ひとりマーケティングのためのデータ分析

StoryPart
Chapter5 -Fifth Step

Chapter 5 > Section 1

12月最後の営業日 22:30
安堂の家

この年最後の営業日。

仕事を終えた 綾子・晴花・田中そして翔太の四人が、安堂のアパートにいた。

綾子の “勉強” が主目的ではあったが、翔太に降って湧いたにわかな辞令のこともあって、この日は即席の壮行会と時節柄の忘年会を兼ねることとなっていた。


にぎやかなひとときを過ごし―――。
この集まりに参加した者たちが、ちょうどこの時、安堂の家を辞そうとしていた。

綾子 …今年はホントにお世話になりました。安堂さん。
安堂 いや…なに。…照れるな。
綾子 それでは…また来年もよろしくお願いしますです。

「駅の近くまで見送る」という安堂の気づかいを断ると、四人は、錆びた金属の鈍い音を響かせながら階段を下り、街路へと出た。

外界とを隔てる冷たい金属の扉の内側では―――つい数分前までとは打って変わって静まり返った部屋の佇まいが、これでもかと安堂にうらさみしさを投げつけていた。―――安堂はたまりかね、おおきく重い息を吐く。

安堂 ……

街路を行く綾子たち。

田中 …まさかイケメンくんともうお別れになるとは~。あぁ…なかなかイジメ甲斐のある子だったのに、おねーさんは残念だ。
翔太 とか言いつつそうやって今生の別れのようにこの輪から外さんとするんですから。…先輩は天の邪鬼です。
田中 あひひひひ。
無事戻ってこられたらまた可愛がってあげるから! ま…がんばんなよ。
翔太 あざっす。
翔太 そして先輩は…えーと…その間に…料理の腕…その…人並みにしておきましょうか。…彼氏さんのため、ですよ?
田中 な! なにをっ!
コイツゎ! 生意気ぬかしやがったな~!! おねーさまに向かって!
翔太 …やば!
田中 バッキャロー! 待てっ!
待ちやがれってんだっっ!!

へらへらと駆け出す翔太。


綾子たちの先、数十メートルほどは逃げ切ったであろうか。唐突に振り返ったかと思えば、敢えなく両手を挙げて捕まった。


綾子たちの視界の先に、ヘッドロックされこめかみに拳をぐりぐりとめり込ませられている翔太がいた。

綾子 …あれは…おしおき?
綾子 あのボリュームたっぷりのおっ…(自主規制)…で締めあげられても………ねぇ。どう見てもご褒美ですよ。 翔太くんさん。
晴花 あはは。そりゃそうだ。…田中さんも、そこまで考えが及んでないな。
綾子 …ここは嫉妬してあげてくださいよ。…少しくらいは。
晴花 …ぐぬぬ。

晴花 と…ところでさ、綾っち。き…今日は安堂さんにどのヘンのこと教えてもらったん? …私たちがキッチンですったもんだやってた間。
綾子 引き続き検定について…ですよ。ほら…あの…クロス集計表とかの…カイカイカイカイ~(音符
晴花 …ああ…カイ2乗検定…人はなぜこれを連呼したくなるのだろう…
綾子 そのほかの検定も、いくつか説明してもらえました。いやー、安堂さんの教え方も…晴花さんに負けず劣らず上手です。
綾子 晴花さんもですけど…私のレベルにちゃんと降りてきて話をしてくれるんで、ホンっと、本見たけど理解がイマイチだったようなところが、すぅ~とハマっていくんです。…ありがたいですYO。
晴花 わ…わたしはニワカだからともかくとして…。
安堂さん、ああいった姿勢はステキだね。
晴花 それだけに…前、言ってたことが気になるっちゃあなんなんだけど…。
綾子
晴花 「仲間の仕事がうざったいと思ったら、おわりだ」…っての。
綾子 ああ…う~ん…
綾子 ホントでしょうか…?
確かに…ヘンなふうにへりくだることもない人だとは思いますけど…かと言って私以外にも大上段に構えるようなこともないですし…あれが真意には思えないです…。
晴花 でもね…私…。あれこれ見てて、一つだけは…なんだかモヤモヤしちゃうんだ。
綾子 …と、いいますと?
晴花 すっげー性分の悪い筋の話なんだけど……。それでもいい?
綾子 …はぁ。
晴花 今日も何だかんだで……「帰りに甘いものでも買ってって」って、私たちの買ってきた食材以上に戻してくれちゃったし…。
安堂さんもたいへんなはずなのに…。
晴花 やりくりもタイヘンだと思うけれど……二重生活で。…えと、お金。
綾子 …。
晴花 こうしたセンシティブな話を口に出すのは自分の仕事の立場としてはまずいんだけどさ…。
晴花 ここだけの話…うちさ……ただでさえ振るわない状況で…家庭を持つ男の人ならけっこーカツカツのお給料だと思うの。…いくらか奥さんの方の収入があるとはいえ。
宮地さんがウチを出ていったのも…それが理由として小さくはなかったみたいだし…。
晴花 生活には…障りなハズだよね…。
綾子 あぁ…。そうした意味ではよかれと思ったことであれ…迷惑、掛けてしまってますね…
晴花 ま、安堂さんはすっごいありがたがってくれてんだけどさ…。何より、綾っちの “育成” を使命のごとくして楽しんでくれてるじゃん?
晴花 私もそうだけど、日々のくらしがひとりの時間ばっかだと、ああしたささいな変化さえ楽しいってトコもわかるんだ~。だからこそ……負担を掛けすぎないように…私たちも気をつかった方がいいのかもなー…なんて思っただけ。
綾子 うん…。ですね…。

綾子たちの歩みが、翔太と田中に追いついた。

それに気づいた田中が してやったりの顔をして、翔太を拘束する腕を解く。

その瞬間―――。

田中 えっ! やだ…アタシ…

翔太の鼻腔から垂れ落ちる、ひと筋の鮮血。
紅潮しきった顔色に、田中も動揺を禁じ得ない。

田中 ご、ごめんっ…そんな強く締め上げちゃってたとはつゆ知らず…アタシは何てひどいことを…
晴花
綾子 …。
田中 イケメンくん…本当にごめんっ。アタシ今から病院に連れていくから。 す…少しだけ 辛抱してねっ!

