ひとりマーケティングのためのデータ分析

StoryPart

Chapter 4 > Section 5

このセクションで登場するツール

晴花 優里! 優里っ!!

晴花は小さく、そして何度も小刻みに 優里の身体を揺さぶった。



―――「うう…」


血の気を失った優里が返せる、精いっぱいの反応だった。

晴花 …!

優里の様子にあわてた晴花は、無意識にオーナーの姿を探していた。



―――はたと、弘毅と目が合う。


グラスの悲鳴のあと 音のなくなった空間に異変を感じた弘毅が、キッチンから顔をのぞかせた。

晴花 弘毅さんっ!!

視線を落とすと、晴花に抱えられた優里がいる。弘毅は事態を把握した。



「!」


優里のもとへと 身体を小さくして駆けた。

同じくして、綾子と田中も騒ぎの傍へとやって来ていた。

ナーヴ 弘毅 優里! 優里! どうした!?

弘毅は幾度か問いかける。その返答さえ危うい優里の顔色を見て、弘毅は決断した。

ナーヴ 弘毅 まずいな… すぐ救急車を手…

と言ったとき、優里は目を閉じたまま、弘毅の前腕をがしと掴んだ。

ナーヴ 優里 ……だめ…
ナーヴ 優里 大事なお客さまに…迷惑がかかる…
ナーヴ 弘毅 何をバカなことを! それとこれとは…!

優里は 晴花の支えをたよりに 身体を苦しそうに少しだけ起こす。そして うっすらと目を開け、弘毅に言った。

ナーヴ 優里 本当に大丈夫…めまいがしてちょっと気分が悪くなっただけだから…
お願い…
晴花
晴花 弘毅さん。とりあえず…奥で休ませましょう。…すいません、勝手に上がりますから。
ナーヴ 弘毅 …あ。
晴花 綾っち、ごめん、手伝って。
綾子 あ! はい!

ふたりは両脇から優里を抱え、店の奥へと連れていった。

残った弘毅は 思わぬ事態に動揺を隠せずいる。店の切り盛りのことなど頭から失したように、抱え連れられていく優里の後姿を見ながら、ただその場で荒い呼吸を繰り返していた。

「まずいな」

田中は思った。

(――――他に人員不在の今、弘毅ひとりでは店が回らないだろう――――)

床に四散してオレンジの光を反射するガラス片を片付けながら、田中は言った。

田中 あの、オーナー。
唐突ですみませんけど、ホールのしごと…アタシがやります。
ナーヴ 弘毅 …え?
田中 とりあえず自己紹介は後にします。
よく通わせてもらってますから、だいたいの勝手はわかるとは思いますから。

弘毅は我に返った。目の前の人間は、店を回すことができるよう自分にキッチンの仕事に専念させようとしているのだと。「たしかに、これからパートタイムの学生を緊急でアテにできるかも不確定だ」―――と弘毅は思う。急場をしのぐには、優里の友人であろう人間を信用してみるしかなかった。

ナーヴ 弘毅 なら…恩にきます。
あそこに優里のエプロンがありますから、それ使ってください。
田中 了解です。

田中は上着を脱いでウエストエプロンを巻きつけると、あたりまえのようにホールの切り盛りをはじめた。物怖じしない彼女の行動をしばらく見届けると、弘毅はひとまず自分の役割を優先してもよさそうだと判断した。

―――その後しばらくして。

綾子が奥の間から戻ってきた。そして、弘毅のもとへと向かった。

綾子 オーナーさん。優里さん、少し落ち着きました。晴花さんが側にいますから 安心してください。
ナーヴ 弘毅 …ごめん。でも、よかったよ。

安堵の報告を聞く間も、弘毅の手が休まることはない。

ナーヴ 弘毅 …キミはあの…日南さんの友達の…
綾子 あ、すみません。
綾子 きちんと自己紹介したことなかったですね。…寺畠といいます。
ナーヴ 弘毅 …テラハタさん。ありがと。このありさまで満足なお礼もできないけれど、ドルチェケースから好きなのでも取って食べてってもらえれば。
綾子 ホントですか!? うわわわわ! じゃ…
綾子 (イケネ…)
綾子 いえ。それより、あの、オーナーさん。
優里さんがお店のコト心配してるので、私にお手伝いさせてください。優里さんに横になっててもらうには、それがいちばんですから。
綾子 …ぜひ。
ナーヴ 弘毅 …そう言ってくれるなら、あの、ホールの、その、タナカさん…助けてあげてくれるとうれしいかなーっと思って。
ナーヴ 弘毅 タナカさんは上手にやってくれてるけど、優里の仕事をひとりでカバーできるはずもない。いちいち僕の指示を仰がなきゃならないから、タナカさんに負担をかけてしまうのが心配で。
綾子 あ…はい。

綾子は田中と合流すると、ふたりで補い合いながら優里の空白を埋めていった。
そして、奥の間では―――。

晴花 今、お店見てきたけれど、綾っちと田中さんがホールの仕事 やってくれてるわ。だからアンタは寝てても大丈夫。…いやはや、あのふたりはスゴイな。私には 到底無理な芸当を、あたりまえのようにやってのける。
ナーヴ 優里 …そっか。ダンナさんには悪いけど、あのふたりなら…信頼できるか…。お客さんに対しても、たまには違う趣向となっておもしろいかな…。ここは綾子ちゃんと美希ちゃんに、少し甘えさせてもらお。
晴花 …うん。そうしな。
晴花 それにしても優里さ。アンタ、だいぶ心労がたまってたんじゃないの? はす向かいの店のこともあるし。
ナーヴ 優里 …はぁ。

優里は深いため息をついた。

ナーヴ 優里 …かも、ね。なさけないけど。
ナーヴ 優里 年明けにもオープンなんて話も聞こえてくるし、不安で不安で…。
ここにきて精神的に安定しない毎日にどうにかなりそうだわ。
晴花 大丈夫だって。オーナーさんの腕はホンモノっしょ? 世辞抜きで、他所じゃそうそう出会える味じゃないと思うな…私。
ナーヴ 優里 私だって…そう、信じたいよ。でも…
晴花 でなきゃ綾っちや田中さんだって、そもそもファンになってくれやしないって。ここのファンだからこそ、今、アンタのピンチに身を削ってくれてんじゃんか。
ナーヴ 優里 …そっか。こんなときだからこそ、私も…強い心でいないといけないんだな…。

ナーヴ 優里 …ふふふ。

晴花
ナーヴ 優里 …なんだか、そんなこと言う今のアンタ、いっしょにバカやってたころの おもかげがある。…親友として、すこしうれしいわ。
晴花 なに急にかしこまったこと言うのさ。ばか。らしくないって。
ナーヴ 優里 こんなときだからこそ、よ。
今だから言えるけれど…アンタがあの大学にいたころ、私…次第に笑顔を失っていくアンタを見てるのがツラかった。
ナーヴ 優里 私はそこで何があったのかは知らないけれど、アンタのした選択は間違っていなかったと思う。今の晴花を見てるとね。そう、思うの。
ナーヴ 優里 あのさ。
晴花には悪いんだけど…綾子ちゃんとか、美希ちゃんとか、その他のお仲間さんは…ウチのファンってわけじゃなく、アンタのファンだからこそウチを贔屓にしてくれてると思うの。アンタはそれをわかってないだろーな。
晴花
晴花 …やめよう。
ナーヴ 優里 …?
晴花 そんなこと言うの…
晴花 …私は…私は…
あの会社じゃ…綾っちにさえ、自分の引け目をさらけだせないクズだから。
晴花 でもそれでもいいの。私は今を守れるなら…これからも徹底的にクズを貫くつもりだし!
晴花 他の誰かは…私とは違う種類の人たちだから。
一点の曇りもなく 日の光に輝ける人たちが 私なんかの「ファン」扱いされるのだけは、私が…つらいの…。…優里、ごめん。

ナーヴ 優里 晴花…。
12月上旬 12:50
リサーチサービス社

翌日―――。

お昼を食べ終わったあと、綾子と晴花は しばしの安息の時間を過ごしていた。

晴花は椅子に深くもたれて、会話のついでに手元でいそがしく編み針を動かしている。

晴花 …ほんと寒くなってきたよね。でも高いマフラーに手を出せるお金もないし…今年は自作で乗り切ろうと思ってさ。
晴花 あ! なんなら綾っちの あの ピンクの超かわいいマフラーと交換してあげてもいいよ!
綾子 お断り・お断り・おことわりぃ~!
晴花 …ばか。
なんだかなー。昨日だって…。
晴花 …せっかくオーナーが「バイト代だと思って」って渡してくれたのに、綾っちも田中さんも受け取らないんだもんなー。…もったいない。いらないのなら、代わりに私がもらってあげたのに~! …マフラー代として。
綾子 「もったいない」? あのー、「隙がない」って言ってくださいYO! 兼業禁止規定、忘れたんですか? 経理課なのに…晴花さん、ダメダメだなぁ…。
綾子 許可とってないのに! 内規に触れたら…クビかも!ですよ…クビ!
晴花 …。

晴花はバツがわるそうに席を立つと、 ロッカーから膨れたトートバッグを取り出した。そこに途中まで編み上げたマフラーをねじ込みながら、言った。

晴花 …さて。そろそろ片付けないと。

トートバッグの 異様なふくらみに驚いた綾子が言う。

綾子 何ですか! そのバック!? いったい何を持ってきたんです?
晴花 あ…これ。
遅くに、命がけの潜入捜索をしようと思って。
綾子 せ、潜入捜索!?
晴花 おっとこれ以上は誰にも明かせないわ。同志以外には。
晴花 同志になる?
綾子 す、すっごくヤな予感がするので…遠慮しときます…
晴花 するどいヤツめ…
12月上旬 18:30
リサーチサービス社

その日の夕方―――――。

晴花 …はぁ。
そろそろ決行といくか…。
綾子 ん?

晴花は ロッカーからトートバッグを取り出すと、誰もいない応接スペースに入っていった。中からは ガサゴソと衣擦れの音が聞こえてくる。

その音が止んでしばらく―――晴花が外に出てきた。

晴花 さー、やるぞー。
綾子
綾子 な…なんですかそのカッコウ!? ヤバすぎです! いろんな意味で!

