ひとりマーケティングのためのデータ分析

StoryPart

Chapter 5 > Section 4

そぼ降る雨の住宅街。

この時間、淡いクリーム色の傘で雨粒を散らしながら、街路を小幅に歩く人影があった。

晴花 「今日は突然やっかいなお願いに行ってしまってごめん。えと、弘毅さんにもごめんなさいと伝えておいてください」…と。

晴花は、綾子の家の門扉の前で足を止める。

そして、スマートフォンのアプリで優里に宛ててメッセージを飛ばした。

そのままスマートフォンをバッグに入れると、目の前のインターフォンに指先を掛けた。

2月中旬 20:00
綾子の家

アポなしの訪問者を迎えたのは、綾子の母親であった。

[綾子母]あらぁまぁ…はるるんちゃん。…最近てんで来てくれないもんだから、心配してたの。何はともあれ、うれしいわぁ。
晴花 こんばんは。えと…突然で、すみません。
晴花 あの…今日、綾子さん…突然のお休みだったんで、なんか大丈夫かなって思っちゃって…。そんなカンジでお邪魔しちゃいました…。
[綾子母]むぅぅ…。あの子ったら、はるるんちゃんにも連絡入れなかったの? …なんて子かしら。「体調悪いなら病院に行ってきなさい」っていう私の言うことも聞かないし…。まさか、不良になっちゃったのかしら…。
晴花 …それは………大丈夫だと…思います…

綾子の母親と会うたびに、晴花は「遺伝」というしくみに深淵なものを見た気になる。

“へんてこなネーミングセンス” や斜め上の発想、さては独特のテンションといったものが、綾子のそれと大いに重なるのだ

母親は晴花に背を向けると、おっとりとした声色で、階上の綾子の名を階段越しに呼びかけた。

綾子 あれ…晴花さん…
晴花 綾っちごめーん。ちょっと心配だったんで来ちゃった。お話しできるかな?

母親の呼びかけからしばらくして、綾子が廊下の白い壁を支えにして、階上からぬぼーっと顔をのぞかせた。そして綾子は、口をあけたまま首を小さく縦に振りながら「あ、はい」という返事を晴花に返す。

―――晴花は、会社の近くの洋菓子店で買ってきたマフィンを、綾子の母親に玄関の下から手渡した。そして、足元の靴を揃えると、ゆっくりと階段を上っていった。

綾子 あー…晴花さん…何だかスミマセン…わざわざありがとうございます…
綾子 今日は晴花さんが途中で仕事抜けなきゃならないときて…わかってたけどどうしても無理でした…。本当にごめんなさい…。
晴花 あ、それ、ホント気にしなくていいって。
松原さんが盾となってくれたから。…いや、私のためというよりは、社長のため…なんだろうけど。
綾子 …すみません。
綾子 えと、ご覧のとおりのボサボサ頭にパジャマスタイルと散らかった部屋ときて、とても人を迎えられたカッコじゃないですけど、せっかくなのでゆっくりしてってください。
綾子 あの、ごはん…まだですよね? 一緒にどうですか。ほぼ丸一日、何も口に入れてないので、私もそろそろ食べなきゃと思ってたところですし…。晴花さんの分もお母さんに頼んできます。
晴花 あ…あっ…ひゃひっ…

「あ、いい、いい。すぐ帰るから、ほんと」

そう、言いたかったはずだった。

が、眼前の疲弊に満ちた表情の綾子の口から、しばし「食事から遠ざかっていた」事実を聞いた手前、まかり間違ってこの機会をふいにしてはマズイといった思いがよぎる。

それは、自分が口にしたかったはずの言葉を崩しにかかった。

それからしばらく―――。

キャットタワーの頂から、ふてくされたような視線を下界に向けながら “溶けて” いるチビ子のいるダイニングで、晴花たちは夕食のときを過ごした。

焼きサバを中心とした綾子の母親の手作りの料理を囲む卓は、長くひとり暮らしをつづける晴花の心のひだに沁み入るものだった。最初は「綾子のため」を思っての付き合いのつもりだったはずが、どうにもこうにも、自分が救われたような気がして少し後ろめたくも思ったりした。