そのとき、翔太が顔を上げ、頭を掻きながら言った。

翔太 …ち。違うんです。先輩!
翔太 ほ…ほろ酔いのところに暑さが重なって気持ちよくノボせただけなんです。し、心配はいりません。

田中 この寒空に?
うぅ…ウソをついてまでこのダメなおねーさんをかばってくれるのね。うれしい…。
田中 イケメンくんだ―――いすき――――っ!

田中は、翔太をがしと抱擁した。

翔太 (あ…また血が…)
晴花 …あ
翔太 (田中先輩…このウソツキやろーを許してください…
男・篠部…先輩のいいかおりがするたゆんたゆんな物体の感触に負け…不覚にも興奮死したとは…)
綾子 田中さん…! 翔太くんさんのはなぢがまた!
翔太 (晴花さんの目の前では…口が裂けても……………)
翔太 (しかし先輩でこれほどの破壊力なら…同じくたゆんたゆんな晴花さんだったら…………あ…やべ……意識が………遠のいてきた………バタン…

―――年の瀬の街路に、田中の悲鳴がとどろいた。

4年前―――4
央部大学
ヒロム [翔太の友人・ヒロム]うぃーす。お待た。
翔太 遅っせーよ。
お前のせいで、学食埋まっちまったじゃねーか。
このは [同じく友人・このは(翔太の高校の同窓生)]ロムくん、おそーい!
ヒロム ワっるい悪い…。
そりゃあ学生としての本分の方がはかどっちゃってからに…。
翔太 こけ。バーカ。
お前に限ってそんなことあるかってさ。
ヒロム ウソじゃねーって!
…いや。不純な動機の方が99パーセントくらいなんだがな。
ヒロム お前は、情報処理演習B…この午後の授業だよな? …時間割。
翔太 あ…ああ。それが?
ヒロム だな、だな。
ふふふ…。お前もきっとキュン死にだぜぇ~! はは!
ヒロム さっ! メシ! メシ! コンビニで済まそうぜ!
翔太 …意味わかんね。
このは ロムくんあんな感じの子みたいだし。…どうせテキトーを言ってんだってば。
このは 翔太くん、わたしたちも買いに行こっ。遅れるよ!
翔太 ああ。…そうだね。

その日の午後―――。

PCルーム。

このは …あぁ。憂鬱だなー。この授業。
翔太 パソコンとは相性悪いもんな、このは。
このは …初年度は科目選択の自由がないし。
来年からは、演習科目…出来るかぎり回避しよ。
翔太 そんなこと言ってっと、4年後困るってさ。
キョービ、どこ行ったってパソコンはオバケのように憑いてくるぞ~。
このは …今までみたいに翔太くんが助けてくれるっしょ。だから、いいの。
このは あ…なら一緒のところに就職しなきゃダメだね。
よろしく… 翔太くん。

やれやれ、といった表情を翔太がこのはに向けたとき、

入り口のドアが開く。

瞬間、部屋の中の喧騒がハタと止まった。

晴花

この演習の担当者であろう人間が、教室の中に座る学生たちを値踏みでもするかのように見回しながら、スタスタと教室を横断し、教員卓に着座する。つづけて入ってきたチューターは、教室の端のあたりに散っていった。

ただでさえ、男性比の高い教室の中だ。教員卓に座ったこの女性の第一印象に対して、いかにもなざわつきが起こった。

教員卓に座ったこの女性は、いちど、咳払いをした。それで雑音が消えぬとみるや、次の瞬間「静かに!」とけん制の声を上げる。


雑音が、凪ぐ。女性は、威圧感のにじむ、重たい視線を学生たちにまんべんなく投げながら、この演習科目のアウトラインを、外見の雰囲気からは想像しがたい、男性的な口調で諳んじはじめた。


気の利いた話で気を惹くでも、ない。ましてや、長きにわたる関係性を学生たちと築くにあたって、自己紹介をすることさえもすっとばした。


―――これに呆気にとられたのか好奇心を持ったのか。いずれかの衝動に駆りたてられたのであろう向こう見ずな学生のひとりが、手をあげ立ち上がると、突如水を差した。

「先生!」

晴花 …………!

女性は、不機嫌な眼差しを向ける。

「自己紹介が…まだですけど…。名前とか…」

不意に進行を止められ癇に障ったのか、女性は、二・三秒この学生を凝視したまま言葉を発しなかった。そして

晴花 …………シラバス。

とだけ告げ、よりいっそうの声量で説明のつづきを始めた。

質問を投げかけた学生は、予想外の反応でどう身を処したらいいのかわからずに立ちつくしている。女性はその様子に気がつくと、再度

晴花 もう大人なんだし…シラバス見れば自分で確認できるよね。この大学の学生たる者、当然…それくらい事前に目を通したうえで、来てくれてるもんだと思ってたけど。
晴花 それとも私…人物について評価項目とする旨なんか、書いたっけか? …んなバカな! それでもキミ…自己紹介…必要あんの?

と、木で鼻をくくったような反応を、返した。

このは …うげ。チョーかんじわるい…。ヤバイよ、この授業。

同感、憂いの種だ―――。

翔太の右手は、悩ましくもシラバスの載った「科目ガイド」を手繰っていく。

翔太 (ひなみ…はるか…先生…。昨年度からの非常勤の先生か…)
翔太 (これ以外も、マーケティングリサーチ論と…ビジネス統計演習の担当とは…。まいったな…)

それからしばらく。女性は、もとしていたように講義の説明を紡いでいった。

晴花 …とにかく、この授業の評価はシラバス記載のことがすべて。シラバスにのっとり、一切の私情を挟まず機械的に評価します。
晴花 一部、他の先生で許されるらしい抜け道も、いかなる事情があれど、ここでは例外なく認めません。
晴花 したがって本筋にはずれた手はずを弄しても、すべてムダ。総じて、評価ポイントを1つ1つ潰していくことがすべてと断言しておきます。