グレーのスエット地のパーカー&パンツに着替えた晴花が、面倒くさそうな顔をして綾子の前に立っていた。場違いなほどラフな出で立ちに社員証をつるしたその姿は、綾子にはてんで滑稽に見えてしかたない。

晴花 笑うな!
晴花 上の倉庫アサるんだYO。…例の計画を練り上げなきゃならないから。
晴花 奥まで入りたくないなー。けど、帳簿の計算だけで見切り発車する度胸もないし…。しっかたないよねー。
晴花 綾っち。今日はまだ帰らないよね? …私、ちょっくら行ってくるからさ。
晴花 あー。たいへんだなー。やってらんないなー。チラッ チラッ…

と言って、晴花は幾度か綾子に目線を投げた。

綾子 (ギク! これは…)
綾子 あ…あの~ もしかしてー
わ… わた… しも~ 手伝った方が~ いいですか~?
晴花 ぷっ。…ありがとね。
晴花 綾っちは綾っちの仕事があるし、からかってみただけだから。じゃね。

真っ白なマスクを装着しながら、晴花は机の引き出しを開け ごそごそとペンやらメモやらを掻き出した。

晴花はそれを手にすると 上階の倉庫へ、まるで日曜ランナーがするように駆けていった。

綾子 (たすかった…)

そして、30分ほどのち―――。

晴花 綾っち綾っち!! たいへんだ! 大変だっ!!

血相を変えて、晴花が経理課に駆け戻ってきた。

綾子 !!
綾子 何かあったんですか!?
晴花 ヤバイ! ヤバイ! あそこにマジで生息っ! これがっ!!
綾子 ひ! ひょえ~っ! やっぱり毒キノコがぁ~っ!!

綾子 …って。それ、スーパーマルオおじさんのお友達のキノコ消しゴムじゃないですか。
そういうネタをはるときは…もっとこう、「マツタケ」みたいなリアル系のにするべきですよ…

綾子 「一攫千金!やったぜ!」
綾子 みたいな…。

晴花 リ、リアル系のは…買いづらいんだ…。
いや、いちおう嫁入り前だし世間の目もある…許してくれ…。

晴花 とにかく…! キノコが生えててもおかしくないくらいの環境だったのね! あそこは。
綾子 ですよね。その…ビミョーに湿りっ気のあるホコリにまみれた服を見ればわかります。
晴花 ああん…カナシス。とまれ着替えてくるわ。

しばらくして―――。

晴花 よし…と。パンパン。
綾子 …で。どうでした? データ的には?
晴花 あ…うん。用紙も封筒も おおむねふたりで出した数字で問題ないかなーって。用紙の消費量は…前、手伝ってもらった母平均の信頼上限をベースにあれこれ加えて出してみた数と、仕入帳簿と現物から突き合わせて出してみた数で…ま、いいとこいったんじゃないかなって思ってる。
晴花 封筒の方は発送記録から近いところに目星をつけられるし、ハナから心配はしてなかったけど。
晴花 でさ…。欲しかった数字が用意できたし、これ…
まずは目星がついてるものにチェックを入れといて…と。キュッキュッ。
晴花 次にここで検討した6番…これ…
「無理なくつづけられるような仕組みづくり」
晴花 私…いろんな目的もひっくるめて「定量発注方式」を導入して解決してみたいと思うの。…綾っちの本に載ってるヤツね。
綾子 …この本が 晴花さんにも役に立つ時が来たのですね?
晴花 いえーす。
晴花 …と、いうことで。
晴花 とりあえず、いろいろとかたちにしていこうかと思ってさ。
綾子 お。早速やります?
晴花 うん。綾っちにも付き合ってもらうから。
晴花 …えーと。まず状況を整理するよ。
綾子 はい、はい。
晴花 具体的に…私がどうにかしなきゃいけないのは 用紙・封筒のコストの問題だね。でもって…この問題をわけていくと、[直接的な要素]と[間接的な要素] それぞれにテーマが発生するはずじゃん?
晴花 …で。今から注目するのは とりま、こっちの方ね。間接的な要素の方。
綾子 なるなる。
晴花 でも、用紙と封筒の計算は別々にしなきゃならないし…まずは、用紙の方を計算してみよっかなと思っててさ。てーことで…えーと、これまでに私が用意できた 計算に必要となるデータを(一部)提示しとくね。
晴花 …うーんと、これは用紙の消費量。
晴花 …でもって、こっちはコストだね。ただし、さっきも言ったように 用紙そのもののコストじゃなくて 管理のためにかかってくる間接的なコストの方だから注意してね。…内訳は、手順を追いながら説明するわ。
綾子 ふんふん。
晴花 今からおこなう計算の目的は2つ。定量発注方式をかたちにするために EOQ(経済的発注量)・ROP(発注点)とよばれる値の具体的なところを知ることにあるの。これについても手順を追いながら触れるね。
晴花 …じゃ、細かいところを いっしょにやってみちゃおう。
綾子 らじゃー。

経済的発注量と発注点の計算手順をひらきます

綾子 うーん…
晴花 な… 何か気に障ることでも?
綾子 いえいえ…そんなんじゃないです。
綾子 晴花さんの手際がいいからなんだと思いますけど…なんかケッコーあっさり数字が出てきちゃったじゃないですか…。ホントに大丈夫なのかにわかに信じがたくて…。
晴花 そっか。綾っちもなかなかにテキビシクなってきた! …もちろん、データを扱う人間としてはある意味必要な姿勢なんだろうけど。
晴花 でもその批判の裏に、はたして愛はあるのかな~?
綾子 もちろんですよー! 絶対に成功してほしいですから。私だってこの件は。
晴花 冗談冗談。
でもね。確かに綾っちの言うとおり、自分で腑に落ちないことを棚上げしてさ、「自信を持ってコトをすすめよー」って言われても、モヤモヤが晴れないワケで…
晴花 だからさ…綾っち。この結果を検証してみるといいかも。いちど、自分のやり方で。
綾子 検証!?
ムリですよ。私にそんなことができるはずも…
晴花 そんなコトないって。綾っちなら。
今の自分にできることを整理してみれば、きっと筋道をつけられると思うな。
綾子 って言っても…
綾子 むむむ…。どうすればいいんだろ…?
私が知りたいのは、この数字ではたして上手にコトが運びそうなものかってーところ。
綾子
綾子 …。
晴花 ふんふん。なら、さ。
綾っちがもしウチの部長だったとしたら、何をすれば私の計算の結果に GO してくれる気になりそう?
綾子 それは…
「なるほど。大丈夫そうだな」って思える材料さえ示してくれたら 私は GO 出すんじゃないでしょうか…。
綾子 あ、そっか!
綾子 シミュレーション、してみればいいんだ…。とどのつまり、運用したときに確からしい数字なのかどうかを確認できれば安心できるんだから…。
晴花 いいねいいね。
綾子 でも、よくよく考えてみれば 用紙に関してはリアルな毎日の消費量の記録があるわけじゃないですし…
綾子
綾子 そういえば…以前…晴花さん…。レポートの用紙の枚数を調べたときに、エクセルで「乱数」っていう なんとなくバラバラな数字 使ってましたよね?
晴花 あ。…確かに。
綾子 あれでシミュレーションすることって、今回の場合、問題ってないですか?
晴花 いいんじゃないかな。条件をそろえるなら、だけどね。
綾子 条件?
晴花 私…さっきの手続きの中で、毎日の用紙の消費量はナニかにしたがってると思うなーって大前提を置いてたような気もするワケで…。
綾子 そうですよ! …正規分布。
綾子 前に晴花さんが使ってた RandBetween関数? …あれで返ってくる値って、(離散型の)一様分布でしたよね。むむむ、これじゃダメです。
綾子 晴花さん、正規分布にしたがうような乱数の用意のしかた…なにとぞ私めにお授けを!
晴花 …ばか。

晴花は自分の席を立ち、代わりに綾子をそこに座らせた。

綾子 とりあえず…全営業日分の項目をつくって…カタカタ…
綾子 …えーと、B列に1年分…つまり264営業日分、正規分布にしたがう乱数が欲しいです。
晴花 ふーむ。「分析ツール」または関数でつくれるかな…。えーとでも、状況をサクサク変化させて見ることができるし、綾っちの目的の上では関数の方がいいかもしんない…。
晴花 …ってことで。B列におなじみ・Norm.Inv関数ともうひとつ…Rand関数を組み合わせて式をつくろう。「=Norm.Inv(Rand(),平均, 標準偏差)」…てカンジ。
綾子 1日あたりの消費量の平均と標準偏差は…たしか…
綾子 これでしたね。
綾子 だから…カタカタ…こんなんでいいですね。
晴花 ふんふん。
綾子 あと、このへんに…乱数が実際の値に近いものかどうか確認するため…専用のセルを用意しておきますね。
晴花 ついでだし、綾っちの確認したい数字…EOQとかROPとか…リードタイムなんかも そこにいれちゃえば?
綾子 あ…ですね。
綾子 でもって…C列に1列挿入して、ここに在庫枚数を表示するようにすると…
綾子 式はこう…ですね(最初の在庫量は EOQ と仮定します)。
綾子 んで次は…えーと…えーと…
晴花 こういうの…つくってみたら…どーだろ?
綾子 フラグ…
晴花 …あ。 馴染みのない言葉だよね。
晴花 スイッチみたいなもん、よ。…その状態にあるかどうかを判別すんの。
綾子 ふん、ふん…。
晴花 とりま、発注点を超えたときは「○」、入庫日には「1」とでも表示されるようにしてみよっか?
綾子 はい。
綾子 タタタタ…カタカタ…。
…こんなんで、いいかな。

