ひとりマーケティングのためのデータ分析

StoryPart

Chapter 5 > Section 2

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2月第1営業日 8:45
リサーチサービス社

月があけて―――。

―――リサーチサービス社。全体朝礼の場。

社長 …では最後に、処分を伝達する。
社長 就業規則に定めるところにより、経理課、寺畠綾子・日南晴花の両名 および 両名の監督責任者 総務部長を本日付けで戒告処分に付す。
社長 …なお本来は減給とする事案ではあるが、こと両名には著しい反省の向きあり、自今の仕事での挽回を期待して漸次の研修を課しこれに代えるものとする。
社長 以上!
綾子 晴花
1月中旬 9:20
リサーチサービス社

遡ることおよそ二十日―――社長と安堂の、会議室でのやりとりを経た数日あと。

総務部長 …ということなんで。
安価な長机とパイプ椅子数脚をわれわれで用意しよう。
総務部長 工事はこの週末…日曜日に入るから、それまでに。
晴花 …あ…はい…。

晴花の返答を受け取ると、部長は経理課を出ていった。

―――互いに視線を合わせる経理課のふたり。

綾子 …ということは…あの旧倉庫…また別の会議室にでもしつらえるつもりでしょうか?
晴花 なんかそんなカンジかも…。そんなんなら、飲食フリーの昼寝スペースとか…いやそこまでは望むまい…せめて女子社員のための更衣室くらい用意してほしかったze…。
綾子 同感…。
晴花 とまれ寝かせられない話だし…いそぎ海前ビジネスに話投げといた方がよさそだな…。

晴花はビジネスフォンの受話器を上げて、短縮ダイヤルを押し込んだ。

しばしのコール音のあと―――

翔太 「はい! あなたのお仕事ファニチャーでいろどりまっする! 事務用品の南港海前ビジネスでございます!」

晴花 (サムっ…)

晴花 「私だけど…。今日は、翔太くんいるんだ…」

翔太 「あぁ晴…いやリサーチサービスさま! いつもお世話になっておりまっする!」

晴花

晴花 「あの…。実は相談…っていうか…いつもとは別件で手配して欲しいものがあるんだ…。その…えーと…」

と言ってから、晴花は机の上の什器カタログに手を伸ばそうとした。

翔太 「そういうことでしたら!」
翔太 「あとで立ち寄ります。さいわい配達でそっち方面行きますんで」

と翔太は返すと、なかば一方的に電話を切った。

綾子
晴花 来るんだって…。近隣の配達ついでに。
1月中旬 11:00
リサーチサービス社

しばらくして―――。

翔太 まいど! 海前ビジネスですっ!

上半身真っ赤な装いの翔太が、配達をおえて経理課にやってきた。

彼の身体のラインをピタリと浮かび上がらせる細身の七分のポロシャツは、ふたりの目に何とも奇異な印象をあたえるものであった。

綾子 ど…
っていうか…何ですか…ソレ…!?
翔太 これ!? いいっしょ? 統一作業着、つくったんだ。
翔太 とはいえ…館林さん…いや、マッチョなボスでこそ極まるようなシロモノなんだけど! なんてったって、マッチョ売りで行くことにしましたからね、ウチは…。
綾子 (どん判事象だ…)
晴花 って言っても派手すぎじゃ…。
たて…。舘林さんは…了承したん?
翔太 実はそこ…苦労したんすよね…。
GO を得るのに激しくバイタリティを消耗しました。
翔太 ところがどっこい、今じゃご本人の方がノリノリってカンジですけど…
翔太 「翔太はオレと較べりゃガリすぎて似合わねぇな!」
翔太 「まずこの服に笑われないような身体をつくれ!」
翔太 なんて言われ、ボス秘伝のウエイトトレを課せられてしまい…
翔太 そんなもんだから…最近マジでヤバいっす。こう…力にあふれ…自分でももてあましてきたというか…なんでも「クンっ!」って破壊できそうな状態になってきちゃいました…。

と翔太は、心なしか葛藤をかかえたふうな物言いをした。

綾子 またまたぁ…
そんな魔法みたいなコトあるわけないじゃないですか。身体つきも前と変わったようには見えないですYO!
翔太 …と思うっしょ? 綾子ちゃん。僕も最初はそう思ったんだから…。
翔太 やっぱり…見てもらうのが早いかな。

翔太はベージュのチノパンのポケットをまさぐると、鈍く光る10円硬貨を取り出した。

そして硬貨の外周を親指と人差しゆびでつまむと、ふたりに対しそれを向けた。

次の瞬間―――

翔太 ギギギ…

と顔を紅潮させ歯をくいしばると、硬貨がぐにゃりと曲がってゆく。

綾子 晴花 ……………!!!!!
翔太 はぁっ…はぁっ…
綾子 晴花 ニ……ニンゲンワザジャナイ……………

そんなふたりの反応に満足すると、翔太は硬貨をつまんだ指をさっと広げる。

―――硬貨は元の形状に勢いよく復元した。

綾子 晴花 ……………は?

綾子は翔太の指から10円玉を奪ってそれを凝視した。

綾子 ぬうぅ…! お、おもちゃ!!
だましたぁ~! だました~っ!!
翔太 どうどう…
翔太 マジック用のおもちゃ。こども向けの。でも…なかなかよくできてるっしょ? …近くで見せると、バレちゃうけどね。
「子供銀行」って書いてあるし…
晴花 ねぇ翔太くんさ…
まさか…そのビミョーなネタ…外でやってんじゃないでしょーね?
翔太 ビミョーだなんて…ひっどいなぁ、晴花さん。
翔太 空気は読んでますよ…空気は…もちろん…
晴花 (やってんのか…!)
翔太 それがどうして。これで縁ができた先もあるんですよ…。 飛び込みするにも、ウチのような先は何よりまず 窓口のおねーさんたちにマニュアルどおりの対応されちゃわないよう…警戒心解いてもらわないといけないです…。内心、針の穴に糸を通すがごとき神経戦の世界なんですよ。ホントこれでも!
晴花 ぬぬ…
翔太 あと、ええと、他にもいろいろと提案してて…
翔太 愛想のない晴花さん…もとい、非従来型のチャネルになじんだお客さんのためにウチもネット対応しましょうよ!…なんてボスには伝えてます! 実現したら…発注もラクになるとは思いませんか?
晴花 うん…うん…歓迎かも…
翔太 もっとも、GO もらったわけじゃないですけど。…僕なんかに、即、具体化できるアテもないので。
翔太 まぁでも…南港海前ビジネスにとって、僕なりにたとえ小さくとも、追い風が吹かせられるような仕事をしないとな…なんて思ってはいます。
翔太 ところで…晴花さんの言われる「手配」というのは…?
先ほどの電話の…
晴花 ぁ…そうだった…!
晴花 んとね…こういうの、欲しいんだ…
カタログのここにあるような…長机等…安い代替品なんか探してもらえないかなって思って…
翔太 ふむふむ…。これと同等のたぐいで…ですか…。メモメモ……
翔太 あの…。本来のここの人間としての興味を口にして申し訳ないとは思うんですけど……。これはいったいどこで入り用になるんですか?
晴花 上らしいよ。詳しくはしらないけど。部長にそう命じられただけだから。
翔太 上?
綾子 旧倉庫! ですよ! 例の。
翔太 ていうことは…会議室みたいにするんすかね?
ここだけの話…ボスにしてはなんか直球すぎてショックだなぁ…。せっかく晴花さんたちが苦労してデッドスペースを葬ったのに。
翔太 おっと! 海前の人間としてベストを尽くさなきゃダメな人間がこちらの心配をしてる場合じゃなかった。
翔太 …では晴花さん、社に戻って調べてみます。なんとかいい提案ができたらうれしいですけど。
翔太 それでは、また。…じゃね、綾子ちゃん!