晴花 …以上、よろしいか。

女性の迫力に圧倒された教室は、なお静まり返っている。

晴花 イントロダクションはここまで。早速演習に入ります。チューターさんはレジュメを配布してください。学生諸君は各自PCを立ち上げ…

別の日―――。

空手部。

翔太 あの…先輩…。ひとつお尋ねしたいことが…。
空手部・先輩 [空手部の先輩]何さ?
翔太 授業の…ことなんですけど…。
空手部・先輩 授業? 部のことじゃなくて、じ、授業かよ…。
なにかと思えば…つまんねぇ野郎だな。そんなんなら他あたれよ。
翔太 いえ…商学部の先輩は…他にはいらっしゃらないので…。どうかおねがい…します…。
空手部・先輩 たく、しゃーねーな…。
で、何だよ。
翔太 昨年…先輩…情報処理演習Bの授業…履修されたと思うんですけど…。そのですね…。
翔太 授業…どんなもんなんかなぁと思いまして。なんか、ヤバそうだったんで…。
空手部・先輩 情報処理演習B…。ああ、日南のだろ?
容姿でチヤホヤされるだけの、無能講師。
翔太 えっ…。
空手部・先輩 たしかにあの授業はヤバイわ。授業…成立してたためしねぇもん。
空手部・先輩 アイツは気弱すぎんだよ。ヘタレ! …向いてねぇわ。
うるせーヤツらをろくに注意することもできねぇ。かといって、惹きつける話ができるでもねぇしな。
空手部・先輩 顔につられた信者以外のたいていのヤツらは…そのうちネットなんか見ながらチャイムが鳴るの待ってるだけの時間になるぜ。
翔太 そう…ですか…
空手部・先輩 …そういうことだ。新入生の試練だと思って、あきらめろや。
翔太 (先輩の話と僕の見たものが 180°違う…。これはいったい…)
1月上旬 14:00
街の映画館

年が明けて―――。

キュルキュルキュルキュル………
ザッツザッ…

晴花 モグモグ…

ド――――――――――――――――――――ン !
ドド―――――――――――――ン!

晴花


…FIN

晴花 (もう終わっちゃった。満額デーの出費なのに尺…みぢかいじゃんっ!)
晴花 (…しょうがない。カフェでも行ってもう少し時間潰そ)
1月上旬 15:30
Coffee Shop

同じ日。しばらくの後―――。

映画館をあとにした晴花は、イートインスタイルのカフェに入る。

初詣 あるいは初売りの買い物を満喫してきたふうなカップルの姿の目立つ店内の様子に、晴花は、新年早々ツキのなさを感じないでもなかった。が、時間を潰すのに格好の場所は、ここしか思いあたるところがない。


仕方なく場所代がわりのカフェオレを手にすると、シアワセ臭に満ちていた店奥のソファ席周辺を嫌い、入り口近くの二人掛けの小さな円卓を自らのものとした。そして、バッグからそそくさと文庫本を取り出すと、それを胸の下のあたりでひろげ、自分だけの世界をつくっていた。

お待たせ。 待った?

いくらかの時間が経って、突如頭上から聞こえてきたとんちんかんな男の問いが、晴花ひとりの世界を穿つ。


「あぁ…誰かに間違われてる。面倒だ」
と晴花は思う。


「不用意な錯誤につき合わされる身にもなれ」

えもいわれぬ不幸なめぐりあわせが、怨嗟の念を刺激する。―――晴花は煩わしそうに視線を上げた。

晴花 …………!
安堂 うっ…新年しょっぱなコワイかおだなぁ…
晴花 安…堂さ…?
安堂 やぁ…。ていうか、明けおめ…てか。
安堂 ここ入ったら偶然にも日南さんがいたもんだから…。声色まで変えてみたというのに…見事ハズしてしまったけん…。
晴花 す…すみません…
安堂 ところで、みたとこ…今日はおひとりさまなんかな?
であれば、ここ…座っていいっす?
晴花 ええ………どうぞ。

安堂は、手にしたラージサイズのジュースを円卓の上に据えてから、床に大きな紙袋をドカッと降ろした。そして晴花の対面に着座すると、難儀な仕事に精魂をはらい尽くしてきたときのような息を吐く。

晴花 これは…………?

床の上の紙袋をさして、晴花が言う。

安堂 セイキューハンズ。
晴花 へ…?
安堂 あ…キッチン周りのこまごまとしたモン。いわゆる、料理道具…というやつを、そこで。
安堂 福袋目当ての買い物客にまぎれて慣れない買い物してきたら、つかれちゃったよ。
安堂 とりあえず、水分補給して帰ろうか…と思えば、わが社の誇れる可憐な女性が凛として本とにらめっこしていらっしゃる…。同じく本読みの自分にとっちゃ、なんと心惹かれる光景であったか! …でもって結局ナンパしちゃったよ。

と冗談を言うやいなや、安堂は手帳をひらく。
そして何やら筆を走らせながら、卓上に置いたままのジュースをストローで勢いよく吸い上げた。

晴花 (このオフタイムでさえあいかわらずの記録魔か…なるほど…)
晴花 料理道具…ですか。いや…笑っちゃあいけないけれど。
安堂 いや、なに。ここ何回か、日南さんたちにおいしいものご馳走になってたら、自分でこしらえてみるのも…悪かないかなって?
安堂 なんか…いろいろと前向きな気持ちになれそうな気がしたんだなぁ。ま…それ以前にこれまで料理道具とまったく無縁のくらしをしてきたもんだから…少しくらい…ウチにあれば彩になるか、なと…。
安堂 とまれ、正月早々…家の中で枯れた男がひとり籠ってても、いいことなんてありゃしないしね。…出てきて正解だったよ。

安堂 ところで、日南さんは? ご実家は…県内だったっけか? …戻らなかったん?
晴花 いえ…。戻ってますけど…今は特別というか…。
安堂 …特別?
晴花 き…緊急避難…を…
安堂 …なんじゃそりゃまた。

晴花 悲しくも、世間的には “カタ” みたいなもんがうざいくらいに圧し掛かってくるじゃないですか。くだらないけど…その…ビミョーな年齢…っていう…。
晴花 親戚のうるさいオジサンの小言めいた冗談を、ノーダメージで聞き流せるようなデキた人間じゃないですから…。
晴花 「結婚の予定はそろそろか? ぐへへ」とか
「相手さえいないのか? オジサンが活きのいいの紹介してやろう! ぐへへ」とか。…うんざりで。
晴花 今日、急にその人たちがくることになったと聞いて「YABeeee!」…と。
綾っち誘ったけど…

