ひとりマーケティングのためのデータ分析

StoryPart

Chapter 3 > Section 3

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しばらくの時間を費やして、田中は綾子から渡されたリストに並んだ会社の評点を確認し、その転記を終える。

そして、靴音を響かせながら経理課に戻ってきた。

RS3部 田中 (カッカッカッ…バタンッ)

勢いよくドアを開ける田中。

RS3部 田中 ごめんっツ! ちょっと遅くな…
RS3部 田中
RS3部 田中 …って。  ね…何かあった?

腫れぼったい目をして虚空に視線を泳がせるたふたりの姿を視界に入れると、田中は居場所を失したように思えてきて、逡巡した。

綾子

田中の問いかけに少し遅れて、綾子が口を開いた。

綾子 もぉー、田中さん聞いてくださいよぉ!
晴花さんが突然「お腹すいた」なんて言い出して…
綾子 前、常備菓子の業者さんがお試し品として置いていった「“ハイパーウルトラアルティメット激辛ポテチ” 食べよ」なんて言うんですYO!
綾子 …おかげでこのザマです。ぷんぷん。
晴花 (…綾っち)
RS3部 田中 あぁ、あれ。そんなの、耐性がないと無理に決まってるじゃない。何か飲むもの買ってこようか?
綾子 いえ。お気持ちだけ。
ね、晴花さん。
晴花 うん。じゃあ、この前は田中さんにご馳走になっちゃったんで…今日は私がお茶を淹れるよ。ここに応接室がある以上、われわれ経理課はお茶出しにはこだわりますから!
RS3部 田中 じゃ、甘えちゃうわ。日南さん。
晴花 どいたまして~。

給湯スペースに向かう晴花。

綾子 …というわけで私たちの作業がまだ終わってなくてですね…。ごめんなさい。
いそいで仕上げますので。
RS3部 田中 なら私も手伝うよ。どうすればいいのか教えて。
綾子 いいんですか? じゃ、手伝ってもらっちゃおっかな。
RS3部 田中 うん。まかせなー。
日南さ―――ん! PC借りるよ―――!
晴花 (給湯スペースから)あ―――――い。
綾子 …じゃ、ですね。
売上データから金額と販売回数とをひとつの指標にしちゃいたいんです。
綾子 晴花さんと相談して決めたんですけど…具体的には、サービスに限らず、全体のお客さんのデータから相対的に指数化してみたいと思っています。
たとえば、トップのお客さんの売上を100としたとき、あるサービスのお客さんは55…みたいな。
RS3部 田中 なるほど。販売回数も同じような考えね。
綾子 はい。でも、今回は…金額と販売回数とを均等に扱っていいものか…。
RS3部 田中 確かに…そういう慎重に検討すべき要素はあるね、いろいろと突き詰めると。でも今はいろいろと猶予がないし、私の独断でお願いできるかな? ほら、BBIの調査が付加価値をベースにしてたことがあるし…。
RS3部 田中 だから金額にちょっとウエイト掛けて見てみたい。やっぱり7:3くらいかな。
綾子 田中さんがそうお考えなら、それで。
綾子 じゃ、サーバーの経理課フォルダにパス付でデータをアップしました。田中さんは、このデータからサービスのお客さんについて、販売回数を基準に指数化してみてください。田中さんの指示通り、max30でお願いします。
綾子 私はmax70で売上金額を指数化してみますね。
RS3部 田中 リョーカイ。で、私のと綾っちのを後から組み合わせるん…ね?
綾子 はい。

給湯スペースの方からひびくカン高いやかんの笛の音。

その後しばらくして、マグカップに三人分の茶を満たした晴花が、お盆を両手に戻ってきた。

晴花 (粗製な愛嬌で)粗茶でございますッ。
RS3部 田中 あ! ありがとっ。日南さん。いただきまーす。
綾子 晴花さんありがとう。何か他人ひとに入れてもらうお茶って嬉しいですね。
RS3部 田中 ズルズル… 何これ?マジうまっ。
明日にでもヨメに行けるレベル。
晴花 そ、そう~? てへへ。まぁ、経理として当たり前っちゃあ当たり前かな。
綾子 そんなはずは…。おかしい…ズーッ。
綾子 田中さん…これ、お客さん用のバカっ高いお茶っ葉ですよ。初江さんにバレたら怒られます…。
晴花 いーのいーの。こういう時くらい。てか…言ウナ。
っていうか何で綾っちがわかるのさー。何だかんだ言って、綾っちもつまみ飲みしてんなー?
綾子 え!? …その…やっぱ…味見も仕事ですよねー
RS3部 田中 晴花 ははは。

