ひとりマーケティングのためのデータ分析

StoryPart

Chapter 4 > Section 4

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11月下旬 12:30
リサーチサービス社

後日。経理課の昼休み―――。

翔太 トゥルル…「…はい。担当が戻りましたら連絡を差し上げます」…トゥルル
翔太 「…はお昼に出ておりまして。戻りましたら折り返しますっ」…トゥルル
翔太 「…お調べして1時以降にご連絡いたしますっ。すみませんっ!」…トゥルル

翔太は経理課にいた。ジョブトレーニングの一環として、この日のお昼は経理課の電話番を任されている。

最初は翔太も、晴花たちと同じ空間に公然といられることを手放しに喜んだ。…が、これから至高のひとときを楽しもうとしたのも束の間、不運 ? にも顧客からの問い合わせがつづく。


―――綾子たちは、その横でまったりと弁当をひろげていた。

綾子 (…今日が私の番じゃなくてよかった)
翔太 …カチャ。ふぅ。
翔太 とりあえずひと段落つきましたか? ついたよね!? ついたぁあぁ!!

翔太は思わずガッツポーズをつくる。

翔太 …さて、と晴花さん。電話中、僕はずっと気になっていました。その玉子焼き…美味しそうです。
晴花 …は?
翔太 …その黄金色の照りといい、ほどよい白身の挿しっぷりがこれまた絶妙…。食欲を限界までそそられるじゃないですか。
晴花 …アンタさ。何が言いたいの?
綾子 うそー!? 翔太くんさん…もしかして…
晴花さんの手料理を食べたコトさえないんですかぁ?
晴花 …あるかいっ!
綾子 そうですか? だって、私はいつだって食べられるというのに…。ほら。

と言って、綾子は晴花の玉子焼きに手を伸ばした。

綾子 …ぱく。
翔太 晴花 あぁぁぁあぁ!
翔太 …そんな。綾子ちゃん…ひどいよ。
翔太 最近の不健康な食生活から足を洗うのにはふさわしい一品だったのにさ…。
綾子 そうですか? でも大丈夫。
ほら…お弁当箱の隅っこに、まだ一切れ残ってるじゃないですか!
晴花 私のはどーなる!
晴花 …クッ。しょうがないな。…ま、まずくてもしらないから。
翔太 マ…マジっすか!?
翔太 本当に…いいんですか!?
晴花 …いいって…言ってるじゃん。
翔太 うぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉ!!!!!
やっぱこの会社に入ってよかったぁあぁあ!!!
晴花 …わけわからん。
翔太 まさか晴花さんの玉子焼きを口にできる日が来るとは! 僕にもようやく…

トゥルルルルー…

翔太 なぜ電話がー!!!!!!!!!
綾子 翔太くんさん…早く出ないとお客さんに怒られちゃいますよ。
翔太 うぅ…晴花さんちょっと待っててくださいね…ピッ…

電話中―――。

―――そして、終了。

翔太 …おわったおわった。では…

晴花 …モグモグ

翔太 …って、ナンデ晴花さんがタベチャッテルンデスかぁ―――――!!!
晴花 ……やっぱ、他人にあげられるような味じゃないわ。
翔太 …がっかり過ぎて寝込みそう…
綾子 まぁまぁ。
ところで、何かあったんですか。翔太くんさん?
翔太
綾子 さっき言ってたじゃないですか。
「不健康な食生活」って。
翔太 ああ…それ。
実は ラーメン定食な日々が続いていて…
綾子 どれくらい?
翔太 …ここ1週間ばかり毎日。
綾子 晴花 えぇえぇぇ!

晴花 あんたバカ!? 何事にも適度ってもんがあるじゃんか。若いうちからそんな食生活して…死にたいの!?
翔太 …いや。も、もちろん今だけですよ。
…仕方ないんです。これもジョブトレーニングの一環でして…
綾子 晴花 はぁ??
晴花 ふざけないの! …ポカン!

晴花の手刀が、翔太の脳天に落ちた。

翔太 (…イタタ。でもなんだろう…
この…すごくシアワセな…キブンは……)
翔太 すみません…でもホントなんです。これ…。今、安堂さんからもらってる課題でして…
綾子 どういうことですか? それ?
翔太 サンプリング…の練習を。
綾子 あ! 標本づくり…ですか?
翔太 うん…。
翔太 ようやくデータを用意できたところで、まだ分析を終えてないんだけど…ホントに基本的なものを、ね。安堂さんが、僕に「指示した母集団を代表する標本を作ってこい」と。…ランダムサンプリングで。
綾子 それって…。
この前私たちがレポートの用紙の枚数を調べたときのやり方ですよね、晴花さん?
晴花 うん。…あれも単純無作為抽出法っていう…ランダムサンプリング法のひとつだね。
翔太 へー。そんなことをやったんですか。
さすがリサーチ会社の経理課…っていう感じですね。攻めの姿勢って言うか…。いや、綾子ちゃんと晴花さんだからこそ、なのかも。
晴花 助けてくれたアンタを裏切りたくはないの! …ポカン!

晴花の手刀が、再び翔太の脳天に落ちた。
そして、綾子がパーテーションの方角をさして言う。

綾子 …結局、この段ボールの山をどうにかしないといけないんですよ。今まで、手つかずだったから…。
翔太 用紙と封筒…ですよね…? 海前さんの。
綾子 はい。なんとか上手にできればウチの会社としてもコストカットにつながりますし…。その意味ではすごーくジミでタイヘンだけど、やりがいのあるお仕事ですよ!
翔太 …なるほど確かに。でもそれがたとえどんなにタイヘンであっても、おふたりならきっと上手くできますよ。…確信があります。
晴花 オベッカ言うんじゃないの! …ポカン!

晴花の手刀が、三たび翔太の脳天に落ちた。

翔太 …イヤぁ、口先のつもりじゃないです…
晴花 …正直言うと、今、カベにぶち当たってるんだなー。素案はだいだいできあがってはいるんだけど…これでいいのかっていう…
翔太 …と、いいますと?
綾子 “What is COSTCUT?” っていう話ですよ。ほら…初江さんと南港海前ビジネスさんとの関係とか…「守りたいもの」とか「変えられないもの」がいろいろと多いですから。
翔太 …うーん。なかなか一筋縄にはいかないものなんですね…会社の中っていうものは…
翔太 でも大丈夫。ときに男篠部、経理課のため身を粉にして働きますから!
綾子 「経理課」じゃなくて「晴花さん」の間違いだと思います…それ。
晴花 ぬべし! …ポカンポカン!

