ひとりマーケティングのためのデータ分析

StoryPart

Chapter 3 > Section 5

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経理課をあとにした田中は、階段を上りながら晴花の言葉を反復した。

晴花 (回想)BBI…チョーシにノってる相手だし、戦い方のヒントなんか、意外と背中に貼り付けちゃったまま暴れちゃったりしてたりして。
晴花 (回想)誰から決められるわけでもない…田中さんは、田中さんでしかなかなか注目をなしえない突破口を、きっとすでに内面に抱えてると思うんだ。
晴花 (回想)それが何かは私にはわからないけど…それはたいてい、何かあたらしいことじゃなく自分が過去に経てきた学びや体験の中に転がっているはず。長い目で見ればそれはリクツを極めることと両輪かもしれないけれど、過去に自分が素直にすごいなー・役に立ちそうだなーと思たり、相性がよさそうだと感じたりしたまま眠らせている、直感的な情動みたいなものかもしれない。

田中 …う~ん。ひっかかる。
田中 仲のいい綾っちに…ならともかく、日南さん、アタシに対して気まぐれに感傷的な言葉なんて投げかける人だったかしら…?
田中 …いや。
あの人のことだもの…。

このとき、田中の頭にふとよぎるものがあった。

二階の自分のデスクに戻ると、吸いよせられるようにして引き出しに手がかかる。

田中 もしかして…これとか?

田中は怪訝に記事を見つめながら、目に留まる大小の見出しをあらためて声にした。

田中 「問われる製造・サービス連携」
田中 「製造業・高まる地域志向」
田中 「サービス業・相乗効果期待」
田中 ……………???
田中 これがいまさらどうなると? やっぱり、日南さんから真意…具体的に引き出したほうがよさそうね。

そのまま記事を手にして、田中は椅子から腰を上げる。そして、再び経理課へ向かわんとして歩きだした。

―――しかし、それもつかの間。

いくらか歩みを進めたところで、はたと立ち止まった。

田中 …いや、ダメね。これはアタシの話。
自分の意志でここを超えなければ…きっとこれから何も変わらない。
田中 綾っちたちは「頼って」と言ってくれる。けど、これ以上助力を乞うのは得策じゃないな。…たいへんだけど、やっぱり、自分であたってみる。

踵を返すと、田中は再度席に着く。

そして、机上に積み上げられた真っさらなレポート用紙の束から一枚のそれを抜き出す。



―――田中は、そこに心の声を走らせた。

田中 現状を整理しないと…
当初のターゲットは…サービス業だった。
田中 でも根の深い問題があったわけだ。…で、アタシはどうする?
田中 ひとつに、風評を解く努力をする?
田中 …残された数日で天地をひっくり返すような真似は、アタシには不可能。信用の回復はふつう、長期戦ね。…よって、ダメ。
田中 じゃぁ、風評の影響が少なそうなところをあたってみる? これは…確かに平時なら定石といえる策かもしれない。でも、小口の取引を重ねて50万円あまりをカバーするには、日数が足らない。…これも絶望的。
田中 サービス業のラインは…いばらの道ね。現状。
田中 なら、この記事に関して、残るのはメーカーさんか…。確かに、県下産業の柱ではあるけど…。
田中 取引はほぼ固定化しちゃってるし…。ウチだって、他社だって…決まったところを囲って長いもの。経験的に、スイッチングは一筋縄ではいかない。
田中 だからこそ風穴を空けられればとびきりの上策になる…わけだけど。肝心なアテが…ないんだな…。
田中 …ハァ。
田中 「製造業・高まる地域志向」「サービス業・相乗効果期待」―――――。
田中 日南さんの言う “戦い方のヒント” がここにあるとしても、どうやったらアタシの戦い方に落とし込めるんだろう…。
田中 …う~ん。
田中 例えばさ。ここに言う、メーカーさんの「地域志向」って。―――実際のところって、そんな方向性なんて感じさせないじゃん…。
田中 はては、サービス業さんの「相乗効果期待」…か。とは言っても、サービス業さんにとって、メーカーさんとの相乗効果って? アタシには具体的なイメージもさっぱり…。
田中 あぁ…もう。お昼、食べれなかったし…ますます頭が回らない。いよいよ本格的にヤバいな…。

思案は堂々巡りするばかりで、真っ暗な隘路に差す光明を見出すことができなかった。ここまでに、これぞという営業プランを持てずにいることが、田中の焦りを加速させる。

いよいよ、この空間にいるのが嫌になった。月末特有の見えない拘束力のようなものが、幅を利かせ過ぎなのだ。


散らかった机上のものをいいかげんに整え直すと、田中は、早々に家路につこうとした。


他人と異なる行動は、視界を割って届きやすい。
社長は、田中のそのなりを視野に入れていた。


そんな視線を知ってか知らずでか、フロアを出て階段を降りると、田中は経理課へと立ち寄った。誓いを立てた以上、綾子らに助力を乞うためではない。だが、何となく心の負担を共有してもらえる居心地のいい場所を求めた自分がいることを、田中は心のどこかで感じていた。

田中 綾っ――――――――――ち。
綾子 はい。
田中 おなかすいたー…。倒れる…。
田中 何かつまみ食いできるものってない? この際 “ハイパーウルトラアルティメット激辛ポテチ” でもいいや。
できれば他のやつがいいけどさ…。
綾子 あ、はい。
ポッキーとかもあるにはあるんですけど…。やっぱり “ハイパーウルトラアルティメット激辛ポテチ” が減ってくれるとうれしいです…。
田中 綾っち、ホントは大好きなのよね、それ? アタシには分かるわ。アタシ、綾っちのためなら犠牲になれる。だからポッキーで我慢しとくよ。
綾子 ぬぅぅ…そう来ますか。
仕方ない…。ポッキー、持ってきますね。

綾子はパーテーションで仕切られた物置場で、雑多に積まれた段ボール箱をかき分ける。

そして、奥に鎮座する衣装ケースのような透明な箱から、ポッキーを取り出してきた。

綾子 …どうぞ。
田中 ありがと。じゃ、お先にー。
綾子 あれ? 今日は…お帰りなんですか?
田中 うん。会社にいても、集中できなくて。ちょっと、ひとりで静かに考えたいし…。
綾子
田中 いや。ヘンな言い方してごめん。…もう時間もないし、その…なんとかしないといけないと思って。でも、なんか今日は集中できなくてさ。ハラペコだし、なおさら。
綾子 そうですか…
田中 ありがと。んぐんぐ。
田中 …なかなかイケるね? これ。

ポッキーの箱を開けると、その中の一本を取り出し口に含んだ。そして経理課を出ると、田中は会社を離れた。

空腹を紛らわせられれば何だってよかったが、「意外とおいしい」―――田中は思った。

思わずポッキーの箱をひっくりかえすと、箱に貼りつけられたシールに目をやる。


「Offisnack Service(オフィスナックサービス)社」


仕事柄、県下多くの会社を知る田中自身でも、これまで耳にしたことのない名前であった。

「据え置き菓子自体…新興サービスだから当然か」。

田中は、箱の裏書きから、このサービス業者の所在地がそう遠くないところにあることを知った。

綾子 晴花さん。田中さん…やっぱり私たちが思ってる以上に、見通し…きびしそうですね。
晴花 確かに…そんな感じ。とにかく何をするにも時間が足らないし。
私、却ってヘンな励まし方しちゃったみたいで…もし彼女を余計追い詰めちゃってたとしたら…って考えると、ホントーにバカな自分にうんざりする…
綾子 ああ…。これからしばらく、こんな心苦しさが続くんですね…。田中さんが辞めさせられることだけは…絶対に避けたいのに…。
晴花 そりゃそうだけど…私たちに今できることは…応援する以外に、ない、よね…
綾子 ですけど……………
9月下旬 21:00
田中の自宅
田中 一体どうしたら…
田中
田中 …ダメだ。さっきから延々と…何も出てこやしない…

最初は “夕食を済ませるうちに”、それがダメなら “湯船に浸かりながらでも”…やがていいアイデアが浮かんでくれば…そう期待した田中であったが、結局、その期待のほとんどは泡となって消えていった。


灯りを落とした薄暗い部屋の中で、田中はひとり鬱々とした気持ちを巡らせていた。


よこしまな思念を断とうとして、彼氏が買い置いているウイスキーをストレートでグラスに注ぎ、中身を空ける。


―――それがいくらか繰り返された後、田中は、窓際の机につっ伏した。

それから、どれほどの時が経ったか―――。

田中はカーテン越しに射し入る陽の明るさを感じる。

そして、変わらぬ現実がずしりと重くのしかかる朝を迎えたことを、知った。

9月下旬 9:10
リサーチサービス社
田中 おはよー…
綾子 晴花 あ、おは…

出社後しばらくたってから、田中は、綾子と晴花に挨拶しようと経理課に顔を出した。

最近の彼女にとっては、日課のような行動だ。

綾子 って…。どうしたんですか? 何か顔色悪いし…ツラそうです…
田中 …あ。そう見える? ヤバいな…。
恥ずかしながら…昨日飲み過ぎちゃって…アタマ、ちょっとガンガンする…
綾子 昨日…あれからどこかへ飲みに行かれたんですか?
田中 いや。家で。つい…
晴花 何だ。私たちでも誘ってくれれば付き合ったのに。水臭いじゃん。
田中 だねー。今度ぜひ。
じゃ、今日もよろしくねー。

田中は、内心を覚られるのを恐れた。何より八方ふさがりな現状に辟易している。多少の無駄話に花を咲かせることも、今は辛かった。

だが、綾子たちに心配はかけたくない―――。田中は苦い笑いを残したまま、そそくさと経理課を離れ外回りへと出かけた。

綾子 …。
晴花 …マズい状態だね。カラ元気よそおってるけど。
綾子 やっぱり…ですよね。ふだん親しくしてる間柄ですから…なんとなく、わかりますよ。
綾子 ここで田中さんが潰れてしまったら…。もう先行きは…火を見るよりも明らか、ですよね?
晴花 …残念だけど、そういうことかな…
綾子 でも田中さん…今、誰よりも一生懸命悩んだり行動してますから…。だから、これ以上「がんばってください」なんて言葉を掛けたとしても、田中さんを追い込むだけのような気がします。少なくとも、逆の立場だったら…私、そう感じると思います。
晴花 …。
綾子 …でも「がんばって」って言わない応援なら、きっと許されますよね?
晴花 えっ?

勢いで経理課を飛び出した。綾子は、階段を駆け上がった。

そして二階フロアの入り口から一面を見渡し、ひとりの人物の姿が見つけられるよう、願った。

綾子 よかった! まだいた!