―――その後、綾子の部屋にて、手土産のマフィンをつまみながら。

「訪問(や)ってきた当初にくらべて、ずいぶん生気が戻ってきた」―――この時、晴花は綾子についてそんな感触を得ていた。

晴花 元気…少し出た?
綾子 え、はい。まぁ…たぶん?
晴花さん交えてごはん食べてたら、気分がよくなってきましたし。
晴花 そっか、よかった。
晴花 でも一体何だったんだろうねー。風邪でもなければ…自分でもまったくアテのつかない、それでいて食事ものどを通らないほどの疲労感って。まだ若いのに。
晴花 うん…もしかしてさ、大病の芽なんかがどっかにあったとしたらヤバいじゃん?
お母さんの言うように、一度病院行って来たらいいと思うな…私も。明日、午前中なら病院やってるっしょ? よかったら付き合うよ。
綾子 ひっ…。
いえ…い、いいです。のーさんきゅーです…。
晴花 おっ…拒否するとは。マジあやしいじゃん…。病院コワイコワイ子ちゃんですかぁ?
晴花 いや。そんなワケないし。むしろ「No 病院の匂い, No Life.」とかいつもアフォなこと言ってるし、ね。
綾子
晴花 さては…。
BBI とこっそり接触… いや、リサーチサービス社を BBI に売ってるな?
綾子
晴花 真実を言うんだ寺畠綾子。リサーチサービス社はまるっとお見通しだ。
綾子 …あの?
晴花 …って感じで社長が疑ってたから、私が見て来るって言ったんだ、実のところ今日お邪魔した真相は。
綾子 …うひぃいぃ!? マジっすか! あの会社、ホントにくるってるぅ~!
晴花 社長もまったくダメダメだよね。私が綾っちの利益に反してなんでカンタンになびかなきゃならないのか。まったく、寝返りをそそのかすなら目の前に札束でも積み上げてからにして欲しいわ。
晴花 …いや、半分は冗談だけど。
社長が気を揉んでたのは、この大事な折に気持ち折れて敵前逃亡したりしやしないかってところで、さ。
晴花 ま、あれさ。
私たちもようやくこの会社で、逃亡されたらマズいと思われるような、いち戦力として認められたってことだ。
晴花 今日、はじめて私たちの名前が「くん」付けでなかったもんな。
作為的とは思えないほど、自然に。
晴花 でさ、思ったんだ。タイミングを鑑みるに、この因果は…
綾子 インガは!?
晴花 松原さん、だなって。
おそらく、彼女は私たちの様子を社長に日々報告(あ)げてるんでしょーね。私たちの知らない手続きか、手段かで。確かに、彼女は表向き私たちを十二分にサポートしてくれてる。現実、その点に不満はないし。でも、水面下で私たちの監視をされちゃあな、と。
晴花 その意味では、ここにきて当事者たる私たちでさえ社長にとってはいろんな意味で警戒対象なわけで。いや、振り返れば会社の命運を左右しかねないミッションなわけだし、ま、よく考えてみればこうなることも必然だったっけか。…うん。
晴花 けど、だよ。なんか滑稽なコトになっちゃったね。こないだ綾っちが松原さんの前であんな意外なコトやらかすから。ほら…松原さんにとっては、だけど。
綾子 あぁ…ヨーグルト商店…。
晴花 タイミング的に、おそらく、あれが松原さんのフィルタを通して肯定的に伝わったんじゃない? 社長が少し目線を上にあげてくれたのも、それなら納得できないでもない。…とんだタナボタ。
晴花 でもそれ、裏を返せば松原さんの扱いには注意が要る、ってことになるじゃん? 私たちの行動次第で、彼女の存在は毒にも薬にもなる。
晴花 …ってことで、綾っち。今言ったようなことを踏まえて、私はこれから綾っちの様子をどう報告しとこうか?
本心を言えば、もし社長の心配が綾っちの本当のところとかすってるなら、私は綾っちを守りたい。結局、つまんない誰かの利益のために自分の心をすり減らすことを、少なくとも私は、軽々に美談だなんて呼びたくない。
晴花 これからのことに心が潰されそうだったり、今を重荷に感じていたりするならば、私は、降りてもいいと思う。上手に降りるためのテキトーな理由さえ用意しちゃえば、まだ若い綾っちだもん、社長や安堂さんも自分たちの判断を責めるべきで、綾っちをマジになって責めるのが筋違いだってことくらい、心得てるさ。
晴花 私は、いつだって綾っちの味方。必要ならば “テキトー” だってカンペキに仕上げるつもり。…なんてったってウソなら私は自信あるかも…だからね。
綾子

「や…やばい…」

もし、晴花がVRインタフェースを装着していたら、きっと綾子の顔の横には吹き出しとともにそんな文字が見えたことだろう。

綾子は、意に反して事態が思わぬ方向へ向かいつつあることに慄き、その現実を呪わざるを得なかった。

とまれこの瞬間―――綾子の敗北は決した。むろん晴花に、ではない。内なる自分、そのものに敗北した。

晴花 え…えろげ!?
晴花 えろげの中での失恋模様に心折られて動けんかったいうんか! ヌシわっ!
綾子 ま…ちょっとちがうけど、遠からずかも…。その前に、び…美少女ゲーム、言うてください。…そこはお上品に行きましょう。
晴花 なめとんかワレ! ワイの善意を返せやコ…
晴花 ブルブル!
晴花 いかん…私としたことが汚すぎる言葉を…
晴花 コホン…
晴花 あの…レディ・綾子・テラハタ…。貴女はおえろげーをおたしなみになられていらっしゃるようなのですが、高貴な位のわたくしには、そのような世俗にまみれたたしなみをお持ちの貴女のお考えがまったくもって解せませぬわ。第一、そのようなたしなみは下賤の民の野蛮な遊興であって、同じく貴いご家系のご子女たる貴女が位もわきまえずおたしなみ遊ばされるとは…御父上の治世もなんと嘆かわしいものでございましょう! これでは、飛ぶ鳥を落とす勢いのテラハタ卿も、お寝首をお掻かれあそばされる日が、そう遠くないようですわね。おーっつほほほほほ!
綾子 …うちのリーダーの真似ですか? …それにウチのおとうさんは熱い政争とは無縁のただのカカリチョーですよ?
晴花 ケッ!付き合いわりぃ~。 …どう聞いても死亡フラグ付き中世貴族のテンプレなんすけど。
晴花 だいたいエロゲなんか女子のやるもんじゃないっしょ? …なにがおもしろいんだか。
綾子 いや、ネットでは、えろげは「文学」「芸術」「人生」悟りの三ステップといわれてますよ。知らなかったんですか?
晴花 知らんわ!いや…よしんば今知ったとしても認めんわ!
晴花 ねぇ、綾っち。今ならこっちの世界に帰ってこられる。悪いこと言わないからエロゲだけはやめとき。…綾っちはピュアだから、いざというときアレを真に受けてとてつもなくブラックな歴史をつくりかねない。
晴花 知人、私の昔の知り合い人の話なんだけど。
綾っちと同じように昔重度にマニアな知人がいてさ。リアルな世界じゃエロゲワールドにでてきそうな話と全く縁のなかった人間が。
晴花 それが、やらかしたんだ…。
はじめて彼氏ができていざ本番…ってときにあの、実況中継を!
晴花 もう…彼はどん引き。
結局、そのまま「なんか思ってた人じゃなかった。ごめん」と言って行方をくらましやがったという悲劇だって…
綾子 ニヤニヤ…
晴花 ……
晴花 お……お前っ!! ち! ちがう!! 私じゃないから! 私じゃ!!!
晴花 そ…それ以外のことなら百歩譲ってどんなことで勘違いされてもマジ構わんっ! …でもこれだけは勘弁、マジ勘弁してこれだけは!!
綾子 だ…大丈夫です…。私を誰だと思ってるんですかー?
私は “実況中継” のシーンには正直関心ないですし。“ノベルゲー” としての部分にしか興味がないですから、その辺、誤解しないでくださいね。…ほら、その証拠に私のパソコン…ctrlキーのみの特注専用キーボードをつけてます。…エッヘン。