綾子 「ごめんなさい! 今日は高校の時のともだちと初詣に行くんです~!」

晴花 …とあえなく先約に阻まれ。

安堂 …なるほどなぁ。
ならば、ナーヴの門井さんなんか誘ったらよかったのに。…でも、門井さんの方は自由が利く身じゃないかぁ。お店があるし。
晴花 優里は…お店は…お休みですけど…それだけに…
お休みくらいは…なんかゆっくりさせてあげたくて…。
晴花 心労も…いろいろたまっているとは思うので…。

安堂 ああ…向かいの店、か…。
あれは、心中を察するにあまりあるな…。

晴花 …そうしたもんだから、ひとりでいいやと。でもって、ネカフェとか…映画館とかを…はしご…してました。

晴花 でも、なんだろう…。
お正月早々は、周りを見るとどこも笑顔ばっかで…なんかすごい居場所ない感がひしひしとするわけで…ヘタに出てきた方がダメージが大きかったなと…

安堂 …ぶっ。
晴花 な…何か…!?
安堂 だってまるっきりの枯れ具合、だもんな。
日南さんが、目の前のオッサンにこびりついたヒモノ生活とたいしてかわらない日常とくりゃぁ…笑うしかないじゃん。
晴花 ぐぬぬ…

安堂 ま…最初はちょっと素っ気ない人間に思われるところもあるかもしれないけれど、慣れればそうでもない。それに何より端麗な容姿をもってからに…料理だってジョーズだ。…それこそ、ビミョーなオレが言ったらお門違いになるかもしれないけれど、日南さんは…もっと誇りをもった方がいいのでは?

安堂 客観と主観とでさ…己の姿っていうものが、大きくずれてくるとさ…大きな隙ができたりすると思うんね。

安堂 ときに、他人にとってはそれが凶器になって降りかかるんだなぁ。…あの荒木さえマジもんの涙を流すとは思わなかったし。

晴花 え…ええ…?
安堂 悪いね。アイツから、聞いちゃったんで。
安堂 ここんとこ、ヤツの意気消沈っぷりが甚だしかったんで…。
ほら…アイツ、社じゃ理解者は皆無でしょ? オレまで気にかけてやらないとなると、アイツは完全にひとりになっちまう。
安堂 ヤツ…そのへんのことを理解してくれてるもんだから、気にかけてやったら話してくれたのさ。…日南さんとのこと。
安堂 「告ったら断られた」と。…「最後までやさしい物言いで」とさ。
安堂 ヤツには「これまでの人生でただひとり、そんなハードルの高いイベントに望むに値する人があらわれたってのに、その失意の大きさがお前にはわかるのか!」と、言われてまったんだけどさ…。でも、どちらかと言えば、オレだってヤツと同種の類の人間の方なはずなんだがな…。
晴花
安堂 いや、なに。オレは日南さんを責めてるわけじゃぁないんよ。そこ、勘違いしないでさ。
安堂 オレが言いたいのは、キミは誰もが認める素敵な人間だってこと。
誰に遠慮することもない。キミは、自分のことをどう思ってるのか知らないけど…おそらく、その評価は高くないんだろう。…なんとなく、わかるよ。
晴花 …ぬ
安堂 でもさ。他所から見たとき…日南さんの真価ってもんは、そうそうに消せてるもんでもないと思うんよ。
晴花
安堂 相応が…いちばんだ。…結局。
安堂 荒木にだって、ヘンな期待を残させるより「私にあなたはつり合わない」ってしりぞけるくらいが、ちょうどよかったのかも。…な~んて。
晴花 なっ…
安堂 正直言うと、オレ。…そうして謙虚になれる日南さんがうらやましく思うのかも。
オレの場合は…肥大化する一方の自己評価に自分でも辟易してきたクチだから。

晴花 安堂…さん…

安堂 おっと! いけねぇなぁ…。正月早々、どうにも辛気臭い話をしてまった。
…ごめんよぉ、日南さん。
安堂 じゃ、オレは帰ってこの調理道具でひとあばれするとしますか。
…あ。こなれた頃にみんなに強制的に振舞うつもりでいるから、そん時を覚悟しといてさ。
安堂 …んじゃ、お先に。また会社でよろ~。
晴花 あっ……

床の紙袋を「うしっ」と持ち上げると、ほとんど空になったジュースのカップを手にして、安堂は店の外に出ていった。


―――晴花は、安堂のことばの裏にあったであろうものをはかりかねた。


同席者を失った円卓の景色が、不意に、くすぐったく思えてくる。


晴花は、店の中をあらためて見まわした。

奥のソファ席の一角が空いているのが視界に入るや、減ってもいないカフェオレを手にして、ゆっくりと席を立つ。


そして晴花は、ソファ席へと身体を運んだ。
いったい自分が何をしているのか――――――自分でさえも、わからぬままに。

1月上旬 11:20
Navi in Bottiglia

リサーチサービス社は、あたらしい年はじめての営業日を迎えた。

社の慣例である全体朝礼を終えるや否や、多くの人間が嵐のようなコールに追われる。長い休みのあとには、きまって反動のような一日がやってくるのが常だった。

一方、反動とは無縁の人間も、いた。

周囲の繁忙の中でも、己の手持無沙汰なさまをつつみ隠さずいられるほどに、安堂は剛毅でない。このとき、安堂は早々に皆の戦場から離脱していた。

そしてこの時間―――。

ナーヴィン・ボティーリャのパーキングに停まる一台の車があった。安堂は、その車中にいた。

晴花の言う「心労の原因」が、道路に面して掲げた看板が、安堂の目にもよく目立つ。

安堂 「3月上旬開店予定」…ふた月あまりだな。

すると安堂は、店の前に停められた何台かの車に関心を寄せた。単眼鏡でひとつ車を見止めては、手元の手帳に視線を落とし、さらに次の車を見止めては、ふたたび手帳に視線を落とす―――。安堂は、しばらくそんな行動を続けていた。


