ひとりマーケティングのためのデータ分析

StoryPart

Chapter 4 > Section 2

晴花 …あの。は、初江さん?
初江 たいへんな……ことを……しでかして…くれたのね………
初江 「独断はダメ」と釘を刺しておいたのに………
初江 ………
初江 少しばかり会社のことに貢献したかしらないが………
初江 出過ぎた真似はよしなさいっつ!!!
綾子 晴花 ………………
初江 …ああぁ………なんという不義理なことを……

いったい初江が嘆き悲しまねばならない理由がどこにあるのか、ふたりには皆目見当がつくはずもなかった。

晴花 あの… いったいどういう…

動揺の中で、晴花は初江に問いかける。

初江はそれに反応し、顔を上げる。そして晴花を睨みつけるようにして、言った。

初江 急ぎ…戻しなさい!
晴花 …も、戻す?
初江 海前さんに戻しなさい!!
晴花 は、はぁ。でも……………社長から権限を頂いてのことなんです。
初江 バカ言うんじゃない!! 社長が許すもんか。ことこの件に関しては、誰よりもやってはいけないことだと知っている!
晴花 でも……………
初江 「でも」じゃない!
晴花 …すみません。
初江 頭がくらくらする…
初江 二度と身勝手なまねはしない!
…たとえアンタであろうと、次は許さない。
晴花 は…はい。
初江 …ハァ

深くため息をつくと、初江は荷物をまとめはじめた。

初江 …詫びに行かないと。明日、続きをやるから。

そう言うと、青い顔をしたままに席を立った。

そして、鉛のように重たくなった体を引きずるようにして、会社を出て行った。

綾子 晴花 ………………

ふたりの仕事に対して、初江はふだんからとても厳しい人間だ。が同時に、身内の会社であろうとも公正で、常々ふたりに思いやりをかけられる人物でもあったのだ。たからこそ、ふたりは初江を心の内で尊敬してきた。

その初江が、不意に、いまだかつて見せたことのない怒気をみせた。

どんな言葉も受け付けない初江の気迫に、ふたりは動揺し、ただ息をのむ。ふたりには、経理課から出ていく初江の後ろ姿を見送ることしかできなかった。

晴花 …。
晴花 だめだ…。私は…何か取り返しのつかないことをしたんだ……………もう何をやっていいのか、私にはわからない…
11月上旬 17:00
リサーチサービス社

その日の夕方―――。

晴花 …そのとき初江さん、急に激怒され…。何かで気を悪くされたんだと…。
総務部長 初江さんが、そこまで!?
…日南クン、そりゃまずいな。それはぁ…。
総務部長 …で、いったい何をやらかしたんだい。キミは?
晴花 それが…本当に分からなくて…。
総務部長 そんなことはないだろうー。理由もなく激昂するような人じゃないってさ~。ボスの機嫌を損ないかねんゆゆしき事態だよ、これは。落ち着いて、冷静に状況を整理して、キミのしたことを詳しく教えてくれ。

あれから、初江の勘気にふれた理由を晴花はずっと考えてきた。



「でしゃばった?」

「生意気だった?」

「分をわきまえなかった?」


―――いや。この会社の中でひっそりと生きていければ満足な自分には、そのいずれもに一線を超える動機がなかった。第一、社長から権限を与えられての行動だ。“出張りすぎた” という感情以前に、それが晴花の “仕事” であった。そう考えると、思わず場にのまれ、道理を主張できなかった自分が情けなくもなってくる。

ともかく、初江の勘気にふれたことはまずい。これを黙殺しておくのは部長にも迷惑がかかると思った。そして晴花は、今、この場で初江とのトラブルを部長に報告している。


部長の指示で、晴花は、ことの顛末を順番に開示していった。

晴花 …以上、です。だいたいそんなカンジです。
総務部長 え?…それだけ!?
晴花 …はい。
総務部長 …ホントに!?
晴花 …はい。
総務部長 う~ん…どうしたもんだ…それは…
総務部長 初江さんの事情はよくはわからんが…とまれ、キミの行動で気に障ったところがあったんだろうな…。
総務部長 こうなった以上…ワタシも蚊帳の外ではいられんな。仕方ない…。ワタシからボスに詫びてはみるけど、キミを庇いきれるかどうかまでは期待せんでくれ…。
晴花 ご迷惑をおかけして、申し訳ありません…。
綾子 …。

いやな仕事をひろったな―――。

そんな心もちを表情に残して、総務部長は経理課を出て行った。

そして、二階・RS部のフロア―――。

総務部長 もうしわけございませんっ!

社長のデスクの前で、直角に頭を下げる総務部長の姿があった。

社長 どうしたことかな?
総務部長 ウチの日南が、その…初江さんのお心をお乱ししてしまったようでありまして。
社長 と、いうと?
総務部長 本日どうやら…購買関係のチェック中、初江さんが気を悪くされ、帰ってしまわれたようです。
社長 …そうか。
で、その原因は? 何か杜撰な点でも見つかったのか?
総務部長 いやそれが…
総務部長 仕入先を元に戻すよう叱責されたきりで…
総務部長 確かに日南は用紙の仕入先を変えてはいますが、ボスが日南にご命じになった一件でして条件的にも妥当なものかと見受けられました…。またご存知のように、現状、業務の上でも支障を及ぼしたわけではございませんし…。ですから初江さんのお考えは…日南にもワタシにも、皆目見当がつかず…。
社長 …だろうな。
総務部長 …あの、何か?

総務部長の反応に、社長の顔もおもわずにやける。

「思った通りになったな」

初江の抱いたであろう失望と、晴花の感じたであろう絶望を思うと、社長は笑いを隠せなくなった。

社長 いや、いい。
社長 報告ご苦労。この件は私が預かる。
総務部長 …は、はい。

社長ははたと席を立ち、フロアの出口へと向かった。

そのまま階段を降りると、やがて経理課のドアのノブに手をかけた。


―――勢いよく、ドアが開く。

綾子 晴花
社長 総務部長から聞いた。初江さんのことは。
社長 日南くん、キミはどうした? その程度のことで、なぜ叱責を受けるんだ? …こじれるような話でもないだろう。本当に理由が分からないのか?
晴花 すみません。わかりません…。
社長 なんだ、危なっかしい仕事をしおって。
正直、キミ…いや、経理課そのものの仕事のあり方さえ問われるレベルだな。そんなことじゃあ。
晴花 …。
社長 きっと理由があるはずだ。どれ、購買伝票を見せてみろ。
晴花 はい…。

晴花は伝票の束を社長に手渡した。しばらくの間、社長はその一枚一枚をなめるようにして確認していった。


―――何十枚か捲った後、社長の指がはたと止まる。

社長 …これだな。

指先には「ステーショナリーズ北中川」の伝票があった。

社長 聞かない仕入先か………。そして摘要に “用紙代金” と書いてある。
ということは、キミは外したんだな。「海前」さんを。
晴花 今のところ…半分ほどは。それを初江さんから、戻すように言われました。
晴花 ですが社長から権限を与えていただいたことですし、問題があったとは思えないんです…。
社長 バカを言え。オレがいつそんなもんを与えたか。
これについては、例外中の例外だっただろう!
晴花 いえ! そんなことは!
「私の意思が裁量だ」と、確かにおっしゃいました。
綾子 そうです! わ、私も聞いてます!
社長 …情けない。
オレはやってはいけないことを念押しして与えたはずだ。よく思い返してみろ。
晴花 …!?
社長 オレはこう言った。
社長 「“カイゼン” は外せない」
晴花
晴花 (…っ!)
社長 そしてその “カイゼン” に「不利益を与えるな」と。
晴花 (海前ビジネスのことだったのか……てっきりQC的「カイゼン(改善)」と…)
社長 私事だが、海前さんは鏑木の家(社長家)にとって足を向けて寝られないほどの特別な存在だ。特に初江さんにはその思いが強い。だからこそ言っておいたのに…。なんと恐れを知らんことをしてくれたか。
社長 オレ、しいてはこの会社に反目するつもりか。経理課の意識は、あいもかわらずこの程度のものなのか!
晴花
綾子 社長!! ひどいです! そんな言い方。そんな大事なこと、そんな伝え方では誤解が生まれるのも…

綾子が社長にケチをつけ出すと、晴花はあわてて制止した。

晴花 よして…綾っち。
晴花 すみません…。私が…いたりませんでした。私のミス、です…。
綾子 そんな! 晴花さん!
晴花 いいから! 関係のないアンタは黙ってて!