…といって、綾子はパソコンラックのキーボードのあたりを指し示した。

晴花 ctrl?
綾子 …スキップボタンですよ。美少女ゲーにこういうこと言うのもヘンかもしれませんけど、なんか間延びしちゃうんで “実況中継” のシーンはこれで飛ばしちゃいます。所詮、あのシーンは私にとってはノベルについてくる「おまけ」みたいなもんですからですから。それより、ストーリーが気になっちゃいます。…これ、ホントに。
晴花 そ…そっか。
晴花 そういうことなら、議論は一旦置いておこう。
とりあえず、話を聞こうじゃないか、話を。夜、一睡もできなくて、朝、部長に連絡しおわった瞬間にこと切れるような衝撃とやらを。
綾子 では、あらためて…
私、自慢じゃないけど 自慢ですけど 美少女ゲーにはうるさいです。なんてったって、これは現実ではいっこうに体験できないトキメキをステキな演出や音楽とともにいっぱい見せてくれますからNe!
綾子 美少女ゲー…他人のイチャイチャ模様を横から見ながらレンアイのいろんな機微に触れさせてくれる、実はそんな超クールなシロモノなんですYo。
綾子 でも…でもですよ! ノベルなんで、たまにこれまたとんでもないものが出てくるんですよ! 安くないのに!
晴花 とんでもない、とは?
綾子 金返せおんどりゃぁあぁあぁぁあぁあぁぁぁぁ! ふザけたものつかませおってからにぃぃいいいぃぃぃ!!
綾子 …と、いうやつです。でもま、ときに地雷を踏み抜くのもゲーマーとしてはパープルハート勲章みたいなもんですから。友達には話のネタができるし…別にたまにはいっかとも思うには思うんですけど。地雷程度で退場してるようなヤワな身体じゃ、この趣味なんて、最初からやってられませんからね。
晴花 (なんかこの人がすごい人のように思えてきた…。この達観……。こヤツは、もしかして完全殺人兵器(パ・ー・フェ・ク・ト|ウ・ェ・ポ・ン)なのか…)
綾子 でも今回は違う! 違うんです! 本当にあんぐりーなんです!
今回踏み抜いたのは地雷じゃなかった! か…核地雷っ! もう…私の心まで消し飛びました…。じぐじょー…またイライラしてきたー。もう二度と美少女ゲーなんか買うもんか…プンスカ!
晴花 アカン…なんか面白い…綾っちの話…。で、どのへんが核地雷なん?
綾子 財布に傷を残しただけでなく…キャラクターにどっぷり感情移入させといて、昔の昼ドラのようなバッドエンドと来たもんで…。ああ…もうツライ…。
綾子 いや…。小説とかならそういう展開もありかもとは思いますよ…。
綾子 でもこれは、公式サイトで「5㌧ダンプカーに違法過積載したハチミツよりもスゥイートなイチャイチャあまラブ物語」を謳ってたハズなのに…。
綾子 いや、うん…たしかに主人公たちの学園時代はそうだった。
晴花 学園? あの、綾っち…もしかして「学校」…あぁと「中学」とか「高校」とかとお間違え?
綾子 あーのーでーすーねー。
晴花さんの言うような言葉を使ったらこのちっちゃな業界がどうなるか、そのおっきな胸に手を当ててよーく考えてみてください。…はいっ!そこに正座!加えて瞑想!Do it!

と綾子が言うと、綾子の勢いに押された晴花は綾子の言うようにやってみた。

晴花 …うん。世間が騒がしくなるな。
綾子 わかればよろし。
ファンタジーってのが大事です。
綾子 ああ…そうそう。たしかに主人公たちの学園時代は胸やけ3往復してお釣りがくるくらいのアマアマイチャイチャな話だったんですよ。私、すっごく、キュンと来た…。運命的な出会い…もどかしいすれ違いときて、人生最高の告白のシーン。…すごく感動した。しっかりとした王道展開に…見てるこっちが顔を覆いたくなるくらいの甘酸っぱくてセンチな演出が絶妙に乗っかってきて………印象に残ったたくさんの名作とくらべても、ここまではそりゃもうチョーサイコーだったのに…。
綾子 3年後、主人公に内緒でヒロインが借金を抱えて失踪ーっ!はぁぁああああぁ!?
綾子 5年後、ヒロインの影を追い続けた主人公がヒロインを見つけ出すも、なんかいつのまにかまた失踪ぉぉぉぉおおおおぉおっ!ハぁぁああああぁあAaaaa!?
綾子 8年後、それでもヒロインをあきらめなかった主人公が今度こそふたりで一緒に困難に立ち向かってやり直せるかと思ったら、なんかまた失踪ぉぉぉぉおおおおぉおっ!ふぇええええええぇぇぇぇええぇ!!!
綾子 あげく…主人公は何一つ報われることなく…その後は幸せな家族の姿を横目に歳を重ね、つらい現実を生き抜きます。そしていよいよ主人公が孤独な死を迎えんとしたまさにその時、うつろな記憶の中に物言わぬまま微笑んだ若き姿のヒロインが手を差し伸べました。固く閉じられた主人公の目から一筋の涙があふれたその瞬間、主人公は現世では叶えられなかった想いに期待をはせて、安らかな気持ちで逝くことができたのでした。 …ハァ。
綾子 こういうのはみなさまの公共放送のドキュメンタリーでやれぇええええぇぇぇぇええええええぇ!!!! あぁぁあああぁあぁあぁああぁ!!!
綾子 「い…いつかきっと主人公は報われる! これはゲームだ間違いない! 絶対最後はハッピーエンドにちがいない!」………と信じて吐き気と闘いながら完走したかと思えば…この仕打ってひどいですYo!
晴花 うーむ…。
つらい…つらいとき…つらければ…それは…。綾っちのような期待で買った層には…たしかに拷問に近い話かも。
綾子 「ハチミツ5㌧」はいったいどこいったんだと小一時間(ry
甘い恋愛を見たいがために大枚はたいたというにユーザーをナメおってぇぇええぇ。コンセプトに詐欺ありですよ!詐欺あり!
綾子 私が会社いけなくなるほどの衝撃を受けたのも、わかってくれますよね?
もっとも晴花さんにブチまけたら、だいぶラクにはなりましたけど。
晴花 でもえろげにヤられたとド正直に報告するわけにもいくまいさ…。
「謎の忍者」も確かそう言ってたし…。
綾子 (ぬ…やはりこやつは所詮…向こうの世界の住人っ!)
晴花 綾っち、「ひどい頭痛」だったってコトにしとこう。ちょうど低気圧来てるし。…私が上手く報告(あ)げとくよ。
綾子 …す…すみませんです。あのゲームに負けてたまるか…。
晴花 ところで、肝心な明日のレビューは来られそう? 体調不良ってことなら、別にヤメといてもいいと思うよ。
綾子 …いや…這ってでも。社長…猜疑心ハンパないので。
晴花 そか。
んじゃ、社長の家に、昼からだかんね。
晴花 …と。そろそろ失礼しよっかな。…なんかお見舞いに来た身ながらで悪いんだけど、綾っちをさしおいて私の方が楽しませてもらった気がするわ。
綾子 えー、もう帰っちゃうんですか? つまんないの。