綾子の視線の先にあったのは―――

RS2部 宮地

宮地の姿であった。レポート棚で資料を物色している宮地のもとへ、綾子は小走りで駆け寄った。

RS2部 宮地

ふだん、仕事の上での綾子とRS部員とのやり取りは、内線電話を通じてか、あるいは経理課で直接おこなわれるかのいずれかで、ほとんどは完結している。宮地は、綾子がわざわざ自分のもとに足を運んできたことで、特異な事情の存在を予測した。

綾子 宮地さん、あの…。お話が…。
RS2部 宮地 話? お客さんがらみで…マズいことでもあった?
綾子 いえ。ち、ちがいます。
でもここでは言いにくいので…すみませんが…えーと…
RS2部 宮地 …?
じゃ、例のところへでも…

周囲の耳目を避けられるところで話したい―――そんな綾子の意思を汲んで、宮地は綾子に階段の踊り場へ移動するよう促した。

綾子 お忙しいところすみません、宮地さん。あの、実はお願いがありまして…
RS2部 宮地 お願い…と言うと?
綾子 今になって私、やっぱり “お礼” 、頂きたいって言ったら…遅いですか?
RS2部 宮地 「オレイ」!?
お礼………ああ、その話かぁ!
RS2部 宮地 いや、全然いいよ。綾子ちゃんが欲しいもの…ズバリ指定してくれたほうが、僕もむしろ簡単でうれしいさ。
RS2部 宮地 でもひどいなぁ…。てっきり「綾子ちゃんがオレについてきてくれる気になったんじゃないか!?」って。まったく…ヘンに期待しちゃったって。
綾子 …すみません。
RS2部 宮地 で…何をお望み?
綾子 た…田中さんを…助けて…ください…
RS2部 宮地 はい?
綾子 こんなこと頼めるの…宮地さん以外にいません。おねがいします。おねがいしますっ!
RS2部 宮地 …落ち着いて、綾子ちゃん。
一体どういうことなのか、話してみなよ。

綾子は、田中の直面する事情とその経緯について、宮地に細かに打ち明けた。

田中を助ける?―――突拍子もないことを言う綾子が、冗談でも言っているのか…宮地は最初、そう思った。しかし、悲壮な訴えを自分に寄せる綾子を目の前にすると、それが本心であることが痛いほどに伝わってくる。

「長く一緒にやってきた以上、自分に対し不平や不満を抱えたこともあっただろう。にもかかわらず、文句ひとつ言うことなくいつだって笑顔で接してくれた綾子が、今、心から自分を頼ってくれている」―――そのことに、宮地は稀有な喜びを感じた。

しかし、綾子にそれほどまでに親身に思ってもらっている田中のことを思うと、嫉妬の感情も否定できない。

RS2部 宮地 …なるほど。例の事件でうわさは聞いていたけど…社長も、田中さんも…何て言うか、よく似ているな。
RS2部 宮地 でも残念だけど、…たとえ綾子ちゃんのお願いとはいえ、こればかりは難しいよ。
綾子
RS2部 宮地 お客さんの引継ぎも部内で済ませてしまうわけだし…。かといって僕が直接田中さんをフォローするために動くのも、会社っていうしがらみの中じゃ…難しいんだ。
RS2部 宮地 いよいよ退社というときに、社長と禍根を残すのは…少なくとも僕は、いい選択だと思っていない。だから分かってほしい。
RS2部 宮地 それに、彼女の性格は綾子ちゃんが一番知ってると思うけど…僕の見え見えの同情を、すんなりと受け入れてくれるような子…でもないと思うけどな。

綾子 …確かに。私、何てバカなこと頼んでしまったんだろう…。

綾子 私、あやうく宮地さんにとんでもないご迷惑おかけするところでした…。宮地さん…ごめんなさい。
RS2部 宮地 泣かない、泣かない。日南さんに見つかったら、僕は何て責められるか…
綾子 …すみません。
RS2部 宮地 でも綾子ちゃんが「僕しかいない」と頼ってくれたコト、少しうれしかった。だから一応、話だけ…彼女にさりげなくしておくよ。
アドバイスだけなら、誰の損にもならないからさ。
綾子 …大丈夫でしょうか?
RS2部 宮地 それくらいなら。
綾子 ありがとうございます…

宮地は綾子をなだめると、仕事へと戻っていった。そして経理課に戻った綾子は…

晴花 綾っち急にどうしたのさー。電話、いっぱい入ってるよ。
綾子 …晴花さん、私、やらかしてしまいました…

晴花に自分のとった突飛な行動を打ち明けた。

晴花 ひぇ! こわいもの知らずというか…型破りというか…とにかく、ぶったまげるよ…
綾子 …ホント、バカです。私は。
晴花 でもさ。宮地さんと綾っちとのことだし。むしろ近い距離にいる人なわけだから、うん…大丈夫だって。宮地さん…綾っちのひと言がきっかけで、ポカするような人でもなかろうに。
綾子 それも…そうですね。でも、すこし恥ずかしいことをしてしまいました…。
晴花 ささ。みんな連絡待ってるよ。
私たちは、その…宮地さんを信じて、自分たちの仕事を片付けよぉ。
綾子 はい。
9月下旬 11:50
リサーチサービス社

その日の昼―――。

RS部には、宮地の姿があった。

たとえ少しであろうと、綾子の思いに沿うことができれば―――
そう考えた宮地は、スケジュールボードの走り書きから田中が帰社するタイミングを待ち受けていた。


―――しばらくすると、予定の通り、期限の調査原稿を収めんとして田中が帰着した。


宮地は田中の仕事が落ち着くのを待って、声をかけた。

RS2部 宮地 田中さん。お昼、すませた?
田中 え…。
RS2部 宮地 お昼。食事だよ。もうどっかで食べたのかなって。
田中 ああ。食事…ですか。いえ、まだですけど…
RS2部 宮地 よかったらいっしょに…どう?
田中 は? はぁ…。でもまだ…
あ、いや、いいえ。かまいません…
RS2部 宮地 じゃ、行こう。

ふたりは会社を出、近くの古めかしい定食屋で食事を済ませることにした。

これまで、田中は宮地と一緒に食事をする機会をもつことなどなかった。お互い外回りが中心の仕事である。すれ違うことが当たり前の世界にあって、そんな機会を持たなかったことは不思議でない。

ただ、田中にとって宮地は “別格” だった。この業界で生きるために必要なすべての資質を備えているように映る人間であった。そうした劣等感が、これまで宮地と一緒に食事をする機会すらなかったことに、妙にはまる理由を与えていた。

それゆえ、田中は宮地の不意の誘いに躊躇し、いぶかしんだ。いつ宮地が何らの本意を語るのか…そればかりが気になった。

―――しかし、あたりさわりのない会話をしながら食事を終えたかと思えば、あっさりと店を出てしまう。

結局、田中には宮地がわざわざ自分を誘った理由も解せなかった。田中は内心、大切な時に無駄な時間を費やしてしてしまったことを、ひどく後悔していた。

…奇妙な組み合わせのふたりが会社に戻る道で、宮地は、尋ねた。

RS2部 宮地 田中さん。今、僕にムカついてるでしょ?
田中 はい?
RS2部 宮地 僕がこうして誘うなんて稀有な出来事だし、何かあると思ってたのに得るものなんて何もなかった―――――なーんてさ?
RS2部 宮地 僕は会社を去る人間で気楽だけど、田中さんは今大変だってこと…うわさで聞いてるし。だからこそムカつくよね。
田中 …そ、そんなことないですよ。むしろうれしかったです。
RS2部 宮地 いいんだ。顔にそう、書いてある。
田中 …あ。

田中は焦った。確かに、食事中も、うわの空で話を聞いていたような気がする。頭の中には、目先の問題ばかりがちらついていた。心の翳りを上手に覆えていなかったことは、宮地にも十分に伝わっていた。

RS2部 宮地 田中さん、もっと…空回りしちゃいなよ。ずっと思ってた。
本当に報われない空回りって…自分で思う以上に、なかなか難しいものだから。
田中 …えっ?
RS2部 宮地 僕が言えた義理じゃないけれど…
正直、キミは実直だし才能もあると思う。少なくとも僕は。
RS2部 宮地 …でも、カツカツすぎやしないかな。営業スタイル。
RS2部 宮地 それが田中さんのいいところを霞ませてるように…僕は思うな。
田中 宮地さん…
RS2部 宮地 結果なんて、そうそう出るものじゃないさ。僕らの仕事なら尚更。
ウチのような小さなところじゃ、リサーチサービス社というブランドに威光もない。だからその傘を借りて営業できない以上、非効率なんて排除できっこないよ。
RS2部 宮地 僕らのおかれた立場にあって、結果を考えて行動するなんて、おおかた毒になるだけさ。カツカツに考えれば考えるほど、それはお金でしかない。お金が唯一のものさしになってしまう。そこには「いかに売りつけるか」の発想しか生まれない。
田中 …。
RS2部 宮地 前の会社からこの会社に来た時、僕も、今の田中さんと同じように結果至上主義だった。いや、結果をどん欲に求めることは別に悪いことじゃない…か、別に。だから結果至上主義って言うより、“結果近視眼” だった…って言ったほうがはまりがいいかな?
RS2部 宮地 だからこそ、この会社で社長の営業に同行するようになって、驚かされたさ。
RS2部 宮地 「この人は商品を売れない」―――やり手といったうわさを聞くけど、これじゃ会社も長くはない。他の会社の動向や業界事情なんかはまだしも、仕事に直接関係のない御用聞きやバカ話にそりゃもう時間を費やすこと。「その暇に少しでも商品を売り込んでくれ!」…ここに来た当初は、そう思ったもんだよ。
RS2部 宮地 何も売れずに会社をハシゴするんだ! この人はバカじゃないかと。結局、契約のひとつも持たずに会社へ帰るハメになる。無駄な時間を浪費して、何が社長かと。僕のが売れる―――と思うんだ。これが。
RS2部 宮地 当時は僕も若かった。自信もあった。だから社長に、僕の培ってきたやり方を見せつけてやろう! …なんて思ったわけさ。
RS2部 宮地 最初は、幸いに結果も出た。でもそれが続かない。
その間、社長は僕らのように営業に専念できるわけでもないのに、どこから湧いて出てくるのかコンスタントに実績を積み上げる。…そこで自分の浅薄さを思い知ったよ。
RS2部 宮地 そう。僕は種をまくことを軽視していたんだ。だから行き着くところまで行ったとき、パタリと収穫するものがなくなってしまった。
RS2部 宮地 それまで、セールストークやプレゼンテーションといったテクニクカルな部分こそが営業ノウハウの根幹と考えてきたけれど、社長を見て思ったんだ。長く安定してやっていくためには、種のまき方というところに競争の源泉を求めるべきだとね。
RS2部 宮地 でも撒いた種が芽を出すか、はたまた芽を出しても上手に育つか分かるまでには時間がかかる。その間、この世界ではいろんなことが起こるさ。結果として、成果を得たとしても何が功を奏したか、判断しかねることだって少なくない。正直、今の僕だってそう。
田中 つまり「結果を気にしてちゃ始まんない」…と?
RS2部 宮地 …エラそうに言うつもりはないけど、そんなところだね。
田中 それは…。それは…理想論ですよ! 宮地さん。今の私の状況をご存じなら分かりますよね! 私には時間が…2日ですよ。2日しかないんです、あと!
RS2部 宮地 そうだね。気を悪くしたら謝るよ。
田中さんならきっとこの壁を越えて行ける。でも、たとえ壁を越えられたとしても、目先の成果ばかりに追われては、近いうちにまた同じ壁にぶち当たる…そう思うけどな。
田中 ですけど、それじゃ……………

