 田中 実は…そう…お願いがあって…(照れ)。
(日南さん、アタシのいわんとするトコロ…すでに想像ついてるな…。以前のことといい、やはりこの人には何かがある…)
RS3部 田中 (ナゾな人だし…いい機会だ。少し探ってみるか…)
RS3部 田中 で、おねがいの2つ目なんだけど…。
サービス業のお客さんと向き合えてない…この仮説を、売上データから検証してみたいの。もしかしたら、思いもよらぬヒントが見つかるかもしれないし。
綾子 …となると、売上データからサービス業のお客さんのものだけを抜き取って、特徴みたいなものを見ていくってコトですよね。…と、特徴? うーん…。
綾子 は゛ーる゛ーか゛ーさ゛ーん゛ー(晴花さんタスケテ)
晴花 …田中さん。

晴花は田中がしたように綾子の頭を二度なでると、田中の方に顔を向けた。

晴花 じゃ、もし田中さんがそれを分析するとしたら…ここでどんなプロセスをとるのかな?
RS3部 田中 それについては、私はさっぱりなんで…。分かんないんけど…あえて言うなら…
RS3部 田中 多変量解析とか? もっとも、日南さんなら、ヘイキじゃない?
晴花 えっ…!?
RS3部 田中 たとえば…えーとさ…

綾子 (多変量解析… それ、たしか本で見た)
綾子 ペラペラ…(あった。重回帰分析・共分散分析・主成分分析・因子分析…)
綾子 これ…ですか?

綾子は本を自分の顔の高さで遠慮気味に掲げると、ひらいたページを田中と晴花の方に向けて示した。

RS3部 田中 ああ! そんなところ。いいね綾っち。
綾子 ニッコリ。

晴花は、下くちびるに人さし指を添えた。

そして、綾子のひらいたページをまじまじと覗き込み、眉間に大きなしわを寄せる。…晴花は嫌悪を隠さない。


しばらく眺めていたかと思うと、綾子の方へ顔を向け、やさしい微笑みを返した。


―――が、田中には唐突に突き放すようなことばを放つ。

晴花 …こんなのできっこないじゃん。どうやら、時間も、道具も必要なようよ? いや、…それ以上に、どうしてこんな高度なことがいっかいの事務の私たちに? 冗談はよしてよ。
晴花 田中さん、リサーチャーでしょ? もしかして、バカにしてんの? …自分で思うようにやってみたほうが、百倍マシじゃん?
RS3部 田中 …。
綾子 (あわわ…晴花さん 何もそんな言い方をしなくても…)

勇みすぎた―――。
ことばの背後にあったものを晴花に敏感に察知され、かわされた―――田中は、そう思った。

あわてて田中は、自分の招いた妙なきまりの悪さをとっぱらおうとする。

RS3部 田中 …いや。だよね。
自分、どうもひとりよがりでダメだわ。回りを全然見れてないし…。

晴花 …。

晴花 ところで田中さん。次、もしボーナス出たら…えーっと、何に使う?
やっぱ結婚資金かな?
RS3部 田中 …は!?
晴花 綾っちね、アレや、コレや、ソレ…買いたいんだって。
あー、私もボーナス欲しいなぁ…。
RS3部 田中 ごめん。今そんなコト考える気分じゃない。

確かに、田中はきまりの悪さを自分で招いた。
しかし、それは取り繕ったつもりでいた。


それなのに、晴花は脈略もない呑気な問いかけを投げてくる。


「意趣返しに違いない」―――。大人げない晴花の反応に、田中は怒りをおぼえずにはいられなかった。

綾子 (何を言ってるの!? 晴花さん?)
晴花 私も次の人事考課で査定上げとかないと。査定上げるために何かしとかないとなぁ…。
綾子 (今…田中さん… そんな時じゃないじゃないですか…)

どこか壊れた―――。

晴花から矢継ぎ早に発せられるボーナスの話題を止めようと、綾子は咄嗟に遮ろうとした。

綾子 晴花さんっ。や…

めてください―――。

そう、言おうとした。


言えなかった。途中で止まった。


綾子は、晴花のことをこのうえもなく慕っている。晴花の性格も、人柄も、能力も、それに容姿にだって、すべてにあこがれているところがある。そんな深く心服を寄せる晴花が、脈略のないことを言って田中を悩ませるとは、綾子には思えなくなった。

晴花
RS3部 田中
晴花 「や」って何?
綾子 あ…いえ、あの…

思いつくところをあさる綾子―――。

綾子 (ボーナス…ボーナス…ボーナス…って…何……………!?)

綾子 (…はっ!)

晴花 どーしたの?