scrollable

綾子 ででで…。
入庫フラグの「1」が表示された時点で、在庫が増えるわけだから…
綾子 この方がわかりやすいと思うから、ここに「入庫枚数」列をつくって…
入庫のときだけ(「入庫フラグ」列が「1」になった行だけ) EOQ が表示されるようにしちゃおっかな…。
綾子 最後に…在庫枚数に入庫が反映されるよう式を修正しておかないと、ですね…。カタカタ…
綾子 …タ――ン。
綾子 お…。いいんじゃないかも、ですよ。
晴花 だね。あとはグラフ化してみれば、在庫の動きが一目瞭然…かな?
綾子 なら…この2列を選択して…
綾子 直線つき散布図を適用したら…どうですかっ…カチッ。
綾子 わお! すばらしー!
晴花 …だね。せっかくだから、あとはこのへんに発注点と安全在庫量のダミーなデータを用意して…これをコピー(Ctrl+C)してさ…
晴花 グラフの上に貼り付け(Ctrl+V)ると…ポチッとした点ができたよね。この系列を書式設定から…
晴花 軸を2軸の方に変えてやるよ。両方、ね。
晴花 そしたら第2軸の方の最大値を第1軸と同じ値になるよう変えてやって、さ…
晴花 またまたポチッとした点のいずれかを選択しといて、グラフの種類を変えちゃうんだ…。
晴花 で、ここを集合縦棒にしておいて…
晴花 あとは、いずれかの系列についてこんなふう↓に書式設定してしまえば…
晴花 発注点を明確にすることでさ…在庫残数が発注点にかかる前後の動きを区別できるし、それに、あるサイクルで安全在庫量にかかったかどうか(安全在庫によって在庫切れを防げたこと)も…はっきりとわかるようになるね。
綾子 わおわお! たしかに!
晴花 あとは[F9]キーを押すごとにシートが再計算(乱数が再設定)されるから、シミュレーション…できると思うよ。
晴花 あ。ただね、注意しなきゃならないのは…
晴花 都度…この値を対比させてくこと、かな。あまりに実情とかけ離れた乱数がでてきたとき、それが参考になるかどうかは疑問符がついちゃうだろうし。
晴花 て、ことで…綾っちのシミュレーションで、私の出した数字を評価しちゃおう! …あ、お手柔らかにね。
綾子 …ではでは。
F9・F9・F9・F9っと…ポチポチポチ…
綾子 …あははは! ポチポチするたびに画面がぬんめり変わってくのが、なんか ヤバイくらいにツボっちゃうんですけど… クセになる~
晴花 (そこかよ…)
晴花 あのー。評価をお忘れでしてよ。
綾子 あ。そうでした!
綾子 えーと、このケースではどうなのかな…。平均と標準偏差はだいたい現物に近いから、参考にしてもいいよね…。
綾子 確かに、何回か安全在庫で在庫切れが回避できてますし(青い点)…。
計算の狙いどおりだ…。
綾子 こんな少しの在庫なのに…切らさずに回せるもんなんだ…。意外だなぁ…。
綾子 じゃあ、別のは…ポチポチ…
綾子 …(平均と標準偏差を見て)これなんか、いけそうですね。
綾子 今度は在庫切れ(赤い点)になるパターンになりました…。
とはいえ、20回に1回程度は許容するって算段でしたから…これ、許容範囲になりますし問題ナッシングですね。
晴花 (ホッ)
綾子 ほかには… ポチ ポチ ポチ ポチ ポチ ポチ ポチ ポチ ポチ ポチ …
晴花 まだやんの?
綾子 ものごとには慎重さが必要です!
晴花 そうですか…。お好きなように。
ヘンなおもちゃを与えちゃったな…

綾子 あはははは! ウケる~ ポチポチ…

五分後―――。

晴花 …おわった?
綾子 慎重にいろいろと見てみて、この数字の「使える度」を十分に理解しました。
晴花 (最初の2つですでに納得してたじゃんよ…)
晴花 …じゃ、とりあえず、実行リストの6番の準備はこれで一応オッケーっと。…キュッキュッ。
晴花 自分でオッケーを出した後でこんなこと言うのもヘンだけど… 結局さ、
これがうまくいくかは、土台となる数字…発注費用とか保管費用とか、平均の消費枚数とか標準偏差とか…実態に違わない値を用意できるかどうかが、いちばんにモノをいうんだよね。…語弊があるかもしれないけど、EOQ や ROP の計算プロセスは添え物にすぎないワケで。
綾子 言われてみれば…そうですね…。そこがダメだと計画がそれこそ「机上の空論」になっちゃいますね…。
綾子 でも晴花さん…ホコリまみれになってまで 慎重に調べてましたから、私は信じてますよ。
晴花 さんきゅ。
でもさ。綾っちの言うことは真実で。…私の計算は、ある意味ホントに「机上の空論」なん。
晴花 …たとえば保管費用。ウチの倉庫はフロアに付随した賃貸スペースの一角。現実には切り離して考えることなんかできないし…。「7日後には使ってますけど、14日後はそこカラになってますから一時的に一部分だけ賃貸契約ハズしてくださーい」なーんてわけにはいかない。
晴花 在庫関連コストの面だけを考えれば、現実には、見込まれる下げ幅は私の計算より小さくなっちゃうし、その意味ではこの数字…ホントーの意味での EOQ とは言えないの。
綾子 たしかに、そうかもしれませんけど…。
綾子 でも待ってください。このプランを運用したとして、倉庫の必要なスペースが減ることは疑いないことなんですよね? ただでさえ、現状メガ盛りなありさまなんですし。
晴花 そこだけは…ま、いくら私のやることでも大丈夫だと思ってるけど…。
んじゃ、えーと…これ、見て。
晴花 さっきの手続きで出てきた安全在庫の考え方…もういちど思い出してほしいんだけど。リードタイム中の平均的な消費量 22500枚 に余裕をもたせた追加分の 4701 枚が、安全在庫…だったね。これは「20回に1回は在庫が切れるようなペースで使うこともあるだろうけどね」…って妥協のもとに設定した点。
晴花 このときは「20回に1回は在庫が切れるようなペースで使うこともあるだろうけどね」ってトコに着目したけど、正規分布にしたがうと見た以上、裏を返せば「20回に1回くらいしか発生しないようなゆっくりとした消費のペース」だってあると思わない?
晴花 つまり、こんなの。…18000枚くらいのペースだね。
晴花 こうした消費速度の違いをさ、ここで綾っちのシミュレーション・シートを使って比較してみることにするね…。
晴花 えーと…。よっこいしょっと。
<平均の消費ペース>・<上側5%点での消費ペース>・<下側5%点での消費ペース>…これらを 同時にグラフで見てみると…
晴花 こう…なったり。
晴花 下の点線が上側5%の、上の点線が下側5%のものだね。
…なんかカミそうだけど。
綾子 …それはわかりますけど…これはどういう意味が…?
晴花 じゃ、クエスチョン。リードタイムをおえて EOQ が入荷されたとき…それぞれのケースで在庫の量はどうなるんかな?
綾子 これ、EOQ は定数ですよね。だから…下側5%点での消費ペースだった場合…それがいちばん在庫の量が多くなります?
晴花 いえーす。じゃ、具体的には…いくつ?
綾子 う…。
ちょっと~まって~くださいね~…
綾子 …あ!
綾子 はは~ん…わかりましたよ! 晴花さんの言いたいことが。
綾子 これ…今の計画だと、これだけの収容量が必要になるってーことですよね?
これが最大在庫量、というわけかぁ。
晴花 ピンポンピンポンピンポン!
綾子 安全在庫2つ分+EOQ …確かにそれでメドがつけられますね…。具体的には 59027枚 ですか…。
晴花 うん。その場合さ、ウチ…用紙っていつも 5000シート入りの段ボール単位(500枚×10セット)で買ってるから…
綾子 ならすと 段ボール12箱…ってとこですね。
晴花 …どのみち、最小コストを実現することばかりに気をとられても、私にはから回りしちゃうのが関の山。それだけ管理が煩雑になるだけだし、そこに余計にコストが掛かってくるなんてことになったら、お笑いだよね。
晴花 て、いうことで実行リストの6番の趣旨にも反するから、綾っちの言うようにならして考えちゃう方が私たちには適当だと思うな。それだけに、もっと極端なケースも想定しちゃっといてもいいのかも…
晴花 …こんなのだって、ありえるかもよ?
綾子 これ…リードタイム中まったく使われないじゃないですか…。あるわけ、ないですよ…。だって、ねぇ…。そのときは…。
綾子 そのとき…ですから。
綾子 私たちも路頭に迷うような話は、縁起でもないです…。ダメー!
晴花 ごめん。
…でも、こんな場合でもさ。段ボール16箱でメドが立つんだ。…極論ね。
晴花 何が言いたいかというと…用紙に関して、さっきシミュレーションしてみたプランを実際に運用するとなるとさ… 段ボール15箱程度の収容能力を確保しとけば十分だろうなーってことなん。
綾子 …ん。
15箱…。15箱って…。
綾子 よくよく考えてみれば、ヤバくないですか!? ヤバイですよ! それ!
綾子 今この会社にある箱の半分以下…。いや…。
おそらく…
綾子 4分の…1…くらい…。
綾子 あわわ…。
ひょっとしたら、いや、ひょっとしなくても…封筒とあわせて…上か下のひと部屋で…済んじゃい…ませんか…?
晴花 …できればそうなって欲しいんだけど。たまにはさ…
私たちの仕事…普段関心のない人たちに…それぐらいのインパクト、あたえてやりたいじゃん? 誰とは言わないけど、特にあのヒトには、ね。

と言って、晴花は右手の親指を立てた。

綾子 もしかして…それ…。
綾子 私が勝手にムリだからやれないと思ってた…この…8番…
綾子 8番を…視野に入れての…行動じゃ…ないですよね…まさか…。
晴花 …えと。
晴花 も…もちろんいい考えがあるわけじゃない、よ。
晴花 でもさ…。キレイゴトと言われようが、私だって、「刈りとる」型のやり方…できればあんまり見たくないわけで…。
晴花 綾っちが一生懸命がんばっているところを見てたら、ちょっと影響されたというか…その…少しでも風向きを変えられたら仕事もたのしいかなと…年甲斐もなく思ってしまったわけであり…
綾子 …うるる…うれしいです…その気持ち…名誉親友に認定しますっ!
綾子 ……
綾子 はっ…!
綾子 そういやこの1番って…
綾子 もともと難易度高くて低効果としていた行動案を…晴花さんが「マジカルミラクル…」とか言って無理やり動かした末に、決定アクションになったものだった…ような…
綾子
綾子 やっぱり名誉親友は保留です!!
晴花 …は!?
綾子 晴花さん、だ、ダメですYO!
…私、肝心なことに気づきました!
晴花 な…なに!?
綾子 や、やっぱり…机の上の計算は机の上の計算です…
だ、だって…。この1番、どうする気ですか!? 考えてみれば、まだなーんにも解決できてませんよぉ!
綾子 発注点とか…。枚数ですよ?
箱にすると十数個とはいえ、実際はみんな好き勝手開封して500シート入りのセット単位で持ってちゃいますし…バラバラになっちゃうのが常です…
綾子 このプラン… 発注点に到達したかを監視していかないといけないのに…バラバラの用紙を、これから毎日…晴花さんが 残り27200枚あまりに到達したのかどうか…調べていかなきゃならないですよね? そのために、都度、棚卸ししていくわけですか??
綾子 セット単位だと、発注点でもおよそ55セットにも…なりますよ…。 さっきの最大在庫だと…えーと…120セットにも! 用紙だけでもそんなんなのに、そこに封筒の管理が加わったら…。
綾子 ム…リ…。
綾子 ぜ、ぜーったいにメンドウですって。1日だけならまだしも…。
綾子 これじゃぁ あとから返ってくるツケが大きすぎます…。ってことは、実行リストの6番の趣旨にも反しちゃいますYO…

晴花

綾子 …晴花さん? わかってます??