晴花の手刀が、翔太と綾子の脳天に同時に落ちた。

翔太 (なぜ僕まで…? デモナンダロウ…コノ…)
綾子 …イッタタ。
ところで、さっきの話。翔太くんさんは何の標本を作るよう指示されたんですか?
翔太 それは…ね。こんなの…。
翔太 それでね、データを用意できたら、母平均の検定と呼ばれる手続きで、僕のつくる標本のクオリティを確かめてみろ、と。ちゃんと母集団を代表できるシロモノがつくれるかどうか。…task B については、最初は冗談かと思ったけどね。
綾子 …ふんふん。
じゃ、この task A の方は…この前私たちがやったみたいに 企業コードを乱数で発生させてー…えーと…あとはウチのデータベースから社長さんの生年月日を引っ張ってくれば…なんとかカタチにできそうですね。
翔太 僕も…そうしたんだ。
晴花 ははぁん…そういうことかぁ。task B の方、翔太くんが抜いたお店に実際に食べに行って調べたんだな…
晴花 キョービさ…。何も実際に食べに行かなくてもいくらでもやりようがあるじゃない。…ネットなりで。
翔太 ですね。でも違うんです。
翔太 僕は晴花さんを心から尊敬もしています。でもそればっかりは晴花さん…甘すぎます。晴花さんはきっと何もご存じじゃありません。…安堂さんという人を。
晴花 ふぁっ…。そ、そうなんだ…。

翔太はちらりと時計を見た。

翔太 あれ! もうこんな時間!
翔太 昼から安堂さんに報告しなきゃならないので…。ここで電話番しながら処理してようと思ってデータだけは持ってきてあるんですけど…
翔太 でも手が付けられなかったから、すみません…この、ノートパソコンお借りしてもいいですか?
晴花 あ…うん。サブだから、いいよ。
晴花 でもなんとなく…私、後ろから見ちゃったりしてていい?
翔太 もちろん! がんばります。
晴花 …それとよかったら、綾っちにもデータをあげて欲しいな。彼女は母平均の推定の方を使いこなせる魔法少女だし。標準偏差何個分かでコトを考えるリクツは同じわけだから、両方からアプローチしてみようよ。
晴花 …ね、綾っち。
綾子 そ、そ、そ…そんな。悪いですよー。
翔太 …なら。いっしょにやろうよ。綾子ちゃん。検算になるので僕も助かる。
綾子 いいんですか?
じゃ、お言葉に甘えまーす!
晴花

母平均の検定の手順をひらきます

翔太 …と、いうことで… task A の検定統計量は 有意水準5%・両側検定では棄却域にかからずにすみました。
晴花 つまり?
翔太 帰無仮説を棄却せずに済んだと。こっちは目的の標本がつくれたと言ってもまぁいいのかもしれませんね…と。
晴花 綾っちは?
綾子 えーと、信頼区間が56.6歳~59.8歳ですから…
綾子 翔太くんさんの標本の平均…57.02歳は、確かに…信頼区間の中にあることになりますNe。
翔太 うへ…。すごいな…綾子ちゃん。もしかしたら晴花さんの言うこと、冗談かもと思っちゃった自分が少しでもいたのが恥ずかしいな…。
晴花 綾っちは日々進化してんのよ。翔太くんもボヤっとしてるとヤバイYO。
晴花 …で、もうひとつの方はどうなん?
翔太 あはは…。こっちはですね…。
翔太 task B の検定統計量は 有意水準5%・両側検定では棄却域にかかりますねぇ…。おかしいなぁ…。
晴花 へー。
じゃ、綾っちは?
綾子 はいはーい! 信頼区間が665円~835円ですから…翔太くんさんの標本平均650円は 信頼区間から外れマ―――――ス!
晴花 なーる。
それじゃ、この task B の検定の結果…翔太くんはどう見るの?
翔太 ど…。どうなんですかね…??
晴花 こんなこと聞いちゃアレだけど…これ…
本当に無作為だよね?
翔太 だと…思います…。
晴花 (思います?)
晴花 なら、安堂さんと前提のすり合わせが上手く出来てないとかは、ない?
翔太 …はい。
晴花 ふーん。
検定は過誤もはらむモンだし…ま、あんまり気にすることもないと思うよ。翔太くん、まだ修行中の身なわけだし…。翔太くんなら、だんだんとそうしたコトを踏まえた上で要領よく行動できるようになるって。
翔太 晴花さん!

感激した。“晴花にやさしい言葉をかけてもらった” ―――それが翔太を舞い上がらせた。

感激のあまり、翔太は晴花の手を取り両手でガシと握りしめる。晴花は驚き固まった。


その時、経理課のドアが開く。
安堂が経理課にやってきた。

が―――。

安堂の眼前に、はからずも理解のすすまぬ構図が、ある。

安堂は、自分の目の前で背を向けて立っている男を探して、ここまでやって来た。が、その背中の向こうに見える引きつった晴花の顔の方が、よほど関心を奪うものであった。


―――安堂は、翔太が不埒をはたらいたものと覚った。


手に抱えていた大きな皮の黒い手帳を身体にひゅっと引きつけると、次の瞬間、それを翔太の首根っこめがけて「やっ」と放った。

翔太 …うげぷ!

―――どかっ。

翔太に命中した手帳は、そのまま鈍い音をたてて床に吸いついた。

―――落下の衝撃で、手帳の留め具が外れてしまった。

安堂 …こら篠部。セクハラはあかん。
翔太 イっタタ…。ひどいですよ…先輩…。
安堂 ここで電話番やってると聞いて来てみたら…。日南さんが困ってるやん。
晴花 …あのの。
ダイジョウブです。困ってないです…
綾子 ホントですよ。篠部さん…安堂さんの課題をやり終えてよろこんでただけですから。
綾子 それに安堂さんの課題って聞いて…私たちも興味を持ってどんなものか見せてもらってたんですし。
綾子 なんかこういうこと教えてもらえる篠部さんがうらやましいなーなんて思ったり…
安堂 …綾っちが?
安堂 篠部よ…やったな。お前…今、この会社初の…プロパーな内勤上がりのRS部員が生まれる原点を作ったのかもしれんぞ。それもこんなにもキュートな。

と安堂が言う傍で、晴花は安堂の手帳を拾い上げようと屈んだ。

そして、開いた手帳のページに目をやったとき、晴花は再び色を失った 。

ページを埋める、字・字・字。
インクの黒が、支配する世界だった。どんな意味があるのか晴花にはわからなかったが、そのただでさえにぎやかな世界を縫って、丸や傍点、斜線などの記号が所狭しとおどっていた。

その乱雑な走り書きの塊は、晴花にはまるで余白を好んで食い尽くす細菌のようにさえ見てならない。

狂気的―――。

晴花の脳裏には、そんな言葉が浮かんだ。

晴花 これ…。

手帳を拾って、安堂に手渡した。

安堂 ああ…ありがとう。
晴花 あの…安堂さん?
安堂 ん?
晴花 私も…篠部くんの見せてもらってて…その…思ったんですけど…
晴花 このボシューダンヘーキン?…この数字はどっからでてきたんだろう…って。こんなの全部調べるなんて現実的でないですし…需要のある内容でもないでしょうからデータも…転がってるようなものじゃないですよね…
晴花 …だからトレーニング用の架空のデータとか…なのかな? 篠部くんのために…作った…
安堂 …おもしろいことを言うなぁ。
安堂 …でもリアルでないんじゃ…篠部にもさすがにつまんない会社入ったと思われないかな。…それはオレの責任としてまずいっしょ。
晴花 (なら、まぁ…ウチのデータベースを集計して代用値としてるんだろうな…)
晴花 あ、じゃあラーメン屋さんとかは…。マニアな人のホームページとかに…統計情報かなんかがあるんですか…?
安堂 ネット? …何で?
僕らの仕事は食事もたいがい外だから。いやでも記録に残ってくよ。…もちろん偏りは、あるけどね。

と、手帳をはたきながら、言った。

何て人だ―――。

晴花には、それ以外の的確な表現が浮かばなかった。


安堂のリサーチに関する顧客からのリスペクトは、この会社の窓口としての役割を担う内勤の人間ならば、誰だって感じ得る。だからこそ、そもそも自分の嗜好を二つ三つつまんだだけで、軽々と「母集団」なんて言葉を使えるような男では、最初からなかったはずなのだ。


「日常の行動でさえ、リサーチャーとしての好奇心が自分の欲求に勝る人なのか」


翔太の言う「安堂さんという人」とはそういう人間のことなのだと、このときはじめて理解できたような気がした。

安堂 さて…と。
安堂 じゃ、このままここで続けようか、篠部くんよ。経理課のお嬢様たちにオレらの仕事に興味を持ってもらえるなんて、うれしいもんな。
安堂 …いいよね?