晴花が床から腰を上げようとしたとき、スマートフォンの通知音が鳴った。

晴花 …。

晴花はバッグからスマートフォンを取り出して、メッセージを確認する。

晴花 優里から……「会って話したい。明日の午前中、会える?」
綾子 あ!優里さん? そういや重要なコト。
今日、どうだったんですか?
晴花 あはは……ダメダメ。弘毅さん、乗ってきてくれなかった。
晴花 けど優里のこれは……何だろう。優里にも思うところがありそ。
晴花 「会いたいなんて言ってくれるのは、あんただけだぜ、うれしいぜ、優里」……っと。送信完了。
晴花 …というわけだから、明日、また。それじゃね、綾っち。
オ・ダ・イ・ジ・ニ。
2月中旬 20:00
商店街の居酒屋

少しさかのぼって、晴花が綾子の自宅へやってきたのと同じころ―――。


社長は、翔太を港区域の居酒屋に呼び出していた。

海前ビジネス社のその後と、翔太の日々を気にしたからだ。

翔太 今は日々、配達と飛び込み営業の困難を経験させてもらってます。
正直、精神的なしんどさはありますけど、ボス・奥さん・源さん・僕の小所帯が、ちょっとずつ活動的な姿に変わっていくさまを実感できるのは、楽しいですよ。こういう言い方はマズいかもしれませんが、ゲームみたいで。「あ、今レベルが上がった」なんて瞬間が分かるといいますか。少なくとも僕は、これがやる気につながってます。
社長 …そうか。なるほどな。
ラクではない環境の中で、お前がそうして何かをつかみ取ってくれているのなら、オレに望むべくものなどない。
社長 ただ、ついこの前―――館林さんとここに来たばかりだが―――彼はお前についての批評をまったく寄せることがなかったもんでな。
翔太 そう…ですか。
社長 深入りしてもオレの手前、世辞しか返ってこないのは自明。オレも問うつもりはなかったが…気にならなかったというのもウソになる。
社長 でもオレも分らんでもないんだ。世の中たいていのことは自分の思うように動くもんじゃない。けど、その対となるわずかの試行がうまく動き始めた空気を感じ取った時、その実感を軽軽と口にしてはいかんといった思いに駆られる。
社長 口に出した瞬間、もろくも崩れてしまいそうな、そんな得体のしれない恐怖があるんだ。…おかしなもんだろ。
翔太 いえ…なんだか分かるような気もします。やっぱり希なものって、もろいもんでしょうし。もろいものだからこそ、希なものなんでしょうし。
翔太 大学で才能のない僕が思いもよらず空手部を預かってしまった因果か、勝てないチームに崩壊させてしまったので、なんとなくそう思えるといいますか。
翔太 あ!そうだ社長。
これ…お渡ししたいんですが。

と言うと、翔太はズボンのポケットから10円玉のおもちゃを取り出した。

綾子たちに見せた、例のアレだ。

社長 …なんだ、これ?
翔太 10円硬貨、ですよ。これを、こうして…いいですか…よく見ててくださいね。
翔太 ぬぬぬ…!!!

10円玉が、社長の目の前でぐにゃりと曲がる。

社長 な!

「信じられない」といった社長の表情を確認すると、翔太は指を撥ねて開いた。

翔太 ご覧の通りの…おもちゃですけど。
翔太 僕なりに考えて、これで相手の気を引く営業を今までしてきたんです。…けど、さっきの話じゃないですけど、結局はもろかったかなって。
社長
翔太 今日、それでけっこうイタイ失敗をしちゃいまして。今は思い出すのも結構堪えるので触れませんけど、奇策の中でやっていくのはこれからはやめにしようと。…いい勉強になりました。
翔太 ただ捨てるのももったいないので、社長、よかったらこれ、貰ってください。…「レベルが上がった」記念として。
リサーチサービス社の裏の駐車場で遊んでる小学生相手になんかやってみたら、絶対ウケると思いますよ。
社長

社長は翔太の話に一度口角をあげると沈黙した。

そして女将に声をかけ、燗酒を少し熱めでオーダーした。

カウンターにそれが届くと、社長は翔太の猪口を満たす。

そしてカウンターに置かれたおもちゃをシャツのポケットに仕舞い、前を見てこう言った。

社長 まぁ、呑め。
お前もいつか、苦くとも明日への活力を感じさせてくれる不思議な酒を飲めなくなる日がやってくる。そんな酒を楽しめるうちは、お前のアホみたいに脱力するやり方も決して無意味じゃないんだろう。
社長 …オレの若いころを今振り返ってみれば、そんなシアワセの追求の仕方もまたよかったかもな、と思うんだ。
2月中旬 10:10
街のカフェ

翌朝―――。

壁面中央に鎮座する置スリゲルが印象的な日曜のカフェは、モーニングサービスが目当ての客で心地よい活気があった。

そのカフェの窓際のテーブルに、優里はいた。

晴花 申し訳ない、優里。少し遅れちゃったのら。
晴花 ところでお店、大丈夫だったん? 今。
ナーヴ 優里 うん。ま。
今日はスタッフちゃんたちが足りてるかんね。
晴花 んで話って? 昨日のこと?
ナーヴ 優里 あ、それ。…昨日はまぢごめん。晴花にいい返事ができなくて。…せっかくの申し出だとは思うけど。
晴花 あー。その言い方はやっぱダメっぽそう? 私、ちょっと期待してここ来ちゃった。