安堂 あれは…
安堂 …ちがう。
安堂 あれは…
安堂 …なし。
安堂 あれも…
安堂 …該当なし、か。

安堂 じゃ、あれ…
安堂 …。
安堂 思い込みというヤツはおそろしい…。照合…なんて必要ないな…
ヤツら、隠れる気なんて、さらさらねぇ…。

一台の車の側面に描かれたロゴが、安堂の視線をくぎづけにした。

安堂 BBI…全方位にケンカを売れるその勢い…シビれるね。
安堂 …他人(ひと)の人生を食い荒らすようなプリファレンスが、あいかわらずお好きなこって。

ナーヴの駐車場がランチ客によってにぎわいを見せはじめる少し前、安堂は周辺に不審がられるのを嫌って車を出した。

1月上旬 10:30
リサーチサービス社

翌日。経理課―――。

綾子 え~! ホントですかぁ!?
安堂 まじ…。まじ…。日南さん、カフェでひとり泣いてたし~。
安堂 「綾っちにウラギラレタ~! ぶっきょろす!」…って。
綾子 ひぃぃ~
晴花 ない…ない…。

そのとき、外から戻った社長が経理課に入ってきた。

社長 日南くん、これ、たのむ。

晴花 あ…はい。

社長は、晴花に帳票を手渡した。

社長 そろそろ…だろ?

晴花 え?

社長が何のことを言っているのか、晴花にはわからない。その反応を最初から見越したようにして、社長は棚の方を指さした。

晴花 あ…。発注、ですか。
社長 しろうと目にも、よくわかるな。今後も、しっかり維持管理してくれ。

晴花 あ…はい…。

晴花の返事を聞きとげると、その場にいた他の人間に関心を移した。社長は、安堂に向かって言った。

社長 お前…これから予定は。
安堂 は…あの…ええと…。
安堂 少し…営業でも行ってこようかなと…考えてますけれど…
社長 ふむ。…確かなアテは?
安堂 いや…それを言われると…
社長 …そんなトコロだろうな。

安堂は、狼狽した。

社長 お前…オレを手伝え。
安堂 は…?
社長 どのみち、年初じゃお前の得意な仕事もはかどらんだろう。
社長 上の倉庫に残った不要の品を始末するからな。…お前とオレで。

そう安堂に告げると、社長は経理課を出ていった。

筋の悪い冗談か―――そう思った安堂が経理課を出ると、どこから用意してきたのか…雑居ビルの前に停められた軽トラックが目に入る。安堂は、この場に居合わせたタイミングの悪さを呪うしかなかった。

綾子 上の倉庫…。不要の品の始末って…年末の統合作業のものですよね…。晴花さん、話…聞いてます?
晴花 いや…。
晴花 でもこの伝票見ると、いくらか廃棄するみたいね。…償却済みのものなんかを。
晴花 おそらく、これは聞いてなかった方が幸せなたぐいの案件だ…。安堂さんには悪いけど、われわれには今日、戦闘服がない…。
晴花 ゆえにわれわれは何もしらぬのだ。…よろしくっ。
綾子 ですね…。ま、必要があれば…どのみち駆り出されてしまうでしょうけど。
1月上旬 13:00
街中

同じ日―――。

社長と安堂のふたりは、さっそく作業を開始した。

年初め早々の力仕事だ。はかどろうはずもなかった。ときおり休みを入れながら、ふたりはゆっくりと階段と軽トラを往復する。


やるべきすべての作業を終えたとき、ふたりの真っ白なワイシャツがわずかにすすけていた。


ようやく、解放される―――。

安堵に満ちた表情の安堂に、社長は「まだ早い」と言わんばかりに、彼の背中を拳のわきでいちど弾いた。社長と安堂は、その足で廃棄物処理センターまで向かう。

しばらくして―――。処理センターで不要の品の搬入をおえたふたりは、会社に戻る道中にあった。軽トラックのハンドルを、安堂が握る。

その傍らで、社長が、言った。

社長 …ハラ減ったな。

安堂 あ…ですね。

社長と一緒にいる限り、そんなことを感じていられる心のゆとりがあるわけでもない。だが社長の言をいちいち否定して、得られるものがあるかといったら―――。安堂は、社長の言にてきとうに同意した。

社長 途中で、すませていくか。
オレが負担する。…この仕事の手当てがわりにな。
安堂 え!? メシ…すか?

殺生な―――安堂は、心の中で苦虫をかみつぶした。

「社長とぎすぎすした時間をつづけるのは、メシとはいえ仕事と変わらない」

それは、提案という体裁をした命令だ。誰にも干渉を受けない、唯一の時間を失いつつある現状を、安堂は受け入れるしかなくなった。

社長 どこでもいい。てきとうに寄れ。
安堂 そう言われましても…。

安堂は、とまどいをみせる。

社長とサシで食事をとる機会など、なかった。ましてや社長の嗜好など、知るはずもない。…いや、社長のこととなるとどうしても避けてしまうと言った方が正しいか。

そもそもが小さな会社だ。節目節目で、杯を合わせる機会は、ある。ただ不思議と、そうした折に社長が好みを主張するような場面を、てんで思いかえすことができない。


「思えば、仕事を離れた場での生き様となると、誰ぞに何かを語ったという話を聞いたことがないな」―――安堂は、この社長の性分に、ここに至って辟易させられた。

そのとき、だった――――。

瞬間、安堂の脳裏をするどい閃光が貫いた。

不意に、頭の中に散らけてきた、あまたの事象がひとつになっていく。

ひょっとして、今、この瞬間から、“人生の修正” をはじめられるんじゃないだろうか―――。

あれこれと複雑に絡みあって自分を苦しめる厄介ごとの整理をつけろ、と天がきっかけを与えてくれたのか…そんなふうにさえ、安堂は思った。


李下に冠を正さず―――。この会社に入社して以来、安堂は不本意にも関心のほとんどをそんなところに払ってきたように思う。それが人生に実りを与えるものだと信じてきた。


ところが、どうだろう、現実は。


「どのみち、退くも困難なしがらみをためすぎた。
 かといって…この道を信じていけば光を見出せるのか?
 否――。先に逝くほど幅の痩せるこの道の先に待っているのは、十中八九、深い森だ。
 気がつけば、もう、そんなところまで来てしまっているではないか。