そう言って、翔太は南港海前ビジネス社へと戻っていった。



―――数日後。

幾度かのやりとりを経て手配された長机等の備品が、リサーチサービス社に無事納入された。

1月中旬 14:20
リサーチサービス社

翌週―――。

綾子 晴花さん! 晴花さん!

所用で上階に行っていた綾子が血相を変えて経理課に戻ってきた。

綾子 上! 知ってます!?
晴花 上? 何のこと?
綾子 旧倉庫ですよ! 旧倉庫!
なんだかホンモノの頑丈そうなドアで密閉されちゃってるんですけど…!
晴花 え?
綾子 セキュリティロックついてるし…
フロアの出入りでさえ、今じゃなぁなぁの状態になっちゃってるのに…なんでまたあんなところに…
晴花 マジ?
綾子 もしかしてスレスレのあぶないことを始めるとかじゃないですよね…この会社…
私はお縄にはなりたくないです…
晴花 ばかっ。超技術が暴走して、ウチから最凶のクリーチャーでも生み出だされるような物言いじゃん。
なら今のうちにホムセン武器でもこしらえとかないとな。とりあえず、ネイルガンは私のものだかんね!
綾子 ぬ…ずるい。なんか強そうな銃をひとりじめしようだなんて、いい大人のすることじゃないです…。
晴花 大丈夫大丈夫…。まだホームセンターには、最強の呼び声高い “ヒートガン” があるのさ! 綾っちには、それ使わせてあげるから。
綾子 ヒートガン…。
綾子 な…名前から察するに…ひっ…なんか熱光線とか出てくる銃ぅう!? な…なんでそんなヤバいものがホームセンターに! やっぱり今の世の中は、私が知らないだけでそんな荒んだ時代になっちゃってるんだ! ならウチがヘンなことに手を出してもおかしくない!
晴花 そ…そうなんYO…。
晴花 冗談はさておきさ…。ま…せいぜい機密情報なんかをあそこに厳重に格納してこうってカンジにでもなったんじゃない? …私もたいがいずぼらだと思うけど…上はそれ以上に粗野すぎじゃん?…って思うことも多々あるし。
晴花 どうせ中にはこの前買った机や椅子しかないのに、突飛なもんでもなんでもないっしょ。綾っちの最初の見立てどおり、私も “会議室” だと思うけど。…役職の人向けの。
綾子 ですか…ね…
1月中旬 13:00
リサーチサービス社

別の日。昼休みが終わるころ―――。

綾子ははめ込み窓の外に、玄関からビルに入ってくる初江の姿を見た。

初江の背後には、白衣を着た女性の姿があった。


パンクチックなヘアスタイルに牛乳瓶の底のような円眼鏡を着用したその女性の姿はあまりにもステレオタイプなアレ!で、怪しげな雰囲気を漂わせていた。


―――初江とこの女性は、そのまま上階へと階段をのぼっていった。

綾子 晴花さん! 晴花さん!
綾子 今! 見ました!?
晴花 今? 何を?
綾子 玄関ですよ! 玄関!
なんか今初江さんが白衣着たマッドサイエンティストふうな人連れてきたんですけど…!
晴花 え?
綾子 上にそのまま…
やっぱり、上の誰に聞いても用途不明な “開かずの間” でなにかやらかすつもりですよ…。おそろしい、何かを…。
晴花 うーむ…。
綾子 晴花さん、これでもまだ “会議室” と言えるんですか!? だいたいあそこを会議に使ってるところ…いまだ見た人いないんですよ!? …それどころか誰もドアが開けられるところを見てなんかいないんですから!
晴花 …なんかマジにネイルガンを改造しといた方がよさそうな雲行き?
綾子 初江さんがここ来たら上手に聞いてみましょう…
…晴花さん、頼みましたよ!

晴花 わ…私?

初江は一時間ほどして白衣の女性を玄関で見送ったあと、自分も用事があったのかその足で会社を離れた。

―――結局、この日初江があらためて経理課に顔を見せることはなかった。

1月中旬 19:10
リサーチサービス社

さらに別の日。終業後の経理課―――。

綾子 晴花さん! 晴花さん!
晴花 ひっ! な、何ぃっ! いったいこんどは何なのっ!!?
綾子 …って、言われても。私はただそろそろ帰りませんかっていいたかっただけですよ。…一緒にどうですか、って。
晴花 顔、ちゃうかった…顔が………
晴花 …なら私も帰ろかな。じゃあ綾っち、先に着替えぷりーず。

と晴花が綾子に声をかけたとき、階上から階段を下る足音が聞こえてくる。

足音の主は、経理課の扉をあけてこう言った。

社長 …いたのか。
綾子 あ…はい。…でも今帰ろうと。
社長 そうか。
ところで、自転車のカギが欲しいんだが。…キミらは待たなくてもいい。
綾子 え…!?
社長 なんだ? オレの管理じゃ不安とでも言いたげだな。
何なら、オレが戻るまで会社にいてくれてもいいんだぞ。2時間もすれば戻るだろうしな。むろん…カネは出さんが。
綾子 いえいえ…どうぞごゆっくり。
私はお腹空いたんで帰ります。
社長 …む。ヘンなとこで遊んでないで、まっすぐ帰れよ。

と綾子に余計なひと言を残し、社長は自転車にまたがってどこかへと出かけていった。

綾子 晴花さん! 晴花さん!
晴花 うん…わかってる、うん…
何かこれ…以前もどこかで見たような気がするんだ……
綾子 あぁあ!
前からの不吉な予兆はぁあぁ! …ここにきてやっぱり確信ですよぉぉぉおぉぉ!
晴花 綾っち…覚悟を決めよう…
われわれはネイルガンを手に…絶対に生き残るぞ……
1月下旬 8:30
リサーチサービス社