RS2部 宮地 SEM社。
田中 …え?
………今、何と?
RS2部 宮地 西央エレクトロニックマシナリー、だよ。電気機械大手の。

宮地は、唐突にとある会社の名前を口にする。田中は、その意図を測りかねた。

RS2部 宮地 隣の市の郊外に、去年土地を購入してる。未だ遊休地だけど。
田中 …どういう…ことですか?
RS2部 宮地 設備投資の話だよ。今、その計画が諸案、検討段階にあるって僕は聞いてる。
田中 あらたに工場をつくる…ということですか?
RS2部 宮地 工場かは分からない。でもあれだけの土地だ。大きな額が動くと思って間違いない。…僕らにとっても、チャンスじゃないかな?
田中 でも…宮地さん…。どこでそんな話を…? アタシは聞いたこともありません。
RS2部 宮地 言ったろ? “収穫” さ。
田中 あ…!
田中 自分のちいささが恥ずかしい…。

宮地は、笑顔を消して問いかけた。

RS2部 宮地 SEM社、ウチと取引がないんだ。BBIが独占してる。だから相手にされてないって言ったほうが正しいかも。
RS2部 宮地 相手は老練だけど、成功すれば大きなヤマ。今の田中さんにとって、損ではない案件だと思う。
田中 アタシにこのお話を…その…くれるということですか?
RS2部 宮地 …迷惑でなければ。
田中 迷惑もなにも…こんな話を私がもらっていいのかと…
RS2部 宮地 僕のことなら心配いらない。向こうで僕が関われるかは分かんないし、たとえ関われたとしても、田中さんに攻略された分は…必ず取り戻してみせるから。
田中 なるほど…辛辣ですね。
でも、ありがとうございます。アタシ、やらせてもらいます。
RS2部 宮地 うん。田中さんなら、きっとやれるさ。
田中 …でも、ひとつ教えてください。ぶっちゃけて、これまで社交辞令程度のお付き合いしかさせてもらっていなかったアタシに、アドバイスだけでなくこんな話まで…どうしてくれたのかと…。
RS2部 宮地 それは…
RS2部 宮地 やっぱり…僕も話した通り、種を撒くことを教えてくれた頃の社長が好きだったからだよ。収穫に尽きて、あげく自分の仲間まで刈りとろうとする今の社長は、正直、残念にしか思えない。だから、田中さんにはここで負けてほしくはないな。
田中 …それだけで自分の利益を犠牲に?
アタシなら、間もなく会社から離れるとして…それは動機になりません。
RS2部 宮地 ……………まいったな。
田中 本当はなぜ…ですか。
RS2部 宮地 …この会社で僕の信じてきた子が、正直、嫉妬するくらいにキミのことを心から心配してる。
それに少しでも応えてあげることが、僕のできる恩返しだと思っただけさ。
田中 (綾っち…)
9月下旬 16:00
西央エレクトリックマシナリー社

時間がない―――。

田中にはやらねばならないことが多すぎた。宮地と別れるなり、躊躇なくアポを入れる。

―――意外にも、感触は良好だった。
アポをとるだけでもハードルが高そうだ―――最初に抱いていた予想をいい意味で裏切った。


「少しでもいい。とにもかくにも、会ってもらわないことには可能性さえ生まれない」


田中には、そんな思いがある。
電話を切ってから、早速、シナリオづくりに取り掛かった。


そしてこの時間。田中はSEM社にいるのだが―――

田中 …この記事です。

田中は、例の新聞記事を応対に出た男に示した。

なんともイカツイ顔をした大柄なこの男は、応接に通された田中をゆうに半時以上も待たせている。そしてようやく現れたかと思えば、待たせたことを詫びることもない。男は、田中の名刺を一瞥もせずに受け取ると、そのなみなみと膨れた腹の重さに相応しい音を立て、ソファに腰を下ろした。


「で、何?」


男は無粋な第一声を発した。拍子抜けした田中をよそに、男は、対向して座る田中に向け、「購買部資材調達課長」と書かれた名刺を机上を滑らせて放った。

「なんとも扱いにくい人物が出てきた」―――田中は、運命のいたずらを呪った。

それでも、宮地の話を聞いて自分なりに顧客の利益を織り込んで練ってきた営業プランには、そこそこの自信がある。今、まさに自分が描いたシナリオどおり、BBIの調査記事の話題にまで持ち込んだところであった。

SEM社 購買部資材調達課長 ああ。これ。でもこれ、あれじゃないか。その…確かBBIの。 すでにあそこがうざったいくらいにPRしてきてる。お宅の実績じゃぁないね。
田中 …仰る通りです。お恥ずかしいことですが。
ですが、これは御社にとっても非常に有用な情報になるかもしれないと思いまして…。仮に、御社もこの結果と同じようなご意向をお持ちのようでしたら、弊社をぜひともお役立て頂きたいと思い…お忙しい中無理なお願いを申しました。これからぜひ説明させてください。

購買部資材調達課長は、ここにきてはじめて田中の名刺を眺めた。

SEM社 購買部資材調達課長 リサーチサービス社…ねぇ。聞いたこともない。
…実績もない会社だな。ウチはそういうところとはお付き合いしないんだよ。ヘタなリスクは避けたいんでね。
田中 確かに無名ではありますが…BBI社に勝るとも劣らない情報を提供できます。弊社は創業以来地域に密着してやっております。地域企業の情報量なら他社には負けておりません。
SEM社 購買部資材調達課長 あのね、口でなら何とでも言えるんだからさ…
田中 百聞は一見にしかず…とも言いますし、いかがですか…一度、現取引先様のレポートを試験的にご導入いただいた上で他社と比較していただきましては…。比較する機会を頂けましたら、弊社の資質もご判断いただけると思います。
SEM社 購買部資材調達課長 …キミ、いくつ?
田中 …と、おっしゃいますと…?
SEM社 購買部資材調達課長 年齢だよ、年齢。
田中 29です…
SEM社 購買部資材調達課長 ふーん。そしたら、これ(名刺)。キミ、役付きじゃないの?
田中 …え?
あ、はい。
SEM社 購買部資材調達課長 経験も信用もない輩…ってわけか。どうしてキミのような人間の書くレポートに価値があると? BBIの方は業界経験豊富な部長級の人間がウチに敬意を払い、目に見える利益を与えてくれているぞ…。はたして、キミの方が長けていると言えるところは、ウチの選択においてあるとは思えんが。
田中 いえ、私はさておき…弊社には優れたリサーチャーが少なくありません。特に、この地方の機械産業を支えおいでの中堅メーカーさまに対しては、推定顧客シェアで優位に立っているという調査もあります。そうした意味では、一定の評価も頂いております。
SEM社 購買部資材調達課長 他の人間のことに今、興味なんかない。キミはどうなんだという話だ。キミも会社の一員なんだろう?
ウチはこうして訪ねてきたキミを、会社のカオとして考えるがなぁ。
田中 私は…
SEM社 購買部資材調達課長 帰ってくれ。ウチと取引をしたいのなら、それなりの敬意と利益が必要だ。
こっちは、お宅の商品のPR会の場を提供してやってるんじゃないんだ!
田中 そんな…ち、ちがいます…何とか話だけでも…
SEM社 購買部資材調達課長 安っぽい誠意はいらん! だから敬意だ! いいか、格下なら格下なりの手続きというものがあるだろう!
それを踏んでから物を言え! それまではウチと対等に仕事ができると思うな! 実績のない泡沫会社の分際で!

田中は、この傲慢で威圧的な言葉を投げかける男を心底憎たらしく思った。その気持ちをしゃにむに堪えながら、田中は宮地の言う設備投資の話がどの程度の確信をおけるものなのか、確かめるまでは死んでも帰るか!…と思う。

田中 まってください! 無力な私でも、今日こうしてお会いくださったじゃないですか!
SEM社 購買部資材調達課長 ああ誰だって歓迎だ! …ふさわしい相手ならな! それも会えばわかる。キミのような若輩は、日報に書くとびきりのネタを作れただけでも…ありがたいと思うことだな!

資材調達課長が席を立ち、この場を切り上げようとする。田中は思わず立ち上がり、彼の肩口をはたとつかんだ。

―――それでも、彼は意に介すこともない。

田中の手を肩で払うと、重い体を引きずって応接室をあとにした。

9月下旬 18:20
リサーチサービス社

商談をさせてもらうことなく、門前払いと何ら変わらない恰好で、田中はSEM社を追い出された。その田中が、今、会社へと戻ってきていた。


帰路、田中は不思議な経験をした。

「無名だからと見下しやがって。 形式主義に堕ちたレッテルヤローめ…」

いつもの自分なら、そうして怒りをひきずっただろう。そして、二度とSEM社とはかかわらない選択をする。見通しの厳しい先に、大きな労苦・時間といったリソースを割くことは往々にして博打となりがちだ。


しかし田中は、撤退しないと決めた。


「空回りを楽しめ! アタシ」―――笑って言った。

「もともと、ダメもとで足掻いてみようと思ったんだ。アタシはスーパーマンじゃない。これでいいんだ。ホントーに徒労に終わっても、逃げなかった自分でいたい。自分のやりたいことをやりつくして終われれば、もう悔いはない」―――田中は、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

帰路、田中はSEM社をどう攻略するか、あらためて練り直した。

「あいまいではマズい。ここにきてあらためて考えてみると、アタシが握っていったプランなんてものは、いささか貧弱だったかもしれない。とにかく、ウチとの取引が相手に利を与えることに説得力をもたせないと…」―――そう思った。

しかし、たとえシナリオを固めなおしたとしても、そもそも交渉の機会を得られなければ意味がない。形式にどっぷり浸かった相手に、もう哀願は通じない。田中は、それに悩んでいた。

いや。
悩んでいた―――というのも語弊があろう。ここにきて、カードは、ひとつしかなかった。ただ、それを切ることへの葛藤があまりに大きかった。


落ち着かない―――。


席を立ち、外気を求めて建物の外へ出ていったかと思うと、田中はまた席に戻って椅子に身体を預けている。

田中 (もういい。どうにでもなれ、だ!)