…と、上機嫌でふたりに問うた。

綾子 聞かれるまでもないです。どぞどそ。
安堂 悪いね綾っち…。
じゃ…見せてもらうか。さっそく。
翔太 …あ…はい。ちょうど今検定まで終えたところで…
翔太 まず、task A …元データはこちら側、検定結果はこちら側です。

翔太が言い終えるのを待たず、安堂はマウスのホイールを回し始める。

検定の結果より、生のデータの方に興味があるらしい。

安堂 ……… これ、どっから抜いた?
翔太 …ウチのデータベースです。
安堂 乱数表は?
翔太 …必ず使え、ということでしたので。
安堂 アナログ的な手続きは基本だかんな。最初からそれをすっとばして、データとじっくり向き合えるリサーチャーになれるとは思えないぞ。オレは。
翔太 そして国の統計資料から当該地域のサイズを推測して、ウチのデータベースと比較してみてインターバルを決めました。…あと今回は、スターティングナンバーを乱数賽(らんすうさい)で決めて、そっからインターバルをとっています。
安堂 系統抽出か。…でもって、検定したら有意な差が出なかったと。
安堂 …なるほどなぁ。
つまり、だ。ウチのデータベースもなかなかのボリュームになってきたと言えるんかも、だな…。ふむ。
翔太 …あの?
晴花 え…。ということは…安堂さんの言う「リアル」って…ウチのデータでもないってこと、ですよね…??
晴花 ………………まさか。

晴花は安堂の手帳を凝視した。意図を察した安堂が、笑って返す。

安堂 ナイ…ナイ…。ウチのデータベースにケンカを売るには…この手帳じゃまったくもって力不足だよ。アリ1匹が象の大群に戦いを挑むようなもんさ。
安堂 日南さんは…おもしろいな。…オレらの世界の人間以外、さらりと流して受け取ってもらえるような部分に、いちいち敏感だ。
晴花 …すみません。なんとなくで……バカなことを聞いてますね…。
安堂 いや。なんかヘンな言い方だけど…わくわくするんさ。こういう世代がでてきたら、オレも長くないな、と。
翔太 そんな…明日にでもいなくなるようなこと、言わないでくださいよ。
綾子 あの、ウチのデータを集計したものじゃ…なぜダメなんですか?
安堂 うーん…。さすがにそれをもって「母平均」を称するのは…ウチの器じゃ、ちょっとおこがましいと思うんだ。…なんてったって、データの絶対数が貧弱すぎるよ…ウチはまだ。
安堂 …ま、会社で唯一信頼してる経理課のお嬢さま方からのツッコミだし…今日は特別だな…。じゃ…ちょっとだけ、この「母集団」のタネ、あかしちゃおう。
綾子
安堂 …ここ、にさ。

安堂は携えてきた鞄を開け、一枚の紙片をちらりとのぞかせる。


―――が、それは綾子たちに文脈で期待させたような、何か希少で神秘性に満ちた類のものではなかった。

それもそのはず、どこかの会社のパンフレットのようなページが一枚、複写されているだけのシロモノである。三人は、反応に窮した。

安堂 …書いてあるんだ。

と言うが、三人には安堂の意図するところがさっぱりだ。反応がないのもつまらない。安堂は、たまらず、

安堂 …ほら。とんでもないもんなんだけどな。

と言って、紙面をゆびでさした。

綾子 ほら…と言っても…。よくある、会社案内か何かですよね…
晴花 …調査か営業関係の資料…? 別にふつうの紹介文だし …task A に関するコトなんて…書いてないですよね…これ?
安堂 と思うっしょ? …でも書いてあるのよ。
綾子 いったい…?
翔太 …。
安堂 ふむ。ここに。

途中まで顔をのぞかせていた用紙の上端をつまむと、鞄からそれを完全に引っぱり抜いた。


「Cマートエキキタテン  FAX 0xx-…」


―――用紙の下端には、発信元のコンビニ名とFAX番号が印字されているだけだった。

綾子 はい?
綾子 …コンビニのFAX番号。
晴花 …ホンモノですか? お店も番号も?
安堂 ふふふ。もちろん。…改ざんでもしようものなら、送信事故があったときにいろいろとヤバイの。

安堂は、皆の反応を楽しんでいる。しかし、同時にそろそろ線引きが必要な頃合いだ…とも思う。

安堂 タネあかしはここまでー。
ともかく、ここで使った 58.2歳 っていう数字は、少なくともウチのDB(データベース)よりかは信頼に値するアウトプットを調整したものなんよ。
綾子 ひどーい。全然タネあかしになってないですー。
安堂 …ごめん。

といって、安堂は頭を掻いた。

安堂 よし。じゃあ次… task B は?
翔太 …あのですねー。こっちは自由にやっていいとのことでしたんで…。
翔太 …自由に…やってみました…。
安堂 おいおいなんだよ。…歯切れの悪い物言いだなぁ。
安堂 …まぁいいわ。データを見ればわかるかな…

安堂は別のシートに切り替えて、task B のデータに目を向けた。

安堂 …おい。
翔太 (ギクッ)
安堂 これぁ… 非確率なサンプリングだろ。
綾子 晴花
安堂 お前の主観性がぷんぷんと臭ってくるイヤ~なサンプルだな。…ごまかせないぞ。
翔太 ……
安堂 …なぁ。篠部よ。
翔太 は…はい!
安堂 お前、ハト って知ってるか?
翔太 …ハト?
安堂 「くるっぷるー」のハトだよ!鳩!
翔太 あ…はい、もちろん…
安堂 ならば言おう。お前はなぁ…
安堂 お前はなぁ…あの、大通りの向かいの公園の噴水ひろばの前でなぁ…
安堂 ハト様の大好きな……


安堂 エサをまいたに等しいんだよぉぉっ!!!!


翔太 …は?…はぁ……

安堂 お前、ハトの世界は広いんだ…。
安堂 ハトはなぁ…全世界に…全世界に…
安堂 ………
安堂 ……
安堂
安堂 綾っちヘルプ。

綾子 …はーい。
綾子 カタカタ……タタ……ウイッキーペヂアによると42属290種だそうです。
安堂 そう…42属290種いるんだ!
翔太 (…そのすごさがわかりません)
安堂 にもかかわらず お前はなぁ…噴水広場産の!
安堂 噴水広場産の! わずか1群…それもエサにつられた軟派な輩とワールドワイドで骨太な290種を同義ととらえた…
翔太
安堂 つまりだ。クソ偏った標本で…クソ偏った標本で…硬派なハト様をも語ろうとしたんだよっ!!!!
…ハト様に敬意がない。まったく!
綾子
晴花
翔太 (…反応を試されてる??)
翔太 …すみません…あの…正直に言います…
安堂

翔太 貧乏学生なもので…途中から………金が…続きませんでした………。ちょっと無意識のうちに、安い店…行ってしまったかもしれません…

綾子 晴花 (ガクッ)

安堂 ぬぅぅううぅ! この、ばかものガー!

翔太の脳天に、安堂の手帳チョップが落ちた。

晴花 あ、安堂さんっ! ぼ、暴力はいけませんっ!