経理課―――。

総務部長 …そうそう。
君たちに話をとおしておかないといかんかったな…アレ。
綾子 ア!?…アレ! ついに…ですか!?
総務部長 え!?
もしかして寺畠クン…どこからかすでに漏れちゃってるの? まずいな。あの、マツ…
綾子 うっ!
綾子 マッドサイエンティストですか!!! ああぁ…やっぱり…
晴花 そんな…………ガチだったか…
総務部長 あれ? いったい何の話かな?
寺畠クン…何それ。
綾子 皆口部長…けむに巻かないでくださいよ…。わ…私…
この前白衣着た人来たの見ちゃったんです! なんかやるんですよね、上で!?
総務部長 ? あ、ああ…それか。確かに…やるけど。上で。
綾子 や…やっぱり!
よ…よからぬ企てを…なんでウチが!
総務部長 …は?
まぁ…確かにそういって敬遠する人間もいるにはいるなぁ…。正直言って、何を隠そうワタシもそのひとりなんだ…。
綾子 わ…私は参加できません! そんなよからぬ企てには!
総務部長 えっ! なんで!?
総務部長 だめだめ…。全員強制。
綾子 …イヤですから! 絶対!
総務部長 おいおい、そんな子どもみたいなこと言って、ワタシを困らせないでくれよ…。
まァ確かに君には必要ない話だとは思わないでもないんだけれど、でもそれではマズいんだよ…。会社としては…。
綾子 この会社をあの科学者の好きにはさせません!
私は断固反対します! さぁ企みを吐いてください!
総務部長 あの…ワタシのほうが君が何を言ってるのか教えてほしいくらいなんだけど…。
総務部長 あ! もしかして…。
キミはあの…保健師さんのことを勘違いでもしてんの?
綾子 ほ…保健師さん? そんなハズは…
だって健康診断、まだ先じゃないですか…。
総務部長 指導があってねぇ…今度わが社もメタボ予防の講習会をやらにゃならんのだよ。その打ち合わせに先日保健師さんがお見えになったけれども…
総務部長 今は関係ないとはいえ、寺畠君だって生活習慣を誤ればワタシのような腹にならないとも限らないわけ! だからわがまま言わずに、講習会には参加すること。…いいね。
綾子 ・・・
綾子 はい…ろこんで……
綾子 いやだなぁ…晴花さん…保健師さんがマッドサイエンティストなわけあるはずもないじゃないですか…まったく人騒がせな…
綾子 (私かよ!)
総務部長 …そういうことで。
今日も一日気を引き締めてたのむよ!
綾子 晴花 はい…

そして総務部長は経理課を出て、階段をのぼっていく。

総務部長 はて…。ワタシは何か言い忘れたような気も…。

…という、妙に引きずられる感情にもやもやしながら。

1月下旬 18:10
リサーチサービス社

同じ日の夕方。経理課―――。

総務部長 !!!
総務部長 (まずい…思い出した…。大事なことを…伝えてない)

総務部長はあわてて席を立つと、小走りで階段を降り経理課へ向かった。

総務部長 (ドンっ!)
綾子 晴花
総務部長 おお…よもや帰ってしまったかもとヒヤヒヤしたがワタシもまだまだ終わらんか。あやうく大失態をかますところだった…。

そして総務部長は受付台から室内くまなく視線を投げたのち、綾子に言った。

総務部長 今…ここ…君たちふたりだけだな? 応接・給湯には誰もいないな?
綾子 は…はい。
総務部長 言い忘れていたけれど、君ら…今日は “残業” だから。やりゃにゃぁいかんことがある。
綾子 え!? …こんな日に限ってですか? 今日はこれから晴花さんとパスタ食べに行こうと…。
総務部長 パスタ? メシか?
なーら心配ないって。…そのパスタはタダじゃ食えんのだろぉ? … “残業” の方はタダメシ。 何でも好きなもん死ぬほど食べてきたらいいって。
綾子 …はい?
総務部長 …とにかくな。

と言って綾子に紙切れを手渡した。

総務部長 …ふたりは、このあと20時、ここに行くこと。これは仕事であり命令だ。すっぽかしたら、ワタシの首がとぶような話だから。絶対に行くように。
綾子 …?

綾子は総務部長に渡された紙切れに眼を落とした。

綾子 中華料理…○○苑…?
これたしか…中央駅のタワーにある完全個室の超高級店…じゃなかったですか?
綾子 これが「仕事」というのは…いったい?
総務部長 すまんの…。万一のことを慮ると、ワタシでさえこれ以上のことは言えんのだ。とにかく行けばわかるから。
総務部長 日南クンも…よろしいね?
晴花 いや…よろしくは…
総務部長 あっそ。そんなワタシをクビにするよな真似するんなら…一生恨むよ?
晴花 なんでもないです…わかりました…
総務部長 おうよ!
最後に強く言っておきたいのだけれど…今の話は絶対に誰にも口外しないこと。そういう “秘匿性の要求される” 仕事だと肝に銘じくれぐれも慎重に行動してくれよ。
総務部長 じゃ、たのんだから。間違いのないように!

総務部長の一方的で奇怪な指示に、ふたりはただ呆然とするしかなかった。

ふたりだけの空間に、動揺がひろがった―――。

1月下旬 19:55
中央駅・ダブルタワー

ふたりは件の店が入居するタワーまでやってきた。

…が、タワーの中でいざ立派な店構えをまのあたりにしてしまうと、ふたりの行く先に透明な壁ができる。

―――ふたりは店から少し離れた柱のかげで、店に入るのをためらっていた。

綾子 ああ…来ちゃいましたよ…あのお店ですけど…。
晴花 噂には聞いていたけど…中に入るにもなんかめっちゃ精神すり減らしそうな店構えぢゃん…。 ホント私らには無縁すぎるお店なんし…。
綾子 部長のメモには…「周防」さんって人で予約を入れてるみたいですけど…。
綾子 あらためてこれ…誰ですか!?
晴花 さぁ…皆目…。
綾子 か…考えられる可能性を整理しときましょう…。いざという時のために…。
綾子 1…優秀すぎてヘッドハンティング。
晴花 ない…。それは部長から来る話じゃないし…だいたいヘッドでもなきゃ優秀でもない…。
綾子 2…懇意にしてくれるお客さんの接待。
晴花 ない…。そんなお客さん、特に私には…。百歩譲ってそういうことがあろうときには、RS部の誰かを通じて話もらえるはず…。
綾子 3…サプライズのバースデーパーティー。
晴花 ない…。1年に2歳も年取りたくなひ…。
綾子 と…なると…のこるは…
綾子 こ…個室ですよ!? 個室!
綾子 わたしたちを…ヒトミゴクウにぃいぃ! くっ…くっころ事案じゃないですか!
晴花 ない…。ここにコロッケは…間違いなくおいてない。
綾子 は!?
晴花 え!?
晴花 …まぁいいや。とにかく入ってみよう。時間だし…。
晴花 というわけで、綾っち…先頭よろ。
綾子 むぅぅ…。

店内―――。

店員 いらっしゃいませ。
綾子 あ…あの…。予約のぉ…周防さん…のぉ…お席はどちらでしょ…ーかっ?
店員 承っております。それではお客様、どうぞこちらへ。ご案内いたします。

店員に案内され、綾子たちは店の奥の個室に案内される。

この店員が目的の部屋の閉ざされた戸板を数度ノックすると、ふたりの耳にも金属扉らしい低く重厚な反響音が入ってきた。


―――ふたりは非日常の風景にますます萎縮する。

と同時に、中にいる人間の正体に関心が募っていった。


店員は背後にいる綾子たちに目線を向けることなく、一度小さな礼をしてひざを地面についた。そして、脇からゆっくりと戸をひき、ふたりと中の人間たちとを対顔させた。

綾子 ……!?
綾子 あの…何でここに?