晴花は綾子を巻き込むまいと、激しい口調で冷徹に突き放す。

社長 うむ。
社長 …そうだな。
社長 寺畠くんの言うことも一理ある、か。だが注意を欠かざれば防げたはずだ。そこに、仕事への姿勢が出る。それこそがオレはいちばんの問題だと思うがな。
社長 …ま、いいだろう。その点を鑑みて、特別に選択の余地をやる。当初言っておいたように自分で責任の取り方を選べ。
社長 1つ。仕事の意義を見つめ直し、会社への忠誠を誓う反省文の提出。
社長 そしていま1つ。
社長 “退職願”
社長 …好きな方をキミが選べ。明日まで待ってやる。

社長はそう言って、経理課を出ていった。

「灸も、このへんでいいだろう」――――。

田中の言葉から生じた溜飲が、ふっと下がる思いがした。

この不況の時勢だ。実績に溢れるよほど有能な人間ならばいざしらず、退職願などやすやすと出てこようはずもない―――誰だってそう思う。それに、ただでさえギリギリでやっている間接部門の人間が、具体的な人員計画もなしに欠けられても困るのだ。

だからこそ、社長にとってもこれ以上は望むものではなかった。社長は、勢いで振り上げた拳を決まり良くおろせたことに気をよくした。それとともに、当て馬にすぎなかったコスト削減のとりくみも、その眼中から消え去った。

綾子 な…なんでこんなことに…。くやしいです…。
綾子 あんなことに、責任なんてあるもんですか! 晴花さんっ! どうしてミスを認めるんですか!
綾子 ともかくこうなった以上、明日…形だけでも反省文を出しておきましょうよ!
晴花
綾子 晴花さんっ!
晴花 …無駄だって。
綾子 え?
晴花 だから無駄だって、こればかりは。あの人にとっては、コストの削減なんて最初からどうでもよかったのよ。ハメたの。目的が私を貶めて辞めさせることにあったのは、今となっては明白。…結局人減らしよ、ここもリストラ。…何でもっと早く気がつかなかったんだろう…。
晴花 バッカみたい…。
まがりなりにも会社のためにと思ってやってた自分に、ヘドがでる思いだわ。
綾子 でも…!
晴花 …さすがにもう…気持ちが切れた。綾っちとお別れするのはツラいけど。でもこの会社は…
晴花 私と同じ、サイテーの会社だ…

綾子 は! 晴花さんっつ!!! それだけは、ダメっつ…!!!
11月上旬 23:00
綾子の家

その日の夜―――。

自宅に戻った綾子は、心労でへとへとだった。だが今直面する事態を前にゆっくりと落ち着けるはずもない。綾子は、田中に協力を仰ごうと電話をとった。

ツルルル…。「ただいま、電話に出ることができません。この電話をお留守番サービスに…」
綾子 ダメだ…さっきからつながんない…。こんなときに…。
綾子 はっ!…あ…
綾子 私…こんなときに、このことを一番に伝えておかなきゃならない存在を忘れていたのかもしれない。

メモリーをあさる綾子の指が、思わず早まる。

ツルルル…。ピッ。

綾子 「よかった! 出てくれた!」
翔太 「あれ、綾子ちゃん? あの…どうも」
綾子 「翔太くんさん、今いいですか? とにかく、たいへんなんです!」
翔太 「タイヘン?」
綾子 「晴花さんが…」

翔太 「ええええええええええええええええええええええええええ!!!!」
翔太 「ホントに!?」
綾子 「ホントもホントです! だからこうして!」
翔太 「晴花さんに今辞められたら、苦労して僕があの会社に入った意味さえも失われる…」
綾子 「とにもかくにも、翔太くんさんにだけは伝えておかないと…そう思って電話しました…」
綾子 「相談に、のってほしいんです…」
綾子 「なんとかして止める方法、ないでしょうか…」
翔太 「クッソ!! 許せねぇー!!」
翔太 「社長、晴花さんに対して、何てことしやがる…」
綾子 「あの…翔太くんさん?」
翔太 「ギギギ…」
綾子 「あの…」
翔太 「…ああ! ごめん」
綾子 「あの…できるなら、翔太くんさんからも晴花さんに…その…反省文を提出するように説得してもらえませんか? 」
翔太 「晴花さん…そこまで言うのなら、僕の言うことくらいでもう曲げたりしない。そういう人だから」
綾子 「…うぅ。でも何とかして助けないと…」
翔太 「…僕は思うんだ。どのみち、鉄拳制裁しかないと。その曲がった性根を叩き直すのは正義のこぶし以外にありえない」
綾子 「それは…」
翔太 「だって、傲慢すぎる。ひとりの人間として、人としての道を大きく外れたことをするのなら、たとえ相手が社長であろうと痛い目にあってもらうべきさ」
綾子 「お願いですからそれだけは…。翔太くんさんがそんなことしたら晴花さんが悲しみます」
翔太 「…いや。心配しないで。そういうことじゃない」
翔太 「それぐらいのインパクトがないと、意味ないんじゃないかって。“心の拳” さ」
綾子 「…よかった」
翔太 「明日…初江さん、来るんだよね?」
綾子 「そう、言ってました」
翔太 「じゃぁ…どうだろう。初江さんに綾子ちゃんから言うべきことを言ってみては…」
綾子 「それが…初江さん、今回の一件では人が変わったようになってしまって…。話を聞いてくれるようなカンジではないんです…」
綾子 「さらに悪いことに…晴花さんも私を巻きこむまいと…。私を遮るようにして…もう自分がすべてを被るつもりでいますから…」
翔太 「…そっか。なら難しいな」
翔太 「…でも初江さん、何でそんなに我を失うようなことになっちゃったんだろう? そもそも仕入先を変えたくらいで。その背景が見えてくれば手の打ちようもあろうものだけどなー…」
綾子 「…」
綾子 「そうですね!!」
綾子 「確かに、その通りですよ! 私、明日の朝、南港海前ビジネスさんまで行って聞いてきます!」
翔太 「待った待った、綾子ちゃん…。こんな大事だいじだからこそ、慎重にいこうよ」
翔太 「何より綾子ちゃんが明日会社に現れなかったらすっごく不自然だと思うな…。晴花さん、自分のために近しい誰かが身を削るのをひどく悲しむから、バレバレな行動は良くないと思う」
綾子 「ごめんなさい。そう言われれば、そうかもしれない…」
翔太 「あの…僕が、行ってもいいかな?」
綾子 「えっ。翔太くんさんが…?」
翔太 「うん。少し、考えがあるんだ。ちょうど明日は午後からの出社予定で身動きが取れるし、僕なら晴花さんにバレることもない。もっとも、僕ごときにできることは限られてると思うけど…結果以前に晴花さんのため、ここで男にならなきゃたぶん一生今日の自分を許せない」
綾子 (うは…カッコいい…ここまで想ってもらえる人がいるなんて、晴花さんがうらやましい…)
綾子 「あの…それ、翔太くんさんには悪いようにはなりませんよね? 翔太くんさんに何かあったら、結果として晴花さんを苦しめますし…」
翔太 「信じてというしか…。うん、でも任せて」
綾子 「…わかりました。じゃ、あの、私は…。いつでも連絡を受けられる体制にしておきますから」
翔太 「うん」
綾子 「それでは、おやすみなさい」(ピッ)
翔太 …とは言ってみたものの、うーん。…実は僕の方が勢いで言うんだもんな。無策、なわけで…。
翔太 さて、どうすれば…総じてベターな解に近づけるかな…。

不安はあったが、綾子は翔太を信じることしか手段がなかった―――。

そして、次の朝を迎える。

11月上旬 9:10
駅前ロータリー

翌日―――。

翔太は南港海前ビジネス社を訪問して真相を探ろうと、いつもの駅までやって来た。

ここから隣り合う地下鉄に乗り換えて、同社に向かう。


昨日、綾子には自分を信じるようにいったものの、翔太にもいまだどうしていいのかわからない。それもそのはず、見えないことが多すぎるのだ。

それでも自分こそが晴花を守りたい―――。結局、出たとこ都合でなんとか話をつくっていくしかないと、半ば開き直ったていでここまでやってきた。

翔太は苦悶に満ちた表情で、ロータリーを地下鉄の駅へと向けて歩いていく。

そのとき―――。

田中 そこの少年!

ロータリーに止めた車から、翔太を呼ぶ声が響く。

翔太 あれ…田中先輩!?
田中 こっちこっち!