綾子 や、「やらせてください」ですっ。晴花さん!やらせてくださいっ!
晴花 ぷっ。
RS3部 田中 ぷっ。

気持ちが、先走った―――――。眉間にしわを寄せ、必死に、そして命の危機でも迫るかのように懇願する綾子の口調は、ひどく滑稽で、思わずふたりの笑いを誘った。

RS3部 田中 何を、だよ。なんか言い方ヒワいんだけど? …何も私の前でなくても。おじゃまだったじゃない。
晴花 う~ん、おそらくそういうコトだよね? …そういうことなら、私は NTY(のーさんきゅう)で。気持ちはうれしいけど、やっぱり男の人が…
綾子 うおぉぉぉぉおおぉぉい! ちがぅ!!! いや、ちがうくもないか…場がなごんだし…私ナイス!
綾子 相関分析なら簡単ですよーっ!
そ、それなら…いけるんじゃないですかっ?
(そういうことですよね…晴花さん)
RS3部 田中 相関分析?
綾子 たとえば、売上高とか、販売回数とか、取引期間とかはもちろん、会社のデータとか…ほら、資本金とか、取引先とか、従業者数とか…ヘンスウ…いっぱいありますよね。そんなんで相関を見るんです…それなら…
綾子 うっ…データたくさんある…。簡単じゃないですね…。
晴花 そっか! それ、おもしろそう!

綾子 えっ!?
RS3部 田中

晴花 田中さん、綾っちの言う相関分析なら、私程度でも知ってるくらいだし…、なんかてっとり早くてツカエソウに思えるんだけど!? …これ、どうなのかな。
RS3部 田中 いや、でも…綾っちの言うように、いろんな相関探るには変数が多すぎるよ?
晴花 だからこそ単純化しちゃうとか! 何もお客さん用の分析結果をこしらえるわけじゃないんだし、内々の分析なんで単純化しちゃえばいいじゃんYo!
晴花 …田中さんの言うようにウチはリサーチ屋。そしてまたまた田中さんの言うように、確かにそこを活かすべきね。さすが、田中さんっ。
RS3部 田中 …は、はぁ。ありがとう。

少々困惑したが、田中はまんざらでもない気分になった。

RS3部 田中 …ところで、具体的にはどう単純化したらいいんだろ?
晴花 うーんと…データは大きく分けて…綾っちが管理する売上データと、業務課が管理する企業情報データ(データベース)があるね…。
RS3部 田中 うん。
晴花 まず、前者の売上データ。やっぱり田中さんが注目したいのは何かと言えば…
RS3部 田中 やっぱり…売上。あ、それに(販売)回数も重要かも。
晴花 …ふむふむ。なるほど。…で、もうひとつの企業情報データ。こっちはどう?
RS3部 田中 絞るとなると難しいなぁ…。どんな要素がからんでくるか、見当もつかないし…。
(お客さん側の)売上とか、主要な取引先の業種とか、流動負債、キャッシュフローとか…、もちろん従業者数とか沿革、それに自己資本比率とかも…あぁ、キリがない。
晴花 …確かに。でもウチはリサーチ屋。田中さんたちリサーチャーは、そういったデータを総合して、相対的な評価としてスコアリングする能力にたけてるハズでは?

RS3部 田中

RS3部 田中 そっか…「評点(総合スコア)」があったか…。 これにまさる単純化された企業情報は…確かにないわ。
晴花 ニコッ。
RS3部 田中 …日南さん、すごいよ! ホント、何て言ったらいいか…
晴花 おいおい、私は綾っちや田中さんのアイデアに乗っかっただけだよ。だから何もすごくない。そこを勘違いしないで。

晴花は再び、田中の評価を制するようにして淡白な返答をかえす。

RS3部 田中 …いや、ご、ごめんなさい。
綾子 …。

晴花 でも1つ問題が…。

RS3部 田中 …えっ?
晴花 綾っち、今まで企業情報データ…抜いた(抽出した)ことないよね?
綾子 あ、はい。その必要がなかったのもありますけど、経理課には書き出し権限がありませんから。
晴花 ソコだよなぁ…。
RS3部 田中 …総務部長に申請出してもダ…あっ!…ダメに決まってるか。先月のこともあるし、また私の手の内を社長に知られるリスクがある…。
綾子 あの…晴花さん、売上データについては…前と同じように、ここ2年あまりの確定分のデータでいいんですよね? そっからサービス業のお客さんの履歴を抽出する…と。
晴花 私? 私なら綾っちの言う通りでいいとは思うけど。
綾子 じゃ…とにもかくにもやってみますね。