広い部屋の中央に置かれた円卓の向こうに座る人間を見て、綾子は率直な感想を口に出した。

社長 遅かったな。まぁ…何だ。とにかく座れ。
安堂 松原さん ニコ…

綾子たちを対面にして、安堂とひとりの女性の姿もある。

綾子 っていうか松原さんまで…。なんか唐突ですけどお久しぶりです…。
松原さん

綾子が「松原さん」と呼ぶこの女性は、うっすらと笑って小さく頭を下げた。

そして、綾子たちは怪訝な顔をしたまま席に腰を据えた―――。

綾子 あの社長…。何ですかこれ…。「周防さん」って方を含めて、今日は何をするんでしょう?
社長 なんでもその人間が…自腹を切って君たちにメシをご馳走してくれるということらしいな。若いうちからこんな贅沢を堪能できるとは…恵まれてるじゃないか。オレと違って。
綾子 え…? その方と何の関係があって…? だいたい私…「周防さん」なんて方、知らないのに…!?
社長 目の前にいるだろう。
…オレだよ、オレ。
綾子 はい? おっしゃってる意味がよく分かりません…。
社長 だよな。
でもその名を早口で10回言ってみればわかるって、会社の近所の小学生が言っていたぞ。
綾子 は…?
綾子 ううん…
すおうすおうすおう……そうそう…うそ。
綾子 そういう…ことか!
社長 本名を語るには少々はばかられる事情もあらん。…単なるエイリアスだ。
綾子 あの…じゃあ…えーと…でも…松原さんは…いったい…?
社長 ノスタルジー、かもな。
今はそういうことにしておけ。メシの前につっこんだ話はナシだ。
社長 ええと、日南くんは…初めてだろ? 彼女との対面は。
晴花 はい…。
社長 松原日菜子さん。元ウチの社員だ。
今の寺畠くんの仕事を、以前に担当してもらってた。
松原さん …はじめまして。…松原です。
社長 今は…
松原さん ハケン…ですか。まだ。
社長 む。
ということ、だ。
さ。皆、旨いものを食べて帰ってくれ。
綾子 晴花 …??

皆に紹興酒がふるまわれたあと、しばらくして店員がコース料理のひと品目とおぼしき前菜を運んできた。

“いつもと違う” 豪華な様式をいざ目のあたりにすると、興奮が疑念に勝る。


―――綾子は、はじめて知る五感の贅におぼれた。


綾子はいつしか自身が積極的に円卓の回転台の主導権を握り出し、卓を囲む皆におせっかいな差配を始めていた。

そんなころ―――。


めずらしく饒舌な社長の傍らで、晴花はある “違和感” に気づいた。

「いつもにぎやかな人間が、静かだ」

そんなことが気になると、安堂はどうして、ときに左腕に巻いたクロノグラフを気にしながら、さりげなくボタンをポチポチと押し込んでいるのが分かる。

かと思えば例の分厚い手帳を広げ、黒インクの間隙をぬって何やら折に触れて書き足していているではないか。


「またか!」


晴花は安堂という人間のとがった習性が理解できないわけではない。ものとごに長けるということが、ひとつにそうした苦行のような積み重ねの先にあるということを察してきた。

「いや、それを苦行と感じるようでは端から資質に欠けるのだろう」

―――安堂を見ていると、自分の経験の中で得た感触を肯定してもいいような気がした。

だがしかし。それはわずかながら心のうちに苦いものを染み出させる。

人生の選択においてそれを錯誤することは、この世界ではいくばくかの代償を伴う。―――今、そのツケを払わされている自分が安堂によって照らされているようで、晴花は妙に居心地が悪く思った。

綾子 松原さん…もしかして会社に戻られるとか?
松原さん …いやそれは………私からは…ちょっと…。

社長 なんだ…戻ってほしいのか?
残念だが、彼女はすでにヨソの人間だぞ? …子育てが落ち着いてきたところで、最近また外で働きたいと思い、一念発起したそうだ。
綾子 …そうなんですか。じゃあ、今はどんなところで働いていらっしゃるんですか?
松原さん 大学………央部大学って知ってる…かな…?
…派遣されてから、まだ片手ほどの期間しか経ってないけど。

晴花 …!

綾子 あ! それ…今年入社の篠部さんと同じ大学じゃないですか!
もももももも…もしかしちゃって、せせせ先生ですか!!!

松原さん ふふ………まさか。
…高卒の私に、なぜそんなごリッパなことが。…寺畠さん、あいかわらず。

晴花

晴花 …あ…あの~…す…すいません…ひとつ…し…質問していいですか?
松原さん
晴花 そ…そちらでェ…いったいどのよォなぁ~お仕事を~されてるのかなァ~…って。
あのぉ…大学って未知の領域過ぎ~神秘的…で…そ…想像もつかないのでぇ…
松原さん 情報科学教育研究センターって棟で運営管理事務を。
もっとも固い名前からさぞステキな境遇かと思われるのも本意でないので加えておくと、労働環境はおそらく、世間の “サービス業” 以下かも…って。
松原さん …先生方や学生さんが “お客さん” ですから。それをどうとるかは想像にお任せしますが、正直、B to B のリサーチサービスにいたときよりも辟易させられる経験も少なくないことは確かかな。
晴花 …………
松原さん
綾子 おおおおぉおぉぉぉぉおお!
つ…次は小籠包がキタ―――――――! おいしそうぅぅううう!!!!

―――コース最後のデザートを食べ終わった頃。

社長 …十分に堪能したか?
綾子 そりゃあもう! 最初で最後の贅沢だと思うとまだ足りなくも思いますけど…とりあえず、ごちそうさまでした。
社長 む。
そんな心配は無用。いずれ他所でもっとおいしいものを食べさせてやろう。
綾子 ホントデスカ! 無料ですか!?
社長 本当も本当。もちろんタダだ。
綾子 やった! …でもどうしちゃったんですか、社長。何か人が違っちゃったような厚遇のような気も若干…!?

社長はアイロニカルな表情を綾子に返し、こう言った。

社長 だたし。
オレの期待する仕事を完遂してくれたらの条件付きで、だ。
社長 今日ここへ君らを招いたのは他でもない。安堂とともに、君らに難しい仕事を任せようと考えているからだ。わが社の社員として、ぜひとも前向きな返事が欲しい。

綾子 晴花
綾子 な! 何ですか!?
難しい仕事って…!?