晴花 綾子 (…あなたが言うか)

安堂 誰が食べてこいとまで言ったかよー。…たくお前はよーわからんわ。
翔太 …以前安堂さんにお昼連れて行っていただいたとき、僕も安堂さんの行動を見てる以上、task B くらいは安堂さんのやり方を真似したいなー…と思いまして…。
安堂 あふぉか! …ま、心意気は買っといてやるがな。
安堂 とにかく、これじゃ標本のテイをなしてないしな。…と、いうことで、こっちはやり直しだかんな。
翔太 はいぃ…。
安堂 じゃ、この件はこれくらいとして。オレたちは出かけるか。
…今仕掛中の案件がいろいろとややこしいから、そろそろ準備しておけよ。
翔太 わかりました。電話番中の要件とメモだけ上で片付けてきますので、少しだけ時間をください。

お昼休みも終わるころ、翔太が再び経理課に戻るのを安堂は待っていた。

翔太が部屋を出ていくと、安堂は応接室へと入っていった。以前の安堂なら、綾子とくだらない会話を楽しみながら時間を潰したものだろう。だがこのときは、その饒舌さが顔をのぞかせることはなかった。皆の死角となる狭い応接スペースの中で、ひとりしずかに翔太の支度が整うのを待っている。


ひと息ついた瞬間に、抱えているものが心にふっと顔を出す。

―――テンションが、続かない。これを綾子たちに覚られるのを、嫌った。


経理課のふたりに対して、安堂は日ごろから配慮を忘れない男だった。

仕事のやりとりを経る中で、こことの円滑な関係がちゃんと自分の仕事に返ってくることを、安堂は理解している。


しかし、裏を返せばこの関係性は、利害の枠のなかで築かれたものだ。仕事の中での、スマートな関係性なのだ。同じRS部員でも、田中のようには、いかない。同性で歳も近い田中のように、仕事を超えて理解しあえる関係にあるわけではない。


「しょせん脆い関係だ。ちいさな変化で、すぐに綻ぶ」

固いと信じていた家族の絆さえ失いかけているありさまなのだ。もうこれ以上、自分にとって大切な関係性に傷をつけたくはないと思う。


だからこそ、綾子たちのなかに築いた "自分というもの" を崩したくない。安堂が応接に籠ったのは、そんな理由からだった。

綾子 (安堂さん…調査のしごとはもちろん、こんなに面倒見だっていいのに…なんでウチじゃ、肩身の狭い思いをさせられなきゃダメなんだろう…)
綾子 (…ずっと考えてきた。非力だけど力になれればって。…今しかないよね)

綾子 (…よしっ!)

綾子は「マンガ・OLのためのビジネスデータ分析」を手に取る。そして席を立ち給湯室に足を運んだ。

給湯室で湯呑にお茶を七分ほど注ぐと、それを盆にのせ応接スペースの前へとやってきた。


ドアを二度ノックして、しずかに開ける。

予期せぬ綾子の来訪に驚いて呆然とする安堂をよそに、綾子はコーヒーテーブルの天板をなぞるようにして湯呑をすすめた。

安堂 …??
綾子 どうぞ。よろしかったら。
安堂 ありがとう…。綾っちに淹れてもらえるなんて、シアワセだなぁ。
綾子 安堂さん、ありがとうございました。…私たちも混ぜてくださって。楽しかったです。
安堂 やや…。ちょっと仕事の邪魔しちゃったかなって、こっちが反省しなきゃと思ってたとこだよ。

綾子 あの!!

綾子がにわかに手を挙げた。

綾子 ちがうんです…。
綾子 実は、私たちもこれ…勉強してるんですYO。経理課ももっとみんなの役に立てるようになりたいなー…って。

綾子は両手で「マンガ・OLのためのビジネスデータ分析」を胸の前に掲げた。

安堂 データ分析…
安堂 …驚いたな。

安堂は、ごくりと唾をのむ。

安堂 …そういやこの本、見たことあるぞ…えーと、あの………
綾子 …駅前の本屋さんで。安堂さんには及びませんけど、私も少し貢献してるんですよ。あそこの本屋さん。
綾子 …そんなんですから、安堂さんと篠部さんがやってたことが、本当におもしろく思ったんです。…それに、安堂さん。篠部さんに面倒見良く教えてあげてるじゃないですか。だからよけい、そんな機会をもてた篠部さんが…うらやましく思いましたYO。
安堂 あっ! そう言えば…。

綾子の話を聞いて、安堂の頭にふと、浮かんでくることがあった。

安堂 最近…。
部長が見慣れない BI(ビジネスインテリジェンス)表をダシにして発破をかけてくるようになったなぁなんて思ってたけど…
安堂 犯人は…綾っちか!

綾子 ひぃぃ…そんなつもりではぁ…
私はただ…みなさんが説明にしばられる負担を減らせればと…

安堂 冗談冗談。わかってる。綾っちたちの、仕事だかんね。
安堂 ま…昔みたいに感情的にドヤされることが減ってきた分、マシな気持ちで説教を聞けるようになったことは、否定しないよ。
綾子 …ごめんなさい。
安堂 いや…。お礼のつもりなん…。
なんだか我ながら…むなしい物言いになっちゃったな。…うん。まぁ、なんだ… また駅前のあのケーキでも、差し入れすっから。

綾子 あ! あの、でしたら…

安堂 …?

綾子 それより…私にもレクチャーしてください…なんて言ったらずうずうしいですか?

安堂 …えっ??
綾子 そろそろいい季節ですし…こんなのでどうでしょう…。ゴ゙ニョゴニョ…
翌月―――――。
ひ・み・つ
晴花 くっ…
翔太 …本当に、いいんですね?
晴花 …(コクリ)。
翔太 …じゃぁ。
晴花 …あっ。
晴花 ちがう…。ここをこうして…ていねいに…
翔太 …ご、ごめんなさい。はじめてで…。
晴花 …もう一度。…っつ。
翔太 …は、はい。
翔太 …こう、ですか…?
晴花 …うん。そんな…かんじ。
翔太 …うぅう。
晴花 なんで… 泣くの…
翔太 だって、晴花さん…慣れてるし…。…ってことは、僕の知らない間にたくさんの…

晴花 (……ひとり暮らしなんだから…自炊するのは、おかしいのか??)

晴花 もぉいい!… 私、やるから。
アンタは私が切った野菜、この鍋に突っ込んでって!

翔太 …はいいいいいいっ。

晴花 (てか… なんで私、ここでこんなことしてるんだろう…)
晴花 えーい。 ザク!ザク!スパ!ザク!ズシュッ!グワシャッ!!ドッドッツ…
翔太 (おぉ…。晴花さん乱れてる…。きっとこれが…乱切り…)
晴花 でもってこれも…いれとかないと
晴花 …ね! どんっ!↓!
12月上旬 20:10
安堂のアパート
安堂 (汗…ホントによかったんかな?