テーブルにホールスタッフがやってくる。

ふたりは、コーヒーを注文した。

―――

そして数分ののち、さらっと焼かれた風味の良い香りを漂わせるもちもちのトーストと、淡白い揺らぎを立ち昇らせるコーヒーとが運ばれてきた。

ふたりはそれらを交互にたしなみながら、会話を続けた。

ナーヴ 優里 ちがうのよ。あのさ…私は、ホント、ものすごく不安でこわい。だからアンタが味方になってくれるって話、なんとも力強い援軍って言うか……マジ喉から手が出るほど飛びつきたいの。
ナーヴ 優里 でもね…。
晴花 弘毅さん、か…。
ナーヴ 優里 曖昧に濁すのもアンタや会社さんに迷惑を掛けるので、はっきり言えばその………ヒロキは、なんだかもう、諦観の境地なんじゃないかとか、そんなカンジで……。
晴花 ふぇ!? あ…あきらめ…ってこと?
ナーヴ 優里 ヒロキは、否定するでしょうけど。「達観」、なんてね。
晴花 ままま…マジかぁ……。なんて言ったらよいのやら。
ナーヴ 優里 ま、疲れてるんだな。誰もかれも…いろいろと。
ナーヴ 優里 この仕事……ひとつのブランドだけで生涯やっていけるのは、奇跡。
たいていの場合は、数年…もって十年程度でガワや業態を上手に上書きしなきゃいけなくなる。
ナーヴ 優里 お客さんの多くは……新しいものめがけて漂流する存在だから。
ナーヴ 優里 うちも開店して早6年…。“自分がおいしいと思う料理を追求し、それを出すこと” 以外に関心のなかったヒロキでも、これまではなんとか幸運にも助けられてやってこれはしたの。
ナーヴ 優里 けど、「上書き」を考え始めた時期と、あの店の出店問題が重なって…。法人化だの融資だの…コンサルさん交えて、ヒロキのいう「雑駁な問題」と対峙せざるをえなくなった途端、なんか当事者でないほかの場にいる人間のように物事を見だしたものだから…。
ナーヴ 優里 あげく、くだんの店の人間が未だ挨拶にもこないことに都合よく相手を見下し、どこの誰かも知らない人物をああだこうだと過小評価して心の安寧をはかり始めたときたもんだ。…現実逃避よね?
ナーヴ 優里 そんなもんだからあの晩…私が倒れたあの日………実は開店前に大ゲンカをしたの。向こうがウチの生活の途そのものを獲りに来てることがここに来て自覚できないとくりゃ、「現実とちっとも真摯に向き合えない、そんなちんけな商売のつもりなら、いっそお客さんを不幸にする前にやめちまえ!」……てさ。
晴花 ………。
ナーヴ 優里 …わかってるんだ。
ナーヴ 優里 アンタに以前話したことがあったかと思うけど、ヒロキは半島南端の老舗旅館の生まれ。若いうちに両親に先立たれ、観光需要も落ち込んで今は傾いてしまったけれど、「姉ちゃん」が自分の幸せを犠牲にしてなんとか日々を切り盛りしてる。ヒロキは、そんな旅館の長男。
ナーヴ 優里 両親の思いを継ぐのは、本来なら自分の役割であったはずが…「姉ちゃん」が夢を追い求めることを応援してくれ、それに甘えた。だからヒロキは、「姉ちゃん」に後ろめたさを感じてる。
ナーヴ 優里 いや、それは尊い感情だよね。…もしそうでなかったのなら、人として分かり合える気さえしないわ。
ただね、ヒロキの言葉には、それを口実にしながら、「だめだったら実家がある」って気持ちが透けて見えるの。
ナーヴ 優里 私は、何も旅館の息子のヒロキと結婚したわけじゃない。
誇り高きナーヴィン・ボティーリャのオーナーと結婚したわけで。…誤解を恐れずに言えば、ヒロキの実家なんて、どうでもいい。
ナーヴ 優里 私…おかしいかな? 飲食なんて、このご時世…少なくともそれくらいの覚悟がないとやってけないもんだと思ってるんだけど。
晴花 ………私があれこれ言えた立場じゃないけれど、肝が据わればアンタは無敵だ、昔から。…うらやましいって、そういうとこ。
ナーヴ 優里 だから、なんだ。
向こうの “ガワ” を見た瞬間から、悪いほう悪いほうにと妄想を膨らませ、今のヒロキは、勝負に負けることをひどく恐れてる。…ここでヘマをやってしまったら、実家に戻るとなると向こうの人間たちにも受けが悪い、と。
ナーヴ 優里 そんなもんだから、もともと心の隙間にあった、ケチがつかない選択肢の方が大きくなっていったんだと思うの。
晴花 ……もしや…………は…廃業しようだなんて考えてるとかじゃないでしょーね!?
ナーヴ 優里 ………今一番聞きたくない言葉だったけど。全否定できないところがツラいわ。
ナーヴ 優里 ホント、人生って残酷。
ここだけの話、パートナーとしてのヒロキへの気持ちが日々薄れてくことが、他人事のように理解できる自分にも腹が立つ。…子供の人生を左右する話だってのに。
ナーヴ 優里 ねぇ、晴花。
私、どうしたらいいんだろ…。こんなこと吐けるのはアンタだけだし。もう最近じゃ、不安と不満の感情のオンパレードで、自分でも何も考えられなくなってきたっていう…
晴花 ……
2月中旬 13:30
社長宅

晴花は優里と別れると、その足で社長のマンションへと向かった。

晴花がそこに到着したときには、ダイニングには綾子の姿がすでにあった。

白い歯をみせている綾子の様子に、晴花はとりあえず安堵した。

そして、綾子の座るダイニングのチェアの向こうのソファを見れば、社長の姿がある。が、晴花から死角となっている方角を指しながら、何やらをちゃかしているようだった。

一体どうしたことか…と疑問に思うも、死角からあらわれた人物の姿に、そのもやもやは一瞬で氷解した。

安堂 やぁ日南さん。
晴花 ぶへっ………あの………すいません悪気はないです、悪気は…。でも…その頭は…いったい……!?