田中は缶コーヒーをすすりながら、大きな手振りで翔太を自分の方へと近づけた。

翔太 どうしたんですか!?
田中 その前に…以前、ふたりの時には私は何と呼べと言ったっけ?
翔太 …え!? あれマジだったんですか?
田中 うん。早く! 3・2・1…
翔太 …あの。えと…
翔太 美希おねえさん、おはようございます…
田中 …うむ。

そして右手を天に向かってピンと上げ、叫ぶ。

田中 おはよう!イケメンくん。
翔太 (あの…そろそろ名前で呼んでもらえないですかね…この往来でそれは…キっツイです…)
田中 あぁ…なんという甘美な響きで迎える朝…。さ、乗りな。
翔太 …いえ。僕、社でなくて…その…今から行かなければいけないところがあるんです。
田中 バカっ。だから迎えに来たのよ。わざわざと。
翔太 あの、いったい…?
田中 いいから。話は中で。

田中の乗ってきた社用車のドアを開けると、翔太は助手席に乗り込んだ。

田中はそれを待って、車を出した。

翔太 これは…
田中 いや、こんな事態になっていようとは、アタシもびっくりでさ。
田中 昨日、キミが綾っちから連絡をもらう前、アタシにも連絡をくれてたんだ。けど、その…さ。
田中 …おねーさんも、カレと楽しいこと(ハートの真っ最中だったりしたわけで…。その…ケータイ…でられなかったの。あは(ハート
翔太 は…はぁ…いいですね…
田中 …昨日のカレ…その…アタシのを…あんなにむさぼるようにして…わしづかみにしてくるの…。もう、荒々しいっていうか…アタシ、そりゃもう新鮮な一面にわくわくして…思わずわれを失って燃え上がっちゃった(ハート
田中 …おかげでなんだか筋肉痛。もう…激しすぎ(ハート
翔太 …ゴクリ。
田中 …でも最後は意外だったなー。それまでとちがってやさしくさ、アタシがかたくなに守ってきたものを…その…ピンポイントで奪っていくんだもん(ハート アタシの喜びも…それで絶頂を迎えちゃったわ…(ハート
翔太 (ハァハァ…朝からなんという…もうだめ…)
田中 ホント、童心にかえって熱中しちゃった(ハート  …ババ抜き。
翔太 …え?
翔太 トランプ…の話…ですか…?
田中 そーよ。あたりまえじゃない。
恋人同士なら、するもんでしょ? トランプ。
田中 あ。
もしかして~キミは~何か他のことでも考えちゃったのかな~?
…だったらきびしい指導が必要ね。
翔太 …そんな。
田中 でもよかった。キミ、これからってときに、顔ガチガチだったんだもん。
田中 綾っちから聞いたわ。
キミの心意気は買うけど、キミはまだいろいろと勉強中の身。ひとり突っ走らせるわけにはいかないわ。おねーさん的には。
田中 …それに日南さんには借りがあるしね。アタシ。
田中 だからキミには悪いと思ったけど…綾っちにもナイショで、アタシの独断で来ちゃった。
翔太 …そう、だったんですか。
翔太 でも、ありがとうございます。この会社で…僕は素敵なおねーさんに出会えて幸せでした。
田中 こーら。行く前から残念な結果を迎えたようなこと言ってんじゃないの。
田中 でも…キミ、さ。
翔太 はい。
田中 何だって入ってそうそう、よく知りもしない日南さんのことで…いったいこんな役目を買って出ようとおもったワケ?
翔太 …えと、それは…………………………
田中 ぷっ。
翔太 ……………?
田中 イケメンくん。気をつけた方がいいわ。
田中 ふたりは、きっと以前から知り合いなんでしょう?
そしてキミは…たぶん日南さんのことが好き。
翔太 …ご、誤解です。
田中 あの人さ…どことなく周りにカベをつくっちゃう人だけど…それでいて、ホントーに困ってるときにさり気なく導いてくれちゃったりするんだよねー。ふだんは見えないけど、あの人には、思いやりにあふれるおねーさん的なところがあるんだなー。意外だったけど。
田中 なんか…女としてちょっと憧れちゃったり? アタシ、あのカッコよさに。
田中 キミに「美希おねーさん」と呼ばせるのも、まずは形から入ってみようと思ったから。
翔太 (なるほど。一応はちゃんとした理由があったのか…)
田中 でもね、キミは未熟なの。
だって社内で日南さんを気に掛けるキミの視線、わっかりやすいんだもの。
翔太 …え……………!?
田中 心配いらないわ。アタシはよけいな詮索をしたりはしないから。
でも会社の中で公にしたくないんだったら、もうちょっとうまくやるんだゾ。少年!
翔太 …………………………すみません、いろいろと…
田中 で、日南さんは?
キミのコト、どう思ってるの? ねぇ!ねぇ!
翔太 …あの…今…詮索はしないと…
田中 日南さんの素性のコトよ!
キミのことはおねーさんに報告する義務があるんだな。
翔太 …い、いっ…一方…通行です。
田中 やっぱり、か。
でも少年! たとえアイガーに北壁ありといえども、登攀をはたした先人はいるわけで。
翔太 (要するに、それ僕には無理ってことですね)
田中 ま。だめだったらおねーさんがいっしょに楽しーことしてなぐさめてあげるから(ハート ね、イ・ケ・メ・ン・く・ん(ハート
翔太 はいはいトランプ楽しいですよねー…
11月上旬 9:30
南港海前ビジネス社
田中 …ここね。着いたわ。
翔太 …ゴクリ。
田中 …もォ!

翔太の額を、冷たい汗が流れた。

見かねた田中が、声をかける。

田中 大丈夫。アタシがいるんだから。必要なら、いつでもキミを助けられるよう、全力でフォローするから。日南さんなら、きっとそうする。だから私もきっと守るよ。それとも、アタシじゃ不足?
翔太 …とんでもないです。むしろナントいうか、こんな有難いことはないなと…
田中 とにかく、やってみなきゃはじまんないさ。
…それと。
田中 今のキミは、日南さんを救いたいって思うひとりの人間だって以前に、リサーチサービスという組織の名前に縛られた人間だってコト、絶対に忘れないで。キミの飛び込んだ世界は、感情に流されるばかりで何かが得られるような世界…でもないしね。
田中 とにかく、いいたいことはひとつ。…いっしょに、がんばろ。

そう言って、田中は透き通るような笑顔で翔太の肩口をポンと叩いた。

翔太 …田中先輩…先輩はっ…んっ…。どうやら僕はまたひとり、重量級に素敵な人を見つけてしまいました…
田中 こら。ふたりの時は「美希おねーさん」と呼びなさいと言ったでしょ。あと “重量級” って言い方も、詫びなさいよ…女性に対してデリカシーのかけらもないわ!
翔太 …すみません。ち、中量級に素敵ですー!
田中 …根っ本から締め直してやるか。このガキは。

一帯は、港湾機械や港湾車両、船舶の汽笛や集積する小さな金属加工工場から響く雑多な音が交じり合う。そんな活気を背に受けて、ふたりは小さな事務所へと向かっていった。


「ごめんくださーい」


事務所に人の影がない。田中が何度か声を張りげたが、誰が出てくる気配でもない。というよりも、周囲の活気に負け、声が届かないのだろう。

「倉庫を調べてきて」

死角となっている倉庫から、フォークリフトの音がするのがわかる。翔太はうなずき、倉庫に向かおうとした。


そのとき、階上から降りてきた人間が階段のかげから姿を見せる。

淡い空色の作業ズボンをはいた、見たところ四十代中盤のその男は、季節外れな、肩口の細い真っ白なタンクトップ一枚でそこにいた。


「また押し売りか。 あんたらも相手を見てモノを売れよ。ウチのどこに余裕があるように見えるんだ」

度重なるとびこみに辟易しているのか、開口一番、男はそう凄む。翔太はともかく、こうしてあしらわれることは、田中にとっては定型行事のひとつにすぎない。今更どうってことはない。


だが、さすがの田中もここではちいさな恐怖を覚えずにいられなかった。

真っ白なタンクトップから伸びた顔の太さほどもある日焼けした腕が、はげしく主張をするのだ。いや、それだけでない。タンクトップの下の分厚い胸板、いくつにも割れた腹筋と、肩から首に盛り上がった僧帽筋、そして見事なまでの逆三角形をつくる広背筋は、無言の圧力となって翔太たちを襲う。


田中はあわてて、自らを鼓舞した。

田中 あの、お約束なしで申し訳ありません。えーと、われわれ…駅西のリサーチサービス社です。
海前社長 リサーチサービス! …あんたら、鏑木さんとこの人か?
田中 はい。
海前社長 昨日の “おばちゃん” といい、今日のお宅らといい、いったい…
海前社長 まぁ、ここじゃなんだから。…むさ苦しい所だけど、とりあえず入ってく?