 

 ―――きれいに、清算したい。

 もう、この道を誰かのためにご丁寧にたどってやるのは、おわりだ」


前を走る車のテールに視線を置いたまま、安堂は唇を、いちど咬む。

―――そして、開口した。

安堂 では、いい店にお連れしますよ。
1月上旬 13:20
Navi in Bottiglia
社長 たしかに「てきとうに寄れ」と言ったか。人を見る目がないのはオレの性分だが…
社長 …だからと言って、薄汚れた格好の ムサくるしいのがふたりでわざわざ寄るようなところか、ここは?
安堂 ま、まぁ…。そうおっしゃらずにお願いしますよ…。
安堂 考えがあってのことですから。どうか、わたくしめにお付き合いください。

そう言って、安堂は社長に諒解を強いた。ふたりは車を降り、店へと向かう。

木製の洋扉を安堂が引くと、それに気づいた優里がふたりを迎えにやってきた。

安堂 こんにちは、門井さん。
…とはいいつつも、分かりますかね? わたしのこと?
ナーヴ 優里 もちろんですわ~。
晴花がお世話になってるリサーチサービスさまの…アンドウさん。…先だってはありがとうございます。
安堂 よかった。うれしいなぁ…。さすが、プロの仕事だ。
ナーヴ 優里 むふふ。え~と、今日は…。
あら、まぁ!
…あたらしいお客様に当店をご紹介いただけるとは、光栄ですワ。

安堂の背にいる男との出会いを、優里はいささかオーバーに表現して見せた。

安堂 なんと、弊社の社長を…お連れしました。
ナーヴ 優里 社長さま…!??
あらら、なんてことでしょう!
ナーヴ 優里 ウワサの社長さまに足を運んでいただける日が来るとは…当店にとってこれ以上のよろこびはありませんわ。
ささ…社長さま~、どうぞこちらに。
社長 (噂?)

ふたりは、優里に先導され店の奥へ歩いていく。優里と安堂のやりとりから何らのつながりを察した社長は、案内されたテーブルに腰を据える前に、懐から名刺を取り出し、優里に対して己の名を明かした。

社長 …おい安堂。噂って何だ。お前ら、オレのことをどういうふうに吹き込んでやがる!?
安堂 さ、さぁ…私はぞんじあげません…(汗 やべぇ…
社長 …ぬぬぬ。
社長 ところで、あの門井さんという方は…うちの日南くんの知り合いなのか?

社長は十分に暖められたオシボリで両手をぬぐいながら、そう、安堂に問うた。

安堂 知り合い…? とんでもない、そりゃもう親しい友人だと…。おかげで、リサーチサービス社の人間ってだけでよくしてもらえるもので、社でも常連が…ナカちゃんとか。
社長 そうか…。社長という立場になって、ちょっとしたきっかけで大きな孤独を感じさせられることがある。なんでもない…こんな折にな。
安堂 ですからこうしてご利用いただこうと…。社長に気に入っていただけること、うけあいです。なんてったってここは、格好の素材と調味料を備える “ラボ” ですからね。
社長 ラボ…か。場違いにもほどがある言い方だが…おのずから期待は高まるな。
安堂 では、オーダーを済ませてしまいましょう。
社長は、これなんかいかがですかね…

しばらくの後―――。

安堂は、食事をしながら社長へと切り出した。


安堂 社長…あの…。
ここへお連れしたのは…実はわけがありまして。
社長
安堂 こう言ったらなんですが…ええと…社長でしたらどのような見解をもたれるものかと、思いまして…。…研鑽のため、参考にさせていただきたいと…。
社長 見解? …いったい、何についてのだ?
安堂 …向かいに、洋館があるのはお気づきになられてますか?

安堂は、その方角を指で示した。

…もっとも、店の中からは、その姿を臨めない。

社長 洋館…。
それっぽいのは、あったな。確かに。
安堂 こちらと同業のお店が、まもなく開店するようです。はす向かいとは、大胆ですね。
社長 …死地に置くやり方ができるというのは、経験・資本ともに豊富なんだろう。飲食は注目を惹いてなんぼのところも少なくないだろうしな。
安堂 門井さんも気苦労をされているようで…。わが身に置き換えてみたら、そりゃ、生きた心地がしないだろうなと思います。
安堂 そこで、もし…なんですが。
ここのオーナーが社長ご自身でいらしたと仮定して…の話です。社長でしたら、いったいこんなとき、何を考えて行動を定められるであろうかと…かねがね、好奇心を重ねていたところで。凡百の才能さえもたぬ私には、とうてい発想も浮かばぬところでありますから…。
社長 なんだ、お前。ヘンだな。
…日南くんに、助力を請われでもしたか?
安堂 まさか。
こちらと親しい間柄とはいえ、他人の仕事は線引きしますよ、彼女なら。それ以前に、それこそ他人の力をあてにしてまでコトを進めようとするような…そんなタイプでもないでしょう。…リアルに研鑽のため、ですよ。
社長 …そうか。じゃ、言おう。
軽々に説を垂れる愚かさを恥じ、ただ口を閉ざすのみ…だ。
社長 確たる情報もないときて、口から吐ける言葉は砂上の楼閣にすぎん。それとも過去、あるところにいたどこぞのいかがわしいリサーチャーのしたコンサルの猿真似でもして、コールドリーディングしてみるか?
社長 いいだろう。…まわりを見ようか。
社長 この瞬間の客数・客単価から、この業態のデータに照らし…たとえば、時間帯別の集中度といったウエイトをかけ、1日あたりの商いを推し量ろう。…あとは掛け算でひと月・1年の商い…だな。
社長 ある程度、この業態に関する経験…いや、知識でもいい…さえあれば、さして実態と遠からずの額がはじけるだろう。
社長 こどもでもできるな。…うちの、寺畠くんのような。
安堂 (こども…か)
社長 でも的を掠ったとならば…ましてや本当に困難な判断に迫られている客に対しての商いだ。いわんや、効果は…絶大だな。
…まるですべてを見通せる神が降りてきたかのように、心を開いてもらえることさえあるんだ…これが。
安堂 それは…もしかして…
社長 ああ…オレだな。
売り逃げ前提の取るに足らない埋め合わせには、すれすれの “話術” を足掛かりにしたりもした。
社長 つまり、だ。オレが言いたいのは…
今、このときにお前の望むような見解をつらつらとオレが語りだしたとしたら、お前は宮地のようにわが社に見切りをつけるべき時にある…ということだ。
社長 視界不良の空の中を、計器には目もくれず操縦するようなパイロットが舵を取る飛行機には、正直乗りたくはないだろう?