社長 端的に言うぞ。
社長 BBIに、気づかれないようこっそりと毒を食ませてこい。

綾子 晴花 はい?
綾子 な! 何でそんなヤバイ冗談を言うんですかぁー…
おいしい食事の余韻が…消し飛んでしまいます…!
社長 冗談?
何でこのタイミングで冗談を言う必要がある。…オレは本気だ。
社長 ただヤツらのご丁寧な挑発に乗っかってやろうというだけだ。指をくわえてみているだけなら、どうせ数年後にはそれこそウチが “消し飛んで” しまっているだろうしな。
社長 今、このときこの瞬間から打つ手をしくじれば会社にとって最悪の結果が見えてくる。
社長 今の言葉に嘘はない。その意味で今日は会社にとっての重大な岐路にある。
我々が存続可能な唯一の途の露払い…それが「BBIに毒を食ませる」ことだ。
社長 今から重大な事実を君らに開示する。
君らにこれを開示する以上、もうコトを無かったことにはできない。
社長 この会社に居続けることが、どれだけヤバイことか火を見るより明らかだからだ。
社長 しかるに、それを聞いても協力ができないようであれば、君らは人生の修正を図るべき、ストレートに言えば早々にこの会社を離れるべきだ。どうせ数年後に飛ぶようであれば、オレとしては無念だが逃げるに早すぎることはない。
社長 離れたあとのことは心配するな。君らに断られたら、この場で松原に頭を下げるつもりで来てもらった。
社長 いいか、勘違いするなよ。これは不当な圧力でも何でもない。会社が直面する困難な状況をあけすけにする時点でバーターだ。主導権は、君らにある。
綾子 し…社長…何か本当にマズそうな話…ですか…。そんな話…ここではマズいんじゃないですか…? お店の人に聞こえちゃいますよ…?
安堂 綾っち。問題ない。ここ…政治屋のセンセイ方だって会合に使うようなところだぜぃ。
むしろここじゃないとマズいくらいだ。ウチは、ここの仕組みには精通している。
社長 納得したな? …じゃあ、ふたりに話をしよう。

社長は会社をとりまく歓迎されざる局勢を、綾子たちにつまびらかに説明した。

綾子 それじゃ…ナーヴの向かいのあの…あたらしいお店を叩き潰せと?
社長 そう急くな。正直、ゴールはいくらかの形態があるだろう。ただ、オレの望むべくは「わが社の存続」という結果だけだ。同じ因果の中にいるプレイヤーの結末についてはわが社とは関係のない話だ。
社長 …ま、オレにも思うところがあるのは違いないが、ここはあえて言及せずにおく。安堂の言うような “curiosity” を君らがもつなら、最初からそれを潰すような言を為すのは愚だ。
晴花 …………
社長 日南くんは、あの店とは浅からぬつながりがあるんだろ? オレもこの前行ってはきたが…なるほど確かにすばらしい店じゃないか。…あれほどの店が、BBI の戯れによって踏みつぶされてしまうのは、オレ個人としても実に惜しまれてならない。
社長 困った時こそ力になってやるのが、筋じゃないか?
…以前海前さんの件で、キミもオレにそう言ったはずだ。
晴花 あれは…………
綾子 で…でも…それなら何で私たちが…。RSの皆さんは、それこそプロじゃないですか…。私たちなんかにできるような仕事じゃないですよ…。
安堂 あ、それね。心配ないさ~。
…僭越ながら、オレが裏から支援させてもらうから。
綾子 裏…って。そんなんなら安堂さんが表に出てやるべきですよ…。
安堂 それができればいいとオレも切に思うんだ。でも…
安堂 よし、じゃあそれが叶わぬ事情の一端をお見せしよう。
安堂 …とはいえ少し、協力はしてもらうよ。
綾子

安堂は、床に置いたブリーフケースをまさぐった。

安堂 …これさ。

安堂は、ブリーフケースからタブレットPCを取り出した。つづいて、茶褐色のフォルダから1枚の紙を引っ張りだしたかと思うと、手帳を見ながらその紙にいくつかの数字を書き足している。

安堂 ところで、ここの店のウリ。
ま…プライバシーが確保された空間ってコト以外に、もうひとつあるんよねー。
安堂 有名な飲食店評価サイト 「SHOKU-LOG」でみんなのコメントを見てみると…
安堂 綾っち、ほら…どうかな?

安堂はタブレットの上で数度指を走らせ、綾子にそれを手渡した。

綾子 え? う~んと…
綾子 「自分はここでやる商談が成功することが多い気も…。最初は微妙な距離がある相手とも、詰めすぎず、空きすぎずの間隔で料理が運ばれてくるので、場がしらけることがない」
綾子 「料理が出てくるタイミングが心地よいです。他店だと途中で間延びしたりしてがっかりすることも多いのですが、ここではそういう思いをしたことが一度もないです」
綾子 「まさに他の方のコメ通りのタイミングw 個室なのになんで? 隠しカメラや盗聴器でもついてる? 店員が扉の向こうで聞き耳立ててるのかと疑いたくなるwww」

綾子 …言われて見れば、これ…たしかにそうかも。

安堂 …ということで、さっきオレもそのタイミングとやらを測ってみた。
安堂 “ある時点” を基準にして、ね。
綾子 ある時点?
安堂 うん。でもま、それについては今はちょっと置いておこう。その “ある時点” を基準にズレをとってみたんだ。今日も含めて何回かの試行で、さ。
安堂 そこが、これ。

今度は、卓に置かれた紙をつまみ上げて綾子に示した。

安堂 でさ!
綾子
安堂 あまり表に出ない人だけど…ちょうど全店舗に改装をいれて話題になったころだったけか…ここの社長がめずらしく、業界誌のインタビューに顔を出したんだ。
安堂 で、綾っち。社長は…こう、言っている。

いちど綾子からタブレットを取り返すと、安堂はふたたび幾度かその上で指を走らせ画像をひらく。そして、タブレットを再度綾子に手渡した。

安堂 「新システムがはじき出した好適なタイミングからは平均にすると60秒程度のずれが生じるが、熟練従業員の経験知から工夫を重ねた結果、そのずれの幅も標準偏差にして30秒程度に抑えることができるようになった」…と。
安堂 …ってことで、綾っち。この「標準偏差30秒」ってトコが出来過ぎでオレはミョーに気になっててね。まさか夜も眠れない…。腹黒い邪推をエサとして食んで生きてるこのオレには、この社長の言うことがビックマウスにしか思えないのさ。「有名店だかなんだか知らないが、従業員にやぁハイレベルな顧客サービスを第一義とさせるタテマエで、ロボットのような正確さまで並び立つったぁいったいどんな矛盾だよ!」…ってなカンジ?
綾子
安堂 綾っち。オレの正しさを証明してくれ! …綾っちならできる! …この前やったばっかだし。
綾子 標準偏差…………。もしかして…母分散の検定をしろと…?
安堂 何それ? そんな方法があんの? …知らないな。
見せてほしいんだが! …ドロドロしたものを成仏させるにゃぁそれしかないの。
綾子 ははぁ~ん、なるほど。そういうことですか…。シケン、デスネ…
綾子 …でも、残念だな~。表計算ソフトないから無理ですよ。ホント、残念だなー。
我ながら上手いかわし! スマホアプリをいれてることはナイショだぞ…
安堂 綾っちだけは味方だと思っていたのに…そんな、ひどいじゃないか……。でも道具がないなら、仕方…ないか………