綾子と田中は、晴花の淹れたお茶をすすりながら、和気あいあいとした空気の中で作業を進めた。

一方晴花は、田中の転記してきたデータの入力を買って出る。予備のノートPCをあけ、せわしく指をおどらせた。


―――しばらくして、三人がすべての準備をおえた。

綾子 よし…と。
綾子 用意できました。じゃ、やってみてもいいですか?
RS3部 田中 もちろん。よろしく。
晴花 なんか年甲斐もなくドキドキしてきたゾ。
綾子 ふふ。では、本を見ながら順番に行きますね。ペラペラ…っと。

散布図の作成手順と
相関係数の計算手順をひらきます

綾子 …ふぅ。出ましたね。
RS3部 田中 …。
晴花 本題に入る前に、一度、相関係数の見方を整理しとこっか。綾っち。
綾子 あ、はい。えーと、この本によると…ペラペラ…ですね…
綾子 こんな↓目安が載ってます。
RS3部 田中 …となると、r=-0.52っていうのは…ココになるわけだ。
綾子 そうですね。
綾子 と、いうことで、多少は相関があるようですけど…。どう解釈したら…。
綾子 これ、文字通り「相関」なんですよね? だから、購買指数が変わると評点が変わるのか…それとも、評点が変わると購買指数が変わるのか…はたまた、どっちが原因でどっちが結果なんでしょう。
晴花 因果関係…ってこと? だったら相関分析そのものからは分かんないんじゃない? ねぇ、田中さん。
RS3部 田中 …あ。そう、だけど。
綾子 ええー。でも実際、こうして片方が片方に影響してるじゃないですか。
晴花 ホントに影響…してるん、それ? 相関係数って…あくまで、一方のヘンスウが変化した時に、もう一方でどういった変化が起こるのかに注目してるにすぎなかったはず。つまり、一方の変動が他方に影響を及ぼした要因なのかってトコには触れずにさ。
晴花 こうすれば…わかりやすいんじゃない?
たとえば綾っちの一日のうちの、妄想の時間数とイケメン遭遇人数。これだって相関係数、出そうと思えば出せちゃうんじゃないかなぁ…。
綾子 (そう来ますか… わかりやすいけど)
晴花 もし、だよ。
それで相関係数が0.9とか出たとしよっか。このとき、因果関係があるという前提なら、妄想すればするほどイケメンに会えるっていうことにも!? でもそんな都合のいいこと…
綾子 あ・り・え・ま・せ・ん… (なら今頃両手に花…)
晴花 だね。だから相関係数から因果関係のあるなしがわかるとはいえないね。さっき田中さんが言っていた、多変量解析とかいう方法やらの力を借りてみるとかー、状況をいろいろと検証して自分たちであたりをつけてみるかしかなさそうかも。だよね? 田中さん。
RS3部 田中 …う、うん。
綾子 じ、じゃあ、今やった分析って…じ、実はあんまり意味な
RS3部 田中 うん。どう考えてもまずいっしょ。これは。
綾子 ガ――――――――――ン…
RS3部 田中 …って、何で綾っちがダメージ受けてんのよっ!
綾子 だって私の言ったことで…裏目にぃ…(汗
RS3部 田中 ちが―――――う!
結果、結果。相関係数のコト!
RS3部 田中 今のアタシには…これ、大きな情報だと思うの。…こう、何か訴えてくるモノを無視できると? 因果関係うんぬん以前に、「なぜこんな数字が出てきたか考えてみろ!」と挑発されてるようで。常識的に考えたら、やっぱこれはおかしいよ。
綾子 …どういうことですか?
RS3部 田中 「評点」は企業の総合的な評価。言うなれば企業体力みたいなモン。
RS3部 田中 でさ、「購買指数」はウチにおける取引の総合指数として計算したじゃん?
綾子 …はい。
RS3部 田中 それが、強くはなくても一定の相関があったわけだ。
晴花
RS3部 田中 おかしくない? これ?
少なくとも、普段の営業感覚とは正反対の結果だよ。
綾子 そう…ですか。でも、なんとなくですみませんけど、企業体力の高いお客さんの方がいろいろと購買力もあるでしょうし…その…私には自然なことのようにも思いますけど…。
晴花 綾っち。ツンツン。数字の前の記号。ツンツン。
綾子 ああ! 私ったら…! 負の相関じゃないですか!
綾子 言われてみれば、そうですね。評点と購買指数の間に負の相関が出るのは! 一体どんな背景が…
RS3部 田中 でしょ?
こうした結果が出たわけだから、他の業種のお客さんではどうなるのか、ホントは精査してみたくはある。
RS3部 田中 でも今は、そのために残りの時間を割いてるようなときじゃない。今のアタシには、自分の普段の営業感覚を信じて、この結果を受け入れるしかなさそうね。