安堂 …ごもっとも。いや、むしろ期待するご返答でした。

社長 …なんだ、お前。ひょっとして、生意気な真似をしやがったのか?
安堂 いや、いや。そういうのではないですよ…。
なんて言うか、自分の背中を押したいんですけれど、自分ではできないですし…やはり、誰かに押してもらえたらいいかなというか…。でもなんか他人の夢の中の決断を見ているような…そんな感じがどこか拭えなくて…
安堂 八卦…ですよ八卦。ネズミは逃げ足の早さが売りですからね…なんて。
…ははは。
安堂 でも、ま…こうなると、私こそ “背水の陣”を敷いてしまうんかな…って感じですかね。やはり歯ごたえがあってこその輝きですよ…。
社長

安堂 あのですね…、社長。
安堂 実は…この件にからみたいと思っているんですが。
安堂 いや、調査を受注できる確証もなく、ただの希望なんですけど。
…小さな商いですから、会社に貢献できる内容のものじゃあないといっちゃなんですが…。
社長 お。いいんじゃないか?
能書きだけは一流だが何も売れないヤツより、バカだがモノを売ってこられるヤツの方が、オレは好きだ。
安堂 いや、それはそれでマズイと思いますけど…
社長 はァ !!?
安堂 ……い、いえ、何も(汗
安堂 ただ…
安堂 どうやら BBI がからんでいるようなので…。正直、そこにこそ惹かれるものがあるんですが…私は。
安堂 慎重さの要求される仕事になるのが目に見えてますゆえ…社長のご裁可をいただいておく方が安全だろうなと…
社長 BBIって…。いったい、どういうことだ?
安堂 実は昨日、内偵してみたら件(くだん)の出入りを向かいに確認したんです…。

社長 なに!?
社長 なぜ、分かった!?

安堂 それが、私自身…最初は目を疑ったわけですけれど…。
安堂 …ロゴ入りの社用車がデーンと…。おそらく向こうのリサーチセクターでも使用は禁忌とされているはずの車でしょう…。
安堂 基本的に、われわれの業界では、いらぬトラブルを招きかねないのでクライアントや調査先の秘匿は第一義とされます。受け手であるわれわれの行動ひとつで、当事者ならずも周辺にまで邪推を生みかねませんから、その影響を鑑みるに当然ですね。
安堂 したがって、容易に所有者の特定できる移動手段を使ったり、身元の分かる社章を身に着けたりして行動することは、受け手のプリンシプルから外れて最たるもの――――――と思っていたがゆえに、驚きました。

社長 ……われわれの喉元じゃないか。ホームグラウンドだぞ…

安堂 ヤツらは…なかなかに老獪で…RS部員の間でおおきな取引が流れたりする話の裏には、たいてい…ヤツらがいました。
安堂 ヤツらは、水面下でそりゃもう上手に立ち回ります。 …われわれに砲口を定める隙なんて与えなかった。

社長 それが、身元をさらしてわれわれに遠慮することもなしと…。

社長 相手をボコボコにする意気込み満々の目立つやり方で、デカイツラを隠そうともせず、挑発同然の浸食をはじめたとは…。
ヤツらにとっちゃ、もう、オレたちは敵にすら値しない路傍の石扱いか…。

安堂 …。
安堂 ここはそう印象づけるに十分な橋頭堡、ですね…。出方を見て…この地域の勢力図さえ塗り替える気…のような気もします…。

社長 ……………

社長は、歯噛みした。

そして突如席を立つ。

安堂 あ…あのっ…

安堂の声を無視して、社長は店の出入り口に向かった。

その足で懐から携帯を取り出すと、扉を開け外に出る。道路から死角になる店の陰に身を運んでから、社長はメモリーから初江を選りだし、コールした。

社長 …母さん、重要な用件だ。端的に教えてほしいんだが。
社長 最近、ウチの融資担当の○○氏と接触は?
初江 「ああ? 年末に銀行までお礼にうかがった際にお会いしたばかりだがねぇ。 …それが?」
社長 いや、何か変わったところはなかったかと思ってさ。…ほら、渋りだしたり、脅されたり…なんてことなかったか、なんて思って…。
社長 さっき行った会社で、お客さんから「銀行の融資姿勢が厳しくなった」なんて噂を聞いちゃったもんだから。それで情けないんだが…少し…気になっちゃって、さ。
初江 「○○さんからは…厳しい話は聞かなかったねぇ。手前味噌だけど、財務状態については…この不況下よくここまで導けたもんだと誉めていただいたくらいだし」
社長 …そうか。そりゃ、よかった。なら、安心して仕事に戻るとするよ。

電話を切ると、社長はその場でちいさく安堵の息を吐いた。

そして懐に電話を差し入れ、踵を返し店の中へと戻っていった。

安堂 社長…あの…いかがされたんですか?

社長 なんでもない。
ほら、食え。突っ込んだ話は、とりあえずヤメだ。…せっかくの上等なメシをだいなしにしてしまっては、オーナーに非礼だろう?
1月上旬 16:00
リサーチサービス社

その日の夕方。

RS部―――。

社長 安堂!