安堂は顔を伏せて涙を流すうさんくささ満点の演技を見せると、左手だけをこっそり動かして再度ブリーフケースをまさぐり始めた。

安堂 (「ジョーズ」のSE)ずんちゃんずんちゃんずんちゃんずんちゃん…(音符
安堂 ぎゃーっ!! どうしたことか…! こんなところに電卓があったぞぉおぉぉぉ…!!
安堂 ひぃぃぃぃい! さらにどうしたことか…! 分布表までぇえええっ…!!
綾子
綾子 あの…手計算…させるつもりじゃ…ないです…よね?
安堂 そのとーり。綾っちなら問題ない。…頼むわ。

次の瞬間。安堂の前に置かれた紙を、綾子は身体を伸ばして奪い取った。…そしてそれを一瞬凝視したかと思うと、顔をあげた。

綾子 ! えぬいこーるさんぢゅういち! ブっ! ぶっ! ぶ…ブンサンっつっつ!! な…ですYO!
安堂 あ? なんか言った? メモリー機能使えば問題ないね~。経理課にとっちゃ、電卓なんて身体の一部みたいなもんっしょ?
綾子 (完っ全ッに裏目ですん…)

母分散の検定の手順をひらきます

綾子 えっさ…ほいさ…
綾子 分散は…偏差平方和を出さないとはじまんないYO…カタカタ…M+…M+…
綾子 えっさ…ほいさ…
晴花 あ…綾っち…。べき乗は…[×]キー押したあとつづけて[=]キー押すとラクかもよ…。
綾子 ホントデスカ!? …ナンゾコレワ! ヒッサツワザデスカ!?
綾子 よし…不偏分散は…697.60。
綾子 検定統計量は…偏差平方和と比較値の比でー…
綾子 …23.25。
安堂 社長。くれぐれも…これ、カンペなしの手計算ですから、ね。
社長 …ああ、わかってる。
どんくさいと思っていた飼い犬が、ある日家に帰ると突然連続バック転をはじめたような…なんとも形容しがたいインパクトのある余興だ…。
綾子 棄却限界値は…えーとカイカイ2乗分布表でぇ…16.79と46.98。
綾子 検定統計量は…この範囲から出てないからぁ…………
綾子 …安堂さん、有意水準5%として有意差がないですよ。
安堂 …ってことは?
綾子 …ここの社長さんのおっしゃってることは、安堂さんの言うような「ビックマウス」でもないような。
安堂 …なるほど。そうなのか。
綾子 ただし。
安堂 ただし?
綾子 安堂さんが最初に言った “タイミング”。
…これがそもそもチンプンカンプンなんですけど。この記事に、どうやってそのベストタイミングを計算してるのかなんて、書いてないじゃないですか。
綾子 まぁ、いくらなんでも、そんなお店いちばんの “強み” を、あまねく寛大な心で世に公表するはずもないと思うんですけど。
綾子 ですから今私が持ってるこの紙に書いてある数字がそもそもどっから来たものなのか…。
これがもし実態に沿ったものじゃなかったら、私がした検定なんか…意味なくなくないですか?
社長 …ニヤ
安堂 だよねぇ。その発想は、いたって自然だぁね。
安堂 でもさ。
安堂 これがどうして、ガチものなんだな…。宮地くんの残した資料が、オレに雄弁に語るんだ。
綾子 ん?? 宮地さん?

安堂は綾子の向かいから画像をいちどスワイプした。

綾子 えと、これは…何ですか?
安堂 綾っちたちがここにご到着の前に撮っておいた。机の、裏。…Here is。

と言って、安堂は円卓の中心を指でさした。

タブレットには、円卓の背面中心と思われる場所に、同心円状の金属部品のようなものが据えつけられている写真が表示されている。

安堂 これが、おそらく彼の思案していたしくみのひとつ。円卓の “今” を測るセンサー。「回転台の動き・荷重量」…と資料にはある。
綾子 あの…いったいそれは…?
安堂 じゃあ、時系列を遡って話そっか。…今、この店をささえるシステムの案件、実のところ当初こそウチがからむ案件だったんよ。
安堂 好適な “タイミング” がはじき出せるようなアルゴリズムをつくり上げるためには、膨大なデータを観測しなきゃならない。ウチは、これを積み上げていくお手伝いをしたん。
安堂 …そしてこれを担当したのが、宮地くんだったということ。
安堂 ただ…ね。
ウチの契約については、その後おじゃんになったんさ。
安堂 いや、何もこことケンカしたわけじゃない。…データを渡す前、の解消。
ここの計画転換にともなった、円満な解消なん。…実費と違約金もトラブルなく回収済み。
安堂 …ここまでは、ま、よくある話。
安堂 ところが、どうだろう。
安堂 しばらくの時間を経たあと、彼はここがその後どういうしくみを選んだのか…いや、言い換えればある意味ウチがどんな仕事に負けたのか、そうした反骨的な関心からあるときこの店に足を運んでみたわけさ。…もちろん、客として。
安堂 計測してみれば、いよいよどうして。自分が往時考えていたアルゴリズムがはじくそれと似てるんだな。“タイミング” が。
安堂 そうなりゃもちろん、自分と似たしごとを為した主体がいったいどこなのか―――彼ならそこが、気になる。
安堂 見えない足をつかむのにそりゃもう苦労したと言ってはいたが、結局彼はそれを見つけた…。
安堂 綾っち。どこだと思う?
綾子 あぁ…。BBI……。
安堂 BBIは自社サービスに最適化コンサルティングをもっている。つまり単独で包括的にシステムをサポートできる強みをプッシュし、ウチからも契約をかっさらっていった…そんな顛末のようだ。
安堂 いやはや。常識的には計画変更がともなえば要求水準も相当上がる無理筋だ。でも、BBIはそこを意に介した様子もない。それどころか、いろいろと推し量ると、結果としては短期間でしごとをかたちにしてきた計算になる。「得体が知れない」
安堂 …宮地くんも、そう思わざるをえない。
安堂 いや、正確に言えば、一旦は彼のプライドがBBIにそうした “劣勢感” を抱かせるのを邪魔した。
安堂 「自分が時間を費やしてはじめて、ようやくおぼろげながら見えてきたというアルゴリズムが、なぜ彼らの手にかかればそんな簡単につくり上げられる? …天はヒトにそこまで非情な差を与えたもうものなのか」
安堂 …と。
安堂 「そんな理不尽があってたまるか!」――― 彼は「以前の計測がたまたまかみ合っただけ」で、その実は「低品質なシロモノだ」と考えるワケだ。…嫉妬心をうずかせるに値するものでもなかろう、と。
安堂 すべては確証を得たいがため…彼は異なる日時、異なるシチュエーション、異なる店舗、異なる人数、異なる性別、異なる所作…といったアルゴリズムのパラメータをかき乱すであろう要素をちりばめ、幾人かの協力をあおいで散発的にデータをとりつづけていったんだ。
安堂 綾っちがさっき処理したものは、そのさい集められたものの一部…というわけ。…宮地くんの執念に憑かれた、いわくたっぷりのシロモノなんよ。
綾子
安堂 さっきの綾っちが強要された立ち位置とは異なるわけだけれども、残念なことにデータをとればとるほど、彼はBBIがおそらく自分のアルゴリズムとそう遠くないものをつくり上げたことを確信するしかなくなった。今思えばこの頃だったな…。一緒に杯を傾けるとき、彼がBBIに対して嗟嘆の感情を口にするようになったのは。
安堂 これはもう綾っち…
安堂 「悲惨なほどBBIはすごい。ウチでああいう仕事ができるしくみが整うとしたら、はたしてあと何年かかるだろうか」
綾子 !!
安堂 …と言うしかないじゃないか。宮地くんのように。
安堂 いや。
その宮地くんのBBIに対する悲鳴にも似た率直な賞賛は、一見正しいものに聞こえるけれど…
綾子 …?
安堂 正直、どうなんだろう。…別に彼の感じたことにケチをつけるつもりじゃあないんだけれど、いささかピュアすぎんじゃないかとも思うんだな。
安堂 ―――何より、同僚たちもいくつかの似たような話を持っているのに。
安堂 もともと、彼は同僚にかんする関心が薄い。長く仲間としてやってきて…オレはこう思うのさ。想定を超える事態にあうと、彼はいつだってまわりを顧みることなく当然のように自分の力量に帰結を求めてしまいがちだ。
安堂 …ぶっちゃけ、あれだけの功績にもかかわらず社長が3部の石井のような役職を彼に与えなかった理由も、そんなところにあるのだと思う。リーダーとしてはまとまらない。…末端も末端にいる人間が言う話でないのは重々わかってはいるけれども。
社長