晴花 …これから何をしていくつもり? できたら…教えてほしいな。

RS3部 田中 …別にまとまった考えっていうわけじゃないけど。
RS3部 田中 私の営業感覚を信じる前提でこの数字が意味するところとなると…。
RS3部 田中 今一番期待したいのは、大手との営業ルートがとりわけ脆弱だということ。背景は分からないけど、開拓の余地を余す現状は確かなわけだから。もちろん、言うは易しで現実はカンタンではないけれど、今はやっぱり少しでも可能性のありそうな方策に賭けてみたい。ここ数日抱いてきたぼんやりとした考えを ここで具体的に補強できたわけだし、明日からは少しばかり自信を持って動くことができると思うわ。
綾子 確かに。
晴花 うんうん。
RS3部 田中 よし。じゃ、そんなカンジでがんばってみますか! 綾っち、じゃまた明日、朝にでもこのサービス業のお客さんのリストから、評点の平均値・中央値・標準偏差を出しといてくれるとうれしいな。そのデータを参考にデータベースから営業先をピックアップしていきたいから。
綾子 まっかせってくださーい。
晴花 じゃ、お開きにして帰ろっか。そろそろ。

三人は、すっかり暗くなってから家路についた。

とりとめもない話に花を咲かす中、田中は思った。明日からの何日かが、自分の人生にとって、いい意味でも悪い意味でも、後にも先にもないくらい密度の濃い日々になるだろうことを。

田中は、その予感を胸に暗夜の空を見上げ、身を震わせた。

9月中旬 8:20
リサーチサービス社

翌日―――。

晴花 おはようございます。遅くなりましてすみません。
綾子 あ、おはよーございます。晴花さん。
総務部長 …おはよう。

晴花が出社したとき、経理課には総務部長の姿があった。

いや、綾子か晴花のどちらかが出社するまでは、総務部長の姿が経理課にあるのは日常のことだ。


だがいつもであれば、その後に定型文のような激励の言葉をかけて早々に上階の自分のデスクへと戻っていくはずの部長が、今日に限って経理課でのんびりと新聞を広げている。


そんな光景に違和感をおぼえたのか、綾子もほほを膨らませ、頭を小刻みに左右に振りながら受付台を雑巾で拭っている。綾子なりの怪訝な感情表現だと、晴花は思った。

総務部長は、時計にちらりと目をやった。潮時、といわんばかりの表情で立ち上がり、綾子にひとこと告げた。

総務部長 今日、来社のお客さんがあったら…できる限り上の応接に通してくれ。なるべくなら、ここの応接は空けといた方がいいだろう、なぁ。
綾子 わかりました。でも…ここ、特別に何かで使われるご予定ですか? 何なら、お茶菓子とかの必要もありますから…。
総務部長 あ、いや。そういうのじゃあないん、だ。