晴花 綾っち! ダメじゃん。名誉親友の前に…私が何者だったか、もう忘れてもうたん?
晴花 私は 魔法アラサーおねーさん(音符
晴花 …やっかいごとは、魔法がなんとかしてくれるよ。…きっと。

晴花 …ああぁ! やばっ! もうこんな時間だね!
早く帰ってドラマに備えないと。何を血迷ったか「鬼貫十兵衛」2時間ドラマ化だし。見逃すわけには いかないのだ…
綾子 綾っちごめーん。悪いけど今日はこれで帰るわ。お先でーす…タタタ…
綾子 ま、待ってくださいー!!
綾子 …………………もう。
…ていうか私も帰らないと! 録画してないや…!
12月中旬 13:30
リサーチサービス社

後日―――。

この日の初江の出社にあわせて計画をまとめあげた晴花は、この時間、初江に仔細を説明しているところであった。

晴花 …と、いうことでして。
晴花 直接的なコスト…つまり用紙封筒の代金そのものについては、海前ビジネスさんとステーショナリーズ北中川さんを併用あるいはステーショナリーズ北中川さんに集中させていくことで確実に減らすことができます。
晴花 このシミュレーションの平均的なサイクルにあてはめて具体的に計算すると、海前ビジネスさんとステーショナリーズ北中川さんで4:1の割合だとして2~3%程度、1:1だとして10%程度、全部ステーショナリーズ北中川さんにお任せするとして20%程度を年間で減らせます。

「海前ビジネスを減らす」―――。頭ではわかっていても、いざ、この言葉を耳に入れると初江は反射的にたじろぎの表情を見せる。穏やかに心の奥底にしまったはずの思いであったが、初江にはこれを上手に消化することは難しいだろうことを、晴花は当初から予期はしていた。

晴花 次に、管理のためのコストについて…ですが…
晴花 どのみち、それに関連する費用はウチの場合ほとんどが固定的ですから…
晴花 この面にかんしては…金銭的に目立った変化はおそらく出ないと思います。
晴花 それどころか さきほどのシミュレーションで示したように、相対的にはわずかといえど 加算要素も生じます。
晴花 ただ、重要なところは ここか、上か、いずれかの倉庫を空けることができるっていう ひとつの到達点があたらしく生まれることです。これを大と考えるか、小と考えるかによって…この計画の帯びる意義も変わってくると思います。

初江 …ううむ。要するに 空いたスペースを有効に活用できるか、が カギになるってことを言いたいのね?

晴花 本音を言えば…踏み込んでもいいんじゃないのかな、と。
晴花 ただ、倉庫を空けたところで、何もしなければ今までと同じだけのコストを垂れ流していくだけですし、そこを あらたな付加価値を生める空間に変えることができなければ 率直に言って私のプランはあまり意味がないのかな…とも思ってます。

初江 なんだか…攻めてきたじゃないの。
アンタらしくもなく。

晴花 海前ビジネスさんが私に厚意をかけてくださった以上、失望を返したくはないですし…。不思議とこの件についてだけは、待っているだけじゃダメなような気がして…。
初江 どうせことを起こすことになったのだから…やるべきことは抜本的にやるべきだ。…あたしも、そう、思うよ。
初江 もちろん、空間をどう使っていくかは社長の判断が必要だろう。それはあたしの立場で口出しすべきことじゃあないからひとまず置いておくとして、ただ、ね…。実務の部分にだけ触れさせてもらうとするけど…
初江 はたして、この計画のように調子のいいアンバイで管理なんてしていけるものか、ねぇ。
初江 …アンタを責めるつもりはないが、あたしにはそこがどうも腑に落ちない。晴花ちゃんにしては、ちょっと勢いに走るような話じゃないかと思うのよ、これは…。
初江 ウチの仕事には用紙は不可欠なもの。聞けばごくごく在庫を失うような機会も予見されるというじゃないか。それはあたしとしては認めるわけにはいかないねぇ…。危ういと言うか…。
初江 さらにはこの計画じゃ、在庫の数を常に正確に把握していかなきゃ ならなくなるのでしょう? あたしも昔、海前さんでウン十年と棚卸作業をやってきたけれど、日々の業務にそうした作業を取り入れていくとなれば、晴花ちゃんが考えてる以上に負担が増してしまうものなの。
綾子 (…やっぱり突っ込みが入っちゃいますよ、ここは…。)

晴花 とりあえず…在庫切れの問題については以前の契約で潰すことができています。ステーショナリーズ北中川さんは 常に緊急対応できる体制をお持ちでして。 …仕様はこちらに。

初江 ん…。

初江は取引条件の記された紙をうけとると、しばらく紙面の文字を追った。

初江 北中川さんは規模ゆえの力をお持ち、か…。この機動力を見せられると、さすがに今は亡き館林さんが苦労されてたのも当然だったわけだよ…。

晴花 すみません…。
初江 何もアンタが謝ることじゃないでしょう。 …つい、海前さんにお世話になっていた頃のことを思い出しただけ。現社長にああ言っていただいた以上、あたしも私情を押し通すべきではないという思いは同じ。
初江 …ともかく。
初江 この計画だとそういった緊急事態が起こりそうなことや発注のタイミングなんかを、ただしく知らなきゃならないことになるでしょう? いや、それがすべてだと言ってもいいのかもしれない。
初江 でもさきに言ったように、在庫を日々細かく把握していくような作業は、おそらく…晴花ちゃんの仕事の中で予想以上の負荷となって アンタを苦しめにかかるはずだわ。いうなれば、それこそ会社にとってのコストになってしまうんじゃないかしら、とあたしは思うのよ。
晴花 コホン…コホン…。

晴花 ……その点は こういうふうに在庫を計量していこうと思っています。これでしたら負担にはならないと考えますが…いかがでしょうか?

そう言って、晴花は目の前の本立てから 一冊のスケッチブックをつまみ出した。

そして初江の方へ向き直り、胸の前でそれを抱えながら、表紙をめくった。

晴花 絵の方がイメージしやすいと思いましたので、拙(つたな)くお見苦しいかもしれませんが、これで説明をさせてください。
晴花 えーと、まず…。
晴花 たしかに、現在のような保管のあり方でこのプランを適用しても、日々のチェックがタイヘンでタイヘンで…
晴花 初江さんの指摘されるように…私への負担はとても大きくなると思います。私のことですから…おそらく早々に限界が来るはずですし…。私個人の問題ならそれでもマシなのかもしれませんが、結局、そうなれば業務全体に大きな影響を及ぼしてしまうことは目に見えています。
晴花 …やっぱり、何にしろ「整理整頓」って概念が大前提なんだなーって。これは…これまでの私の反省点でもありますけれど。
晴花 …業務課の人たちの協力も得て、ここは改善したいと思ってます。
晴花 具体的には、今、上の倉庫で有効活用されているとは言いがたいスチール棚…ですね…
晴花 これを、ここ(経理課)に持ってきて用紙と封筒を管理したいと考えています。
初江 …ここに?
晴花 理由は2つ、あります。
1つは 配達の「源さん」さんにご無理を言うのが酷なことと、そしてなにより、いま1つは
晴花 この場所で…平積みで済ますことなく…
晴花 このように…きちんと棚に並べれば…
晴花 常時、目に入りますから、私たちが 在庫の今を より身近なものとしてとらえられるかと思います。当然、前の状態よりは数も把握しやすくなりますが…ま、これはあくまで意識の問題として、ですね。
晴花 …ただ 数をかぞえやすくする具体的な方法ってトコに注目するとして、やみくもに「棚においていけば万事解決!」…っていうふうに片付けてしまうのは さすがに憚られるところです。
晴花 そこで方法を検討してみたいんですが…
晴花 たとえば!
何かの競技会が開かれているスタジアムなんかを想像してみました…。
晴花 それを観覧してる人が このように まばらに30人いるのと…
晴花 このように ある区画にまとまって30人いるのとでは…どっちが実数を瞬時に把握しやすいかと言えば、いうまでもなく後者…だと思いますけどいかがでしょう?
晴花 つまりは あたりまえですけど 区画の収容能力、あるいは全体の収容能力に関して予め知っていれば、それを使ってアバウトに計量できます。ひとりひとり数えていくより早いですね、これは。
晴花 棚の場合も然り、で…。ルールがなければ この棚の荷だって、おそらく不規則に持ち出し あるいは 入庫されていくわけですから、ある時点ではこんなカンジに…
晴花 またある時はこんなカンジになったりするかと思います。
晴花 計量しようにも、このように ある種のものさしが使えない…あるいは使いにくい状態では残数の把握はカンタンではありません。
晴花 極端な場合、誰かのいたずらでこんなふうに積まれでもしたら…もう…計量したくもありません…
綾子 (おいっ! 重力無視してエクストリームで積んでますよ~! だいたい版権だし…。おかしいですよ、ねぇ初江さん…チラッ)
初江 ……
綾子 (スルーですし! …晴花さん、今宵枕を抱えながら「あうあうあー!」と叫ぶな…これは…)

晴花 (…消えてしまいたい)

晴花 ももも。も、ちろんですねー…
晴花 …計量を繰り返すごとになんとなくのカンドコロはついてくると思いますよ。ですがカンドコロに頼るような仕組みでは、“改善のすえに管理効率が高まった” なんて言うのもちょっとピントがずれちゃうかな…なんて思うところもあります。

晴花 計量について加えるなら。
晴花 同じ計量であっても、発注点に到達する前の計量より、発注点を過ぎてから…つまりリードタイム中の計量の方が大切になるはずで…
晴花 この ケースA のように、リードタイム中、5日で使い果たすような(リードタイム中に在庫切れが起きないような)ペースで消費しているときは問題なくても、ケースB のようなことがあるじゃないですか。
晴花 ケースB のように リードタイム中、1日で使い果たすような(リードタイム中に在庫切れを起こすような)ペースで消費しているときはそれを早急に察知しないといけないですから、その場合には何らの警告を発してもらわなきゃならならないです。
晴花 …であれば、先のような緊急対応をとることができますから。
晴花 と、いうことで以上のことを総じると、ですね…
私は…在庫の管理はこのように…  ドーン!
晴花 机に向かったまま…
棚をチラ見しただけで、瞬時に「今とるべきアクション(何もしないことも含む)」を判断できる明瞭な仕組みがあったらいいなと思うトコロです。そしたらおそらく、私のプランでも大丈夫かも…って思っていただけるものかと。