キッチンの晴花を指して言う。

綾子 ……授業料も、兼ねてますから、いいんです。外食ばかりだと言ってたじゃないですか。たまには、まともなもの食べないと。…奥さまもきっと心配されてます。
安堂 でも…
綾子 晴花さん、お料理上手ですから。……お弁当、いつもすごくおいしいんですよ。それに、篠部さんの夢も叶えてあげたかったですし。
安堂 …夢?
綾子 あ、いや。こっちのハナシです。
綾子 …安堂さん。次教えてください。次。
安堂 …あ、ああごめん。えーと…
綾子 この「検定の過誤」ってトコです。この前、ちらっと晴花さんからそんな言葉が出てたんですけど…聞こう聞こうと思ってるうちに、月末の忙しさにまぎれてどっかいっちゃってました。
安堂 オーケーオーケー。
過誤はね…ま、文字どおりの「誤り」や「ミス」のこと、だね。検定にあたってのね。
綾子 計算間違い…のことですか?
安堂 残念。ちょーっと違うかな。
計算は正しいものとして ’判断’ の方で誤ること、だね。
安堂 さっき見たように、検定ってさ…
帰無仮説の上でめったに起きないことが起こったら、その帰無仮説はそもそも間違ってた…って考えるもんだって、綾っちの本にも、書いてあったじゃん?
綾子 はい。
安堂 ということで、おふざけだけどこうしよう。2つの仮説を用意するよ。
綾子 コレナンテ…
安堂 「オレ的主人公」の特性についてのツッコミはなしね。察してもらおう。
綾子 …はい。
安堂 有意水準5%の両側検定で、検定統計量Tの有意確率…すなわちP値が3%という値が出たとするよ。
安堂 そしたら帰無仮説はどうする?
綾子 P値が有意水準より小さいから… 棄却、できますね。
安堂 そのとおり。オレ的主人公にとっては悲しくも対立仮説が採択されてしまうのね。
綾子 …両側検定ですから。美少女がより多く起こしてくれる可能性だって、あるじゃないですか…。
安堂 やさしいなぁ…綾っち。うっうっ…(泣)
安堂 ともかく、綾っちの判断はこうだった…わけだ。
帰無仮説の下ではめったに起こり得ないことが起こった→ありえない。そもそも帰無仮説が間違っていた
綾子 …違うんですか?
安堂 いや。検定の考え方は…それでいいんよ。
安堂 でもね!
綾子 …は、はい。
安堂 すべてを知っているカミサマが見たら、本当はこうだったのかもしれない。
帰無仮説の下ではめったに起こり得ないことが起こった→そのめったに起こり得ないことが本当に起こっただけ
綾子 ああ…なるほど。
安堂 さっき、帰無仮説を捨てるかどうかは有意水準を基準に考えたじゃん? 有意確率(P値)が有意水準(α)を下回るようならば、帰無仮説を棄却すると。つまり、帰無仮説のもとでだってわずかながらコトが起こる確率があるのにもかかわらず、一定のラインを基準に、それをすっぱり無視してしまうことになるんね。
安堂 …こんなカンジで、実は帰無仮説の方が正しいのにも関わらず、棄却しちゃう(=対立仮説の方を採択する)ことが「過誤」のひとつ目なん。これを、「第一種の過誤(第一種の誤り)」と呼ぶんよ。
安堂 と、来ればさ。ふたつ目の「過誤」は「第二種の過誤(第二種の誤り)」…なーんてものがあるわけだ。こっちは、さっきとは逆に…帰無仮説が誤っているのにも関わらず、棄却できない(≒採択しちゃう)こと。
安堂 帰無仮説の真偽と、採択・棄却のアクションをクロスさせて考えれば…過誤はこんなカンジで表にできるね↓ カキカキ。
綾子 …ふんふん。
安堂 さて、ここでクイズ。
どうだろう、綾っち…。この…第一種の過誤だけど…実は完全になくすことができるんよ。はてさて、どうしたらいいと思う?
綾子 なくす? それ…あってる帰無仮説が絶対に間違って棄却されないようにする…ってことですよね?
綾子 えええ…。それは難問です…。私にはわかりませんよぉ…。
安堂 ははは。…そりゃそうだ。
綾子 …?
安堂 答え!
帰無仮説、死んでも棄却しなきゃいい。
綾子 …はい?
安堂 …ちょっとズレた表現だけど、帰無仮説の方だけを何も考えずにどしどし選んでいけばいいんさぁ。
安堂 明らかに「イケメン主人公とオレ的主人公で差がある場合」でも何のその! 「うそだ!うそだ!そんなの嘘だ!差なんてない!…オレは絶対に帰無仮説を棄却しないぞ」って貫き通すの。…なんと第一種の過誤、完全封鎖。
綾子 Booooooooooo…いつからとんち合戦になったんですかぁあああ…
安堂 (汗…たとえ、バナシ…。
安堂 と、いうのも、こんなことが、言いたかったんよ。
安堂 その、第一種の過誤を完全に排除した状態を想像してみよう。要するに、どんな誘惑にも負けずに帰無仮説を棄却しない!…ことをしつづける状態。
綾子 あ、はい。
安堂 ということで、さっきの表からも帰無仮説が棄却される可能性を完全に排除しようね。シュッシュ…
綾子 …当然、間違った帰無仮説も、正しく棄却できなくなっちゃいますよ?
安堂 だぁね。でも、第一種の過誤を完全に排除するってーのは大義さぁ。大義の前に、これは犠牲になったんだ…。だから、仕方がないよ。
綾子 …むむ。ナンカおかしい…
綾子 …って。結局、第一種の過誤を嫌って帰無仮説を採択しつづけた場合でも、帰無仮説が間違っていようとも無条件に採択しちゃうしかないんですから…ダメじゃないですか…。
安堂 …そのとおり。
第一種の過誤を排除したところで、第二種の過誤の魔手からは逃れられないのだ。
安堂 …逆もまた、しかり。
安堂 ということで、ここらで整理してみよう。
安堂 まず、下のような帰無仮説と対立仮説の分布を設定しておくよ。
綾子 はい。
安堂 でもって、帰無仮説と対立仮説はこんな状態にあることをカミサマは知っているとしようか。…帰無仮説は正しいものであり、対立仮説は誤ったものである、と。
安堂 そこでカミサマじゃない綾っちが検定をおこなうわけだ。…2つの仮説を立てて。
安堂 両側検定の場合、有意水準をαとして、図にはこんなふうにあらわせるね。
綾子 はい、はい。
安堂 では、検定統計量Tを計算したら、こうでたよ。
安堂 綾っちのアクションは?
綾子 それは…棄却域にかかったので…
綾子 「帰無仮説のもとでこんなことが起こるなんて、確率的におかしいやい!」
綾子 と判断して…帰無仮説を棄却して、対立仮説を採択しマース!
安堂 でもカミサマは知っていた、と。「おかしくないやい!」って。
安堂 これが、第一種の過誤、だぁね。
安堂 結局、この図の場合、帰無仮説が正しくても α/2 の確率で棄却されてしまうんだ。その意味で、「有意水準」は第一種の過誤をどの程度まで許容するのか…を決めるものと見ることもできるね。
安堂 じゃ、次。今度はこんな分布を設定するよ。山の頂を、互いにちょーっと近づけた以外、さっきと同じだかんね。
安堂 でもって、こっちもカミサマは知っているんだ。…帰無仮説は誤ったものであり、対立仮説は正しいものである、ってね。
安堂 …有意水準と検定統計量Tはこうしよう。
安堂 …綾っちの判断が待たれるね。
綾子 こっちは…棄却域にかからなかったので…
綾子 「帰無仮説のもとでこんなことが起こっても、確率的におかしいことじゃないやい!」
綾子 と判断して…帰無仮説を採択しマース!
安堂 …と、いうことで…第二種の過誤が発生したわけだ。
安堂 検定統計量Tが棄却域にかかっていたら、誤った帰無仮説がめでたく棄却できてたはずなのに、残念ながらそれが叶わなかった。
安堂 つまり、本当は採択されなければならなかった対立仮説の分布の中の、黄色い部分(下の図)で確率的に生じたことを上手に判断できなかったわけさぁ。
綾子 なーるほど。
安堂 キビしい見方をすれば「帰無仮説を採択する」って言うストレートな表現が好まれないのは、この誤りの可能性があるからなんよ。だからこそ「イケメン主人公とオレ的主人公で差がない」と言いたいところを、あえて、『「イケメン主人公とオレ的主人公で差がない」とは(第二種の過誤の可能性も考えたら)言い切れない』と、判断を保留するような表現にしとくことが多いんさ。
安堂 …ということで、この、第二種の過誤が起こる確率は β としておこう。
安堂 はてさて。こっからは、最初に表で見たような状況を想定してみよっか。…ま、あれほど極端じゃないにしろ。
安堂 つまりね…第一種の過誤がなるべく起こらなくなるよう、今よりαを小さくしてみることを考えてみるんよー。
安堂 すると…どうだろう。
綾子 …そのぶん、第二種の過誤が起こる確率(β)が増えちゃいますよね。
安堂 うん。
安堂 と、いうことで、今度はあわてて第二種の過誤が起こる確率を減らそうとすると…
綾子 …第一種の過誤が起こる確率(α)を甘めに認めなきゃダメっぽい…
綾子 …結局、第一種の過誤が起こる確率と第二種の過誤が起こる確率をいっしょに小さくすることはできないんですね。
安堂 条件が同じであれば、ね。ま、要は “バランス” が肝心ってことなんだ。人生訓みたいだね。…投げっぱなしのようだけど。
安堂 …そうそう。この関連で付け加えておくと、βの補数となるこの空色の部分…
安堂 …ベータとは反対に 誤った帰無仮説を正しく棄却できる確率、となるね。ここはね、「検出力(検定力)」って呼ばれてて。オレらの仕事だと、ここを一定量見積もりながら、サンプルサイズを設計したりすることもあるんよ。場合によっては、ね。
綾子 …簡単に聞こえますけど、実際はたいへんなコトですよね?
安堂 …リクツまで突き詰めればそうだろうね。でも、仕事の上ではパソコンが計算してくれっから。…みんな、深くは考えてないよ。