田中はがばと席を立ち、ゆっくりと歩き出す。


そして、この人物の席の前にやってきた。

田中 社長!
社長 …?
田中 お話があります!
社長 これは…めずらしいな。

ふだん決して良好でない関係のふたりは、接触も多くない。それゆえ社長は、田中の行動を茶化した。

が、田中もいちいち気に留めない。

田中 同行を…願いたいのですが。
社長 は?
田中 いや、だから同行を…
社長 同行!?…オレにか?
どんな心境の変化だよ!? 弁解するつもりもないが、お前、オレがしたことをよく分かってるだろうよ…
田中 とは言っても…
田中 こればかりはアタシではどうしようもないんです。あなたの力を借りないと!
田中 それでもどうにかして攻略したい―――それほどの覚悟だから、こうしてここにいるんです!
社長 …。
ともかく、話せ。

田中は、SEM社を営業ターゲットとしていること、その理由、およびSEM社での出来事について、目の前に座る社長に打ち明けた。

社長 …とんでもないバカだな、お前は。
必要以上にウチの誇りを削られてまで、まだやろうってのか? オレならその投資ネタをもって競合をつつきにいくところだ。
田中 …あ。

なるほど、と思った。だが、今回ばかりは一度決めたターゲットに正面からぶつかって、終わりたかった。

田中 バカなのは分かってます。でも、これがアタシにとって最後のチャレンジになるかもしれません。ですからそれを重々承知で…それでも最後に納得のいくかたちで終わりたいんです。どうか最後のわがままを…お願いします。

社長に対し、田中は慇懃に頭を垂れた。ここに来て、石井との勝負への執着さえも、社長への恨みつらみも、もうどこかへととんでいた。誰でもない “自分との闘い” をただ完遂させたかった。


そんな思いが、田中の頭をすなおに低くさせた。

社長 …とはいえ、猶予はないぞ。今月もあと2日だ。
それでは成果もむずかしいぞ。
社長 それを分かった上で…言うんだろうな?
田中 …はい。
社長 それと、だ。今のお前には例の条件がある。
したがってオレが同行したとしても、あくまでオレは、面会の機会をこじ開ける “鍵” だ。お前の交渉に加勢はしない。しない…というより、そもそも無茶な営業だ。オレのスタイルでは加勢もむずかしい。それも理解しているか?
田中 承知の上です。
社長 …分かった。なら、オレが同行してもいい。
その前に、だ。会ってもらえんことには話がすすまん。オレが直接、今日のことを詫び、先方のくだらん自尊心を吐き気がするくらいに満たしておいてやる。連絡先を教えろ。
田中 …す、すみません。

それからしばらくの後―――。

田中は、明日の面会のアポを取ることができたことを知らされた。知らせを聞いた田中は、ひとまず安堵する。が、それも束の間、すぐに帰り支度を整え、あわてて会社を出ていった。

9月下旬 0:10
田中の自宅

その深夜―――。

「なつかしいな」

自身が大学生だった頃の講義ノートを眺めながら、感傷に浸る田中がいた。


“産業連関表”


「日南さん、これが私の “突破口”。そして、あなたへの答え―――」

田中は心の中でつぶやくと、悩みぬいたすえにようやくひり出したこの回答に賭けてみる決意を固めた。―――「アタシのシナリオの成否は、もう、これ以外の選択はない」

しかし、いくらか昔の記憶である。田中には、まずその基本的なしくみを思い出し、整理しておく必要があった。だからこそ、帰路、実家へ寄って押入れの奥からノートを引きずり出してきた。


深く息を吐いて呼吸を落ち着けると、田中はノートパソコンをひらく。今、田中の記憶をたどる作業が始まった―――。

田中 産業連関表…学生のころは正直、こんな日が来るとは思ってもみなかったけど、今じゃアンタが何より必要…。
田中 絶対に、アタシに希望を与えてよねー!

産業連関表の作成手順をひらきます

田中 …よしっ。思い出してきたぞ。あとは本番用の分析…。
36部門の産業連関表を用意して…えーと…ここの部門の数字はこうで…えーと、えーと…
9月下旬 15:30
リサーチサービス社

翌日―――。

社長がいない!

予定では、とっくにSEM社へ一緒に向かっているはずの時間であった。

しかし、社長は外出したまま連絡もつかない。これ以上社長を待っていても、SEM社との約束の時間に遅れてしまう。田中は身動きが取れなくなった。


約束の時間を変えてもらうか、単身向かうか―――。


そもそも田中の置かれた状況は、例えるならば断崖の一本橋を注意深く歩くさまに似る。かすかに引かれた道筋を外れた時点で、再び橋上に這い上がってこられる確率は…皆無だ。田中は究極の選択にイラついた。


「もうダメだ。アイツを信じた私がバカだった」


…そう思った瞬間、社長が会社に戻ってきた。

社長 外回りが予想以上に長引いた! オレの車で行く。
社長 …ほら!

そう言って、田中に鍵を投げて渡した。田中は空でそれを受け取ると、鞄を片手に早足で駐車場へ向かう。

社長を会社の前でひろった田中は、ふたりでSEM社へと向かった。

9月下旬 16:20
西央エレクトリックマシナリー社
田中 …えっ!?
SEM社 財務部長 ですから本日は私が。財務部長をまかされております。

面を、くらった。

応接室にやってきたのは、「購買部資材調達課長」ではなかった。


財務部長は、ふたりに来訪に対する礼を丁重に告げる。彼は、田中の驚きの表情を見て、言った。

SEM社 財務部長 資材調達の人間でないことが、想定外でしたか?
田中 …あ、はい。そうといえば…その通りです。
SEM社 財務部長 ひょっとして、本日も彼をご希望で?
田中 そんな、いや、あの…

彼は、田中の反応を見越して悪戯心に満ちた質問をした。

SEM社 財務部長 申し訳ない。調子に乗って少し意地悪な質問をしましたね。いや、なに。彼から仔細を聞いているわけでないですが、昨日は貴女、ひいては貴社ともども相当ご不快な思いをされたことでしょう。それについては、私がかわってお詫び申し上げます。
田中 いえ、そんな…

眼前の男が何を言いたいのか、このときの田中には分からなかった。

SEM社 財務部長 …彼は有能なバイヤーでしてね。無理言って、ウチ(財務部門)の前衛としての役割を買って出てもらっているんですよ。おかげで、こうして来訪の方と会話できる場に出るのも、久方ぶりでしてね。あやうく、接客の仕方さえ忘れてしまうところでしたよ。
田中 …どういうことで…しょうか…

彼は田中の質問に答えることなく、にこやかな顔をして黙っている。いかにもな作り笑いだ。

昨日のこともある。その、“いかにも” な部分を察した田中は、警戒した。


―――しばらくの沈黙がつづく。


本当のところ、田中はこの気まずい沈黙を早々にやぶりたかった。しかし、我慢した。昨日から相手のペースに嵌められっぱなしで、少しの意地も出てきた。相手の出方を我慢できるギリギリまで見定めるべきだ…そう思った。

先に沈黙を破ったのは、SEM社財務部長の方だった。しかし、彼の顔から笑いは消えた。

SEM社 財務部長 …本音でお話ししましょう。ズバリ、教えていただきたい。御社が当社と取引を望まれ、こうして訪問された理由の正直なところを、お聞かせいただきたい。
田中

田中は返事に困った。

つい、横に座したまま物言わぬ社長の横顔を、ちらりと見る。

…しかし、反応がない。無反応っぷりに腹が立った。

しかし、この社長は物言わぬ屍ではないのだ。「アタシが危うい手順を踏んだとしたら、この人はきっと口を挟む」そう思った。「だから好きにやろう」 そう決める。


―――田中は結局、本当のところに触れることにした。

田中 …大規模な設備投資のご予定を推察して、参りました。
SEM社 財務部長 …やっぱり。

財務部長は仰ぐようにして、天井を見た。

「またか」とでも言わんばかりに。

SEM社 財務部長 我々と商談を望まれる方のほとんどが、どこから聞いたかそんな話を持ってくる。ここになって、そんなところが増えてきましてね。正直、我々の業務に支障がでる程なんですよ。

「選択をあやまったか」…田中はそう思った。

SEM社 財務部長 ただ、当社も門戸だけは閉じてしまいたくないんでね。我々に利のあるお話を頂けるのであれば、乗ってもいいという思いもある。
SEM社 財務部長 でも残念ですが、そんな話に飛びついてやってくるところは、ほとんどが自分たちの利益しか考えて行動していない。端から、この機会に取引できれば僥倖…程度の意識なんです。我々もそんな状況に辟易してきた。そこで…ですよ。

彼は、手のひらを田中に向けて、会話のバトンを渡した。しかし、田中にはその意図がわからない。

田中 …と、いいますと…?

田中の反応を見て、財務部長は再び会話を引き取った。

SEM社 財務部長 失礼なことは重々承知で、まず、商談を希望される方々の本気さを示していただくことにしています。
SEM社 財務部長 …それが、彼です。ほら、昨日の…。
田中 …あ!