といって立てた親指を上下に振る総務部長。

それを見て、綾子らの顔も強張った。

総務部長 ともかく、君らは何もしなくていい。私もただおそらく、の可能性を言っているだけにすぎんから。

そう言って、総務部長はゆっくりと階段を上っていった。

晴花 朝からイヤな雲行きね。
綾子 田中さんがらみですかね…?
晴花 …まさか。そんなことは。

綾子は、田中に頼まれていたデータづくりに取りかかった。昨夜作ったデータから、田中に要求されたいくつかのパラメータを計算し、これらを一枚の紙にプリントアウトした。

綾子 よし…と。できた。
綾子 晴花さん、田中さんもデータ待ってるでしょうから、私、上に持っていきますね。席空けるのでお願いします。
晴花 あ、うん。了解。

綾子が二階のフロアへあがると、毎日と変わらぬ喧噪があった

―――ように見えたが、どうやら社長をはじめ役職者の姿が見えない。綾子は田中にデータを手渡すと、耳元で囁いた。

RS3部 田中 あ!綾っち、ありがと。
綾子 いえ。
綾子 ところで田中さん…今日、何かあったんですか?
RS3部 田中 え!
綾子 いえ、部長とか…皆さんいらっしゃらないようですけれど…(汗
RS3部 田中 ああ。何か会議だとかいって皆慌ただしくしてたけど…。

そう言うと、田中は、綾子の手を引き階段の踊り場まで連れてきた。

RS3部 田中 何って、朝から大騒ぎ。いや、私も今日知ったんだけど。昨日、私が経理課にいるうちにそんなことになってたなんてつゆ知らずで…。
綾子 な、何ですか?
RS3部 田中 2部の宮地さん、辞めるんだって…。
綾子 えええ!!!
綾子 な、何でまた?
RS3部 田中 家庭の事情…ということのようだけど。まぁ、本人から聞いたわけじゃないんで、よく…わかんないわ。
RS3部 田中 おかげで、社長の機嫌もハンパないの。とにかく、社長が絡んでくる仕事があったら今日は避けておいたほうが身のためよ。
綾子 そう、ですか…

経理課に戻った綾子は、田中に聞いたことを晴花に伝えようとした。が、電話中の晴花を待つうちに自身も庶務に追われることとなり、ようやく晴花に告げることができたのは、朝の喧騒が落ち着いてからだった。

晴花 へぇ。そうなんだ…。
宮地さんとなると…社長の心中穏やかじゃないねー。部長が戻りたがらないはずだわ、それは。
綾子 それに、社長の構想がにわかに頓挫しちゃいますもんね…。輪をかけて痛手なはずですよ。
晴花 あ、綾っち。しっ!

上から降りてくる靴音を察知すると、晴花はあわてて会話を切った。

経理課のドアを開け、紅潮気味の社長が部屋に踏み入れる。それに続いて宮地が、雑駁な感情をうまく処理しきれないさまを表情にうつしながら入室してきた。社長は、綾子に応接室が空いていることを確認すると、宮地とともにそこに入っていった。

仕事の手を動かしながら、漏れ聞こえてくる声の断片を必死に拾おうとする綾子たち。内容は、宮地の退職を思いとどまらせるための説得であることは確信できる。が、こと宮地の反応は鈍い様子で、拾える声のほとんどは社長のものであった。

―――そんな説得も半時間ほど進んだとき、観念したのかはっきりとした口調になって、宮地は思いを語り始めた。

RS2部 宮地 社長、お心は痛いほどありがたく思います。ですが、最後のわがままとして快くご理解ください。…お願いします。
社長 もう、何をしても気は変わらない…そう、言うのか。
RS2部 宮地 はい。
社長 …。