パソコンに向かって作業を始める綾子。スプレッドシートのピボットテーブル機能を使って、数分の作業でデータを抽出した。

綾子
綾子 だ、大丈夫ですっ! 田中さん、イケます! イケる!
晴花 …。
綾子 全部で116件のレコードです! この程度なら覚(さと)られずにイケます!
RS3部 田中 それって、もしかして。
綾子 いまから言うのは独り言ですけど。“目コピ” で見たものをリストに転記してくるだけなら、またまたひとりごとですけど、ログ…残んないな~!
RS3部 田中
RS3部 田中 アタシも独り言だけど…うーむ…その程度の件数なら、確かにできるわねぇ。アタシが上で調べてくればいいわけだ。アタシにも書き出し権限はないけれど、閲覧権限はあるわけだから。何より業務正道での利用だから、少しくらい横着な真似してもいっか。…いや、いいよね?
綾子 …独り言ですよ。私と晴花さんは、確実に何にも知らないことになってますから大丈夫じゃないですか?
RS3部 田中 時にはアナログが勝ることも…かぁ。ホント、仕事って日々発見だっていうことが、今になってしみじみと実感できるわ…。ずいぶん遅かったけど。
RS3部 田中 …イケネ。感慨に浸っている場合じゃなかった。
綾っち、それリストでくれるかな。早速上で調べてくる。
綾子 …ちょっと待ってくださいね。…カタカタ…キュイイイイイン……………
綾子 できました。独り言だけど、ここに謎の文書を置いておくことにします。
RS3部 田中 独り言だけど、もらっておくよ。じゃ、また後で。

綾子からリストを受け取り、田中はひとたび二階へと上がっていった。

晴花 …じゃ、綾っち…私たちは私たちの準備、えーと…売上データから、金額と(販売)回数で指数化…この作業をしますか。
綾子 あ、はい。ですね。

作業の間、晴花の優しい微笑みに幾度かふれ、綾子のなかにひとつの衝動が芽生えてきた。

伝えたかったけど我慢しないといけないと思ってきたこと―――やがてこれを口にしたい気持ちが抑えられなくなっていた。

綾子 晴花さん…。
晴花 なに?
綾子 晴花さん、本当にすごい人です。素敵な人です。…私、大好きです。
綾子 だから、田中さんが言うことも間違いじゃないんです。なのに何で…
綾子 なのに何で…いつも…
綾子 いつも必要以上に自分を隠して卑下するんですか。…もっと胸を張っていいと思います。
晴花 ………綾っち。
綾子 晴花さん…ホントは私なんかと一緒にしごとやってるような人じゃないかもしれません。それは、今まで教えてもらったり、手伝ってもらったりしたことでわかります…。
綾子 でも、晴花さんはそんな姿を他人ひとに見せようとしません。それどころか、私を立てるために自分を…。お願いです。私のためにも、もっと自分をかわいがってあげてください…。
晴花 ……ありがとう………綾っち。

晴花はふたたび綾子に笑顔を返す。綾子をまっすぐに見つめる瞳は、意外にも気丈な光をたたえていた。

晴花 綾っち。卑下―――なんて高尚なものじゃないの。これだけは言える。だから安心して。
綾子 でも…
晴花 確かに、他人ひとからああ言って信頼されるのは私だってうれしいさ。でも…
晴花 それはそれなりの理由がある場合。…私はすごくなんかない。これは本心。考えてみて…今まで私は何をしてきた?
綾子 いっぱい…いっぱい…助けてくれてるじゃないですか。
晴花 きっかけも、行動も、みんな綾っち。私はその後をついていっただけ。
先を歩く人の方が、そのあとを行く人の何倍も勇気がいる。
綾子 …でも…でも…さっきだって…私に…
晴花 私は…本当の私は…他人ひとから評価を受けるにたらない人間。だから、綾っちが1つ1つ何かをつかんでいってくれてることの方が、私には幸せ。
綾子 …そんな…そんなことが許されるわけないじゃないですか…
晴花 それでも私を心配してくれるなら…お願い。私の気持ちを綾っちの中で消化して。多くは言えないけれど、綾っちを見てるうちに、私…この仕事が好きになってきた。辞めたくない。綾っちといっしょにやっていきたい。つまりは、これは私のためだから…
晴花 でもありがとね、綾っち。綾っちは私にとって最高の友達。
綾子 晴花さん…うっ…うっ…。

綾子は、晴花の心の奥に潜む “陰” を初めてみたような気がした。初江が言っていたことは間違いではなかったことを、初めて理解できたような気がした。


綾子は涙をこらえきれず、晴花の胸に額を垂れ、泣いた。


100件を超すデータを閲覧する田中は当分戻らないだろう―――。晴花は、綾子の背中をそのまま両手でやさしく抱えていた。

[挿絵]晴花の陰