男に促され、田中と翔太は事務所へと入っていた。

ふたりは事務所の一角の、ちいさな角机が置かれた場所へ案内された。


ふたりが毛羽立った布地のソファに腰を下ろすと、その背後で、屈強な男が小さなマグを取り出した。そして、およそ客用のそれとはほど遠いそのマグに、とてつもなく大きな缶に詰められたインスタントコーヒーを手際よく放り込む。そして、これまた大きなポットにためられた湯を、三つのマグに測ったように正確に注いでいった。


田中はその様子をじっと見ている。その愛らしいギャップに、おもわず吹き出しそうになった。


―――男は、角机の上にコーヒーをならべる。

田中と翔太は、名刺を渡し自己紹介をした。

海前社長 …ここをやっている館林、といいます。毎度お世話になってます。
海前社長 ここは会社…といってもごらんのような有様で。今、出かけているカミさんと、それから…倉庫にいる源さんの、たった三人のちいさな所帯なんだけど。
海前社長 でもってこの不景気で。ルートのお客さんばっかりになっちゃったもんだから、ウチを訪ねてくるのはいかがわしいセールスばっかりで…お宅らも邪険に扱ってしまって…その…申し訳ない。
田中 とんでもありません。アポなしでお邪魔した非はこちらにありますから。
海前社長 それにしても鏑木のおばちゃんでなく、鏑木の会社の人がうちへ来たのはオレの知る限り…これが初めてで。…いったい今日は?
田中 そのことでなんですが、舘林さんから直接お教えいただきたいことがありまして。
海前社長 …はて。オレにいったい?

篠部くん、じゃあ―――。

そう言って、田中は翔太にバトンを渡した。

翔太 …あの。私が…事情をいちばんよく知る人間なので、私から話をさせていただきます。
翔太 昨日、鏑木がこちらにお伺いしたのは…本人から聞いたわけではないのですが…謝罪のためだったと…。そうで、しょうか?
海前社長 ああ。そうだよ。…手続き違いで、発注量を減らしてしまったと。
海前社長 内心、ここ最近はそれが少し不安要素だったんだ。でも杞憂となってよかったよ。
翔太 (手続き違い…か)
翔太 あの、身内の恥ずかしいお話で申し訳ないのですが…。昨日、その件で担当の人間が鏑木からきつく叱責されました。
翔太 舘林さんもご存じの人間だと思います。電話でいつも発注を担当している者ですから。
海前社長 あぁ…ヒナミさん? あの、ちょっとぶっきらぼうな風の…
翔太 …はい。
翔太 それを機にわれわれも反省したんです。そもそも取引業者さんを知らなかったな、と。…そうした気持ちがありまして、その…身動きの取れない日南に代わって代表してこちらへ伺わせていただきました。
翔太 いろいろと…その…われわれに教えていただけないでしょうか。あの…御社と鏑木との関係など。
海前社長 …。
翔太 あの…。
海前社長 …おばちゃん、身内のお宅らにも言ってないのか。別に、隠すことでもないのにな…。
海前社長 何もオレじゃなくても、鏑木さんに直接聞いてみたらいいのに。
翔太 本当にお恥ずかしい限りなんですが…ことここに至っては、直接話を聞くことなど不可能なほど鏑木の気を害させてしまいまして…。こうして恥を忍んでお願いにあがらねばならないほどに、相当にこじれさせてしまいました…。今、頼れるのは事情を知る館林さんだけなんです…。
海前社長 ま、どこまでも控えめなあの人らしいや。でも…おばちゃんがお宅らに言ってないのなら、やっぱり尚更、外部のオレから言うべき話では…ないと思うな。オレは。…悪いが、言うべきでない、と。
翔太 そこを何とか…。館林さんは鏑木のことを「おばちゃん」とおっしゃいます。もしかして…血縁でいらっしゃるのですか?
海前社長 リサーチサービスさん、勘弁してくださいな。オレは鏑木さん…いや、初江さんを尊重したい。
翔太 そうですか…。でも、われわれもどうしても手ぶらで帰れない事情がありまして…。
海前社長 …と、言われても困るんだ。

館林は、眉をハの字にして机上のコーヒーに手を付ける。

翔太 …うぅ。
翔太 …すみません。実はあの、手続き違い…とは少し事情が異なるんです。用紙と封筒の発注先、実際は明確な意図をもって、おせわになっていたこちらから、他社へと変更させていただくことになったといいますか…。
海前社長 何………!?
翔太 すみません。ここ近年…弊社の業績も悪化の一途をたどっていまして、もっぱら最近ではいろいろな意味で多くの犠牲が払われることとなってしまった…そんな、現状にあります。
翔太 そんな中、日南が弊社社長より経費削減の命と権限を与えられ、よりベターな条件で取引できる業者さんを見つけたんです。
翔太 御社と同業の…「ステーショナリーズ北中川」という会社…です。
海前社長 鏑木さんの息子さん、が…? にわかには信じがたい…
翔太 でもです。あえて言わせてください。身内ビイキと思われるかもしれませんが、そんな折ですから…弊社社長の経費カットの意思もいたしかたないところがあると感じています。
翔太 …もっとも。鏑木の怒りに鑑みるに、弊社の社長も…今回はさすがに御社をはずす意図まではなかったと思います。…ただ、実務ベースでは違った。不幸にも、そこに齟齬が生じてしまいました。
海前社長
翔太 日南は御社と鏑木との何らの事情を知らなかったんです。ですから最も効果が見込めると踏んで、鏑木の知らぬ間に御社との取引を減らしていってしまいました。
翔太 ですが、御社と鏑木との間には事情があった…。昨日、鏑木は日南の行動を知り、激怒しました。そしてすぐに戻すよう命じました。その後鏑木が御社にお邪魔したのはそういういきさつがあってのことです。
翔太 会社の人間としては、鏑木の命は絶対です。ですが、鏑木の激怒した理由も知らずに今後とも御社と円滑に取引を果たせるものだろうかと、われわれ末端の人間が委縮してしまう部分も多々あります。われわれは、そうした思いに葛藤しています。
翔太 ですからその怒りの源がどこにあったのかと、理由だけでも知りたいと思うんです。経費削減を果たした日南が、叱責されなければならなかった理由を。
海前社長 ……
海前社長 鏑木のおばちゃんのおかげで…ウチの首はつながったようなもんだな…
海前社長 リサーチサービスさんのような得意先を失うのは、考えただけで身も凍る…。
翔太 もし、館林さんと鏑木との間に特別な事情がおありでしたら、ご無理を承知で教えてください。
翔太 お願い…します。このとおり…です。

翔太は頭を下げ、懇願した。

海前社長 ウチの論理で言えば、ウチは取引を維持できれば…それ以上望むことはない。だが維持できなければ困る。日々の窓口となるお宅らがそうした点で支障を感じるのなら、それはウチにとっても不安の種となっちまう…。
海前社長 …わかった。
海前社長 ウチの大事なお客さんがわざわざ足を運んできて、不安の種を建設的に解決しようとしてくれている。その点に感謝して、鏑木のおばちゃんのことだけは内緒でオレから伝えておこう。仲間内でこっそり共有しておいてもらえれば、ウチにとってもありがたい。
翔太 申し訳…ありません。


海前社長 鏑木のおばちゃん…昔、ここの従業員だったのさ。


翔太 田中

翔太 こちらで働いていたと…
海前社長 ああ。もちろん、ここがオヤジの代の話だけど。
海前社長 こういうことを言うのも気が引けるんだがなー。なんだ、えーと。おばちゃんがここに来る前、相次ぐ不幸がつづいて、鏑木家は路頭に迷っていたわけよ。その日に食べるものさえ事欠くようなありさまで。
海前社長 それに追い打ちをかけるように、近所のモンもよそ者であり、どことなく異質な鏑木の家には冷たいんさ。おばちゃんは日に日に自分がやせ細っていく中で、それでも、息子くんだけは飢えさせてはいかんと必死だったという話があってさ。
海前社長 そんな姿に、オヤジが打たれたワケ。あるとき、鏑木家を憐れに思って、手を差し伸べたんだ。「ウチで働かないか」と。
海前社長 おばちゃん、高潔な人だから、“学がない自分に事務しごとは迷惑がかかる” と一度は断ったと言うんだけれども。それでもオヤジの説得を受け入れて、ここで働きだしたんだ。あらためて思うと、それから定年まで立派に勤め上げているんだな。おばちゃんは。
海前社長 まぁ…ウチも、とても人並みの生活ができるような十分な給料を出せたわけじゃなかったんだけれども…。それでもおばちゃん…息子を無事に育てあげられたのは先代のおかげだと、とりわけ感謝してくれてね。その意味では先代に、そしてあとを継いだこのオレに対しても、どこか特別な思いがあるんだろうな。
海前社長 …だから鏑木のおばちゃん、ウチのことになると…その恩義に報いようということで、まわりが見えなくなるほど一生懸命なんだろうな。きっと。

翔太 (…そういう)
田中 (ことか…)

翔太 (それなら…初江さんのことだ。綾子ちゃんが言う怒りようもわからなくない…)
翔太 (誰が何を言ったって、耳を貸すはずがない…)
翔太 (でも…舘林さんの言うことならば、きっと別だ…。今となっては、この館林さんしか、初江さんにものを言えない)
翔太 (けれど初江さんが取引をもとに戻す意思を舘林さんの前で示した以上、舘林さんにはそれ以上のことのために行動を起こす動機がない…。なにより初江さんを「尊重する」と…。舘林さんは、するべきところにはきっちりと線引きのできる人だ…)
翔太 (つまり…館林さんを頼れる道がない…ということか…)