田中は、思わず驚嘆の声を上げた。

SEM社 財務部長 …彼の風貌からにじみ出る凄みは…お分かりだと思いますが…それはもう、社内でも並ぶ者がいないほどでね。彼に凄まれると、たいていの方には二度とご連絡をいただけなくなる。そう、当社との取引に、よほどの執着をお持ちの方以外は。
SEM社 財務部長 それがどうして。御社はこうして社長自らご足労いただいた。事情があるとは言え、試すようなことをして申し訳なかったと思います。が…御社、ひいては貴女の本気度を十二分に知ることができました。
おかげで、私の出番もできた…というわけです。

財務部長は再び笑う。

田中 何というか…。
ともかく、このような機会をいただけたことは感謝しております。

田中は、うれしかった。昨日はあれだけ腹立たしく思った資材調達課長が、なんだか愛らしいハズレくじを引かされているようで、おかしかった。

SEM社 財務部長 …ですが。
SEM社 財務部長 …さきほどの投資のお話は、当社としては肯定も否定もいたしません。

「やはり、甘くないな…」

田中は思った。

しかし、これは宮地の情報だ。

「彼のことだ。十分な状況証拠が揃っての情報のはずだ」

―――田中は、宮地の仕事を信じた。

SEM社 財務部長 …それでもと言うのであれば、このまま御社のお持ちいただいたお話を伺っても結構です。
SEM社 財務部長 ただし、です。現状、当社は取引体制を見直す予定はありません。どうしても新規の取引が必要な状況ではないのです。
田中
SEM社 財務部長 察していただいてますね。どんな形であれ、当社に相応の利を踏めるお話以外、正直申しまして興味はございません。
SEM社 財務部長 御社のようにお越しいただいた方々のほとんどは、残念ながら、ただ、自社の商品やサービスがいかにすぐれているかを力説される。…おかしいと思いませんか? 優れていないのなら、そもそも最初から売りにだって来ませんよ。
SEM社 財務部長 我々の興味は、その優れた商品やサービスを使えばどれだけの利を得られるのか―――それだけです。これでも私も多忙の身です。予め申し上げておきますが、もし、御社にそうした話をご用意いただいてないようであれば、今日のところはお引き取りいただきたい。

財務部長は、「空虚な話に付き合えない」とクギをさす。「財務の人らしく、とても合理的な考え方をする」と田中は思った。


シナリオは、ある。


しかし、それをどう開陳していくかであらたな悩みが出てきた。

「期待していない」―――財務部長の言葉の端々から、そんな慢侮の念がにじむのだ。乾いたスポンジが余さず水を吸い上げるがごとく、自分の話を受け入れてもらえるような心の状態にあるとは思えない。


田中は、社長の横顔をちらりと見る。

この人なら「ならばそれを利用してやれ」と言うはずだ―――田中はそう考えた。

SEM社 財務部長 …さて、いかがされますか?

しかし、社長の見方は違った。「ここまでだな」と。

社長の頭の中には、ひとりで勢いで突っ走って、あげくの果てに大怪我して帰ってくる―――そんな田中のイメージがある。「最後まで田中らしいが、潮時は潮時だろう」―――そう思った。

田中 いえ、ぜひ…お話させてください。

「無茶をする」

社長は、驚くしかない。「こいつは、いろいろと若い」―――それでも社長は、田中の主導権を横取りして口を挟むことをしない。田中も当初は、無言を貫いたまま加勢しない社長の存在が腹立たしかったが、ここに至ると、そこに腹を立てているような余裕さえ、ない。

SEM社 財務部長 …では、お願いしましょうか。

財務部長は知っている。取引を求めてやってくる大方の人間が、急いて田中と同じ選択し、散っていくことを。「彼女も同じだ」―――自然、そう思う。

田中は、鞄からノートパソコンとホチキス止めした紙の束を取り出た。目の前のテーブルの手元のほうに、紙束を、何も書かれていない面を上にして置く。そして、財務部長により近いところへ、ノートパソコンをひろげて置いた。

「いよいよ、この時が来た」

田中は感慨に浸る。綾子らに励まされ、ここまでやってきた。始まる前から、そんな苦労の日々がちらついた。

田中 では、私が提案をさせて頂きます。御社の利益と同時に弊社の力量を推察していただけるお話となれば、幸いです。

にこやかに言った。緊張もあって、つい、記憶に湧き出た綾子の口調に引きずられた。「相手のペースに呑まれてやがる! どうせやるなら自分のペースでやれ」…そんなふうに、社長は目線でいちいち無言のツッコミを入れている。

アクシデントが先走ったが、考えれば田中は、「提案がある」という。

社長には意外だった。「とにかくおまえの長いこれからに影響を与えるような大怪我だけは、してくれるな」―――それだけが気がかりだった。

田中 …ぜひこちらを、ご覧になって下さい。
SEM社 財務部長
田中 御社の設備投資のうわさを耳にして、この話がふと頭をよぎりました。「ひょっとしたら御社にこそお役立ていただける情報かもしれない」…そんなふうに思ったんです。
SEM社 財務部長 これは…私も承知してますが…そもそもBBI社の調査でしたね。
田中 はい。残念ながら、われわれは社としてこうした公益に資する提言調査をおこなったことがありません。その点は実績としてBBI社に劣ることも、私個人としては認めるところです。
田中 社長…すみません。
社長 …ま、まぁ、そういう見方もあるな…

自己批判をオレに振りやがって―――。

社長はそんな顔をしている。この時ばかりは無言を貫くわけにはいかなかった。

田中と社長の、立場を転じた自虐的な掛け合いに、財務部長は思わずあきれたように笑った。

田中 しかし、他社の実績がお客様の利益になるなら、われわれはヘタなプライドに縛られません。よい調査はよい調査だと認めます。
田中 それが、これなんです。ここにはひとつのすぐれた戦略案が示唆されている―――私はそう考えます。決してどなたにも当てはまるお話ではありません。真偽はともかく、これからまさに設備投資をされるご予定があるか…という御社にこそ、利益のあるお話かと思うんです。
SEM社 財務部長 …具体的に、どういうことでしょう?
田中 これ…なんです!

田中は、「地域志向」と書かれた見出しに人さし指を置いた。

田中 記事には…「可能であれば、今後、この地域の企業との取引比率を引き上げたい」――――そんな企業意識の存在が指摘されています。もちろん、地域に対する “貢献” のためです。
田中 そこで…です。
田中 設備投資と“地域貢献これ”…今だからこそひとつにして考えてみる。そうして得るものは大きい―――そんなふうに思うんです。
田中 この不況の折です。第一に、大規模な設備投資は誰しもができるものではありません。ゆえに、話題性もあります。
田中 そして第二に、地域貢献の在り方です。
田中 一般的にイメージされる “地域貢献” と言いますと、どんなことが思い浮かぶでしょうか? 私見ですが、ほとんどの場合、フィランソロピーとして括られるアクティビティ(活動)だと思います。
田中 しかし、です。設備投資によってこの地域に一定の資金を投下すること―――これもまた、ある意味では “地域貢献” と言っていいのではないでしょうか。地域の経済にプラスの影響を与えるのですから。
田中 この点を設備投資計画のアピールポイントとするわけです。
地域貢献の志向を強く織り込んだ設備投資計画、とでも言いますか…。
田中 今、県下メーカーの多くが抱える意識としての地域志向を、誰にもできない時期に、誰にもできない方法で具体化する―――これによって、宣伝効果が期待できないとしたら何によってできるでしょうか。とどのつまり、御社の企業イメージに対して、はかりしれない利益がもたらされることは疑いようがありません。
SEM社 財務部長 …ずいぶんと、大きなお話をされますな。
SEM社 財務部長 つまり設備投資を契機としてあらたにこの地域の取引先を活用しろ…と。当然、そこにはリスク管理の負担が増す。それを、御社を活用して解決しろ―――と、いうことですな?
田中 確かに…当社側の利益としては、そういうことになります。
SEM社 財務部長 仰ることは、わかりました。

荒唐無稽とはまさにこのこと―――。

「根拠もなしに、誰がそのように都合よく解釈してくれると言うか!」

表にこそ出さなかったが、財務部長はせせら笑った。

「大きな話は、フタを開けてみればたいていがハリボテだ」―――幾多の交渉の場を踏んだ経験から、彼はそんなことを学んできた。

田中の話も例外でない。都合のいい夢物語、なのだ。


「ウチを相手に、私を相手に…この程度の見識とは。なめられたものだ」


その瞬間、彼の心の奥深くに抑えていたものが姿を現したがった。

これが、無名の会社たらしめる資質だ…内心でそう思う。

ただ、“相手を格上と認める儀式” を経て道理を示し、今、眼前におとなしく座している人間たちの忠実さは嫌いではない。

久方ぶりの商談の場を得て、抑圧していた邪なものがことさら首をもたげたがる。

「見識の低さは、会社としてのステータスの低さや社会人としての経験の浅さにある」
両者において優れる者が諭すべきだ―――財務部長の中で、いよいよ傲慢なものが表出した。


―――彼は、田中とリサーチサービス社を完全に見下した。

SEM社 財務部長 …田中さんとおっしゃったか。
私は。

田中が話を続けようとしていたところに、財務部長は強引に言葉をかぶせた。

SEM社 財務部長 私は、物事には裏と表があると思うのですよ。時に表が表としてそのまま出てくるときもあれば、裏が表となって出てくるような時もある。当然、ここにいらっしゃる社長もよくお分かりだとは思いますよ。
SEM社 財務部長 ねぇ。…社長。
社長 はい。私は見識がいたらず教えていただく立場ではありますが、仰るようなこともあろうかと。
SEM社 財務部長 うむ。表に現れるものは、往々にしてコギレイな部分だけだということを、忘れてはいけない。
田中 …。

田中は黙って聞いている。会話の主導権は、財務部長へと移った。

SEM社 財務部長 田中さんのお話を聞いていて、ちょうどいいお話を思い出しました。…こんな話です。
海外に、ある文具の製造販売会社がありました。この会社は、市場調査で消費者の強い環境志向を知ることになります。
SEM社 財務部長 当時は、環境へ配慮した文具を製造するにあたっては、どうしても通常商品よりコストがかかるものでした。したがってこの会社は、そうした事情を踏まえた質問を加えます。「割高でも環境に配慮された商品の方を選択するか」と。
SEM社 財務部長 ほどんどの人が、YESと答えるわけですよ。それはもう、驚くべき環境保護への参画意識です。結局、このメーカーは先陣を切って、製品ラインのすべてを環境対応品に切り替える決断をしました。

田中 (あれ? これ、どこかで…)

SEM社 財務部長 当時としては先進的な取り組みです。識者は英断と歓迎し、メディアも同様な論調で取り上げます。従来と比べ、はかり知れない宣伝効果を得たことは容易に想像がつきます。
SEM社 財務部長 ―――にもかかわらず、売れないんです。
…現実はなんとも皮肉ですね。
SEM社 財務部長 結局、このメーカーは戦略を誤りました。
はたして消費者の真の心を知ることができていたのかと…。
SEM社 財務部長 田中さんの示したこのBBIによる調査も、内実はそんなところに思うのですよ。
SEM社 財務部長 我々もこの地域でやっている。地元企業と積極的に取引し、ともに発展していきたい。その上で次の高みを目指せたら…なんていう思いも当然ながら持っています。いや、これは我々だけでなく、この地域のメーカーであればどこだって同じでしょう。郷土愛のない会社などあるでしょうか。
SEM社 財務部長 ですが、現実はどうでしょう。
考えてみてください。多くの企業で、取引は広域化・グローバル化しています。そればかりか、工場機能を海外へ移転させる会社も少なくない。
SEM社 財務部長 概して理想はコストの拡大をはらみます。それでいて、少なくともコストを埋められる効果が得られるかさえ不透明です。…それでもGOしなければならない理由が、ありますか? 誰だって損はしたくない。
SEM社 財務部長 やりたいこととできることは、違うと思いませんか?