初江 それは…そうだけど…。
晴花 綾っちも この1番が ここにあってもいいんだって納得してくれるかな?
綾子 でも、どうやってそんなことが…
晴花 …綾っちのシミュレーションシート…魔法で召喚しちゃうんだ。…この世界にね。
初江 ショーカン…? マホウ…?
晴花 あイヤ…モノの例えです…。ごめんなさい…。
晴花 どうやってそんな仕組みを実現しようかと考えているかといいますと…
晴花 まず、これ(下のグラフ)…ですね。綾子さんのつくってくれたシミュレーションシートから1サイクルだけを抜き出したものなんです。…ペラ。
晴花 そして…こちらは管理に使用する棚、ですね。…ペラ。
晴花 ちょうど3棚ありますから、このグラフとこの棚を1つにリンク…っていうか 合体! させちゃうんです………。マホウで。
晴花 てぃ!
綾子 ……………
晴花 (少し煽りが過ぎたかな…。引かれたかも…。 キョロキョロ…)
綾子 そ…その手がっ!! 3つの棚に役割をっ! わ…私、感動ですっ!
晴花 へ…?
綾子 ここ…ここを…その…発注…点にっ! そして…ここを…安全…在庫にっ! すればっ…!
綾子 下の棚を…安全…在庫量…っ! 中の棚を…リード…タイム中の…平均…消費…量…っ! 上の棚を通常…在庫の…置き場に…ぃぃぃっ! それなら…うっ…直観的に…状況…把握ぅぅぅぅう!
綾子 やばいっ…目からウロコ…すぎて…っ! 鳥肌…っツ!
晴花 ちょ…
初江 なるほど! 上から順に使っていけば、いちいち数を数えなくとも、棚の在庫がなくなった時点、あるいはその近傍で行動を起こせるわねぇ…。補充していくときも下から決まった枚数まで機械的にいれていけばいいだけ…。
初江 おまけに棚ごとに明確に役割を分けてあるから、棚1つだけを追っていけばいい…。したがって消費ペースの変化にもより敏感になれるだろうし…ゆえに喫緊の対応も取りやすい、というわけか…。
初江 晴花ちゃんの言うとおり…これなら、いけそうだ。ナイスアイデア。すごいわね…。やるじゃないの!

初江 …善は急げだ。早速、社長と総務部長にあたしから提案を通してみるから。あとから晴花ちゃん自身で説明を加えたらいいわ。

晴花 あっ…えっ? その……

晴花 (言えない…。綾っちの本に載ってた定量発注方式の定石法[三棚法]をなぞっただけだなんて…今さら言えない…)

12月下旬 19:10
リサーチサービス社

後日―――社長のデスク。

社長 …なるほど。たいへんだったな。
社長 で…キミの真意はどこにある。
晴花
社長 ここの倉庫のスペースをカラにする意図について、触れられてないが。
晴花 それは 私が言及できる性格の話じゃ…。
同じコストにしばられるなら、 スペースは、ない より あったほうがいい …そう考えただけですから。
晴花 社長でしたら、そんなスペースもきっと有効に活用されるはずですので。
社長 …フ。

社長は、鼻で笑う。

社長 …意趣返し、若干含め…といったところか。
社長 社長のオレを突き上げにくるなんて…キミもオレに負けず劣らずの食わせ者だ。

一度痛い目にあえば、誰だって冒険はしたくない―――。あらたに問題を提起するような “目立つ” 案など鬼門以外の何物にもならない―――。

だからこそ、以前の案をそのままに進めるものと社長も思う。…この時までは。

が、目の前の人間は、転んでもタダでは起きたくなかったのか どうやらそうした摂理に反した行動をとってきたように見える。

「快哉なり」―――社長は、晴花の態度に昂奮をおぼえた。

晴花 あの…おっしゃってることの意味がよく理解できないのですが。
社長 なに。いいんだ。
昔のオレは良く知っている。反作用とはそういうもんだな。
晴花 あの…。
社長 で、何をさせたい。このオレに。キミは。
晴花 ですから何も…
社長 バカ言え。オレは 他人がまわりっくどいことをするのを見るのは嫌いだ。
これでキミにすっからかんにされたスペースを オレがどうして放っておけるというか。
社長 …日々皆を焚き付け締め上げるオレが。
社長 皆の眼につくあそこを遊ばせておけば…
社長 結局、ヒトのムダを締め上げることしか能のない人間と揶揄されるに 格好の材料を与えるじゃないか。
社長 それは、オレにとって利のある話か?
さすがのオレも つまらんことで求心力を削られるのは避けたいとは思うがな。
社長 …キミは 端からそこを含んできた。
でなきゃ当初の計画でよしとしたはずだ。海前さんをおおきく減らせば、キミの試算でもずいぶんの額をリデュースできように。
社長 にもかかわらずキミは…海前さんからの仕入率については「経営判断」として固めてこなかった。初江さんの手前、キミにすべてを任せたのにもかかわらず、だ。
社長 キミが責任を放棄したか?
それとも、さしでがましいと思ったか?
社長 …どれも違うな。
オレが無茶をできない事情をおそらく知ってのことだろう。どのみち…大きく減らされることもないのなら、体(てい)よく 肝心なところだけは預けたように見せてしまえ、と。…同じ藪でもつつきどころが悪ければ、オレにまたひと悶着起こされかねんからな。…キミもいろいろと苦労する。
晴花 (む!)
社長 …あ。
最後の言葉、皮肉だからな。
晴花 (いちいちむかつく物言いを…)
社長 もう一度聞く。ここを空ける明確な意図がキミにはあるはずだ。
無能なオレには その高尚な意図が見えてこない。そんなことだから、オレを掌で翻弄する聡明なキミに、何をすべきか単刀直入にご教示願いたいと思うのは 別におかしかないだろう?
晴花 (プッツン!)

社長の煽りに耐え切れず、晴花の中で、我慢が弾けた。

晴花 わ! 私は…ただ!
社長 ただ?
晴花 社長の言葉を信じてみたいと思っただけです!
自分のはたらく会社のトップの行動を信じてみたいって、そんなにバカなことですか!?
社長
晴花 …そりゃ、本音を言えば社長の仕打ちには今でもすっごくイラついてます。いや、それ以上に日頃のやり方だって納得してないことばっかりで。
晴花 ぶっちゃけ、私のやらせてもらってるコストカットだって、ホントは興味なんかこれっぽちもありません。
晴花 …だって社長、もう十分すぎるほどやられてきたじゃないですか。
晴花 …たくさんの人たちの大事なものを犠牲にして。
社長
晴花 社長の考え方はあらゆるところで私とは交わるところがないですけれど……でもですよ! これだけは同じじゃないですか!?
晴花 …社長は以前、おっしゃいました。例の、朝礼の折に。
社長
晴花 「苦しい時こそ存在が大きくなるのが真のパートナーだ」と。
晴花 私もここでいろいろと経験するうちに、少なくとも 今は あの言葉だけは…心から賛同してもいいと思えるようになりました!
晴花 …ならば、見たくもなりますよ。
晴花 本当のパートナーの危機を目の前にして、社長が この言葉をどんなふうにかたちにされるのか。海前ビジネスさん、社長にとっても真のパートナーじゃないんですか!?
社長
晴花 ご存じだとは思いますけど…。
晴花 海前ビジネスさんが今最も嘆かれているのは…営業活動にかかるリソースの不足です。金銭的にも、人員的にも、そしてノウハウ的にも。
晴花 私、ずっとギモンに思ってましたけど…
この会社にはおおきな企業情報データベースがあるじゃないですか…。
晴花 それを使って、 広告支援…してあげたらいいじゃないですか…。
晴花 リスト・ラベル そしてDM…。単なるデータのリストアップだけでなく、この会社は…リサーチ会社ならではのデータマイニングにも踏み込めると思います。
晴花 ここ…あいたスペースを上手に使えば、十分にやれると思うんです…。
人なんか切ってるよりも、よっぽど前向きでキモチイイことじゃないですか…。
晴花 何も奉仕で、と言ってるわけじゃありません。事業展開を視野に入れて…
晴花 …長い期間をかけて、お客さんといっしょになって すぐれたレスポンスモデルをつくっていけるようなしくみを研究させてもらう場としてだって使えますよね? …それこそが共存っていう理念につながるんじゃないかと。
晴花 社長のおっしゃるパートナーシップに、そういう積極策もあるかもしれないって。
…私は、心のどこかで期待しちゃっただけです。

社長 なんとも…
晴花 …。

晴花 自分でも年甲斐もなくヘドがでそうなくらいアオイこと言ってるのはわかってます。でも…舘林さんのところ、社長のお家(いえ)にとっては…ことさら思い入れの強い会社じゃないですか…。
晴花 にもかかわらず、初江さんも…今回のことではいくばくか取引をカットすることをお認めくださってます。
…私心に踊らされることなく、この会社のため…として。
晴花 …でも、違うんです、本心は…やはり。
私たちに直接心情を吐露されることはないですけれど…見ていて、痛いくらいに伝わってくるんです。私がこの話を報告させていただくたびに…それはもう、ひどく悲しい顔をされ…
晴花 人間ですもんね…
そりゃ、誰だって私心を100%捨て去るなんてコトできっこないですよ。
晴花 ですから社長…目先のコストカットなんかより…
広告支援のような、この空間で新しい価値を生める何かをやりましょうよ。
晴花 社長のお力でしかなしえないことを…。

心の内のほとんどを吐き出したところで、晴花は冷静さを取り戻す。

「短慮を起こした」

―――焼け焦げんばかりに強烈な自責の念が、晴花を襲った。

晴花 今回、私にやらせてくださった仕事を通じて思ったのは そこにいちばんのこたえがあるような気がして…なりません…。
晴花 (あぁ…やってしまったな…私…。さすがに オワリかも…)
社長 …全部か? それで。

社長 聞けば それだけの憎まれ口を… ボスに向かってよくもまぁ
つらつらと吐き出せるもんだ。…ご立派、だな。

晴花 も…申し訳……ありません……

社長 ま。キミの言の背後に 自らの力でつくりあげたきた案があってこそのことなれば オレも本筋については責めんでおこう。…オレが再び同じ過ちをおかすようなら、そう遠くない将来にこの会社は死ぬだろうから。

そう言って、社長は晴花から視線を外した。

社長は机の上に放った両手を重ねると、それを握った。


―――対面するふたりの間を、無言の時間が流れていく。


先に沈黙を破ったのは、社長であった。

社長 …では、キミにオレのこたえを返そう。
次の3つ、だ。
社長 ひとつ。
キミは早速、本計画を実行に移せるよう手配しろ。業務課にもコンセンサスをつくっておけ。
晴花 …え!?
社長 聞こえなかったか?
本件を進めろと言っているんだ。
晴花 は…はい!