安堂は、それはもうすっきりとした丸刈りになっていた。

「今日日、こんなアタマが似合うのも野球少年かオレくらいなもんで」

そう冗談で返すと、安堂は晴花にチェアに座るよう促した。そして、その足でいくつかのカーテンを閉めに掛かった。

安堂によって、ノートパソコンの画面が、プロジェクタを通して白い壁面に投影される。

この瞬間、この「ミッション」の第一回目のレビューがはじまった。

安堂 ―――われわれのアシスタンス先はナーヴィン・ボティーリャ。日南さんや綾っちには、いわずもがなといった店。
安堂 ええと、「SHOKU-LOG」の評価は…
安堂 今この時点の総合得点は星5つ中 3.26。口コミは、20件弱といったところか。
ま、掘り下げもせず軽々なことは言いたくはないんだけれど、イメージとしては…これ、「並」って位置なんかな。
安堂 残念なことに、ウチには調査実績はなかったん。ま、個人店たれば、それもやむなし。
そんなんだから、社長の人脈で他社を通じて密かにBBIにそれがないか探りを入れてみたものの、こちらも該当がなし、と。ただし………
安堂 ………いや、こちらは後にしよう。
安堂 ええと…そんなワケだから、アテになるのはふたりのレポート。それを軸にして、そこに私見も加えて考えてみると…まず…店の特徴はこんなところかな。
安堂 “イタリアンレストラン”…ってイメージはあまりに漠然としてるので、これを2つの楽しみ…つまり「主力メニュー」と「酒」とを軸に区別してみよう。…前者は “コース型” か “アラカルト型” か、後者は “ウリにしてる” か “ウリにしてない” か。
安堂 このマトリクスに填めれば、ナーヴはここら近傍か、な。
安堂 …日南さんと綾っち。おかしなところは、ある?

綾子が首を、横に振る。

晴花は迷った。

何よりまず、いまさっきの、優里の吐露したところを申告すべきじゃないのか、と。

しかし、場合によっては、このミッションを無用のものにさえしてしまう内容のそれだ。会社の利害の方に考えを拡げると、やはり、 無思慮な発言は憚られた。

もちろん、優里からすれば、晴花の口より会社に伝わることを含んでの行動であっただろう。が、この時点の晴花にとっての天秤は、「親友」としての情もからんで、沈黙の誉れの方に大きく傾くものであった。

結果―――晴花は綾子に続いて、首を横に振った。

安堂 オーナーは門井弘毅氏。36歳。
オーナー夫人は優里さん。日南さんの、友人。
安堂 調書がないもんだから、門井さんの略歴については、後述することを除いては正直ほとんどわからない。
安堂 とまれ門井夫妻が、あの場所に店を出して早6年。
5年も経てば8割が退場してるといわれる、すこぶる入れ替わりの激しい業界でこのラインを超えてやってるわけだから、その意味で業界的には……門井さん、成功者のクラスタとみていいんじゃないかな。
安堂 さて、対するライバル店は…
安堂 “Vesuvius”
安堂 ウェスウィウス。…イタリア・ナポリ近郊にある火山の名前。
安堂 これは、共和制ローマの時代に大噴火でポンペイの街を飲み込んだ山として有名な、それ。
安堂 そして、そのちょっと前にはこの山に追い詰められ逃げ場を失った反乱軍の将、逃亡奴隷のスパルタカスが、奇策を弄してローマ軍を殲滅させた場所でもある、と。
安堂 共に通ずるのは、世を謳歌する往時の人々の背景にあった「神々たりともこの栄華は奪えない」といった驕慢な世相を一瞬でひっくり返した……ってトコ。
安堂 …とくりゃ、もう、あちらさまは既存勢力を塗り替える意気込みじゃん?
安堂 そんな感じでまるで敵意を隠さないウェスウィウスの方はといえば…
新聞折り込みチラシ・街頭頒布チラシ・求人情報・ウェブサイト・地域情報誌他、これまでに綾っちたちが集めた資料から判断するに、さっきのマトリクス上の位置づけは…
安堂 現時点ではこんな…ところのように予想できそう。

安堂の示したあらたなマトリクを見た途端、晴花の脳裏に先刻の優里との会話が蘇った。

ナーヴ 優里 「この仕事……ひとつのブランドだけで生涯やっていけるのは、奇跡。
たいていの場合は、数年…もって十年程度でガワや業態を上手に上書きしなきゃいけなくなる」
晴花 …………っ!
安堂 ん?
日南さん、何かあんの?

一瞬の晴花の変化を見逃さなかった安堂が、そう声をかけた。

晴花 い…いえ…何も。
安堂 ……そっか。ならいいけど。
安堂 んでもって、綾っちたちの稼働と並行して、こっちでこの店の背後をさっと漁ってみるに…
安堂 ウェスウィウスのオーナーは、いくつかの断片的な情報の交点に「蠣崎胤次」なる名が浮かぶんだ。…かきざき、たねつぐ。
安堂 幸いにも、氏は…この、なんとも特徴的な名前だから、これをカギにいろいろと情報をスクリーニングすることができたんだ。この名前……東京の郊外でスパゲッティリアを1店舗経営する人物のそれと合致する。
安堂 当店は開店4年。登記簿で、法人化は確認済み。肌感覚で荒く見積もって推定年商は7~8000万といったところか。そうした意味では、おそらく、この人物も成功者だね。
安堂 むろん、商いがこのラインに掛かってくるとなると、推察の通り関東一円も守備範囲のBBIなら、既存の信用調書(企業レポート)をもっているだろな、と思うわけさ。…当然、それはあった。よってこちらも社長にご尽力いただいて迂回入手しようと試みるも…
安堂 「新規のみ受付」扱い。…つまり、“古いレポートとは状況が大きく変化した可能性があるから、情報が欲しかったら新規調査を依頼しろ” といった扱いになっていて。
安堂 さすがにこのタイミングでの新規調査はリスクが高い……ときたもんだ。もし、BBIがこれを警戒線として使っていたとしたら……ワイヤーを切った瞬間、ウチの行動が筒抜けになってまう。
そして何より、第三者開示のリスクを背負う協力者の厚意に、泥を塗って足蹴にして返すような真似はゼッタイできねぇ…。
安堂 …てなわけで、ウチの得意なアプローチをとれないのがツラいとこ。
安堂 ま、こういう時は我が足に頼るしかない。結論から言えば、関東の蠣崎氏の店は、このグリッドでいう…
安堂 ここだということだけは確認できた。とはいえ、ネットにはケッコーなボリュームの情報が散発的に落ちてたもんだから、不確定要素を含むにしても、最初から、最大公約数的な意味では順当な見当ができはしたんだけれども。
安堂 ちなみにこの蠣崎氏の関東の店の「SHOKU-LOG」の評点は…
安堂 ええと、3.41。ただし、口コミは100件超。ナーヴより多くの人の品評をくぐってのこの結果……単純比較はできないまでも、あなどることなどできないな、これは。正直、オレも、筋の良さがありそうには思ったね。
安堂 さて、ここで「イタリア料理店」といった曖昧模糊なものを、ある資料(岸朝子(2011)「イタリアン料理手帳」東京書籍)の定義を参考にして区分してみよう。…マトリクスの上に重ねてみると、おそらくは、こんな感じになるはずだ。
安堂 明確に区別できるのは、この4つのセル。右上の “リストランテ”。左上の “バル”。
安堂 左方の “ピッツェリア” または “パスティリア”。そして、中央から右上にかけての “トラットリア” “オステリア” “タベルナ” 帯。
安堂 ただし、リストランテとバル以外の2クラスタの構成要素については、明確な定義を以てして分類することは難しそうだ。もっともここでの趣旨の手前、これ以上の細分化は無用だろうが、ね。
安堂 …てことで綾っちと日南さん。
これらをふまえて、ふたりなら蠣崎氏の行動をどう考えるんかな? …蠣崎氏の立場になって、頭ん中を教えてほしいんだ。
綾子 えと、カキザキさん、関東…関東の人…なんですよね? なぜにわざわざこっちで…。
綾子 ………因縁でも!?
安堂 因縁かぁ…。門井さんと?