田中 …確かに…。仰る通りです…。

田中は下を向いた。
腹の内で、ひっそりと考えをめぐらせながら。

田中 あの、財務部長。後学のために…ぜひ続きをお聞かせ願えませんか。
SEM社 財務部長 …?
田中 そのです。何だかとても示唆に富むお話だったので…その文具メーカーがどうなったのか…とても気になってしまいまして…。
SEM社 財務部長 その熱心さは…嫌いでないですな。そういうことであれば。
SEM社 財務部長 …先ほど申し上げましたように、この会社は、環境に配慮した商品ラインに切り替えて大きな痛手を被りました。
とはいえ、それまでに大規模な設備投資をしています。すべてを白紙に戻す決断もまた、さらなる負担を強いられるところですね。戻るも進むも、大きなリスクを避けられません。
SEM社 財務部長 どんな選択をしたか。
…結局、この会社は、コストの上昇分を製品価格に転嫁するのを断念する、という決断をしました。製品の価格は従来のままというわけです。…もちろん、市場は大騒ぎ。投資家たちは利益率の低下を歓迎しません。
SEM社 財務部長 しかし結局のところ、この会社の苦渋の決断が消費者に受けた。
従前の数字(売上)も回復し、ここになって、積極的に公益にとりくんだ…というこの会社へのよいイメージ・よい評価が効いてくることになります。そして数年後には、大きな規模の会社に成長するに至りました。過程はともかく、災いを転じて福となした好事例とは言えますね。
田中 …なるほど。
田中 お教えいただいたこと、感謝しています。
SEM社 財務部長 いや。なに。
当社としても考え方は同じだと、申し上げたかったのですよ。
SEM社 財務部長 おそらく、お示しの調査結果は表面的なものでしょう。それゆえあなたが仰るような地域貢献の在り方は、究極的には理想を示したものにすぎません。
SEM社 財務部長 今後、貴女もそういったことを学ばれていかれるでしょう。
そしたらまたいらしてください。楽しみにしてま…

一笑に付す。財務部長がこの時見せた表情は、例えれば文字通りそんな感じなのだろう。
ともかく、彼はこの場を閉じようとした。しかし…

田中 私は…その文具メーカーが成功してくれて…なんだかホッとしています。

…と、おもむろに田中は言う。

SEM社 財務部長
田中 もし、この文具メーカーがですよ。当初からそのコストを自社で負担するという方針で計画を検討していたとしたら、果たしてこの会社の成功はあったんでしょうか? 率直にギモンに思います。
SEM社 財務部長 …貴女もなかなか。面白いことをおっしゃいますな。
確かに、利益率を圧迫するリスクの高い挑戦ですから、当然…設備投資計画にGOがでた可能性は低かったでしょうな。
田中 …やはり、そうですよね。
SEM社 財務部長
田中 私が申し上げたかったのは、投資計画における判断材料は多いほうがいい―――そこなんです。生意気言いまして申し訳ありません。それを “地域貢献” というモノサシとして提案させていただいたにすぎません。
田中 先ほどの文具メーカーは、顧客の真意を読み誤り、最初は市場に受け入れられませんでした。ですが、過程はどうであれ、投資が動いたことではじめて歓迎すべき局面が生まれたようです。
田中 一番、恐れるべきは有意義な投資計画が埋もれてしまうことにある―――先ほどお話しいただいた文具メーカーの教訓は、そんなとこにもあるんじゃないか…私は、そう思うんです。
SEM社 財務部長 …!!

財務部長は、田中の冷静なモノの見方に驚いた。そんな彼の姿を見て、田中は思った。

田中 (やれる!)



田中 設備投資と “地域貢献” 。もし投資のうわさが事実とそう遠くないものであるならば、後者をモノサシとして利用することの利を、具体的に説明させてください。
田中 出し惜しみする形になりましたことはお詫び申し上げます。ただ、御社とは初めて交渉させていただく立場です。お客様の意向を確認することなしに、核心について軽々と開陳するのも信用に欠けると憚っておりました。…こちらで具体的に試算することが可能です。

田中は、手元に裏返しておいていた用紙の束をひっくりかえし、数々のデータがプリントされた面を上にする。

しかし、財務部長にそれを提示するわけではない。交渉カードとして、ギリギリのラインを探りたかった。

「こんな危ない橋を渡る営業は二度とするまい」―――田中は思った。

一企業の投資から地域貢献度を試算?

これはホンモノか、あるいは “本物のバカ” かどっちかだ―――。

見極めるには、時間がいる。本音を言えば、一度見下してしまった以上、「本物のバカ」の方であってほしいと思っている。いずれにせよ、講釈を垂れてしまった自分の羞恥を増幅させないうちに、この場を切り上げたくはあった。