歓喜―――そんな感情がどっと押し寄せる。

自分の主張を汲んでもらえたことが、晴花にはうれしかった。


しかし。
それは 晴花の抱える大きな期待がつくりだした、都合のいい早合点であったことを思い知らされることになる。

社長 ふたつ。
仕入の比率は…海前さんと ステーショナリーズ北中川とで 50:50 だ。それが「経営判断」だ。

晴花 ……
晴花 え…!? 50:50 !?
半々ってコトですよね……………………?
晴花 そ…

晴花 そんな過激なっ! は、初江さんが…

と言う晴花のうえに、社長は躊躇もなく言葉をかぶせた。

社長 勘違いするな。彼女は、職責の上では一社員の範疇にすぎない。
反対に、これは社長命令だ。それでも聞けないというのなら、今度こそ本当に辞表を出してもらってかまわない。

晴花 …くっ。

晴花は、黙るしかなかった。

社長 みっつ。
キミの提案…広告支援の話については 仕事の姿勢としては評価したい。
晴花 ……。

社長 が…無理だ。
晴花

社長 キミは知らないだろうが…。
社長 昔…それをやったことがある。…この会社は。

晴花

社長 それで、学んだ。
われわれは…リサーチ会社としての矜持をわざわざベールでもって被い隠してしまうような真似をしちゃいかんのだ。
社長 広告支援をおおやけに吹聴すれば、どうしても特定のクライアントとの強いつながりを問われ あるいは疑われてしまう。それがどういう意味か、キミなら分かるな?
社長 レポートにある種のバイアスが掛かることを勘ぐられ、敬遠されてしまう。

われわれのような、小さな組織は…
社長 いったんそうした風評に染まると それを薙(な)ぐのが難しい。
特に銀行などの金融系はそうした話に敏感だ。我が社は、それでおおきくそこからの需要を落とした。広告支援は…この会社が身を持ってなした、浅はかな判断ミスだった。

晴花 (これ…………)
晴花 (…………以前、綾っちがスライス&ダイスで分析してたときの………)

全商品について金融(特に銀行)の売上構成比が半減―3位 → 7位に
綾子 (回想)こんなにも減っていたとは…正直、予想外でした。それもこれも、田中さんに頼まれたあの…構成比からたどり着けた事実なんですけど。
綾子 (回想)銀行さん、ですよ。ウチの会社にとって、“相性のいい” 業種のはずですよね。少なくとも、私が入ってすぐの頃、前任の先輩に「銀行さんとの取引は特別な意味を持つから、常に気を払うように」…そんなことを言われたコトがあります。それくらい重要であったはずなのに。

晴花 (アレだ…………。辻褄が、合う………)

社長 以上、だ。
晴花

社長 まだ何か。言いたいことでも?
晴花 いえ別に…
社長 なら早急に進めてくれるよう。ご苦労。

それから。経理課―――。

綾子 ホ ン ト … デ ス カ … ソ レ !?
晴花 ……気づいたら、つい…血が上って…。今 冷静になって考えてみれば、腹の内を引き出させる口車に乗っかてるな…私。
晴花 それどころかヘタな小細工…ぜんぶ読まれて…
晴花 社長の思惑通り、ホンネとともに溜めてたことまでぜんぶいっぺんに吐き出しちゃった…。私、ホント…幼稚だわ。
晴花 結果、どう見てもこじらせた方向だよね…。それでいて返す言葉さえ出なかったよ…。
晴花 「完膚なし」ってきっとこんなカンジを言うんだろうな…。
晴花 あぁ…
初江さんに…館林さんに…どんな顔して報告したらいいんだよ…。私は…。
晴花 私は…。

綾子 でも、やれることは精一杯やったじゃないですか…。結果はともあれ、晴花さん、きちんと。
綾子 たとえ一部でもかたちにできたんですし、ある意味…
綾子 いずれそこから突破口を広げられる可能性だって、あるじゃないですか。
綾子 「少しづつ」ですよ、「少しづつ」。…それでいいじゃないですか。
綾子 こんなときこそ、晴花さんが以前私に言ってくれた「本当に無駄なコトなんて そうそうあるもんじゃない」…これが大事だと思います。
綾子 …だからいっしょに、がんばっていきましょうよ。

晴花 ……

綾子 …すみません。
生熟れな慰めになるなら しないほうがよかったですね。ごめんなさい…。

晴花 ……とんでもない。その優しさが、心にしみるん…。

綾子 晴花さん…。
とりあえずですね…今日のところは…。うん! これからひとまず仕事を忘れに行きましょー!
綾子 屋台村に おでんでもつつきにー!
晴花 うん。しみじみ~呑んで~しみじみとぉ~。賛成!

それからふたりは、商店街の一角に限られた季節のみ開設される 屋台村の灯りに吸い寄せられていった。


…しばらくの時間が経ったであろうか。このとき、リサーチサービス社の灯りも、そのほとんどが落ちていた。―――ただ一ヵ所を除いては。

社長の姿が、薄暗い灯の中にうかぶ。

身体を椅子にどっかりと預け、左手で何度も顎をなでながら一片の書類を眼前に掲げていた。

社長 (…こと手間と熟慮を費やして詳細に練り上げてくるもんだな)
社長 (行間にあるものを知ってさえなお…素直に踊らされてみるのも悪くないという気にさせられる。なるほど珍奇だ。…どうして彼女は、おもしろい)

と言った後、社長は書類を机上に置いた。

社長 (にしても「パートナーシップ」―――を言ったか。)
社長 (おおかた 立場の弱い者が都合よく相手に寄生していくときの枕詞にしかならんというに。日南くんは、知ってか知らずでか 言質をとってそこをうまく利用してきやがった)

と言って社長はにやける。


が、それもつかの間。すぐに表情をキリリと締めた。

社長 (海前さんとの関係においては、母さんはどうしても情の類の感情にひきづられる。放っておけば この先に足枷となることもあろう)

社長 (母さんに再び失意を与えたくはないが…キレイゴトをなぞるだけではいちいち会社なんてやっていけない。経営者として、そこを誤るわけにはいかない。そこだけは誰が何といおうと絶対だ)
社長 (これは 母さんを納得させる…またとない機会のはずだ)
社長 (日南くんの期待とは違(たが)えるが、少々手荒な真似をしてでも、彼女の行動を鉾として ここで上手にしがらみを解いておくべきだろう)

社長は引き出しから名刺ケースを取り出すと、一枚のカードを選り出した。

そして机上の電話機のボタンを幾度かはじいたのち、呼び出し音を聞いていた。

海前社長 …はい。

呼び出し音の先に聞こえた声は、
南港海前ビジネス社の社長・館林のものであった。

社長 遅くに申し訳ありません。
…リサーチサービスの鏑木です。どうも。舘林さん…ですよね。
海前社長 鏑木…さん? むす…いや、社長さん?
社長 はい。
海前社長 これは…
社長 …私の怠慢を、一度お詫びしておくべきだと思いまして。
唐突なお電話になりましたことをお許しください。
海前社長 怠慢?
それはいったい…どうしたことでしょう?
社長 私だって母に等しい大恩を 先代社長および現社長から頂いた身でありながら、ろくに謝意をお伝えしたことがなかったなと。
社長 弊社のお見苦しいゴタゴタをお見せしてしまったことで…その…おはずかしい話、先だって母に叱られてしまったもので…。
海前社長 あ…。例の件ですか…? 日南さんの。
社長 ええ、まぁ。この齢にしてコドモのように叱り飛ばされたものでして…。いろいろと申し訳ありません。
海前社長 なに…そんな…。
御社はこちらにとっても大切なお得意先様ですから。こちらが気をつかっていただく立場じゃあ ありませんよ。ですから御気になさらず。
社長 …今後は、母に甘えることなく私自身でお付き合いを深めさせて頂ければと思います。
海前社長 いや。社長自らそこまでお気を遣っていただくのも過分ですから。こちらはホントにしがない商い…

舘林は思っていた。これは、“外交辞令を超える 意味を含んだ電話でない” と。

体裁よく会話を締めようとしたのも、それゆえのことだ。

―――だが次の瞬間、それが誤りであったことを気づかされる。

社長のかぶせた言葉によって―――。

社長 舘林さん。ぶしつけですが…これから経営談義でもご一緒しませんか。…時節柄、燗酒でも楽しみながら。
12月下旬 21:50
屋台村・おでん屋台
店主 まいどあり!