社長は、固く唇を結んだ。

社長 …これ以上は無駄か。
これからという時に早々にして…想定外だ。まったくお前は…。
これまでの貢献を考えると、正直、胃が痛む。
RS2部 宮地 …すみません。
社長 だがこうなった以上、理解するよう…努力してやるしかない、ということか。
RS2部 宮地 ありがとうございます。でも、この会社で社長にはいろいろと教えていただきました。本当に感謝しています。
社長 待て。努力する…と言っただけだ。退職を認めたわけじゃない。
RS2部 宮地 …?
社長 本音はどうなんだ。タテマエの交換であっさりお前を手放すほどオレもバカじゃない。本当のところと交換でなら、退職を認めてやる。
RS2部 宮地 そんな…。
社長 家庭の事情…というのは本当か? とりわけ君のご実家が…商売に勤しまれていたような話を聞いた記憶をオレはもたない。もし君が今その他のことで本当に家庭にやむなき事情を抱えるのならば、オレも立ち入ったことを聞くつもりはない。おおよその事情を示唆してくれればオレもそれで納得できる。…君はそれほどの執着を以てでしか、手放したくない人間だ。
RS2部 宮地 社長…勘弁してください。
社長 交換、だ。お前を手放すということは、オレにとってはある意味脅威だ。心構えなく敵として再会したくはないからな。
RS2部 宮地 社長…。

宮地はしばらくだまったまま、頭の中でどうすべきかの選択に迷っていた。

が、この場を収めるための選択肢はひとつしかない。
宮地は結局、吐露せざるをえなかった。

RS2部 宮地 申し訳ありません…。
社長 …行くんだな、BBIに。
RS2部 宮地 お察しの通りです。
綾子
晴花 …!
RS2部 宮地 おそらく年齢的にもこれが最後のチャンスとなるでしょう。不義理はお詫びします。でも生活もあるんです。ご理解ください…何卒…
社長 やっぱりそうか…。そんなトコだろうとは思っていたが、実際こうした現実と向き合わねばならんのは、どうしてツラいもんだ。
社長 止む無しだな。…認めてやろう。
RS2部 宮地 …すみません。
社長 だが覚えておけ。時機が来たら、オレはBBIを徹底的に叩き潰すぞ。君がいたとしても容赦はしない。
RS2部 宮地 ………覚悟の上です。

社長はそこで話を切り上げ、宮地に退席を許した。

しかし社長はいっこうに部屋から出てこない。社長ひとりが残る応接室の静けさに、綾子たちはただ不気味さを感じていた。

―――とにもかくにも、長い時間が過ぎた。
そして社長は、漸くのこと応接室の扉をあけた。

社長 …寺畠くん、日南くん。
綾子 晴花 あ、はい。

長い不気味な沈黙のあとの第一声が、自分たちへの呼びかけであったことに、輪をかけて気味の悪さを感じる綾子たち。

社長 総務部長や初江さんから聞いているが。今、君らの仕事はギリギリだと。

社長は、社内では初江のことをそう呼ぶ。役職のない非常勤の役員としての彼女を指す適当な呼称がみつからず、いつしか自然とそう呼ぶようになった。自分の母親でありながら妙に他人行儀に聞こえるその呼称には、綾子たちも内心滑稽さを感じている。

社長 まったく余裕がないのか?
綾子 いえ、そこまでは…。もともとムラのある仕事ですから。ピークが重なりますので、確かにその時はキビしいですけど、今は何とかできてます。
社長 日南くん。キミは?
晴花 私も…綾子さんと同じです。
社長 では若干、他人ひとの面倒を見られるか?
綾子 晴花 はい?
社長 傷の浅いうちに新しい人間を育てなきゃならん。宮地の代わりになるような人間をな。
綾子 晴花 …。
社長 オレは宮地のような人間を作って満足していたがこのザマだ。君らにも聞こえていたんだろ?
綾子 晴花 いえ…いや、はい、少し。
社長 有能なリサーチャーや営業マンをつくってちゃダメということだ。結局、逃げられる。
オレと同じ経営者意識を持った人材を作らんことには、元の木阿弥だ。
社長 宮地の代わりとなるようなヤツには、社内の仕事を広く学ばせるつもりだ。君らの仕事については、責任を持ってやってくれるな?
綾子 晴花 大丈夫だと…思います。
社長 …ったく。不安な返事をしやがって。
今は仮の話だが、その時が来たらしっかり頼むぞ。
綾子 晴花 ……………はい。

社長は、綾子たちの頼りない返事に不安を覚えながら、上へと戻っていく。

そしてデスクに腰を据えるなり、即座に総務部長を呼び寄せた。

社長 宮地はもう…出掛けたな?
総務部長 …はい。そのようですが。
社長 彼はダメだった。もう彼に執着している時間も惜しい。君は女の子らに指示して、宮地の手続きを進めてやってくれ。
総務部長 わかりました。
社長 …ところでだ。

意味深なタメをつくる社長。

社長 君はこいつを…どう思う?