悲観した。「取引が維持できる」―――そこにこそ正義があると、館林の言から覚ったばかりだ。


「貴方ならきっと、晴花さんの命運を変えられるのに!」


喉元まで出かかったその言葉を吐き出せないのがもどかしい。いや、吐き出せたとしても、舘林を動かすことはできないのだ。


話を終えて、館林はコーヒーをグイと飲み干す。まるでそれが麦茶であったかと錯覚させるほど、豪快に。…そして、空になったマグを持って席を立った。


翔太には、なすべきことが見つからない。


やがて二杯目のコーヒーで満たされたマグを手にして戻った舘林は、いまだ手の付けられてない卓上のコーヒーを気にして、再度ふたりに勧めた。


が、そのとき―――。館林は、砂糖とミルクを出し忘れていたことに気づく。ふたりが手をつけなかったのは、きっとそれが理由だろうと思った。

海前社長 ああ、ごめんごめん。砂糖とミルクをお出ししてなかった、な。自分では使わないもんで、つい、ころっと…

舘林は再び席を立ち、棚と冷蔵庫をあさって砂糖とミルク…いやパックの牛乳をもってきた。

海前社長 ごめん。ミルクなんて気の利いたものは、ウチにはないのかもしれない。カミさんならわかるんだがな…。わかってりゃ用意できたんだけど…今日のところは、これで勘弁してくれるかい?

そういって、再びコーヒーをすすめる。

だが、今の翔太に余裕はない。

そんな翔太を横目に、田中が「では」とコーヒーに手を伸ばす。
鼻腔を、コーヒー特有の芳しい香りがくすぐ…らない。まるで義務を果たすかのようにしてそれをすすってみると、淡白な印象をはこぶだけの液体が口内にひろがった。

田中にとって、まったく嗜好のはたらかない味だ。田中はすこしでもマシになるかと、いくらかの牛乳と砂糖をコーヒーの中にそそいで、かき混ぜた。

褐色に白が完全に重なり合ったとき、田中はちらりと翔太を覗く。

「以前のアタシも、社長からはきっとこんな風に見えたんだろうか」―――そう考えると、頬に熱が挿した。

田中 …キミも、いただきなよ。
翔太 あ…はい。

翔太がようやく手を付けたのを見て、田中は館林に言った。

田中 …薄味ですね。このコーヒー。

きっと、空気を嫌って話をいったん置こうとしたにちがいない。だが、何を思ってか、田中はそれをさらに悪化させるようなことを言う。「そうした物言をここでしますか…」―――翔太は心の中で、思わず泣いた。

しかし。

館林の顔に一瞬の笑みが宿るのを、翔太はみとめた。それがなんとも不思議だった。

田中 館林さん…これ、トレーニングのため、ですよね?
翔太
海前社長 …え?

翔太には、意味が分からない。

田中 そのお身体…。私、はじめてお会いした時から正直…びっくりで。そこまで造り上げられるのは、並大抵の努力じゃないなーって。
海前社長
海前社長 …ああ。無名だけどそうした競技者のはしくれでね。仕事以外の生きがいでもある、のかな。
田中 やっぱり!
海前社長 でもコーヒーがトレーニングのためって…どうして貴女が?
田中 あの…実は私も…
海前社長 えええ!? ビルダーなの!!!!?
田中 実は脱いだら…ってち、違いますよ(汗
田中 私の方は…ちょーっと絞らないとーっていう危険水域にきちゃったんで…。それで、最近一念発起してジムに通い始めたんです。で、ジムでよく見るんですよ。その…館林さんのような方たちが、トレーニング中に…シェーカーじゃなくてちびちびと水筒を口にあててるところを。
田中 …最初は「これがウワサのプロテインかー」なーんてカンドーしてたりしたんですけど。…バッカですよねー。
田中 …でも実は違った。トレーナーの人が言ってました。水筒なら、薄めのコーヒーの人が多いよって。
田中 なんでも…えーと…
海前社長 そう! 集中力が高まるから。今となってはおまじないのようなものになっちゃった気がしないでもないけれど、トレーニングを持続できる効果が違う気がするのさ! でも濃いコーヒーだと、トレーニング中…別の意味で支障がでるっていうか…
海前社長 ほら…胃もたれとか。若くないもんで。
田中 ふふ。
海前社長 まぁオレも、仕事の合間合間の片手間なんだ。それでも、かれこれ身体を造りはじめてから短くはないんだけど。そうしたもんで、恥ずかしいことに、ここの2階も…その、「仕事の空間」というより、マシンの合間に仕事の道具があると言った方がいいくらいの状況になっちゃってるようなありさまで…
海前社長 とにかく、仕事もトレーニングも…オレにとっちゃ、同じようなもんなんさ。だからこのコーヒーも、言わてみりゃ…もう習慣として生活にしみついちまってる…。
海前社長 でも、うれしいな。こんな今風で華奢なお嬢さんとそういう話ができるとは思わなかった!

館林は、人が変わったように饒舌になった。

「話にのってきてくれた!」

田中はおもわず笑顔になる。翔太に見せた、あの透き通ったそれに。

田中 華奢…華奢だなんて…そう言っていただけるなんて、ちょっと照れます。
田中 あの、実はついさっき、こちらの彼に「重量級」の女と言われたばっかりですし…。
海前社長 重量級!? ははは。どうしてひどいな。キミは見る目がないだろう。

田中は「してやったり」の表情で、翔太を睨む。

翔太 いや…。あれは…。そういうつもりでは…。
田中 あの、アタシ…ジムで見るような…その…舘林さんのような鋼鉄の身体をもった知り合いに恵まれなくて…。でも昔から夢があって…。せっかくの貴重な機会だと思いますので、ええと…仕事を離れた個人的なお願い…叶えてもらうわけにはいきませんか?
海前社長 個人的な…お願い?

自分がストイックに取り組んできたものに対する賛嘆の念が、田中の文脈から伺える。舘林はそれで上機嫌だ。

田中 その力こぶ…さわってみたいんですけど…。ダメですか?
海前社長 その程度、お安い御用さ。

舘林は腕を折って二頭筋を隆起させ、田中に近寄せた。田中は、興味津々でそれをつついたり、もみしだく。

田中 うはぁあぁ………す、すごい…ですね…。固ぁーい(ゴクリ)
海前社長 ウチは基本、力仕事だから。歳はとっても、キミ…えーと、篠部君のような若い人には負けへんよ。
田中 でしたら、あの………あれ! ひょっとして…あれ、できちゃったりしませんか!? これほどの筋肉なら!

田中は目を輝かせていう。こどものように。

海前社長 あれ?
田中 あれです……あれ……! 片腕だけで、人を持ちあげちゃうヤツ!
海前社長 ああ…あれ。じゃ、やってみる?
田中 で……できるんですか……!? うへぇ…。
田中 …でも、さすがにぶしつけかなーって…
海前社長 いいから、いいから。ほら、こっち来てぶらさがってみなよ。

舘林は席を立つと、田中を障害物のない場所へ導く。田中は無邪気にその腕につかまった。

海前社長 じゃ、いくよ。…ほら!

掛け声と同時に、田中の身体が宙に浮かぶ。田中は、地から離れた足をバタバタさせて喜んでいた。

田中 うそ! なにこれ!………すごい! あは! あははは。
翔太 (何やってんですか先輩…。言いたかないけど、時間が…)

はしゃぐ田中に気をよくして、館林は悪戯心をおこした。

海前社長 それならさ、こんなこともできるよ。…ほーら!

そう言って、舘林はくるくると回転し始めた。不意のことで、田中は舘林の太い腕にがっしりと掴まる。吹っ飛ばされないよう、必死だ。

田中 ぎゃ――――――――――――――――――――っつ!!!
翔太 (すごい…まるで2倍速回転ブランコ。先輩には……キツすぎる…)

何回転させられたであろうか。
田中がへとへとになったころ、ようやく地に足がついた。

田中 ゼェゼェ…。ダ、ダメ…。ほんとーに…死ぬかと思った…(ゲッソリ)
海前社長 ごめんごめん。だ、大丈夫?
あんまり喜んでくれたもんだから、調子に乗ってやりすぎちゃった(汗 …ごめんよ。お嬢さん。
田中 で、でも…またとないチャンスでしたから(ニコゼェゼェ…)(汗

舘林が心配そうに見守る中、田中は両膝についた手で身体を支え、前かがみになって呼吸をととのえていた。


幾度か太い呼吸を繰り返して、自分のペースを取り戻す。

そしてここぞとばかりに、田中ははたと顔をあげた。


―――舘林を、三日月の目が、見つめている。


田中は、思いを声にした。

田中 舘林さん…
田中 ……このお力で
田中 こんどは弊社を……塗炭の淵から救い上げて…くれま…せんか?