安堂 だから綾っちもいつかおいでよ。…オレたちの仕事場に。

綾子

綾子 でも…それまで会社にいるのかなぁ? ダーリンが待ってくれないような…
安堂 なーにー!? 聞き捨てならぬ…
予定でもあんの? っていうか…オレのしらぬ間に…カレシが…!?
綾子 ジョーダンです! ヤっバイくらいに縁がありませーん!
安堂 だよなぁ…。そんなヤカラがいたら、オレが叩きのめしに行こうかと思ったし!

安堂は、笑って言った。

―――安堂のレクチャーがひと段落ついたころ、キッチンでは、翔太がぐつぐつと音を立てる土鍋にフタをかぶせていた。そして、空色の水玉模様がプリントされた、青いキルト地の鍋つかみに手を挿しいれる。

晴花の生活のにおいを感じられるものに触れられた喜びに、しばらくは浸っていたいとも思う。が、その本人に怪訝な視線を向けられては意味がない。観念して、電気コンロから土鍋をぐいと持ち上げた。


翔太は白い歯を覗かせながら、小さなキッチンから綾子たちのいる居室へと、ふつふつとした重たい音を響かせる鍋を運んでいった。


本来、この部屋は、人ひとりが寝起きするには余裕があるくらいの広さだろう。生活に必要なものも、最低限しかみあたらない。しかし、翔太には、それでいてひどく圧迫感のある部屋のように感じられる。

理由は、わかる。―――この部屋を狭く見せているのは、まぎれもない…部屋の片隅に裸のまま高々と積み上げられた書籍の束以外にありえなかった。

翔太 お待たせっす!

翔太は、さきほどまで安堂が教卓代わりに使っていた平机の上に、鍋をおろした。

それを囲むようにして、綾子が、道中で買ってきたジュースやお酒、はたまた使い捨ての食器類を並べている。そして晴花の支度が整うのを待ってから、四人が鍋を囲って向かい合った。

翔太 では、開けますよ。開けちゃいますよ!

綾子と安堂は、翔太の手元をまじまじと見つめていた。

翔太 じゃ―――――――ん!

安堂 綾子

安堂 綾子 ぬぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ!!

翔太 …どーです? 最高に美味しそうじゃないですか? …ていうか、とびきりですけどね。
安堂 たしかに…こりゃうまそうだ。
翔太 心をこめて、作りましたから。
安堂 ぬかせ。お前は足引っ張ってただけだろ。…怒られてるの、ちゃんと見てたぞ。
翔太 ですよねー。
綾子 まぁまぁ。晴花さんも篠部さんもありがとうゴザイマース! …ということで、

全員  いただきます!

翔太 (…ううっ。晴花さんの作ったもの、初めて口にできたし…。綾子ちゃん…ありがとう…)

それぞれが箸をすすめながら、他愛もない話に花を咲かせる。

こと小さな空間を共有して囲む鍋の温かさが、日々、ひとりの夜を甘受する安堂の心に深く染み入った。

安堂 …ふぅー。うまかった。…こんなマトモな食事をしたのは、どれだけぶりだろう。
安堂 日南さん…ありがとう。こんなうだつの上がらない男の家までご足労頂いたにもかかわらず、手間をかけさせちゃって…。 …オレは何と礼を言ったらいいか。
晴花 …いえ、口に合えばそれで…。それに篠部くんが…
晴花 いつも苦労かけてる先輩のためって、かんばってくれましたし…。
翔太
安堂 …そうだった。お前にも礼を言っとくよ。…申し訳程度に。
翔太 そりゃないですよ…
安堂 …でもさ。お前って。…ほんっと、シアワセなヤツだよな?
翔太 え…
安堂 社長だよ社長…。最近、何かにつけてお前を同行させてるじゃねーか。
翔太 だって… 僕が人一倍未熟ゆえのことだと思いますけど…
安堂 バカ言え。…あの寵愛っぷりは、お前への期待のあらわれ以外にあるもんか。オレの知る限り、あんな社長を見るのは宮地くんのとき以来だ。
安堂 …それと、おまけにだ。
翔太 は、はい…。
安堂 お前、3部のナカちゃんにもミョーにかわいがられてるよな…。あの、ナカちゃんだぜ? お前にどんな才能があってナカちゃんがあんな顔を見せるんか、オレには理解できんよ…。
翔太 田中先輩は…とても尊敬できる人だと思います。
安堂 しれっと言うなよ。…半端ない気の強さを持つ彼女だぜ? ときに社長にだって、遠慮を見せないほどのな。……とかく、本能むき出しの狩猟スタイルだかんな…。狩られっぞ。
安堂 ともかく、オレたち同僚なんて…ナカちゃんにしたら、所詮、うざいライバルのひとりなんだろう…
翔太
安堂 …と、オレは最近まで思っていたんだがな。
安堂 近頃じゃ…なぁ。逆に彼女の方がみんなにウザがられるよーなありさまで。

安堂の顔が、にやける。

綾子 本当ですか!? いい人なのに…
みなさん、ひどいです…
翔太 綾子ちゃん。いい意味で、だよ。
田中先輩、上に余裕があるとき、いろんな人にからんでるんで…。…どっから仕入れてくるのか、さむーいオヤジギャグ9割で、さ。
綾子 ……
安堂 上の空気をすこーしだけど、変えたな。あれは…。
安堂 ま…いい。ここまではオレも許そう。
翔太 …?
安堂 問題は、こっからだ。ウチに来てまだ日が浅いにもかかわらず、こうして…綾っちたちにこの場に誘ってもらえるほどなぜに信頼を得てるんだ。お前ってヤツは…
安堂 …お前ってヤツはぁぁぁああああぁぁ!!
翔太 …は、はぁ。
安堂 綾っち! こ、コイツが いけめん だからなのか? 綾っちだけはそんなふうに人を見ないと思っていたのに… 世の中 いけめん は正義なのか??
綾子 ……ち、ちがいますよ。安堂さんがかわいがって面倒見てあげてる後輩だからこそ、こうしてお誘いしたんですYO。
安堂 …うん。そうだと思った。綾っちサイコー。
翔太 …先輩。コドモみたいなこと言わないでくださいよー。先輩にはホント感謝してるんですけど、あまりにも飄々とされているので、正直、先輩が何考えてるのか時折分からなくなったりします。
安堂 …………………………だから、ダメになる…んだろうな。…家庭も仕事も。

しばらく間をおいて、そう、安堂はつぶやいた。

…なごやかだった空気が、一瞬にして凍りつく。

翔太 …す、すみません、そういうつもりじゃ………。
安堂 いや…ちがう。
安堂 みんな、オレの苦しいところに触れることなく、こうしていろいろ気をつかってくれたんだ。なのに…何もなかったように黙ってるいのは、さすがに心苦しいさ…。
安堂 …本当のところを話しておきたい。聞いてくれるかい?