社長は懐からスマートフォンを取り出し、着信履歴が表示された画面を総務部長の眼前に突き出した。

圧迫感に不安を覚えた総務部長は、それと距離をとるように、目を瞬かせながらを顔を引く。社長がスクロールさせる履歴の中に、濃い密度を占領する一つの電話番号が目を引いた。

総務部長 これは…どういったことでしょう?
社長 どうしようもない “バカ” がいるということだよ、“バカ” が。
社長 頼みもしないのに、わが社に熱烈なアプローチを送ってくるバカでな。幾度とあしらっても懲りずに電話してきやがる。
社長 本当なら目もくれないノーキャリアのひよっ子だが…この粘りといい、タイミングといい、ヤツは何かを持ってるな。ともかく宮地の件があって、一度詳しく話を聞いてやる気になった。
社長 そこでだ。早速、連絡を取ってほしい。
総務部長 は、はい。ではすぐにでも経理から連絡をさせます。
社長 いや。ダメだ。彼は本当の意味でのバカじゃない。
君が直接やってくれ。幾度となく軽々に茶化し あしらっている以上、急にくそまじめに事務的な連絡をよこすのも却っていぶかしむ。
社長 こちらの興味のほどをうまくはかって、君が上手に伝えてくれ。
総務部長 …そういうことでしたら。わかりました。
9月中旬 12:00
リサーチサービス社

その日のお昼休み間際―――。経理課。

晴花 …という手続きになります。ややこしいですけど、すべて順番に済ませてください。
RS2部 宮地 こんなにあるんだ。ひとつヤマを越えたと思ったら…。辞めるのも大変だね。
綾子 宮地さん、辞めちゃうなんてひどいですよぉ。私にとっては上得意様だったのに…。
RS2部 宮地 綾子ちゃんにそう言われるのは殊更堪える…。
とにかく、いろいろと世話になりっぱなしでお別れするのは、僕としてもひっかかるんで…綾子ちゃん、一度何かお礼をするよ。欲しいものとかあったら、遠慮せずに言って。
綾子 いえ。私もよくしていただきましたし…だから気にしないでください。
RS2部 宮地 ここだけの話。最後までここを離れるのを躊躇したのが、綾子ちゃんといっしょに仕事ができなくなること…なんだな。
RS2部 宮地 ぶっちゃけ、僕について向こう行ってくれない?
綾子
晴花 宮地さんーっ。綾っちはピュアだから真に受けますよ。
RS2部 宮地 …いや、でも。綾子ちゃんの仕事はホントありがたかった。向こうでもこういう子にサポートしてもらえることを願ってるけど…難しいだろうなぁ。ともかく最後まで、よろしく頼むよ。日南さんもね。
綾子 …宮地さん。
晴花 あっ、ひっどいなー。女の子泣かしちゃダメじゃないですかー。心変わりも、今のうちですよ。
RS2部 宮地 …弱ったな。
晴花 いいですよ、宮地さん。綾っちのことは私に任せて、行ってください。
RS2部 宮地 綾子ちゃん、ごめんね。

そう言って、宮地は二階に戻っていった。

綾子 す、すいません。つい…
晴花 気持ちは分かるさ。綾っちのパレート図、ずっと見せてもらってきたからね。あれだけ密に交流のある人が会社から去ってしまうのは、それは辛いよ。
綾子 はい…。ポッカリ穴が開いたような…そんなカンジです。
晴花 宮地さんが会社を去るのはまだちょっと先のことだし、最後までしっかりサポートしてあげなよ。綾っちにも悔いが残らないようにさ。
綾子 はい…。そうします。ありがとう晴花さん。
晴花 じゃ、お昼行こっ。