フロアに二・三度くらいこだまするかのような声量で、社長はデスクから安堂を呼びつけた。

社長 …ちょっと来い。話がある。

安堂を同じフロアの応接に押し込めると、社長もその後につづく。

ソファに着座するや否や、社長は安堂に向かって言った。

社長 昼の話だが。

と言って、いちど、ことばを切った。

社長 …昼の話だが、やはり、やりすごすのは愚策だ。遅かれ早かれ、銀行には嗅ぎつかれる。それから行動をおこすようでは心象によろしくない。いわんや、創業以来苦労して地域経済の一員としての承認を得てきた地域の顧客に対しても、だ。
社長 BBIの用意した派手な演出の前じゃ、傍観者でいられようはずもない。
社長 ゆえに―――われわれで介入したい。何として、でも。

安堂

社長 介入を前提とした話だが…
社長 今般の案件は、事情が事情だけに、オレの専権で処理したい。
特例として、担当ルールを…はずす。受注から調査まで、ひとりの人間に一貫して面倒をみさせようと考えている。

安堂 さ…さすが社長。うれしいですっ…。
安堂 私だけでなく、RS部員の多くが、近年ヤツらに散々煮え湯を飲まされてきました…。ここでヤツらの勢いをくじければ痛快っ…。われわれだってBBIの好き勝手にはさせないと、証明します…。

社長 安堂、話を焦るな。
社長 問題が、いろいろとある。

社長 第一に、われわれの職責の範囲内でしか干渉できない。われわれには、ヤツらと違ってコンサルティングにまで踏み込めるだけの体制がない。したがって経営判断に介入するすべはない。
社長 …おおきなハンデだ。
安堂 それは…。イレギュラーではありますが、私の試行錯誤を特例でお認めいただければと…
社長 バカヤロウ! 昼の話を忘れたか!?
これは “埋め合わせの案件” じゃないんだ! ナーヴィン・ボティーリャだけの問題じゃない。“われわれ” の、問題なんだ!
社長 学芸会じゃないんだぞ! 下手をうちゃ係争にかかわりうる事象で、そこまでのイレギュラーをほいそれと認めるわけにはいかん。
安堂 でも…。
社長 …お前はここを潰すつもりか!
安堂 で、出すぎました…。申し訳ありません…。

社長 第二に、それの関連だ。われわれの提案に、オーナー夫妻の出方はきっと芳しくないだろう。
社長 犬も歩けばライバル店…といった具合にあまたの店がしのぎを削る業界だ。ましてや個人資本たればこそ、少しみちを踏み外しただけで簡単に飛んでしまうことさえある。
社長 ……リサーチを設計するに、たとえ数字が必要となれど、コンサル業務として関わることができない以上、こちらからは数字の開示を要求できない。そもそも、あの業界で生き抜くためには、税理士などの士業が相手であれ少しの情報も渡したくないのが本音だろう。われわれに対しては、それに値する信用さえない。日南くんらの関係性だけでは、弱いだろう。
社長 すなわち、われわれに仕事を任せる動機さえ薄かろうということだ。にもかかわらず積極的な誘引を築くなんてことは―――正規の手段では、はたして困難だ。

安堂 そこ…ですね……。

社長 そして第三に、非対称な情報戦としての側面だ。すでに品揃えから客単価、あるいは客の属性にかんする構成比率、さらにはトイレのブランドに至るまで、オーナー夫妻の気づかぬうちに、事細かに調べ上げられているわけだ。
社長 ひるがえって開店前の店舗に対しては…そうした行動は不可能。つまり、その点ではわれわれの側の情報の確度が劣る。…これまた、おおきなハンデだ。
社長 最後に…第四には、われわれの動きを BBI にいかなる理由があろうとも察知される戦いをしてはいかん…ということだ。
あれじゃ、誰だって個人店を相手にケンカをふっかけたとしかみていない。もっとも、むこうのクライアントは、BBI が利幅の出せるスイッチ率を報酬要件にねじ込みたかったがゆえに、言葉巧みに踊らされた被害者だろうが。
社長 そこで、だ。表面的には、BBI という集団の力量に対して、この地域の人間が懐疑的になるような構図がほしい。「個人店を相手に通用しないプロの集団」―――というレッテルが。
社長 …そういった風評さえ手に入れられれば望むべくものなどない。われわれの存在が露出することになれば、機嫌の矛先を一気に向けられんとも限らんからな。そうなれば、ヘビに睨まれたカエル、だ。正面から露骨に狙われては…いよいよもって、防ぎきれん。次の日から、オレ以外の皆が職探しの日々となる。
安堂 …たしかに。
社長 …オレの場合は、死んだ方がマシに思えるくらいの惨状となろうな。
安堂 慎重に立ち回らなきゃならないことは、肝に銘じておきます。

社長 いや。無用。
…お前は、不適格だ。
安堂 え!?
社長 RS部員として求められるスキル全体にかんして言えば、お前は苦言が尽きないクラスタの人間だとは思うが、いかんせんお前の製品にかんしては、内外から一定の評価がある。…そこは認めねばならん。
社長 それゆえ、だ。われわれがヤツらの側の秀でたリサーチャーを把握しているように…
BBI の方でも、お前という人物についての情報なぞ握っていて当然だろう。
社長 われわれの体力を削ろうものなら、そこを狙う以上に効率的な方法なんて、ないからな。…宮地でしてやられたように。
社長 …すなわち、お前では、目立つ。

安堂 そんな…殺生な…。
安堂 (これではまずいな… どうするか…)

社長 …裏に、回れ。コーディネートを任せる。

安堂 !? コーディネーター…ですか…?
では、稼働は誰が………いったい…。

社長 お前は、どう思う。
この難しい仕事を、RS部員の誰なら完遂できると考える。
社長 実のところ、オレは…荒木を使うべきところかと考えるが。
技術的には不安はあるが、目立つこともないうえに、お前とは共鳴する部分も多かろう。…お前らには、いろいろと共通の下地があるようだしな。
社長 だからこそお前を裏に据えて補えば、あれほど適任なヤツもいないかもしれんな、とオレは思うところだ。

安堂 ……
安堂 社長…
冗談は…カンベンしてください…

社長 …何?

安堂 こう言ってはなんですが…
社長の…ウチの人間に対する “人を見る目” だけは、どうでしょう? ここだけの非礼をお許しいただければ、正直、何度疑問符が付くように思ったか…。

安堂 …私がいまだこの会社にいられることが、その論拠として十分でしょう。

社長 ふっ…上手いこと言ってくれるじゃねぇか。
じゃ、どいつなら適任だという。お前は。

安堂 それは、悩むまでもない…。
あの…
安堂 あのふたり以外に…いりゃあしませんよ。
[挿絵]懸案