安堂は、じゅうぶんなタメを意図してつくる。

―――そして、言った。

安堂 このセンサーこそ、何よりの傍証じゃないかと思うんだ。…記録上、彼はこの存在を知らない。…何てったって、BBIのアウトプットは尊い知的生産によるものと信じて疑わなかったわけだから。
安堂 どうだろう? はたして宮地くんの腹案にあった肝のパーツと、今、BBIのアウトプットとして重要な役割を果たしているだろうこのパーツとが、奇妙にもシンクロを果たすなんてこと…狭い業界では息を吸うようにあたりまえのことなんだろうか。
安堂 このことは…実に重要な示唆を与えてくれると思うんだ。
安堂 “われわれの行動は、ヤツらに筒抜け”
安堂 なぁ、綾っち。―――その方がハマったりして。
綾子 …か…会社のなかに…く…草…す…すっぱ…か…間者…し…忍びの者…がいるって…ことですか?
安堂 いやぁ…そこまで真っ黒い輩は、正直いないことを願うよ…。
安堂 いや、悪とか善とかの概念はどうでもいいんだ。何らかの方策をもってわれわれの動きを嗅がれる可能性をはらんでいることが、今、ここにきて問題なんだ。
安堂 最善のケースを期待して動くより、最悪のケースを考える。ふとしたことで行動を線にされてしまうおそれが懸念される以上、これがさ…ここでウチが向かわなきゃならないしごとにあっても、当然の “帰結” にならね?
安堂 ―――いずれにしろ、ヤツらに対し開襟して存在を誇示するような選択を、社長はお望みでないんだ。
安堂 ゆえに、この仕事ができるのは重ステルス装甲をまといながらも機動力に富む人間のみ。
綾子 …。
安堂 …言葉は難しいな。じゃあ、言い方は悪くなるけん、怒らないでちょうだいよ。
安堂 社長が今日ここにお招きしたふたりなら、誰の目にもノーマーク! ビジネスの世界のプレイヤーとして、いちいち気にされるような外形をもたない。
安堂 …BBIの注意を相対的にかわすことができる。…ふたりこそならば。

社長は安堂が話をしている間、口を挟まず長く黙したまま綾子らの表情を観察していたが、ここにきて安堂のつくってきた文脈にのってたたみ掛けた。

社長 …あえて君らに仕事を任せたいという話が、オレの悪ふざけでないことが十分にわかっただろう。
社長 悔しいが…われわれはBBIとは正面からは戦えん。それでも時は待たない。われわれは、戦わなきゃならんのだ。…ウチの全従業員と、ウチをひいきにしてくれている顧客のために。
社長 たいへん厳しい仕事だが…両君、やってくれるな?
綾子

餌場で水面から顔を突き出す鯉のように、ただその場でパクパクと音のない言葉を製造していた綾子の横で、晴花は、迷わなかった。

晴花 私は…やります。

躊躇のかけらさえのぞかせない晴花の肯定が、綾子にはてんで解せない。


「らしくない―――」


率直に、そう感じた。

綾子 え…!? 晴花さん、ほ…本気ですか!!?
晴花 その代わり…。
晴花 後ろから無用にかき回されたりするのはもうゴメンです。私、もしくは私たちの取捨選択を、可能な限り尊重すると約束してください。
社長 …わかった。できるだけ努力しよう。すり合わせを行って、しっかりと文書にもする。
社長 …寺畠くん、君は、どうする?
綾子 あ…え…そんな…どうしよう………
綾子 だって…うう……
社長 これも文書にするつもりだが、当該期間は君らも総務部員にはあるまじき極度のプレッシャーにさらされることになる。また、勤務時間も一様にははかれない。
社長 しかるに、手当…手当…ええと、手当、というかたちでこの期間はRS部員並の待遇を保証するつもりだが…
綾子 ………やります。
社長 よし。…決した、か。
社長 …松原。
社長 このとおりだ。今後のこと、よろしく頼む。
松原さん 出戻りの不安はありますけど…微力ながら精一杯やらせてもらいます。
こちらこそ、どうぞよろしくおねがいします。
松原さん よし、と。明日早速…契約更新しない旨伝えてきます。
また戻れようなんて…思ってもみなかった。
綾子 晴花
社長 ああ…そうだ。伝えておかないとな。
社長 松原には君らの “日常の” 仕事の方をサポートしてもらう。
これまでのように、かかりっきりというわけにはいかないからな。
社長 彼女はオレがこれまで唯一苦しみを吐露してもいいと思えた、信頼に値する人間だ。
彼女とともに、日常の仕事もこれまでどおり上手にまわしてくれ。
松原さん 寺畠さん…日南さん…以後よろしくおねがいします。
綾子 松原さんが戻ってきてくれるなら100人力じゃないですか! なんなら全部しごと預けてもいいですYO。うえるかむです!
社長 それは絶対に許さん!
綾子 …冗談です。
晴花 …よろしく、おねがいします。
社長 …では早速だが、明日から行動が必要だ。
社長 “環境” をつくってもらう。
安堂