綾子は首を2回、縦に振った。

綾子の返答を受け、安堂は笑いながら晴花に問う。

安堂 日南さん…なんか知ってる?
晴花 いえ。
安堂 だよなァ…。無くもないんだろうけど、ちょぉ~っと突飛すぎかもしんない。
じゃ、日南さんの思うところは?
晴花 ……やっぱり、地縁があるとしか。あるいは多店舗化じゃなくて関東のお店は売却の可能性も…。
安堂 地縁…地縁…地縁のにおいも漂ってくるな。たしかに。
…不動産の方も週明けに登記簿とってみるか。
綾子 あの…安堂さん!

綾子が、挙手をした――――。

綾子 さっきから安堂さんのお話し聞いてると、そのカキザキさんの東京のお店……知ってるような言いっぷりに聞こえるんですけど?
安堂 お! そこ…気づいてくれたか。やっぱ綾っちはツカエルな。
安堂 …実は先週、見てきたん。出社した足の、日帰りで。…こればっかりは、「現地現認」の精神を無視するわけには、いかんしね。
安堂 このアタマも…そうした必要があったからやむなく。
ほら……あれじゃん。昨今のよくできた “ヅラ” を被りやすいのさ。
安堂 最初は躊躇もあったけれど、綾っちたちが何人もいるわけじゃないし、ね。身バレのリスクの薄いところは、自分でなんとかしなきゃなんない。…でもやってみると意外とこのアタマ、シャンプーの量が減っておトク、ときたもんだ。
安堂 …もとい。そして、これがその店。“Monte dei Cocci(モンテ・ディ・コッチ)”

安堂は予定していた話の筋を入れ替えて、外観、店内、料理といったものに関するいくつかの写真をプロジェクタ上に散りばめた。

安堂 あ…。ひとつ自分語りを挟ませてもらえば、SNSをライフログのように使ってる人間がやるようにして、不自然にならないように環境の一部となって写真撮るため、これでも血のにじむような猛特訓したんだぜぃ…。これ、鏡の前で。
綾子 え~!
こう言っちゃなんですけど、安堂さんは………その……どんな姿であろうが安堂さんだと思います。実はケッコー周りから見たら、挙動不審だったり、なんて心配も…。

さすがの安堂も、綾子のあまりにド直球な物言いには苦笑するしかなかった。

が、その言を受けた安堂は綾子たちに背を向けると、バッグを何やらガサゴソとあさり始めた。

しばらく丸くなって屈んでいた安堂が次に振り返ったとき、そこにはマッシュルームヘアの、丸い伊達眼鏡をした人間が立っていた。

―――その刹那、綾子たちの後ろのソファから進行を眺めていた社長が、思わずどっと吹き出した。

社長 お…お前! お前っ! や…やめろ!
人を笑い殺す気か!
社長 いるな! いる! いる! あの近辺!
白シャツ・Vネックセーターに…スリムタイプのチノパンがそろえば満貫だったな!

綾子と晴花が醒めた視線で揃って後ろを振り向くと、社長は我に返ったのか素に戻って、

社長 だぁ! 安堂! バカやってねぇでさっさと続けろ!

…と、言った。

安堂はいちど咳を払って、話をつづけた。

安堂 えと…近年、あそこらへんの地域には、どうしたことか海外の大手ソフトウエアハウスが本邦での拠点を構えたことを契機にして、雨後の筍のようにしてITベンチャーが流入した。そんなわけだから、地域の話題もテック界隈のそれにくっついてくることが多いんだ。…実際、あの一帯は、なんとなくトラッドなイメージがただよってる感がある。
安堂 そんな場所にあるのが、この、モンテ・ディ・コッチ。店内はアシッドジャズで満たされていて、ガワの方は、見ての通りの、地下空間の大きなワインセーラーを模した店だ。Rのついたモルタル天井と、壁面に層状に埋め込まれた陶片。……これが、店名の象徴か。
安堂 そして店の奥、色温度の高い中央の部分に、大きなオープンキッチンとそれをコの字型に囲む印象的なカウンターがあって、壁面には立ち食いカウンターが、そして一角にはわずかな2人掛けの吊り下げテーブルが用意してある。
安堂 どうだろう…気持ちいいほど単純に割り切ってんな。…この店のターゲットは、明らかに「おひとりさま」。…中でも特に20代後半~40歳程度の男性を意識した感じだ。
安堂 いうまでもなく、回転率を獲りにいくヤツだろうとしか。
安堂 実際、視察に行った先週の中日……向こうに着いたのはランチタイムちょい前だったんだけど……すでにケッコーな人が並んでいて。でもま、捌ける捌ける。…10分も待たなかったな、あん時は。
安堂 さすがのソフトウェアエンジニアたちも、まさか、あそこじゃ、りんごブック開いてまったりしようなんて気にもならないさ。
安堂 んで、品揃え。