田中 舘林さんのお立場から今、弊社のゴタゴタに手を貸しておくのも…長い目で見れば損はないと思うんです。…それが日南の明日を左右する話なら、なおさら。

11月上旬 10:50
南港海前ビジネス社

車中―――。

時間を経て、南港海前ビジネス社を離れたふたりは、車へと戻ってきた。

翔太 「後はお願いします」…と。…ピロロッ。
翔太 送信…完了です。
翔太 あー。僕的には…最後のアレを聞いたときはショックでしたけど…。ま、それはそれでこんな時だし仕方ないとして…。
翔太 でも…ですね、あの、先輩。いや、美希おねーさん…。
翔太 僕は…言葉になりませんでした。それくらいに…
田中 まぁまぁ。ところで、キミ。会社…午後からでしょ? まだ早いし…どうする? なんなら、ちょっと早いけど…おねーさんと先にお昼でも済ませとく? ナーヴで。
翔太 あ、いいですね。朝から緊張で何もノドを通らなくて食べてなくて…。今はお腹が減ってたいへんです…(汗
田中 じゃ、行こっか。…あ! そうだ。
おねーさんの時間が押しちゃった分は、キミのおごりだかんネー。…1800円のセレブリティコース注文しよっと(音符
翔太 …………ですよねー。
11月上旬 11:30
Navi in Bottiglia

その後しばらくして―――。ナーヴ。

翔太 モグモグ。
田中 …モグモグ。
翔太 それにしても美希おねーさん。時間的に、気になりますね。そろそろかな…。
田中 …かな。
11月上旬 11:30
リサーチサービス社

同じころ―――。リサーチサービス社。



晴花 …。
初江 …。
綾子 …。

経理課では、昨日、初江が処理半ばとしていた仕事のつづきが沈黙の中でおこなわれていた。


初江の機嫌は相変わらずだ。部屋全体に、昨日と同じ鈍重な空気が淀む。


この日出社してから今このときまで、綾子も晴花とまともな会話ができずにいる。

綾子は、膝の上に隠し置いているスマートフォンに目を落とした。

綾子 (あれから40分…か)
綾子 (「…以上、綾子ちゃんが仕事中なので手短に報告。やれることはやりました。後はお願いします」)
綾子 (…信じて、いいんですよね? 翔太くんさん…)

まいどーっ――――――――――!!

そのとき、ドアの向こうで威勢のいい声が響く。

声の主は、誰かがドアを開けるのを待たず、自分で開けて入ってきた。

海前社長 まいど。南港海前ビジネスです!

舘林は、この部屋にいた人間に向かって、快活に啖呵を切った。

晴花 …?
綾子
初江 館………林………さん……………?

初江は、舘林の予期せぬ来訪に狼狽した。

それもそのはず。舘林自身は、長く別ルートへの配送を担っている。いや。もっとも配送ならおかしくもないのだろう。だが、荷物を持たずにここに現れた。思いの詰まった大切な取引先の来訪に「何事か」と初江も思う。

初江 …いったい…ど、ど、どうして…こちら…へ……?
海前社長 いやだな。いつもより押しちゃったけど、配送の途中だよ。今日は源さんとルートを代わってもらう事情ができたんさ。
海前社長 なにせここは重要なお得意さんだ。たまには顔を出しとかないと、見えないもんも、ある。…そんな事情がさ。
初江 それは……
海前社長 おばちゃん、昨日はわざわざありがとう。申し訳なかった。
初江 …と、とんでもない。非礼をはたらいたのは、この私の方で………
海前社長 あと…ええと…

と言いながら、館林は綾子と晴花の方を交互に確認する。

…綾子は、微笑んでいた。舘林は、自然、それが晴花ではないと判断する。

そして、綾子と初江の机を回って、椅子に座す晴花の傍まで大柄な身体を運んだ。舘林を見上げる晴花。その表情は…ひきつっていた。

海前社長 キミが…たぶん…ヒナミさん。
晴花 えっ…?
海前社長 いや、そのはず。電話のカンジと、そっくりだから。
晴花 …そ、そうです………
海前社長 一度会いたいと思ってた。いつもありがとう。

晴花は動揺した。いったい何事だろうと。返す言葉に思わず窮した。

晴花 …あ、あの………いや、こちらこそ、すみません………

晴花の返事ににこりと笑うと、初江の方に翻る。館林は初江の机に両手を置いた。そして…。

11月上旬 11:40
Navi in Bottiglia

再び―――。ナーヴ。

田中 …あの時のキミの顔、この世の終わりかっていうような。吹き出しそうになっちゃったわ。
翔太 それはそうですよ…。本当にもうダメだと思ったから。
翔太 でも、美希おねーさんはさすがでした。
…あんなふうに場をつくってしまうんですから。格の違いをこれでもかと見せつけていただきました…。
田中 バカっ。買いかぶりすぎよ。
翔太 でもどうして…。なぜ、ああしたアプローチを?
田中 んふ。…最初に言われたじゃない。アタシたち。
翔太
田中 もう忘れた?「相手を見てモノを売れ」と。
翔太 あ! あやしいセールスに間違われたとき!
田中 うん。そこから思ったのよ。気に入られてからだと。
田中 それには共通点を探したほうが早いかなーって。
田中 えっとさ。誰だってがんばってることや没頭してることって、共感されたい、認めてもらいたいって思うのは自然なことじゃん? そこに共感を寄せれられて、イヤな気持ちになる人も、少ないと思うし。
田中 でも、さ。同じ共感を寄せるにしても、舘林さんのような人にはきっと…具体性があるかないかで印象は真逆のものになったと思う。
田中 …その意味では、昨日、ジムで泣きながら泳いでた自分を…褒めてやりたいかも。
翔太 え!? でも、昨日は彼氏さんとトランプを…
田中 ううぅ…あれは…空想というかぁ…妄想? 実際のアタシは…彼とつまんないことでケンカして、ここ3日間口きいてもらってない…。あ、悪い? え、コラ、どうなの!?
翔太 まま…そ、ういうこともありますよ。ほら…僕なんか晴花さんに相手にもされていない。だからケンカできるということは、それより幸せじゃないかなー…な~んて? …そう思えば、気も晴れますよ!(キリッ)
田中 こっちまで悲しくなるようなこと…言うな…
田中 でもさ。今日、こっちから歩み寄ってみるわ…。なんか、そんな気分…。
翔太
11月上旬 11:40
リサーチサービス社

再び―――。リサーチサービス社。

海前社長 一度会いたいと思ってた。いつもありがとう。

晴花は動揺した。いったい何事だろうと。返す言葉に思わず窮した。

晴花 …あ、あの………いや、こちらこそ、すみません………

晴花の返事ににこりと笑うと、初江の方に翻る。館林は初江の机に両手を置いた。そして、初江に身をのりだすようにして語りかけた。

海前社長 初江さん。ウチの会社に恩義を感じてくれるのは、オレも本当に感謝してる。
海前社長 …先代の息子として。
海前社長 今じゃオレも会社を継がせてもらってる。社長、として。
初江 …………(ゴクリ)
海前社長 経営者、だ。これでも会社を預かる身、なんだ。
海前社長 あの会社を生かすも殺すも、今はオレの手にかかってる。でも、断腸の思いで会社をたたまざるを得ない――――もしそんな日が来ようものなら、会社に染みついたオヤジや初江さんのいろんな思いまで殺してしまうことになる。そんなこと、できっこない。
海前社長 だからこそ、お客さんと、共存していきたいんだ。
海前社長 …特に、初江さんの息子さんの育てられた、こことは。
海前社長 初江さんの高潔な人柄ゆえの気持ちは本当にありがたい。でも、それに甘えたらダメになるのは、ウチの方なんだ。
初江 …………
海前社長 考えても見てくれ、おばちゃん! この不景気な時世だ。どこだって苦しいさ。だから、工夫する。
海前社長 少しでも安いところを探したり…妥協できるところは妥協したりして。
晴花 …………
海前社長 そうした努力は…本筋から外れなければ、おばちゃんと同じように高潔なことだ。
海前社長 でも…。それは本当に難しい…。
海前社長 でもおばちゃん、これだけはわかる。オレたちの本筋は、オレたちが上手くやっていくこと、そこにあるんじゃないかい? 誰かが、一方的な恩恵を受けることじゃない。
海前社長 だってどちらかが無理して会社を潰してみなよ…。残された方が背負うものを考えると、それ以上に、不幸なことなんてないんだから。

初江 ぼっちゃん………

海前社長 お願いだ、おばちゃん。これからは、共存していこう。そしてともに繁栄していこう。
海前社長 オレだって、リサーチサービスさんが苦しいことは…うすうす察しがついてるさ。だから、現実的な取引をしてくれ。ウチを減らしてもかまわない。
初江 ! なんということを………