瞬間、安堂が苦い顔をして首を垂らしたのを見て、綾子たちは悪い予感をいだいた。

綾子 晴花
社長 明日…上の人間の頭数がいちばんそろう頃を見計らい、オレの席まで君らを呼びつけ、激しい叱責を加える。
綾子 え…!? ななな、なんでですか!? ………な…何も悪いことしてないのに…。
社長 ホンモノじゃない。虚偽の罪をかぶせる…それだけだ。
社長 安堂が先に君らに言ったように、今回はむずかしい相手とやりあわねばならん。厭うべき最悪のケースも想定していかなければならないときて、君らのしごとはわれわれの仲間にさえおおやけにはできん。
社長 君らはそんな制約のなかで、“非日常” と対峙しなきゃならん。
社長 日常の背後で “非日常” をより易く遂行するためには、君らの価値を皆の前で地の底まで落とすことが、考えられる方策の中でおそらくベストだ。
社長 オレがひとたび君らを突き放せば、しょせんはちいさな組織…。慈悲にあふれる神でもなければ多くのRS部員の眼にもやがてさげすみのフィルターがかかる。
社長 同情こそ示せど、理…あれば、オレに睨まれかねん危険を冒してまで、君らに肩を貸そうと近寄る輩がいかほどいようか。…言うまでもない。
社長 無能な輩との印象をもたせられれば好都合だ。…それだけ君らの行動も容易になる。
綾子 晴花
社長 ことが済めばオレが責任をもって君らの名誉は必ず回復させる。結果がどう転んでも、これだけは天地神明に誓って約束しよう。
社長 演技であれ、オレから皆の前で言葉の暴力に近い叱責を受けるのは心穏やかではないことは重々わかる。が、会社のため。暗くて長いトンネルに自ずから立ち入らんとすることを、甘んじて受け入れてくれ。
1月下旬 22:30
帰路

中華料理店からの帰りみち―――。

綾子 今こうして冷静になってみると…なんかあれよあれよと無茶なことになってしまいました…。
晴花 …まったく。てんでブラックであきれるわ、この会社は。
綾子 それにしても…晴花さん…即答OKするとは…。
こんなこと言っちゃダメかもしれないんですけど…いったいどうしちゃったんですか?
晴花 …だね。私もどうかしてるわ。
晴花 まぁ…正直なところを言うと、優里のところがからんでくる話で、自分のことしか考えてない人たちに優里のお店が好きなようにかき乱されてしまうのだけは阻止してやろうと思って…な~んて言うと格好つけすぎか。
晴花 でも…ホント、そんなところ。
晴花 綾っちこそカネで釣られるとは…この…現代によみがえりし悪代官め。
綾子 ち…違いますよ…。
晴花さんの往くところ、たとえ火の中水の中精神でOKしたんです。崇高ですから、そこんとこ…勘違いしないでください。
晴花 あー…はいはい。
晴花 ところで綾っち。…明日私たちがみんなの前でボロボロに辱めを受けるときて、田中さん…ヤバいんじゃないの? 彼女の性格だし…綾っちのことと聞けば、激昂しない保証もないと思うんだ。
綾子 そう…かもですよね…。ありがたいんですけど…。
…まぁ、そういう心配もちょっと頭の中をよぎったんで、帰り際、社長にそれとなく伝えてみたんです。…そしたらそれも想定済みで、現場に居合わせないよう安堂さんが田中さんを連れ出す手筈になってるみたいで…おそらくは大丈夫だと…。
晴花 田中さんも被害者だな…いろんな意味で…。
綾子 その後については上手くいなせるよう、私たちで全面的に非を認めちゃえば…ま…大丈夫じゃないですか?
晴花 うしろめたいね…。
綾子 乗りかかった船じゃないですか! そんなこと言ってたらはじまりませんよ?
綾子 さぁ! 明日は盛大に怒られ役を演じましょう!
…女優、ですよ、それも主演!
晴花 小学校の学芸会で「立木3」の役しか回ってこなかった私にもついに主演のクレジットがつくのか……。感慨ぶかいze…。

翌日夕刻―――。


大勢の人間がRS部のフロアを満たし始めた頃合いを見定めて、社長は経理課のふたりを上へと呼びつけた。


「これも仕事らしいから」

とやむなく悲痛な表情をこしらえ背中を丸めて社長のデスクにふたりが向かうと、社長は机上にあった紙束を荒々しくつかんで、不意に立ち上がる。


そして紙束をふたりの足元めがけて地を揺らす勢いで投げつけた。

「なんだこれは!」

―――周囲に紙片が散る。紙片…の実は事前に経理課から持ってきていたミスコピー紙の束にすぎなかったのだが、フロアを貫く怒声と相まって、背後で見つめるあまたの視線に対しては迫力のある演出となった。

ふたりは、まるで社長の怒気が本物であるかのような錯覚を受ける。

ふたりでさえそうしたありさまなのだから、同じフロアにいる人間はさらにたまったものじゃない。せわしく手を動かしていた人間はその手をとめ、また電話で顧客や関係先とやりとりをしていた人間は、各先に社内のゴタゴタが受話器を通じて抜けるのを嫌い、ひとたび通話を止めた。

「いいかげんな仕事がいつまでもまかり通ると思ったか!」

「皆が血を吐くような思いをして会社を盛り立てているときに、お前らはいつまでひょろい仕事をするつもりだ!」

「一度ならずも二度までもなめたまねしやがって!」

「お前らの一生分の給料でも補えん大損失を出すところだったじゃねえか!」

皆の視線を一点にあつめ、矢継ぎ早の激しい叱責を受けながら、ふたりは、ただ、申し訳なさそうに下を向いていた。

「ああ…私たちは会社を転覆させる寸前の大きなミスをやらかしたことになったのか…。“緊張感のないしごとをする人間がいたらこうなるぞ” っていうRS部員への警鐘にもなるわけだ…」

―――晴花は心中、そう、考えた。



しばらくの間、社長はふたりへの一方的な叱責を続けていたが、罵倒のためのイディオムもそろそろ限界とみて

「もういい! オレの前にその憎らしいツラを並べるな! さっさと去ね!」

と叫んで、ふたりをフロアから追い出した。

綾子は―――泣いていた。

「ああ…これぞ主演女優のしごとだ…」

晴花は綾子の才能に、場違いな嫉妬をおぼえた。



が、綾子は演技で涙を流したわけではなかった。

社長のあまりの迫力にふれると、自分が立っている舞台も忘れ、恐怖で震えが止まらなかった。


ふたりが去った後のフロアでは、皆が目の前で起こったゆゆしき事態に呑まれ、声を発する者が長い間でなかった。なんとも気まずい空気と沈黙が、この日ずっとフロアを支配しつづけた。

後日―――。



「あの怒りっぷりは尋常じゃない」

「あのふたりが、社長をあれほど激怒させるような大それたことをやらかすとは…」



―――社長は、社員たちの間でそうした話題が活発に交わされているさまを耳に入れると、次のステップへと行動の軸を移しはじめた。

2月第1営業日 8:45
リサーチサービス社

月があけて―――。

―――リサーチサービス社。全体朝礼の場。

社長 …では最後に、処分を伝達する。
社長 就業規則に定めるところにより、経理課、寺畠綾子・日南晴花の両名 および 両名の監督責任者 総務部長を本日付けで戒告処分に付す。
社長 …なお本来は減給とする事案ではあるが、こと両名には著しい反省の向きあり、自今の仕事での挽回を期待して漸次の研修を課しこれに代えるものとする。
社長 以上!
綾子 晴花
[挿絵]SURVIVAL(homage to FALLOUT3)