しかし、彼は合理を大切にする人間だ。ここで、合理に縛られた。

「感情にまかせては狭量っぷりをさらすだけだ」

彼の自尊心は、それを最悪の恥とした。


―――財務部長はいましばらく、この人間たちのために時間を割くことにした。

SEM社 財務部長 なるほど。…ということでしたら、私も気を引き締め直して。
…伺いましょう。
田中 現時点では御社が肯定されるところではありませんので、投資案件を隣県の企業の例で…、え-と…○○精密部品工業を引き合いにいたしたいと思います。
SEM社 財務部長 ○○精密部品工業…。ウチのライバルですな。
田中 ご存じのように、同社は今から3年前、一部工場の大規模改修をおこなっています。
SEM社 財務部長 …でしたね。ただ、あれは将来、工場機能の海外移転を視野にした “マザー工場化” が目的であることは間違いないでしょう。総投資額は…ええと…
田中 …46億円。総投資額は46億円に達したものと見込まれています。
SEM社 財務部長 そうでした。ただ、“マザー工場化” が目的である以上、貴女のおっしゃる “地域貢献” 的要素があったとは思えませんが?
田中 仰る通りです。私が御社にお持ちしたお話とは趣旨が異なるかもしれません。ですが、地域にいくらかお金を落としたという意味では、貢献と言えるところもあろうかと思います。産業連関表を使って、そのことを具体的に確認したいと思います。
SEM社 財務部長 産業…連関表?
田中 国や地方自治体が作成して公表している統計表です。経済波及効果を測るにあたっては、欠くことのできない有用なツールです。
SEM社 財務部長 なるほど。では、同社がどう地域に貢献したといえるのか、拝見しましょう。
田中 わかりました。ではまず…こちらをご覧ください。
田中 くだんの設備投資の内容を、われわれのレポートをもとにして、おおまかにまとめたものです。
田中 ここに、総投資額46億円の内訳を記すと…次のようになります。
田中 そして、○○精密部品工業のあるM県の産業連関表を引っ張り出します。これは36部門表と呼ばれるものです。
田中 ここで、先の投資額の内訳を、36部門表のうちの適切な部門へと散らしていきます。総務省が公表している基本分類表を使って、投資の各項目が34部門表(ここで使う36部門と最も近いので)においてどの部門に該当するかを調べると、次のようになりました。
田中 と、いうことで…○○精密部品工業の設備投資額の内訳は、M県の産業連関表の部門のもとでは以下のようにあらわされます。
以上は、「産業格付け」と呼ばれる作業です。ここでは考慮していませんが、本来は産業別でなくアクティビティベース(生産活動単位)でおこなう必要があります。例えば、商社から一般機械(完成品)を買ったという場合、一般機械をx%, 商業をy%, 運輸を100-(x+y)%といったように、商業マージンを分離して該当部門に振り分けます。
SEM社 財務部長 しかし、これは単なる設備投資額の内訳であって、県内にこれだけの需要が発生したということにはならないですね。
SEM社 財務部長 ○○精密部品工業は、別に地域貢献を念頭に設備投資をしたわけではないし…。と、なると、地域の企業と取引したとは限らない。通常の感覚で言えば、たとえ県外であってもより安価な取引先を選択することもあるでしょうし、県内の企業では需要を満足に満たせないようなケースもあるはずです。このあたりは、御社ならつかめているでしょう?
田中 確かに…そういうことですが…。われわれの仕事の中核に近いところですので、すみません…。この場で仔細を開示することはご容赦ください。
田中 しかし…ですね。仮にそれが未詳であっても、産業連関表からおおよその県内需要について見当をつけることも可能なんです。産業連関表は、経済構造そのものをあらわしていますから。
SEM社 財務部長
田中 「自給率」と呼ばれる指標でアテをつけます。自給率は、県内の需要合計に占める、県内の生産額から他県への移出・海外への輸出分を控除した金額の比率を言います。
田中 言い換えれば、企業が需要を満たすため完成品等を調達するにあたって、それが県内の生産でどの程度まかなえるのか…といったことを示しています(※「移輸入率」と反対の概念です)。ですので、ここにいう自給率を県内企業の代表値として考え、○○精密部品工業の県内需要を推測してみます。
田中 では、えーと…M県の産業連関表から、県内生産額・移出額・輸出額・県内需要合計のすべてが分かりますので…これらをもとにして、各部門ごとに自給率を計算するとですね…このようになります。
田中 さて。ここで、先に示しました「設備投資による需要発生額」表を手元に用意しておきますね。先ほどご覧いただいたように、この表には…産業連関表の部門ごとに投資金額を散らしてあります。
田中 さらに、同じく今求めたばかりの「自給率」表を用意して、これら2つの表を対応する部門ごとに掛け合わせていくと…
田中 …こうなります。
SEM社 財務部長 ふーむ。例の○○精密部品工業の投資で、県内調達分で対応できたと考えられるのは、この各部門の値を合計した…18.4億円というわけですか。総投資額の半分にも満たないとは…。実際に同社がとった選択とは県内調達率も違うかもしれないとはいえ、印象より…ずいぶん少ないものですな。
田中 でしょうか? 参考までに…当県の自給率で計算してみますと…あっ! 確かに24.5億円にはなりますね。
SEM社 財務部長 …やはり。
SEM社 財務部長 もっとも、地域貢献というタテマエのもと、金額の多寡だけに目を奪われるのは危険ですな。
田中 …あ、はい。そうですね。
田中 ただ、この18.4億円は…あくまで同社の投資によって生まれる、県内の直接の需要分にすぎません(※「直接効果」といいます)
SEM社 財務部長 …どういうことですか?
田中 …「波及効果」をアテにできます。
田中 この例のように、工場の改修が決まれば、設計は設計サービス会社が、ハコ(建物)の改修は建設業者が、設備機械の導入・設置は各機械メーカーが…といった具合に各産業に需要が発生します。○○精密部品工業の例ではこれが総じて46億円規模となりました。
田中 ここで、さまざまなオーダーを受けた各産業部門に視点を移します。 ここでもまた、あらたな需要が発生しますね。例えば、先ほどの建設業者は建材・資材を各メーカーに発注するでしょうし、機械メーカーは各種の素材・部品を発注する…でしょうから。
田中 産業連関表を使った分析では、このようにして需要規模を小さくしながら波及効果が無限に続く…と考えます。つまり、経済効果の計算には、投資による直接的な金額に加え、間接的に波及していく需要の額を考慮する必要があります。
SEM社 財務部長 うーむ。波及効果自体は歓迎できても、それを見積もるのは厄介ですな。
計算するとしたら…取引の1つ1つを追って、それを積み上げていくのが一番正確なところだろうことは想像できますが…。いかんせん、それは現実的ではない。第一、貴女は経済効果が無限に続くとおっしゃる。一体…どのようにしてそんな計算を?
田中 実はこれも…産業連関表を使えば、可能なんです。
SEM社 財務部長 なんと…
今で存じ上げなかったが…その「産業連関表」というものは…何とも有用なツールなんですな…。特に我々のような部門には。
田中 私も勉強中ですが、仰る通りかと…。
さて、産業連関表をもとにしていくつかの計算を経ると、このような表を作ることができるんです。
SEM社 財務部長 これは?
田中 「逆行列係数表」といいまして、波及効果分析のキモともいえるものです。
この係数を利用すると、無限に続く波及効果を数学的な手続きで計算することができるんです。
田中 ただし、この係数にはいくつかの型があります。代表的なものは…こんなところでしょうか。
田中 (I-A)-1 型は、“封鎖経済型” と呼ばれるもので、その名のとおり、県外から(財やサービスが)移輸入されることについては考慮されません。他方、[I-(I-M)A]-1 型は、”開放経済型” と呼ばれ、移輸入を考慮します。経済活動の実態に即して波及効果を計算するにあたっては、後者のほうが向いていますね。
田中 と、いうことで…先ほどの逆行列係数表も、後者によって求めたものです。
SEM社 財務部長 なるほど。では、これを使って、どのように波及効果を計算するのですか?
田中 …この逆行列係数表と…先に求ておきました「M県 県内需要発生額」表の需要発生額を行列として掛け合わせます。…こんな感じですね。
田中 …表計算ソフトを使えば、すんなりですよ。カチッ。
田中 …ということで、求められた表がこちらです。これが、○○精密部品工業の投資にともなうM県における経済効果…となります。
SEM社 財務部長 おおっ! 直接資金を投入したのは、「対事業所サービス」「建設」「一般機械」「電気機械」「情報・通信機器」「情報通信」の6部門との想定だったはず…。しかし各部門に金額がある…。
田中 はい。つまり、6部門への需要が…このように…あらたな需要を誘発して…
田中 県下において22.7億円の経済効果を生み出した、と考えられるわけです。
SEM社 財務部長 と、いうことですと…
前に計算した18.4億円(=直接効果)を差し引いて…あーと…4.3億円が誘発された需要…ということになるわけですか? なるほど。ここで経済効果は投資額の1.23倍程度(※「波及効果倍率」といいます)…となりますか。こちらもいささか少ないような気もしますが。
田中 パッと見、M県の機械部門の自給率は…他県と比較して低いようですから…これが理由としては大きいかもしれません。ただ、この4.3億円は、あくまで直接効果に誘発された需要増のみが考慮された値です。これは「第1次波及効果」と呼ばれています。
SEM社 財務部長 第1次?
…ということは第2次も?
田中 2次的な波及効果は、われわれの消費の増加による需要増です。直接効果と第1次波及効果によって生じた需要が、企業の余剰やわれわれの給与を増加させ、消費を増やす…というロジックです。もっとも最近では、このロジックが…はたして実態に忠実かとなると、なかなかムズカシイようにも思いますが…。
田中 ともかく、第2次効果までを視野に入れると、私の計算では総額で25.6億円の経済効果をもたらすことになります(※「総合波及効果」といいます)。この場合には、投資額の1.39倍にまで達しますね。
田中 以上の効果をまとめると、このようなカンジになります。
SEM社 財務部長 いやはや。
経済効果と聞いて最初はどんな世迷い事が飛び出すかと思っていましたが…
SEM社 財務部長 意外にも具体的なお話とは。正直、驚かされましたな。
…経済効果を喧伝しなかった同社の投資でさえ、1.39倍ですか。
SEM社 財務部長 つまり、最初に貴女が仰りたかったことは、こういうことですか。
最初の資金投入(直接効果)はコントローラブルだと。○○精密部品工業が、選択的に地域の会社に金を落とす。くわえて、それらが資材や原材料の自給率が高い産業であればあるほど…
田中 1.39とした波及効果倍率も、さらに高まっていた…といったところでしょうか。
SEM社 財務部長 たとえば同規模の投資案が複数検討されているとき、この経済効果の多寡という視点は、判断材料の一手として利用できそうですな。貴女が仰るように、PR要素としての効果は少なくないでしょうから。
田中 そうですね。
SEM社 財務部長 …ただ、貴女が言うような “実利” に直結するツールとは思えませんな。そこが残念と言えば残念だ。地域貢献のPR要素としての効果は、どちらかといえば間接的な利益でしょう。
田中 これまでのように、マクロの数字…だけを見れば、確かに、そうですね。
田中 でも…こういった見方は、いかがでしょう?
田中 直接効果は誰の目も引きつけますので…第1次効果の方に注目してみます。部門別に1次効果の表を用意して、と…
田中 …重みの判断をしてみます。方法は何だっていいと思いますが、ここでは…えーと、では…偏差値でおこなってみますね。
田中 ひとつの判断として、偏差値60超の部門を抽出してみると…いかがでしょうか。カチッ。
田中 …こんな部門が、浮かんできます。
SEM社 財務部長 …!
SEM社 財務部長 ああっ! なるほど! 規模が規模なら、先回り(新規参入や有価証券の購入などによる先行投資)…で回収もできますか!
田中 需要の増加が見込まれる産業を先んじて探ることができますので、考え方としては…ですけど。自社投資の際にはもちろんですが、他社投資の場合でも、上手に活用すれば、他者に目の届きにくい “うま味” を掬うことも可能ですね。
田中 いずれにせよ、そうした場合には影響をピンポイントに探れなければ意味がありませんので、より細かな(部門の多い)産業連関表を使って、かつ、より正確に格付けを行う必要があると思います。
田中 そうした必要に、弊社ならお応えできます!

田中は、自分が失意のどん底にいた頃、綾子らに励まされた時のことを思い出していた。「人の心を最後に動かせるものは、結局のところ相手のことを真剣に思いやれるかどうかだ」…あの時の経験で、そんなことを学んだように思っている。

自分の本気さはウソではない。「でなきゃ深夜まで相手のために仕事を引きずったりするものか」―――そんな確信がある。自分がやれることをすべてやり終えた以上、最後は気持ちをストレートにぶつけておきたかった。

田中 弊社は無名です。BBI社のような規模や知名度もありません。
ですが弊社はここ10年、この地域とともにやってまいりました。弊社のレポートなら、地域の企業に関してはどの他社より…御社の望まれるような情報を提供できます!
田中 先の例でいう、企業の投資内容や取引構造に関する情報までもを網羅して調べ上げられるのは、我々だけだと自負しております!
田中 ぜひレポートをご活用ください! きっと、きっとご納得いただける水準のものをご提供いたします!
SEM社 財務部長 …ま、まってください!
SEM社 財務部長 そう、おっしゃられても…こういうことはねぇ………なかなか………

話を聞いて、財務部長は、目の前の人間たちを軽んじたことを恥じた。

だがそれでも、「リサーチサービス社」という会社を信じかねていた。

企業の器が大きくなるほど、“前例” や “実績” というものの有無が重くのしかかる。SEM社にとっても、それは例外でなかった。

社長 財務部長。

その時、今まで押し黙っていた社長が、ふいに口を開いた。

驚いた田中は、社長におもわず目をやった。

社長は、眼前の真っ白なテーブルの上に両手を小さく添え、額がテーブルとくっつくほどに頭を下げる。

社長 何卒、われわれを、そしてこの田中をいちど、信用してやってください。このとおりです。ぜひとも、お願いいたします…
田中 (えっ!?)

田中は目を疑った。勝ち気で、傲慢で、思いやりに欠け、いけ好かないと思っていた社長が、何を思ってか自分のために土下座に近いかたちで頭を垂れている。

田中に眼前の出来事がようやく理解できたとき、社長に続いて、自身もテーブルに頭を擦りつけた。

SEM社 財務部長 なっ………困りましたな…………
SEM社 財務部長
SEM社 財務部長
SEM社 財務部長 …むむ。
SEM社 財務部長 ………………わかりました。
とりあえず、頭を上げてください。
社長 田中
SEM社 財務部長 では………力量を、今度は商品で拝見するとしましょう。
SEM社 財務部長 主要取引先、15件の調査をお願いしたい。これを見て、お付き合いをさせていただくか、見極めるとしますよ。
田中 ……………

田中は、言葉を失った。

田中 (およそ40万っ!!)
SEM社 財務部長 ご不満ですかな? われわれも初取引で危険は冒せませんよ。
田中 と! とんでもありません…。
ご期待に応えられるよう、励みます。本当にありがとうございます!!