留守当番の業務課社員がやってくるのを待って、綾子たちは公園へと出かけた。

9月中旬 12:40
会社近くの公園
晴花 宮地さんの件は残念だけど…
綾子 やっぱり、現実の問題となると…背に腹は変えられませんから。仕方ないですね。
晴花 それに…社内の空気が悪くなっちゃったことも、宮地さんの背中を押した部分があるかも知れないね。
綾子 でもそう考えると…宮地さんのようなすごい人を失ったら…。もっと社内の空気悪くなってくんじゃないですか、これから?
晴花 わかんないけど…。でも、社長も言ってたじゃん。有能なリサーチャーや営業マンを作ろうとしたのが間違いだったって。私、アレ、びっくりしちゃった。らしくないなって。
綾子 宮地さんの退職がそれだけ堪えたんでしょうか。ほら、しばらく部屋から出てこなかったですし。
晴花 これをきっかけに…社長。綾っちの言う「昔の社長」に戻ってくれたらいいな。今は私もそう思える。
綾子 …あっ。でも待ってくださいよ。
綾子 そのあと社長、言ってましたよね。「オレと同じ経営者意識をもった人間をつくる」って。これ、いい意味で経営者としての困難を共有できるヒト…みたいにさらっと考えてましたけど、もしかしたら…自分の主義主張と相違わないコピーってふうにも考えられるじゃないですか!
晴花 あっ…。
綾子 …。
晴花 私のあわい希望を返してっ!
晴花 むぅぅ~。
晴花 バツとしてそのミニオムレツもらいっ! ぱくっ。
綾子 …っ! サ、サイテー。 ぐぅぅ。
晴花 ごめんごめん。おこるな綾っち。
私の手作りハンバーグあげるからさ。昨日の夜の残り物だけどね…
綾子 …そうですか。まぁ、そういうことなら。
晴花 (現金なヤツめ…)
9月中旬 10:00
リサーチサービス社

二日後―――。

綾子は銀行に出かけ、このとき経理課にいたのは晴花ひとりだけであった。



綾子たちはこの日朝、面接のため来社する人物があるという旨の連絡を、総務部長から受けている。

しかし彼が伝えたのはそれだけだ。

人物の名前や予定される時間といったことを、綾子たちは知らない。いや、そうしたことは彼からしたら、自分だけが知っていればいい些事だ。些事である以上、人物の名前や時間といったものが彼女らの都合と結びつきはしない。したがって彼は、人物が来社したら二階の応接に通すこと、だたこれだけを伝えていた。


「それが部長の人となりだ」

綾子たちも十分にわかっている。そもそもこの会社では、社員として、曲解気味の “一を聞いて十をなす姿勢” を求められる。くわえて総務部長は、社長の方針にたいして誰よりも勤勉な男だ。綾子たちも、それをイヤなほど感じとっている。だからこそ、総務部長に対していちいち仔細を問うようなことはしない。


いつもなら―――少なくとも経理課は―――それでも上手く回っている。綾子もそうだが、とりわけこの場にいた晴花だって、それはそれでいいと思っている。


だが、この日の晴花にとっては…それも違った。

(ドアをノックする音)コンコン…。
晴花 (あっ…例の人かな?)
晴花 すいません。KT(客対)入ります。折り返しにさせてください。

内線対応中の晴花は、受話器をあわてて置いた。

晴花の席は、動線的には出入り口から最も奥まった場所になる。この席を立って、晴花は、小走りで総務部長と初江の共有デスク、そして綾子のデスクを回ってドアに向かった。

―――あわてた晴花は、綾子の椅子に体を引っ掛ける。

痛みに顔をしかめたい思いをなんとかして抑え込むと、下を向いたままドアノブに手を掛けようとした。

―――その瞬間、向こうからドアノブが回る。

晴花は、あわてて顔をあげた。

翔太 央部大学4年。為原ゼミの篠部翔太と申します。
本日面接のお約束を頂戴し、参りました!
晴花 …………………………えっ
[挿絵]ドア越しの焦慮