綾子
翔太 …(コクリ)
晴花

安堂 …嫁とチビと離れ、ここで暮らし始めて…もう3か月にもなる。
安堂 事情があって、ゴタゴタしてね…。話し合った結果、彼女がこれからについて一度まっしろになって考えたいと言うから…今の生活を受け入れたんだ。

安堂 ただ、キミらに誤解だけはしてほしくない。彼女に非があるんじゃない。…オレが、誤っただけ、なんだ。

翔太

安堂 彼女とは、前の職場で出会ったんだ。…広告代理店で営業してた頃。
安堂 あの仕事、最初はぜんっぜん興味もなかったけど、今の仕事の原点というか、そういうところがあってさ…。そうしたコトに触れるうち…
安堂 …どうしたことか、オレ、柄にもなく野心に燃えちゃったわけよ。
安堂 「リサーチを専業とする会社にいきたい。そしてやがては…コンサルタントとして自分の城を持ちたい」なーんて思っちゃったわけで。
安堂 のろけた話でもうしわけないっちゃーなんだけど…
そんな夢を追いかけるオレの姿が好きだと、彼女が言ってくれたんだ。オレと「一段一段、同じ歩幅でステップアップしていきたい」って言ってくれた。
安堂 最初はオレだってそのつもりでがんばってきた、はずだった。
安堂 ずーっとがんばろうって思ったさ。
安堂 …でもその結果は、どうだろう。
…オレは、ヘタれた。…ある選択を境に、さ。
翔太 …。
安堂 正直、な…
オレ…。
安堂 もう…いろいろと、取り返しのつかない局面に来てるなと思う。
この会社にも、今の自分にも。

綾子 !!

安堂 本当のオレは、夢を抱くどころか、いつしかずーっと今を虚飾することで精いっぱいな男になっている。
安堂 でも、それでもいいと思う自分もいる。…家族で、ああして幸せな生活をおくれたのなら、何もいらない。
安堂 多少の不満はあっても、日々恵まれた生活をおくることができる。家族・仕事・お金と、誰かより劣った生活をおくらされているわけでもない。いや、自分で言うのもアレだけど、金銭的に余裕のある暮らしを与えてこれた…
晴花 …。
安堂 確かに…オレは、小人物(こもの)だ。煮え湯につかるカエルのように、今の心地よさに目を奪われた。…以前のような情熱を失っていく。でもこれも幸せのカタチだろ、と。
綾子 ………
綾子 そりゃ、誰だって夢や理想を抱くことはすばらしいことだと思いますけど…。でも…それは大切なものを守ってこそのことですもんね…。
綾子 私に安堂さんのご家庭のコトをあれこれ語る資格はないですけど…少なくとも私は…安堂さん、いいパパさんしてらっしゃるし…それって素晴らしいことだと思います。
安堂 いや、そうだね。その通り。…オレもね、何よりまず、彼女とチビの幸せを考えていかなきゃならない。それ以上のものなんてない。そのためなら、すべてを甘んじてでも受け入れろ、とさえね…。そう考えることは崇高なことだと、何より自分を納得させてきたつもりだった。
安堂 …でも違うんだ。あるとき、気づいたんだ。それはオレの心の弱さだと。
オレは、彼女たちの存在を、逃げの理由としていいように使っているだけなんだって。自分が袋小路に入り込んでしまって何ら這い出せない理由を、彼女たちに求めてきただけなんだってさ。
安堂 …そんな卑しい部分を、彼女には見透かされてるんだ。
安堂 だから、彼女は言う。
…今のオレは、好きだった男とは違う、と。

綾子
綾子 あの………安堂さん。
綾子 以前…おっしゃってましたよね。「ものを売るのがこわい」って。…あれ、どういう意味ですか?

安堂は、思わず綾子から目をそらす。

安堂 あれは………。

と言ったところで言葉を切った。安堂は、狼狽の色を強くする。しばし黙ったまま、心の内にあるさまざまなものを天秤にかけ、逡巡した。

安堂 酒にのまれて………あの日はとんでもないことを言ってしまったな。
安堂 ………綾っちごめん。………言えることと言えないことがある。
綾子 …言えない…こと…
安堂 ………オレはこうしてここでも墓穴を掘っていくのな。

翔太 (ゴクリ)…

安堂 マシな方だけ言うよ…。それでも、失うものは大きいけれど…。

安堂 ………仲間の仕事がうざったいと思ったら、おわりだということさ。

安堂 ウチのしくみじゃ、誰かの仕事が………自分にふりかかってくる。その都度、客から責められ、なじられ、罵倒され、蔑まれるより、オレはモノを売らない選択肢の方が心地いいと思ってしまったんだ。…いつからか。
安堂 …社の人間としては、サイアクだ。

綾子

12月上旬 22:00
駅への帰り道

片づけを終えた三人は、安堂のアパートを辞した。

安堂は、綾子たちを駅へと向かう道の途中まで送っていった。―――皆、気持ちの切り替えのできる大人だ。先ほどの重い空気は、ここにない。暗んだ裏路地を皆が横一列になって、くだらない笑い話を交わしながら歩みを進めた。


夜空にさす駅の灯りがはっきりとしてきたころ、綾子たちは安堂に礼を告げる。そして、安堂はもと来た道を背中を丸めて帰っていった。安堂は、ときおり柔和な表情で綾子たちの方を振り返り、二,三度大きく手を振りながら遠くなっていく。


―――そんな安堂を、綾子たちはしばらく笑顔で見送っていた。

綾子 安堂さん、抱えてましたね。…いろいろと。
晴花 …うん。あんなコト思ってただなんて、びっくりだけど。
翔太 あの…。「仲間の仕事がふりかかってくる」っていうのは…
いったい…
晴花 …あ、そっか。翔太くん、まだそのへんの仕組みは知らないんだ。
翔太 はい…。
晴花 …ウチはさ。たとえば翔太くんが調査案件とってきても、それ、自分では調査できないってこと。
晴花 だからマズイものが納品されたら…。
翔太 僕がまるく収めなきゃならないってことですか?
晴花 ま、ね。
綾子 …でもしかたないんですよ。そればっかりは。
翔太
綾子 極端な話…安堂さんにしか調査が来なくなります。
翔太 なるほど…。
晴花
晴花 …でもさ。
晴花 それなら…他所だってあるのに。…どうして行かないんだろう? 宮地さんみたいに。
綾子 何だかんだで…安堂さんだって…この会社が、好きなんですよ。…きっと。
翔太 …。
12月上旬 18:40
リサーチサービス社

別の日。経理課―――。

田中 あれ。いないんだ? お昼からここだよね、彼?
綾子 翔太くんさん?
田中 …そう。イケメンくん。
綾子 学校に用があるって、今日はもう抜けましたよ。…ソツロン…っていうので、大変みたいです。
綾子 あ。でも書類なら、ちゃんと預かっていますから。

綾子は、角型の茶封筒を田中に渡した。

田中 そっか。ありがと、綾っち。

田中は、封の中から一枚の紙を取り出した。

田中 ふむふむ。
田中 …へぇ。先方さんの推測より大きく出たもんだねー。
綾子 田中さんからの頼まれもの…って言ってましたけど、マーケティング調査の方ですか?