厳しさとやさしさの同居した舘林のストレートな思いにふれ、初江の中でいろいろな記憶があふれ、よみがえる。

そのひとつひとつに、感情が交錯した。―――初江の目が、赤くはれる。

海前社長 でも約束してくれ。リサーチサービスさんは、必ず立ち直ると。発展すると。そしてウチがその恩恵に預かれる未来が来ると。
初江 恩を返す身でありながらどこまで感謝しても足らないような言葉を頂戴するとは………。ほんとうに、ほんとうにあたしは…
綾子

初江は言葉が出なかった。とりとめもなく、涙があふれた。

11月上旬 11:50
Navi in Bottiglia

またまた―――。ナーヴ。

翔太 あのあとおねーさんが言っていたの、ライフタイムバリューの考え方ですよね。…顧客生涯価値。
田中 …あ。さっすが現役の学生。アタシは、綾っちたちからの受け売りだけどね~。
翔太 ここぞというタイミングで、共存の重要性をあんなにイヤミなく訴えられるのは、おねーさんしかいませんよ。勉強になりましたけど。
田中 …ほめたって、何もでないゾ。
翔太 本心ですよ! だって舘林さんの気持ちを動かしたのは、あれがいちばん大きかったと思うんですよ。僕はと言えば、あの時点ですでに晴花さんのことだけで精いっぱいで…。会社っていう枠、もうどこかへ消し飛んでしまってましたから…。
翔太 理詰めでなく、感情に訴え続けることしかできなかったです。きっと。最初におねーさんが諭してくれてたんですけどね…
翔太 だから…今日は本当にありがとうございました。そして、これからも尊敬してますから…美希おねーさん。
田中 …バカっ。素でそんなこと言われると、こっちは返す言葉もないの! …でも、ありがと。
田中 …さて、と。そろそろ、おねーさんは自分の仕事…片付けないとね。
田中 キミはゆっくりしてきなよ。まだ会社行くのもジャマになろうし…。いや、アタシはキミが “男の美学” とやらのために、使えるカードを使っとかないのは、もったいないと思うんだけどねー。むふふ。
翔太
田中 …まぁいいわ。お代はアタシが払っておくから。…じゃね。
翔太 え…あの! 僕がごちそうする約束じゃ…?
田中 後輩におごらせる先輩がいるか! …じゃ、最後の仕事は、キミがしっかり果たすんだゾ。
翔太 はい。責任を持って、状況を確認しときます! …こっそりと。
11月上旬 11:50
リサーチサービス社

またまた―――。リサーチサービス社。

海前社長 …初江さん。このヒナミさんはリサーチサービスさんにとって、本当に必要な人なんだろうな。
初江 …………それは…
海前社長 …あれだけデキタ仲間が身を張って言うんだ。間違いない。
初江 …………?
晴花 …??
初江 …………あの…館林さん…それはいったい…
海前社長 …いや。忘れてくれ。
海前社長 …とにかく、だ。ヒナミさん。

舘林は再び晴花の方へと振り返って、言った。

海前社長 外の人間がこうしたことを言うべきじゃないのはわかっているけど、それでもウチとしてはお宅に期待してしまう。
海前社長 必ず、やりとげて欲しい。

晴花は思わず立ち上がる。

晴花

…何を発していいのか、分からなかったが。無意識が、そうさせた。

海前社長 それじゃ、おばちゃん。邪魔したね。

そう言って、館林はリサーチサービス社を離れようとした。初江は思わず

初江 館林さ…

と呼びかける。しかしその途中、館林が振り向きながら言葉をかぶせた。

海前社長 オレも少しやり方を考えてみないとな、と思ってさ。
海前社長 忙しいんだ。それじゃ、これで。

すがすがしい笑顔を残し、館林は去っていった。

初江も、綾子も、そして晴花も、立ち上がってその背中をただ見送る。まるで、言葉など存在しない世界にいるかのように。声のない時間が、長く、つづいた。

初江
綾子 (翔太くんさん、ありがとう…あとは私がなんとかしないと)
綾子 あの…初江さん。

意を決して、綾子は初江に切り出した。

綾子 晴花さん、辞めなければならない理由なんて… ない、ですよね?
初江 …!
初江 そうした話じゃ…ないでしょ。最初から。
晴花

つっけんどんな言い方を、引きずっていた。だが、ここにさっきまであったはずの重苦しい空気が消え去っていたことだけは、綾子にも確信が持てた。

綾子 じゃあ晴花さん、退職願 …もう、どうにかしちゃいましょ。
初江 「退職願」!? …アンタまさか本気で。
初江 …本気、なの!?
晴花

初江は激しく晴花に迫った。

初江 …晴花ちゃん、みせて。
晴花 …いや…その…
初江 見せなさい!
晴花 うっ…。はい…。

晴花は引き出しから封に入れられたそれを取り出すと、俯いたままゆっくりと初江に差し出した。

初江は便箋を抜きだし、その文面を凝視する。一字一句を、追った。



その視線を晴花へとあらためて戻したとき――――便箋を持つ手が、震えていた。

初江 …ホントに辞める気だったのね。
初江 …でもあたしは認めない。

とつぶやきのようにして言うと、初江は便箋を封筒にきれいに戻す。

そして封筒の側面を上にして両指でそれをつまんだ。かと思えば、やにわにそれを裂く。…まっぷたつの紙片が、机上に散った。

晴花 …ああああああ…ぁぁ…!
初江 ここまでアンタを追い詰めたのは、アタシが至らなかったから。どうか、考え直しておくれ。
晴花 で…。でも…。今日中に社長に返事をしないといけなくて…
初江 社長に? 何を?
晴花 …。

晴花は、咄嗟に何も言い出せなかった自分に気づく。それほどに、決意が固まっていた。覚悟も決まっていた。急に気持ちを変えられるものではなかった。そんな様子を見かねた綾子が、言う。

綾子 『「反省文」か「退職願」、どちらかを選べ』と。
初江 …なぜそんな大事だいじにして……。アタシへの通告さえなしに…。


初江


初江 晴花ちゃん。アンタにとっちゃもう今更かもしれないが、あたしにとっちゃこれからの問題なんだ。海前さんの正直な思いを、あたしは無にするわけにはいかない。
初江 あたしの頭に血が上って、冷静に対処できなかったことは謝る。もう、知ったこっちゃないことかもしれないけど、あたしにとって海前さんは命の恩人みたいなもんなんだ。言い訳にしかならないけれど、だから必死だった。でもそれが望まぬ事態を招いた。
初江 あたしを、許してほしい。
晴花 ………………
初江 …どういういきさつがあったのか、最初から話してくれないか。
晴花 ……
晴花 ……はい。

初江の正直な気持ちを聞いて、晴花は思った。

「もう一度だけ、話そう」と。


「こうして誰かに顛末を説明するのは何度目だろう」

初江に説明をしながら、そんなことが脳裏をよぎる。

晴花をそう錯覚させるほど、昨日からの出来事が心にずしりと重かった。


―――晴花は説明をつづける。

ひと言ひと言吐き出すたびに、胸のつかえが少しずつ掻き消えていくような、そんな気がした。

初江 ああ。なんとしたことか…。
晴花 いえ、私こそ、悪いんです。重要なところで大きな勘違いをしてミスをおかした。それは、変えられない事実ですから。
晴花 でも、もう辞めません。ミスを挽回できずに辞めるのは、やっぱりくやしいですから。
初江 …晴花ちゃん。ありがとう。
晴花 だから私にもう1度だけ、チャンスをください。
初江 …チャンス?
晴花 海前ビジネスの社長さんが、さっきおっしゃたようなこと。少しでも実現できるように、小さな私ですが何とかしてみたいんです。ここにとっても海前ビジネスさんにとっても、望まれる未来に近づけるよう。
初江 晴花…ちゃん…
晴花 独断ではしません。どんな小事も、必ず、初江さんの許可を頂いて行動すると約束します。だからお願いします。社長からいただいたこの責務、私につづけさせてください。
初江 アンタって子は。やっぱり……アンタの名は、アンタにこそふさわしい。それで間違いがなかったわ。今やっと、アタシにもそう思える。
晴花
初江 ねぇ、綾子ちゃん?
綾子 ですよね。
初江 わかった。その件はあたしに預けておくれ。そうなるよう取りはからってみるから。
初江 でも今は他にやることがある。その “反省文” を書くのが先よ。
初江 今から急いで書きなさい。すぐに。
晴花 すぐ…ですか? ええと、反省文…どうやって書けばいいんだろ…
綾子 大っ丈夫です晴花さん!
綾子 何とかして晴花さんに反省文の方にしてもらおうと、私!
綾子 カンニングペーパーを持ってきてますから!
晴花 …えっ!
綾子 あのですね…。ここの文章の中にある “○○○○○○” という記号を、自分の名前や会社名、できごとなどに変えるだけで、立派な反省文が出来上がり!…というわけで。
晴花 …でも。これでは…
初江 いいのよ。形式で。本当に反省しなきゃいけないなら、アンタだけでなく皆がそれを書かなくちゃいけなくなる。
晴花 …はい。じゃあ。
晴花 綾っち、ありがとね。
綾子 こういうことなら、まっかせってくださーい!
11月上旬 12:20
リサーチサービス社