SEM社をおとした―――。

田中には、うれしさよりも、信じられないといった気持ちが先にあった。


―――契約に係る事務手続きを済ませ、ふたりがSEM社をあとにした頃、空はすっかり陽が落ちていた。

9月下旬 19:10
会社への帰路・車中
田中 社長…助けてくださって、ありがとうございました…
社長 助けた? お前を? 誰が?
田中 いや、だから社長が…
田中 同行してくれたじゃないですか…
社長 おれは何一つ言葉を発してないぞ。まるで置物だな。
社長 …その置物も、途中で、何度か口を挟みたくなって我慢したがな。
田中 …なら、挟んでくれればよかったじゃないですか。
社長 …お前の戦いだからな。同じ自爆でも、最後くらい、お前の納得のいく自爆で終わらせてやるのが、ボスとしての努めだろう?
田中 …チッ。

自分の隣で頭を下げた社長は何だったのか―――。田中は、ハンドルを握る社長を見ながら舌打ちした。

社長 今回は、危ない橋を渡ったな。
田中
田中 …これで、最後です。宮地さんとも、約束しましたし…。
社長 ……宮地、と?
田中 …それと。
田中 今日ほど、社長の朝礼でのお話がありがたく思ったことはありません…。…今日だけですけど。
社長 …ったく。生意気なヤツだ。
社長 …それにしても。
社長 あんな芸当、どこで覚えた?
田中 芸当?
社長 産業連関分析といったか?
田中 …大学ですよ。経済学部でしたので。
社長 少しばかり…考えさせられたわ…。
田中 …何を、ですか?
社長 …。

社長は黙っていた。

社長 …ここからひとりで運転して帰ってくれ。…少し寄りたいところがある。

無言の時間がしばらく続いたかと思うと、社長は、妙なことを言って路肩に車を止めた。

田中 ここで、ですか?
社長 ここだ。

車は、郊外の辺鄙な場所の路上にある。こんな場所の一体どこに寄りたいというのか、田中は皆目見当もつかなかった。

社長 お前はこの車で先に帰れ。
田中 えっ? 何でしたら、ここで待ちますけど…
社長 そんなことをしてる場合じゃないだろう、お前は。いいか。勘違いするな。これで決したわけじゃない。お前は石井より格下だ。それを肝に銘じて、気を引き締めろ!
とにかく、オレはいいから帰れ。足はいくらでもある。
田中 …と言っても…

田中が躊躇しているうちに、社長は周囲の暗闇へ姿を消している。

田中は、状況が呑み込めないまま運転席へ移った。そして、周囲にあるものを確認しようと、カーナビの画面を覗いた。


○○墓地―――。


田中は、そう遠くない距離にその文字を確認すると、社長を残したまま車を出した。

9月下旬 20:15
リサーチサービス社

経理課―――。

田中 綾――――――――――っち!
綾子 はいさ!
田中 よかった、まだいてくれて。…はい、これ。
綾子
綾子 ぬおおおぉおぉぉ!!
綾子 は! 晴花さんっ!!
晴花 なーにーさー?
綾子 これ!! これ!!
晴花 ん?
晴花 おおおうぉおぉぉああああぉ!!
綾子 晴花 な、なんという大物っ!!!!
綾子 すごい! すごいですよ! 田中さん!
晴花 マジやるやるじゃんっ! おそるべし!
田中 …ふたりのおかげ。ホント、ありがとう。
田中 でも、とりあえずこれはこれ。…石井クン、どうなってる?
綾子 今のところ、72万です。
…予測の通りだとしたら、ほぼ確定かも!
田中 …そっか。アタシがこれで78万…だから…
やっぱりまだまだ気は抜けないか…。
田中 明日だね。すべては…。
綾子 勝てますよ! きっと。
田中 だね…。ここまで来たら、勝たないとね…。
9月最終営業日 13:40
リサーチサービス社

この月の最終営業日―――。

ほとんどのRS部員が出払ったこの時間、二階のフロアの一角には、社長と石井の姿だけがあった。ふたりは、何やら話こんでいた。

RS3部 石井 [RS3部 石井]…ということで、急遽、調査を掛けたいと言われてしまい…どうしたものかと…
社長 お前の実績になるんだろ?
何を迷うことがある? オレにはわからんな。
RS3部 石井 いや、ですから…オレは…
RS3部 石井 社長! ぶっちゃけ、今、いろいろあるんですよね。 その…田中とオレ…。
RS3部 石井 例の事件があったじゃないですか…。いろいろ噂で聞いてますよ、オレだって…。
社長 じゃ、何か? お前は田中のためにその契約をなかったことにでもしたいというのか?
RS3部 石井 いや、オレだって…管理職のはしくれですから…そこまでは言いませんよ…。なら最初から黙って来月に回しますし…。ただ…
社長 ただ?
RS3部 石井 正直…オレには荷が重すぎるんですよ、この売上伝票は。
RS3部 石井 ということで…これ、社長に預けます。扱いは社長が決めてください! オレには無理ですからっ!
社長 ばかやろう! お前、自っ…
RS3部 石井 いけね! 時間だ! すっ、すんません! 外回ってきます!! 帰りも遅くなりますからー!
社長 このっ! 待ちやがれ!

石井は売上伝票を社長に押しつけるように渡すと、逃げるようにして外出していった。

社長 (10万円…これでアイツは負ける…か。さて…どうしたもんかな…)
9月下旬 19:30
リサーチサービス社

経理課―――。

この時間までに、すでに多くのRS部員が会社に戻ってきた。しかし、田中の姿は見かけない。綾子は、夕方あたりから田中が帰ってくるのをずーっと待っている。仕事が、手につかない。いよいよというところで、心が落ち着くはずもなかった。

二時間あまり前、社長が経理課にやってきて、綾子に各部門の売上状況について説明を求めた。石井と田中の個別の状況についても、もちろん聞かれている。

綾子のもとには、二人の状況が動くような伝票は降りてきていない。


「72万円と78万円」。状況は、昨日から変わるものではなかった。


―――ただ、先月のことがある。綾子らには、情勢がどう動くかまったく読めるはずもない。この時間になっても田中の勝利に確信を持つことはできなかった。


社長は綾子に説明を受けると、そのまま共有デスクに腰を据え、新聞をひろげはじめた。「社長が経理課に居座り出した!」…各部長たちは、半ばあきらめたような顔をして、状況報告のために経理課にせわしく足を運んでくる。

「余計、仕事にならない…」。綾子は、晴花に憂えた視線で訴えた。


それから…2時間がたつ。


「社長は田中さんを待っている」―――。何一つ無駄口をたたくことのない社長だが、綾子らには、そうとしか思えなかった。しかし、時間が時間だ。いつ「めろ」と言われるか、だんだんそればかりが気になってきた。


「何があるかわからない。田中さんが戻るまでは締めさせちゃマズい」

―――そう思った綾子は、時間を引き延ばそうと画策した。

綾子 …社長。いかがですか。
お茶でも。
社長 …ん? ああ、すまんな。
晴花 綾っち。じゃ、私が。
綾子 すみません。それじゃぁ私は…と…

すかさず晴花の後を追いかけて、綾子は給湯室へ向かった。そして、晴花の耳元で囁く。

綾子 晴花さん…熱いのですよ! とびきり熱いの!
晴花

ガサゴソガソゴソ…。

そして綾子は、経理課の物置場から “例のもの” を取り出してくると、再び給湯室に向かう。

綾子 お皿、お皿っと…
晴花 ちょっ!
晴花 ヤ、ヤバいっしょ…それは…
綾子 いーのいーの…ジャラララ…

綾子は、“ハイパーウルトラアルティメット激辛ポテチ” を皿にあけると、晴花の淹れた熱々のお茶とともにお盆に乗せて社長へと持って行った。

綾子 どうぞ。

社長は新聞に視線を置いたまま、礼を言った。

そして…湯呑をつかもうとした…

…が! 熱いのだ。社長は、そっと手を引っ込めた。

綾子 (飲めるようになるまで時間…稼げるぞ)
綾子 (お菓子にも手を出してくださいぃ~!! 私の計画はこれで完璧!)

社長は新聞から視線を外すことなく、片手でポテチをつまみ、口へ運ぶ。

綾子 (これで社長も平常ではいられない…しばらく時間を忘れてください…ごめんなさい)
社長 …。
社長 ……。
社長 ………うまいな、これ。
綾子 晴花 は!?
社長 キミらも食え………遠慮するな…。
綾子 晴花 わ、私たちは…まだ…お、お腹すいてませんから…
社長 そうか? うまいのに…。

どんっ…

その時、ドアの向こうで鈍い音がした。

はめ込みガラスの向こうで、くすんだ茶色の影が、ゴンコン音を立てている。

田中 綾――――――――――っち!
ごめんっ! ドア開けて~!
綾子

ドアの向こうから、田中の声がした。

綾子はあわててドアまで駆け、ノブを回した。

綾子 なっ…どうしたんですか…その…これ!?

田中は、胸に大きな段ボールを抱いていた。

そして、やれやれといった具合に、それを受付台の上に降ろした。

田中 お菓子。例のところの…。みんなで食べればいいやと思って…。
綾子 あ、あの業者さんの!?
田中 そう。もちろん、持ちつ持たれつ…ってやつでさ。ちょっとばかしイタかったけど。

この時、田中ははじめて社長の存在に気がついた。

田中 綾っち。まだ締めてないよね?
綾子 あ、はい…
田中 社長!
社長 …。
田中 アタシはこれで、最後です。

田中は社長の座る机の側まで行って、売上伝票を差し出し、そう言った。


社長はそれに視線を落とす。

綾子と晴花も、思わず身を乗り出して伝票を確かめた。

綾子 (20万!)
晴花 (勝負が決まった!)
社長 …。
社長 …なるほど。たいしたもんだ。

社長はゆっくりと席を立ち、田中の伝票を綾子に渡す。


そして懐から別の伝票を取り出すと、


社長はそれを裏返したまま綾子に手渡し、言った。

社長 …これで締めだ。以上を処理して締めてくれ。
綾子 え!?

社長は上に戻ろうとする。


田中は思った。


またか!―――――と。



どんだけ自分をコケにすれば気が済むのか!―――――と。



結局、端から自分を勝たせるつもりなんてなかったんじゃないか―――――と。





コイツは
最低の人間だ



体中の血が、一気に沸騰した。

田中は、怒りに震えた。

田中 …社長。…何ですかこれ。
田中 何ですか――――――――――っって!!!!!

声にならないかすれた言葉を絞り出すように吐き出すと、次の瞬間、田中は、怒声を上げた。

驚いた社長が、振り向く。

社長 !!!
田中 …っ。

背後には、田中がいる。

刹那、田中の左手が背中の方へしなる。


そして、社長の右頬めがけ、平手がとんだ。

綾子 晴花 あっ…

「終わった――――――――――」

綾子は、思わず目をふさいだ。

もう、二度目の幸運はない。綾子と晴花もその瞬間…最悪の結果を甘受した。


―――綾子は、おそるおそる目をあける。

綾子

目の前の光景に、驚いた。

社長の右手が、田中の左手首を空でしっかりとつかんでいた。

社長 …次は、首を切る以外にないんだ。
社長 今、お前を失うのはウチにとって大きな損失だ。
無茶だけは、してくれるなよ…。

そう言うと、田中の手を放しやれやれといった顔をして両手を天に伸ばした。
そして大きな欠伸をしながら、社長は経理課を出ていった。


―――呆然と立ち尽くす田中。その田中に、綾子が声をかけた。

綾子 田中さん、これ、見てください!
田中 …?
綾子 伝票! これ、やっぱり石井さんのです…。だけど…
田中 …あっ!
田中 ………アタシの…勝ち…?
田中 ……………………アタシって、本当に…バカ…
綾子 晴花
綾子 とりあえず、勝ったんですから!…田中さん。さすがです! やりましたね!
晴花 ホント。やったNe!
田中 …綾っち。…日南さん。 うっ…うっ…
田中 ありがと―――――――――――――――っ!

田中は泣きながらふたりの懐に飛び込んだ。

一日が終わる間際の静寂が、この小さな経理課を、ただやさしくつつんでいた。

[挿絵]夜の墓参