綾子 …ちょっと食べすぎちゃったかなぁ。でも きんちゃくが美味しすぎるのがいけないんですYO。
晴花 私もちょっとキモチワルイ…。ヤケ喰いのうえ “ちゃんぽん” だし…。明日からまたセーブだな…。

おいしいおでんを十分に堪能したふたりは、家路につこうと屋台を出た。

胃の鈍い重さに前屈みになって みぞおちのあたりをさすりながら歩く晴花の数歩先を、綾子がゆく。


―――街路へ出ようとふたりがおでん屋台の角を折れたとき、向かいの居酒屋ののれんの向こうに、ふと、見覚えのある人物の後ろ姿があるのがわかった。

綾子 晴花さん…あれ…
晴花 …ん?
晴花 うわ! 社長じゃん。…興ざめ。
綾子 誰かとご一緒のようですけど…あれって…
晴花 う…うん。館林…さん…よね。
綾子 何だか楽しそうですよ? 声かけていきます?
晴花 やめろ…やめるんだ綾っち、どうどう…。
晴花 私は…舘林さんに正直合わす顔がない…。頼む綾っち。胃は弱くもやられてしまったが おでんで少しシアワセな気分になったんだ。このまま現実逃避させてくれ…今日のところは…。
綾子 ぷっ。仕方ないなぁ。
でもあのおふたり、ヤバそうな雰囲気にあるようには見えないですよ。…だからきっと晴花さんの事情も理解してくれますって。大丈夫ですYO。
晴花 …だといいんだけど。でもつらいの…。
晴花 さ、綾っち! 撤収だ撤収! スタタタタ…
綾子 あ!
待ってください~。晴花さーん! もぉー! タタタタタ…
晴花 (うぷ。走ったら…込み上げて…キタ…)

後日―――。

「初江はきっと不憫な思いをするだろう。しかし、自分では もう どうすることもできない」…そうしたもどかしい葛藤を引きずりながらも、晴花は苦渋の思いで 仕入れ比率が 50:50 に決められたことを初江に伝えた。

…しかし。

予想に反して初江の反応は乾いたものであった。

「すでに社長から直接伝えられ 心の整理をつけているんだ」

―――晴花はそう思う。これについては、実際にその通りではあった。


とにもかくにも。

よくはわからずとも、抱えていたもやもやが意外にも穏やかに着地しかけた。そのことに、晴花はひとまず安堵の胸をなでおろした。

12月24日 13:30
リサーチサービス社

冷たい雨がそぼ降るクリスマス・イヴ。

この日 カレンダーは会社の休日となってはいたが、数日前、それが急遽変更になった。
社の業務スケジュール上の都合から、倉庫の統合作業に充てることができる時間がこの日の午後しかないとわかると、社長は “休日出勤” を命じた。


―――ということで、この日、所帯を持たない単身者のみが作業に投入されるに至った。


まったくもって空気の読めない決定に、晴花の心も気が気でない。作業を統括する立場にある晴花は、いろんな意味で針のむしろに座らされる思いと格闘していかなければならなかった。

このとき、皆の指揮を執るハメになった総務部長が、作業に耐えうる服装に着替えを終えた社員たちを前に揃え、予定される作業の概要を説いていた。


翔太 晴花さん、僕がいるじゃないですか。
大丈夫です! 先輩女子の皆さんに負担をかけないよう、僕がひょひょいって動きますから!

不安たっぷりな表情の晴花を見かねて、翔太はひっそりとその傍へ近づいた。そして、晴花の頭上斜め上から 目立たないようにささやきを投げた。

晴花 あ…ありがとう…。でもアンタも肝心なトコはわかってないと思うわ…。
総務部長 …という流れで行いますのでよろしく。では まず! 第1班は2階倉庫の荷出し、第2班は1階荷置きスペースの荷出し、第3班は清掃にかかりましょう。
総務部長 細かい点は経理の日南クンが随時指示してまわります。
晴花 みなさまお世話になります…。

総務部長の号令を合図に、作業があわただしく始まった。

社内―――いや、この建物のいたるところに段ボールをはじめとした荷が仮置きされていく。

その度、周囲に埃が舞った。

―――二階の倉庫からは、時折悲鳴のような声も響いてきていた。

総務部長 さてさーて。続いては 棚の運搬・据え付けにかかりましょう。第1班は手前の棚を、第2班は奥の棚を担当してくださーい。第3班はひきつづき清掃でーす!

二階倉庫の棚が、男性社員の器用な手によって次々と解体されていく。
ばらばらの部品となったそれが、他の者たちによって階下の経理課に運ばれていった。

翔太 あ! ○○先輩、僕もお手伝いさせてください!
翔太 ○○先輩、これ…重いですから僕もご一緒していいですか!?

田中 くぅー!
何だか妬けるね~。そう思わない? 綾っち?
綾子 何が…ですか?
田中 イケメンくんよ。
八面六臂の大活躍じゃない…。業務課ガールズ、るんるんだし…。
田中 アタシだってこのド重い荷物抱えてさっきから何往復もしてんのに!
アタシのことも大事にしやがれ! ちっくしょーめー!
綾子 晴花さんにしわ寄せが行かないよう、必死なんですYO。…私たちは危険要素ゼロですから対象外なのれす。
綾子 …ていうか、田中さんはいいですよ。今日ちゃんとご予定あるんですから。
田中 え!? 綾っちないの? むふふ。
綾子 それがなんと! あ・り・ま・す!
田中 は!? ウソでしょ!??
綾子 晴花さんたちと、ラーメン屋さんにラーメン食べに行きます。
田中 なーんだ。ラーメンパーティー、か。…びっくりした。
イヴの夜でもすんなり入れるな…たしかにそこなら…
総務部長 …それでは、手の空いた人から随時、棚に用紙・封筒を並べていきましょう!
総務部長 …じゃ、日南クン…封筒の棚の方は私が面倒を見ておくから 君は用紙の棚の指示を。
晴花 あ…はい。

晴花 あのー…ではすみません…。最初に下の棚に10セット配置してください。
業務課員 ほいほーい! セッセ セッセ…
業務課員 できたよー!
晴花 次は…真ん中の棚に45セットお願いします。
RS部員 [RS部員]えっさ… ほいさ…
RS部員 これで…あがり!
晴花 つづいてはぁ… えーと… 上の棚にとりあえず65セットでお願いしますぅ。
RS部員 [RS部員]よいしょ… よいしょ…
RS部員 日南さーん、こんなとこかなー? 片付いたよー。
晴花 すいませんですっ… みなさま。

田中 んでんで?
次は?
業務課員 [業務課リーダー]あ! 私(わたくし)ですこと?
ここでシールを貼っていけばよいのですね!?
業務課員 特製手作りラミネート補強済みシール、ちゃんと業務課の皆々で用意してますのよ! えーと、計画ではまず…ここと…ここと…ここ…でしたかしら。
…ペタペタ。
業務課員 業務課ガールズの皆々! よろしいですこと!?
ルールその1! これからは各自1番から番号の若い棚の順に搬出しますの!
若い棚にセットが残ってるときは、他の棚のセットを持ち出すことは禁則事項ですわ!
業務課員 かしこまりー!
業務課員 そしたら三角シール(音符
10セットで小三角…20セットで大三角を貼りますの~(音符 …ペタペタ。
田中 お!?
なんか認知性バツグンじゃない!?
業務課員 …ですの。お節介かもしれませんが、あわせて ブルースターで搬入の上限位置もハッキリと表示させていただきましたわ。
業務課員 あの…日南さん。…喜んでいただけたのかしら?
晴花 もちろんです。…すっごく助かります。感激です。
業務課員 まだまだ! まだいきますのよ~!
業務課員 業務課ガールズの皆々! ルールその2!
搬出の際は必ずこの赤の方向で一方通行ですの。…ペタ。 反対からの持ち出しは禁則事項ですこと。よろしくて?
業務課員 [業務課員]かしこまりー!
業務課員 ということで搬入の方を管理いただく経理課ガールズは…
青い矢印の一方通行で、 3番から遡って補充していただくことになりますわ。…ペタ。
こちらも、よろしくて?
綾子 かしこまりー!

業務課員 みなさま。以上ですべての作業が完了でございますの~(音符
業務課員 業務課員 綾子 わー! わー! わー!
RS部員 RS部員 田中 ひゅー! ひゅー! ひゅー! ひゅー!

(拍手)パチパチパチパチ…!!

晴花 (さすが…ひと癖もふた癖もある業務課の面々を…日頃からまとめあげるウツワのリーダー…)
晴花 (…おいしいところを 全部持っていかれた気がしますの。)

ちょうど日が落ちきった頃、予定されたすべての作業をどどこおりなく終えた。

すっかり様変わりした各倉庫の様相に、皆、充実したものを感じとっているようだった。


それからしばらく―――。


いつからか空にはぼたん雪が舞っていた。

帰り支度を終えた社員たちに対し、初江が身銭を切って用意していたホールケーキが手渡される。皆、それを受け取ってにぎやかしく会社から離れていった。


会社を出た綾子と晴花は、屋台村のラーメン店へと足を向けた。

―――ラーメン店では、遅れて翔太が合流することになっている。

翔太 (晴花さんも満足してくれたようだし かなりムリしたけど報われたなぁ…)
翔太 (ささ…。僕も晴花さんたちに急いで合流しよ…)
翔太 (ひょっとしたら…)

晴花 今日の翔太くん…かっこよかったかも…
晴花 私…今まで何を見ていたんだろう…。
ごめん、翔太くん…。私からも、クリスマスプレゼント…受け取ってほしいんだけど。
晴花 え…何かって?
晴花 これからは、私を…その…キミのそばに側においてほしいかな…。

翔太 (なーんて奇跡の一本勝ちもあったり…?)
翔太 …まさかな。あの晴花さんに限って あるわけがネー!
あーひゃひゃひゃひゃ!

我田引水極まれり。羞恥のあまり、階段の踊り場で自らをせせら笑う翔太。

その不気味な笑い声に、二階フロアの出入り口近くにいた社長が反応した。

社長 …なんだ翔太か。ひとり奇声をあげやがって。…気持ちワルイヤツだな。
翔太 …あ。いやぁ~。会社がキレイになってうれしくて…つい…(汗
社長 そうか。そりゃーよかった。
社長 …そうそう、ちょうどよかった。お前と話をしなきゃならんと思っていたところだ。
翔太 話…ですか…?
社長 応接で待ってろ。…二人きりで話をしたい。
翔太 はい。
12月24日 18:50
屋台村・ラーメン屋台

しばらくの後―――。

綾子 ま…何はともあれ。無事片付いてよかったですね。晴花さん。
晴花 だね。
でもまだ気を抜けないな。これから実際に運用してくと、大なり小なりの修正が必要になってくると思うの。

大きなイベントを無事やりすごせた安堵の中に、ふたりはいた。

ラーメン屋台の少し離れた場所に据えられた いかにも急ごしらえと言わんばかりな簡易テーブルを挟んで、ふたりは枝豆を肴にしながら 互いに会話を弾ませている。

綾子 それにしても…おっそいですねー、翔太くんさん。
晴花 ほんと…何やってんだろ?
綾子 …ビールと枝豆がはかどりすぎて、あんまり遅いとラーメンの前に おなかいっぱいになっちゃいます…。
晴花 …あ!
晴花 ウワサをすればなんとやら。お出ましじゃん。

どことなくさえない表情で、翔太は、ふたりの座るテーブルへと歩みを進めた。

綾子が彼を晴花の隣に強引に座らせると、晴花は、翔太がちいさなため息をついたような、そんな一瞬を見た。


「様子がヘンだ」―――と晴花は思う。

翔太 いやー今日はさすがに疲れましたねー。お腹のすきようがハンパないっす。…晴花さんと綾子ちゃんは 何、頼みますか?
綾子 やっぱりクリスマスですから ここは チャーシュー麺 でしょう!
豚さんのお肉ですよ! クリスマスの代名詞みたいなもんですからNe!
晴花 …ね、それチキンの間違いじゃないの? クリスマスって言ったらふつう…。
綾子 あ!
も…もちろん 知ってましたよ。冗談です…冗談!
翔太 あいやー。今のはかなり怪しいな。僕の “信じてはいけないぞセンサー” がピピピって反応しちゃたん。ま、綾子ちゃん…そもそも天然だから。
綾子 ムキー!