安堂は、壁に映った、積みあがった写真のいくつかを上下に弾いた。

そして、背面の方で見つかったメニューの映る写真をつまんで、手前へと引きずり出した。

安堂 フードに関しては、ご覧のとおり……こちらも気持ちいいくらいにスパゲッティ、のみ。さらに輪をかけ、種類の幅もナロウ、といったところか。でも、オイル、クリーム、トマト、ハーブの基本ソースは押さえてる。
安堂 事前にここは、コッテコテのカルボナーラをウリにしてることが分かってたもんだから、視察に行った時も、もちろんそれを頼んでみたんだ。でもま、カウンターに座ったんで、周囲の回転にこのときばっかはちょっとキョドって、どうやらぼやけてしまったけれど……ほら……この写真

と言って、安堂は再びたくさんの写真の中からカルボナーラのそれをつまみ出した。

安堂 味の論評ができるほど立派な味覚を持っちゃあいないのでアレだけれど、いざ食べてみると、期待したほどの感激はなかったな。美味いには美味いんだけど……「ま、こんなもんか」っていう。もしかしたら、期待が大きすぎたのかもしれない。
安堂 ……ただし、ここの厨房は例えるならば、まさしく “エンタテイメント”。魅せることには、おそらく徹底的に頭を使ってる。

安堂はプロジェクタの画面を切り替えると、動画投稿サイトを呼び出した。

画面に映る、モンテ・ディ・コッチのカウンター席からの映像。

下を見たまま視線を上げない無表情なシェフたちがそこにいた。瞬間、彼・彼女らによって、お手玉のように卵が次々と虚空にと放たれていく。そして、それが再び手に返ってきた瞬間に、卵黄が生き物のようにしてボールへと収まっていった。

―――安堂は、動画プレーヤーのポーズボタンを押してから、話を続けた。

安堂 いや……何もこんな感じの派手なパフォーマンスを称えたいわけじゃないんだ。この感覚を的確に表現するのは困難だけれど、何というか……所作のひとつひとつが、美しい。大小のスライサーを使ってバイオリンを奏でるように、リズミカルに生ハムを原木から剥いでいくさまや、背筋を張ってボールの中身をこねるしぐさのようなちょっとしたことに、なにか演劇を見ているような凛としたものを覚える。……ちょっと、すごいなと。
安堂 そして………この視察最大の収穫。

と言ってから、安堂はふたたび停止させた動画へと皆の注意を向ける。

そして、シェフの胸についているネームプレートを、ポインタで示した。

綾子 晴花 ………?
安堂 これに、気づいたんだ。
安堂 名札の上に、淡くて平らな、一見して目立たないLEDランプがある。
安堂 これ、何の変哲もない装飾なんかな? …思い起こせば時折、色が変わってるんだ。
安堂 そもそも普通の店なら、こんなもの気にしなかっただろうさ。…オーダーを受けてから料理を提供するまで、“ふつう” のパターンを踏む店ならば。
安堂 でも、「この店は何か違和感がある」
―――最初は、この違和感の正体に気づけなかった。
安堂 その違和感は、これだった。

と言って、シェフの上でポインタを数度回した。

安堂 シェフたちはただ黙して、手元の作業を “演じて” いる。
奇妙なことに、彼らは、オーダーリストのようなものに目を配ってる様子がない。
安堂 …じゃあ、一体何を見て動いてんのかと。
安堂 それこそ、椅子に座ってオーダーを入れてから、3分も経たないうちにモノが出てくるっていうのに。……まともに考えりゃ、アタマおかしくなりそうだ。
綾子 でも、事前に大量のパスタがゆで上げてあって、いつもの営業でおそらく大体のところが直感で分かっていれば、パパっと作っていけるんじゃないでしょうか?
安堂 確かに2、3種のみならば、直感もアテに出来るのかも、しんない。でも、ここが扱う種類はそれだけにとどまらない。で、あれば、無口なシェフ同士の連携も難しい………そう、オレは、思うんだ。
安堂 おまけに、ここは専門店なんだよな……。それもスパゲッティのみ、加えてナロウなレンジで勝負するっていう。……常識的にも、茹で上げて時間の経ったもので、通じるような世界じゃないと思うんだ。早や茹で製品を含め、これは自分でも試してみたけど、素人目にも「あ…あかんわ…」っていうのが分かる。
安堂 それに並行するにしろ、皮算用じゃ塵も積もって大量のロスを生むことになる。……原価率のさじ加減が成否に大きな意味を与えるこの業界にとって、多くの場合、それは現実的じゃない。
安堂 つまり、シェフたちが、頑固な職人のように黙々と下……というより常に胸元を視界に入れて作業をするのも、パフォーマーとしてのそれよりも、もっと理に適う何かがあると考えた方が自然じゃないかな、と。
安堂 推察するに…………
安堂 客の興を削がないようカムフラージュされてるけども、この店には……高度な需要予測にもとづいたコントロールシステムが走ってるとみて間違いない。
安堂 すべては、究極の回転を指向する、ため。
安堂 つまり、このLEDは…………
綾子 暗号………っていうより、符丁っ!?
安堂 …だと、思ったんだな、オレも。
つまりシェフは何をすべきかを、オーダーシートに依存しているんじゃない。この、LEDに、依存しているんだろうさ。
安堂 “システム” によって制御されているだろうそれは、おそらく時間単位の需要を予測し、客のオーダーを常に先回りできる。
晴花 ……
安堂 だとしたら、いったいどこのどいつがこんなもんを用意できるんだと!
晴花 ………BBIが……む…こうにも…?
安堂 それなら、まだいいさ。
正直、この規模の商いのしくみとしてはできすぎだ。……これだけのものは、扱う方にも知恵が要る。
綾子 晴花 も…もしかして………
安堂 ………そう。
蠣崎胤次。
安堂 氏は……BBI、そのものさ。

[Chapter5-Section4] Finished.

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