田中はあたりを見回して、他に人がいないのを確認した。

田中 大きな声では言えないけどさ。…アタシのお客さん、オフィスナックサービス社の依頼のもの。
晴花 ああ…。例の、“ハイパーウルトラアルティメット激辛ポテチ” の。
田中 …そう。アタシの勝負を決定づけてくれた、恩人? いや、恩社、だね。

笑いながら、再びあたりを見回した。

田中 ここじゃ難しい話もあるし…どう? たまには。…このあと、女3人、ナーヴで女子会しない?
綾子 賛成、賛成!
晴花 なら…私も。
12月上旬 20:10
Navi in Bottiglia
晴花 …というわけで。
晴花 ごめん。自分のことばっかしゃべっちゃったけど。
…田中さんの方は。最近、どうなん?
田中 まぁおかげさまで…といったカンジ? なんとか、やれてるわ。
綾子 謙遜しないでくださいよ。私の知る限り、ぜんぜーん順調じゃないですか!
綾子 おまけに、さっき会社でも何かの案件握ってたようですし…。
田中 あれ、ね。…次に向かってギリギリなせめぎ合いの真っ最中でさ。
晴花 もしかして BBI が噛んでんの?
田中 そう。…もともとは BBI 使ってて。ほら、OSS(オフィスナックサービス)社って、今、この地方の開拓に熱心じゃない?
田中 それで、ウチの企業情報DBが目的にかなって気に入ってもらえたから、前回 BBI にオファーした市場調査もまかせてくれることになったのよ。
田中 それだけじゃないわ。先方さんに通っていろんな事情を伺ううちにさ…ひとつのイシュー(課題)が見えてきのよ。アタシ、そこを提案しようと思ってて。
田中 ただ、ね。BBI もあきらめがわるくて。
やれ、「調査の整合性が」だの「評価リスクを抱えることになる」だの喧伝して、先方さんに揺さぶりをかけてきてんのよ。アタシにとっては次にもつなげたいところだし、例の調査があがるのが気になっててさ。
田中 でも知っての通り、誰が調査してるのかはアタシには分らないし…。
でもね、上でバカみたいにくだをまいてた時にさ、ラッキーにもそれっぽい調査票を発見したのよ。
田中 …安堂さんの、デスクの上にね!
田中 安堂さんがやってるなら、当然イケメンくんがサポートしてるはずじゃん? …やることは明白だよね。踊り場にこっそり呼んで、耳元でこうささやけば…イチコロ。
綾子 な、何ですか!?
田中 「本当のコト教えてくれないと…経理課のみんなの前でおねーさんが、ぱふぱふ(ハート…しちゃうけど、あとのことは知らないぞ」、と。…あえなく陥落。

晴花 (あの…バカ…)

田中 おかげで…現物があがるのを待たずにアプローチがかけられそう。…BBI には退場願いましょ。
綾子 …あの。その、安堂さんが担当した調査って、どんなものだったんですか? よかったら聞かせてください。
田中 あ…アタシって! 肝心なコト、言ってなかったね…。えーとさ、OSS社がやってるような、オフィス向けの据え置き菓子提供サービスの認知度調査なの。具体的には…こんなの…ね。

母比率の検定の手順をひらきます

綾子 なるほどぉ…。
前回、BBI がやった調査の結果と比較して有意な差が出たんですね。
田中 …認知度が向上したのは、おそらく疑いないね。
晴花 OSS社は…実際にこの結果を裏付けるような恩恵に預かってるん?
田中 そう…そこなの! 正直…否、ね。
田中 ここだけの話、OSS社が予想してるのは10ポイントくらいの上昇。でも、それは売上の伸長率を反映したものじゃなくて、先行の大手ライバル社の資本力にものをいわせた積極攻勢に痛いほど悩まされてきた肌感覚から言うものなの。
田中 このライバル社の親会社は大手食品メーカーだし、スーパーやコンビニに大きな棚を持ってるからね。ブランドの知名度はすでにハンパないわけで。…まさに、強敵。
田中 そこへきて今回の結果は大きいだろうな…。そんな肌感覚で得た予想さえ超えてきたからね。ま、OSS社としては、販路の脆弱さを認めざるを得ないよ…。だからこそ、先方さんも今後の展開について、“最適解” を探そうとするはず。…おそらく、ね。
晴花 …そこが、田中さんにはチャンス ってわけだ。
田中 でも BBI だって考えることは同じはずだから。少しでも先手をとらないと。
…明日から、また気を引き締めてかからないとなー。
綾子 今の田中さんなら問題ナッシングですよー。
なんてったって、うちの新・エースなんですから。
田中 くぅ~。ウソでもいい響き!
そう来られたら仕方ない……綾っち、ワインおごるわ。好きなの頼んで。日南さんも。
綾子 わーい。やった! ありがとうございます。
晴花 …いいの?
田中 女にだって、二言はないさー。ささっ、早く。
晴花 …じゃ、ありがとう。

晴花 すみませーん!

晴花は、キッチンの傍にいた優里を呼んだ。

ナーヴ 優里 まいど。
晴花
晴花 …アンタさぁ。「まいど」って何よ、「まいど」って…。本格派イタメシ店のオーナー夫人の自覚あるん?
ナーヴ 優里 ああ、ごめん。考え事してたもんで…。でもいいじゃん…しょせん晴花だし。
晴花 しょせんでわるかったな…しょせんで。もういい、ワイン頼んであげない。
ナーヴ 優里 あ~ら。追加のご注文でしたこと?
どのワインになさいます? あ、このページよりこっちのページのワインの方が more expensive でオススメでしてよ。オホホ。
晴花 田中さん、ごめん…。こんなガメツイ友人で代わりに謝っとく。
晴花 優里! これは私が払うんじゃなくて田中さんがご馳走してくれるのよ! バカ!
ナーヴ 優里 …うげ。
ナーヴ 優里 み…美希ちゃん、ごめんねー(汗
田中 いえいえ。日南さんと優里さんの悪友っぷりは、見てる方は楽しいですし。
綾子 優里さーん、私、これでお願いします。
ナーヴ 優里 リョーカイです。綾子ちゃん。
綾子 …晴花さんは?
晴花 ぐぬぬ…。 水!
綾子 大人げないですよ、晴花さん。
…優里さん、私と同じのでおねがいします!
田中 じゃ、アタシも!
ナーヴ 優里 かしこまりました~。

伝票を携え、優里は店の一角のワインセラーへ向かった。

綾子 …あのワイン、食事の後にすごく合うんですよ。甘さが控えめで、食事の後の脂っぽさを気持ちよく飛ばしてくれます。
田中 だよね。アタシも、好き。…でも、こないだね、アタシの彼が頼んだこの赤の方と飲み較べしてみたの。それこそ more expensive なだけあって、赤の方も…

と田中が言ったとき、

パッリーン!


と、いくつかのグラスの悲鳴が空間をつんざいた。

店内は、一瞬にして、喧噪を失った。

音の出どころである、ワインセラーの方角を皆が振り向く。

綾子 …!

割れたガラスの散乱する床に、手をついてかろうじて身体を支える優里の姿があった。


「っ!」


晴花は思わず椅子をはねのける。そして、優里のもとへ一目散に駆け寄って、彼女の身体を背後から抱き支えた。

晴花 優里! 優里っ!!
[挿絵]特別レクチャー