しかし、次の瞬間には いつもの笑顔で綾子と丁々発止をひろげている。―――そんな翔太を見ると、ちいさなため息も杞憂だと思わせる。

―――それから、いくらかの時間。

皆で夕食を兼ねたささやかなクリスマスパーティを十二分に楽しんで、三人は駅へ向かった。

12月24日 20:30
駅前広場

きらびやかなイルミネーションが煌々と輝く駅。しとしとと舞う雪が、いつも見慣れた単調な景色に イヴの夜にふさわしい非日常の色を添えていた。


三人が並んで駅の入り口までやってきたとき、突然、翔太が立ち止まる。


―――それに気づいた晴花たちが、遅れて足を止めた。

晴花 …どしたの?

と晴花が振り返りざまに声をかけ、翔太へと視線を向けた。

晴花 綾子 …!?
翔太

翔太が、目に涙をためていた。
…おかしくも、笑いながらに。

翔太 決めました。
僕はリサーチサービス社から…離れようと思います!
晴花 綾子 …へ!?

綾子 い…今何て言いまし…た?

翔太 リサーチサービスを離れよう、と。僕にしかできないことなら。

綾子 あの…それ…どういうことですか…

翔太 実は…
ること 統合作業終了時点―――。
リサーチサービス社

応接室―――。

社長 はじめに聞く。どういう因果か…
以前、お前…海前ビジネスさんに乗り込んでいったらしいな。…おかげでオレは立場を失う目にあった…が。
翔太 そ…それは…
社長 本旨はそこじゃない。が、そうであるなら鏑木と舘林の関係については承知しているな? それを前提として話そう。
翔太 はい…。

社長 お前にしかできない頼みがある。
翔太
社長 今日、皆に汗水たらして整えてもらったとりくみに 社長として、オレは誇りを持ちたい。
社長 今日の経験は 我々にとって これからおおきな価値をもたらすものとなるだろう。
翔太 (フンフン)
社長 だが、な。
そのためにはあと1つ。何より重要なことを片付けなきゃならん。
社長 最も難しい課題を、だ。
社長 …それを、お前に買って出て欲しいと思ってな。
翔太 え…。そんな重要そうなこと…僕で大丈夫なんでしょうか…。
いったい何を…
社長 これまで、この会社をがんじがらめに縛り上げてきた 鏑木の呪縛というものから、いくばくかここを解き放ってやりたいと思う。…この先のために。

社長 翔太…。
社長 お前…しばらく海前ビジネスさんで勉強させてもらってこい。

翔太 !!

社長 …年初から少なくともミツキのあいだ、お前の籍を向こうに貸す。
あちらを…盛り立ててこい。お前の力で。

翔太 そんな…

社長 海前さんは今、所所(しょしょ)に課題を抱えておられる。そして今、まさに「変革」によってそれを変えていこうとする意志をお持ちだ。
社長 だが、確固たるリソースが足りない。我々も苦しいのは同じだが、だからと言って 黙って見ているのも下策だろうと思わされた。…今日のことも含め、ここのところ考えさせられることがつづいた。

社長 オレはこの機を利用して 過去のしがらみを解いておきたいと考えている。互いの未来のためには、それ以外の選択肢に おそらく最善というものは存在しない。
社長 我々の世界は 互いの傷をなめ合うだけでは 進展は望めない。互いに次の高みを目指していかなければならないはずだ。…ちがうか?

翔太 は…はい…
社長 だからこそ、だ。過去を清算する意味で オレはお前と言うリソースを提供したいと思った。お前は、海前さんのお力になれるよう、限られた時間の中で精一杯尽力してきてほしい。
海前さんでは きっと唯一無二の経験ができるはずだ。1年後・2年後…いや10年たって…この経験が はかり知れない資産となっていることに、未来のお前は気づくだろう。

翔太

社長 こんなことで腐るようなお前じゃないと思っているが、勘違いされるのも本意でないので言っておく。お前をよそへやるのは、この時期、オレだって痛手以外の何物でもない。
社長 お前は右も左もわからないような若造にすぎないが、お前の持つポテンシャルだけは オレも認めている。その意味では有能だ。有能で自由の利く人間と言ったら、今、オレにはお前以外に自信を持って送り出せるヤツが思い浮かばない。
社長 その思いは 舘林さんだって、同じだ。
社長 舘林さんは…お前のことを誉めている。
今時の若者にしては気概にあふれる人物だ、と。
社長 お前が力を貸してくれるなら またとない幸せだと言ってくださる。
…お前の男気(おとこぎ)が試されるな。これに応えられるのは…翔太、お前だけだ。

社長 非常に難しい役目だとは思うが、ぜひともお前に買って出て欲しい。
社長 お前なら…翔太なら 海前さんのお手伝いを必ず果たせるはずだ。

翔太
翔太 …その

翔太 予想だにせぬお話で…今は冷静にモノゴトを考えることが…できないです。
翔太 少し時間を…いただけませんか…。

社長 ああ。では、よい返事を待とう。今日はご苦労だった。
翔太 …ということになってしまって。
翔太 いや。舘林さんも悪い人でないですし、社長も僕に期待してくれることはうれしいんですけど…。
翔太 3ヵ月…ですよね…。もしかしたら、それ以上かかるかも…。
せっかくこの会社にも溶け込めはじめたという頃に、これはやはり大きいなって言いますか…

晴花 綾子

翔太 …ごめんなさい。…ウソを、つきました。
翔太 本音を言えば…何が辛いって、また晴花さんと離ればなれの生活を送らなきゃならないってことが、自分にとっては激しく辛いっす…。
翔太 またあの潰されそうな日々を送らなきゃならないかと思うと 尻込み…します。今はこうして会社に来れば晴花さんの姿を見ることができますから…。
翔太 そんな小さなことが、僕にとってはこのうえのない幸せなんです…。
翔太 …ですから、二つ返事で社長の命令を受け入れるのに躊躇してしまいました。

晴花

翔太 …でも、さっきラーメン屋さんでわいわいやらしてもらってた時の…晴花さんのひとことで気がつきました。
翔太 「これからが本番だ」っていう言葉で。
翔太 僕が社長から言われたしごとも…晴花さんが、あの日から、みんなが幸せになれるよう、たいへんな思いをして取り組んできたしごとの一片なんだって。
翔太 だったら、僕のやるべきことは1つのはずなんです。
翔太 だから僕はさっき、社長の言うように 海前さんのもとで勉強させてもらって来ようと決心しました…。

晴花

翔太 でも…でもです…晴花さんっ!
翔太 この楽しい毎日を手に入れてしまった自分には、これからも晴花さんのいる毎日にどっぷりと浸かっていたいっていう甘えがあります。
翔太 だからお願いがあります! 晴花さん!
翔太 すべての甘えを吹っ切って全力で海前さんのお手伝いができるよう ここで僕の背中を押してください…! 「そんな軟弱なお前なんか大っ嫌いだ! 男なら最後までやり遂げて帰って来い!」と。
翔太 晴花さんが辛口のエールをくれたなら、僕はきっと…3ヵ月、海前ビジネスを盛り立てることだけを考えて ただがむしゃらにやってみせます!

晴花 な…

翔太 だめ…ですか…?

晴花 だ…だって私…そんなこと言える立場じゃない…。
社長がそう言いだしたのは、きっと翔太くんの知らないところで私がかき乱しちゃったところもあると思うから。
晴花 …だから、ごめん。私が言えるのは…それだけ。

翔太 そう…ですか…。
翔太 困ったな…。晴花さんに謝られると、ますます後ろ髪をひかれる思いが募ります…
翔太 でも、仕方ない。これはこれ。がんばらないと…。
翔太 綾子ちゃん。…僕が帰ってくるまで 僕のコト忘れないでね。
翔太 そして、晴花さん…。僕がいない間に…もう二度と消えてしまわないでください。お願い…します…

晴花 綾子 …。

そう言って、翔太はふたりに対し慇懃に頭を下げた。


ゆっくりと頭を持ちあげると、翔太は、ふたりに背を向け改札に向かって歩き出そうとする。その瞬間のこと、だった―――。

[挿絵]

晴花は毛編みのマフラーをさっとほどくと、翔太の首元めがけ、円弧を描くようにして しなやかに投げつけた。


―――翔太の首に 晴花の体温を残すマフラーがゆるりとからみつく。


予想だにせぬできごとに、翔太は ただ目を丸くしていた。

晴花 …だいたいさ。
晴花 この寒空に…そんな薄着なんだもんな。
そんなマヌケな自己管理のありさまで、これから大事な仕事がつとまると思ってんの?
晴花 …バッカみたい。

晴花 それ…あげるから…。
今 風邪ひくわけにはいかないでしょ!?

翔太 あ…え…でも…。
晴花 いいから! いいの!

晴花 …でもアンタが向こうで腑抜けた仕事してのうとうと帰ってくるようだったら、そんときは 100 倍にも 1000 倍にも 10000 倍にもして返させるから。おまけに 二度と顔も見たくないって思うくらいにボコボコに罵ってやるから。
晴花 っていうか そんなアンタなんかとは きっと口もききたくないの!
晴花 …わ! わかった!?

翔太 は…はい!
翔太

ぷるぷると震えながら、翔太は 時折ガッツポーズをつくっては空に跳ねる。

―――首もとのマフラーが、それに合わせて上下にはずんだ。

そのたび、翔太は、マフラー何度も何度も大事そうに巻きなおす。


―――そんな彼流の歓喜の動作を繰り返したあと、翔太はあらためて綾子たちに別れを告げ、改札の人いきれの中に消えていった。

綾子 ゆーきや…ツンツン(音符
綾子 あられや…デレデレ(音符
晴花 ちがうWa!!
晴花 (ボゴッ!)
綾子 う… みぞおちへの不意打ちは き…禁則事項…ですの!
晴花 バカっ。こんなときにリーダーの真似するなんて よっぽど禁則事項ですの!

綾子 なーんかまだまだ騒ぎたりないですね。せっかくのクリスマスだし…
晴花 なら 私の買い物に付き合ってよ。
すてきなマフラー…買いたいな。物色していこ。
綾子 か~しこーまりー(音符

[Chapter4] Finished.