しばらくの後―――。

晴花 …書き、ました。

晴花 …あの、早速、社長に提出に行ってきます。さっき戻られたのを見ましたので。またお出かけになっちゃうかもしれませんし。
初江 いや。それもあたしが預かろう。経理を統括する者として、あたしが社長に詫びなきゃならないこともある。それに、アンタの仕事の許可だってもらわないといけないことだし。
初江 …あたしが、行ってくるよ。

そう言って、晴花の手から奪い取る。

封書を自分のものとした初江は、その足で経理課を出ていった。

二階にやって来た初江は、社長のデスクの前までゆっくりとした足取りでやってきた。休憩時間に入り、このフロアにはまばらに人間が残るのみであった。

初江 社長。海前ビジネスさんの件は。あたしは生きた心地もしなかったというか…
社長 ああ、あれか…。まったく、会社への忠誠がたらんからこんな悲劇が起こるんだ。
初江 とにかく、大事になる前に治めてくれて、よかった。あたしもこのとおり…アタマを下げる。
初江 それと、ここは人の目も耳もある…。あたしの心痛を憐れと思って、応接で…少し話を聞いとくれ…。

初江の願いを聞き入れ、ふたりは同じフロアの小さな応接室へと入っていった。区切られた区画のここなら、皆の目が届くこともない。

初江は口をひらいた。

消え入りそうな、小さな声で。

初江 …聞けば晴花ちゃんに落ち度があったという。
社長 ああ、だな。
初江 それはそれで、残念なことだけど…
初江 あたしも昨日はカァとなってしまった。でも、今になって少し冷静になったんだ…
初江 立場を穿き違えては、いけないと。確かに海前ビジネスさんはあたしにとって命の恩人だ。でも、それと同時に、あたしはここの経理を統括させてもらってる。アンタに。
初江 その意味では、ここを守れなくて何が為せるか―――そういうことでもあったんだ…。
社長 …?
初江 お前が…あたしの思いを汲んで、海前さんを守ってくれたことには心から礼を言いたい。
初江 …でも、あたしもお前と一緒にこの会社を守っていかなきゃならない。アンタの命じたことは、まがいもなく必要なことなんだ。
初江 …だからもう1度だけ、チャンスをやってくれ。あの子に。
初江 ここにあの子がしたためた反省文もちゃんとある。いままであたしが手をつけられなかった課題を、あたしはあの子に託したいと思うんだ。
初江 …ウチも、海前さんも、ともに栄える日が来るように。
初江 どうか、水に流してやってほしい。そして、許可を与えてやってほしい。
社長 …。

社長は、初江から手渡された反省文を広げる。そして、流し読んだ。

社長 (なんだ…この工夫のかけらもない文面は。本当に反省の色があるのか? これは)
社長 …。
社長 母さんはそれでいいのか? 結果として、海前ビジネスさんを足蹴にするような真似をしたんだぞ。
初江 それについては、昨日、あたしがそりゃもうきつく戒めた。正直、昨日はあの子に失望した。だから言った。「二度目は許さない」と。今度独断で海前さんをないがしろにするようなことがあったら、地の果てまでも追い詰めてやるつもりだ…そんな思いで。
社長 ふっ。そうか…。そうだな。
社長 いいだろう。母さんがそこまで言うなら、この件は母さんに預けよう。好きにやったらいい。
初江 よかった。じゃ、あの子にこれ以上の咎めはないのね。
初江 そういうことなら、仕入れに関しては…母さんの責任で、きっちりとさせてもらうわ。
社長 ああ。でも無理はしてくれるなよ。歳を考えてくれ。

初江は、笑った。

初江 バカ言いな。そのためのあの子でしょうが。
初江 でも…あたしはうれしいよ。年老いたあたしを、いまだこうして信用してもらって。
社長 ん。…そういうことだから、母さんもしっかりやってくれ。オレはメシでも行ってくるから…。

社長は、ちいさなソファから腰を上げる。

初江の顔が、少し曇った。

初江は、腰を上げない。未練でもあるかのように。

その初江を見下ろして、社長は言った。

社長 でも正直、母さんを失望させた日南くんに、まだ期待するところが残っていたとは。意外だったよ。

―――――と。

初江 失望? 誰が?

心に、いちばん大きな思いを残していた。

初江は、時を待っていたかのように豹変した。

社長 …おいおい頼むよ。今、自分でそう言ったばっかりだろ。
初江 お前こそ失望させないでくれ。あたしは「昨日」と言っただろ? 誰が今もって失望してるなんて言ったのかい?
社長
初江 最後に、いちばん大切なことをひとつだけ言わせておくれ。
初江 …お前の母親として。ただひとりの家族として大切なことを。
初江 この…親不孝者がっ!!
社長 …!!

初江は立ち上がって社長に近づいた。

そしてひるんだ社長の胸倉を、ぐいと掴んでさらに引き寄せる。

初江 あさましい私情・私欲のために、こともあろうか海前さんを利用して!!!
初江 お前が今、ここに在るのは誰のおかげだ! 自分のおかげ? うぬぼれるな! あたしのおかげ? いいや、ちがう。一番苦しいときに、公私ともに海前さんが手を差し伸べてくださったからだろう!
初江 それを! それを! それを顧みず、なんたる傲慢をかましたか!
アンタはいったい何様のつもりなんだ! 思い上がるんじゃない!
社長 …っ。
初江 くっ。

胸倉を握る手が、パッと弱まる。

初江の目から、涙があふれた。

―――そして消え入る声を、絞り出した。

初江 頼むから、過ちは繰り返さないでおくれ…
初江 紗貴さんの悲劇を、繰り返さないでおくれ…


社長 …母……さん……


11月上旬 13:30
リサーチサービス社

その日の午後。経理課―――。

綾子 ふん、ふん、ふん~(音符
綾子 いやぁー。今日は仕事がはかどるはかどる…。
晴花
晴花 …私、お茶淹れてこよっと。綾っち、いる?
綾子 あはい! 要ります要ります(音符
晴花 ん。…待ってて。

晴花は席を立ち、給湯スペースに向かった。

綾子 ん!

綾子はドアのガラス越しに、目から上をのぞかせている翔太を見つけた。翔太は晴花が奥に入っていったのを見て、音を殺してドアを開け、入ってきた。

そして小声で綾子に問うた。

翔太 …綾子ちゃん。ど、どうなった!?

そんな翔太に合わせて、綾子もヒソヒソ声で返す。

綾子 まるっ!
綾子 お役目…ごくろうさまでした。海前ビジネスさんのおかげで、心配ごとがすべて消えちゃいました。本当に、すてきな社長さんでした。
翔太 うん。だね。…あぁ、よかった。
綾子 晴花さん、呼びますか? 私、何も話してないですから。チャンスですよ。
翔太 いや。いいって。男篠部、無事だったならそれ以上、望むことはないんだな!(キリッ)
綾子 おかしな人。…じゃ、私から。カッコいい仕事でしたよ。翔太くんさん。
翔太 へへっ…。ありがと。でもま、実はいろいろあるんだけど。
翔太 とりあえず、安心できたし戻るよ。これからすぐ同行の予定で…。
綾子 はい! がんばってきてください。

こっそりと振り返ると、出口へ向かって忍び足で歩き出す。翔太は経理課を出ていこうとした。


だが、そのとき―――。

晴花 …あ。

お盆に乗せたカップにお茶を満たして戻った晴花が、翔太の後姿を見止める。

晴花 待って!

晴花の声を耳に入れた翔太の身体が、出口の方を向いたままに硬直した。

あわてて近くの机にお盆を置くと、晴花は翔太の元まで駆け寄った。

翔太は観念したかのように、ゆっくりと振り返ろうとする。

だがそれを制するようにして、晴花は翔太の右腕をぎゅっとつかんだ。

翔太 …えっ。

右腕を通して、晴花の存在を感じる。鼓動が、おどった。



晴花の視界を、翔太の背中が覆いつくす。

晴花は、その背中に向かってつぶやいた。

晴花 翔太くんでしょ? 助けてくれたの。
翔太 …えっ。ど、どうだったかなー。何の事だか…。よくわかんないけど、勝手なことしたら…怒られますし~
晴花 もぅ!
晴花 …あのさ。月並みなことしか言えないけれど…