ひとりマーケティングのためのデータ分析

StoryPart

Chapter 5 > Section 5

綾子 晴花 も…もしかして………
安堂 蠣崎胤次。氏はBBI、そのものさ。
綾子 …まさか、そんなことが。
晴花 確かな話…なんですか、それ!?

晴花の問いに、安堂は一切の躊躇も見せず返答を口にした。

安堂 十中、八九。
安堂 ……この人のつくりあげたものを観察すると、やっぱりひっかかるのさ。
どこぞやのタブルタワーで見せたように、オレらが散々見せつけられてきたやり方がひどく臭う。
安堂 ……あれ、これはもしかしたら生粋のBBIイズムを知る者―――つまり、真相はBBIのメンバーそのものじゃなかろうかとも考えたんだ。
安堂 いや、さすがにまさかだよな―――と、もちろん自制もするわけだけど、どこか胸騒ぎが抑えられない。
安堂 そんなとき、思いついたんだ。「あ、ひょっとしたら、やれるかもな」と。
晴花 !?
安堂 「灯台下暗しと言うし、BBIが、本当のところを教えてくれるんじゃね?」
安堂 ……そう思うや、さっそく公衆電話を探したんだ。
晴花 こ…公衆電話?
安堂 あ、いや……この人のテキトーな古い縁故クラスタを騙って、サービスの問い合わせにかこつけた在籍確認を入れてみた………と、いうことで。
綾子 あちゃー。それ、世間一般にいう「ハンザイ」ってヤツですね。
安堂 むむ……痛いところを突きおる。
安堂 けれど、小さなモラルなんて気にしてられるときじゃないさ。…クソくらえな気分。
安堂 現にこの人物が “元職” であろうことをゲットできた。これは今後を考えるうえでとっても重要な情報だよ。
安堂 とにかくさ。……変わってんだよね、この人。
そう思わね?
安堂 店が繁盛してるからいいようなものの……いったい、どう考えたらこんな畑違いのキャリアを築こうと思うに至ったのか。あんなクソでかい会社にいたにもかかわらず、挑戦しすぎな感さえある。人生、一度しかないのにさ。
綾子 …まぁ、それは確かにですね。
安堂 この選択は、気になるよ。
めっちゃ好奇心をくすぐられる。そんな興味があったから、さっきふたりに聞いてみたんよ。蠣崎氏の “頭ん中”、をさ。
綾子 安堂さんはその答え、もしかしてご存知とか?
ならばもったいぶらずに教えてくださいよぉ。
安堂 いやいやいや……。
カンタンに突き止められりゃ苦労はないよ。マジわかんね、ホントにホント。

当惑の混じった脱力ぎみなジェスチャーをとりながら、語尾まで消え入るように吐き出すと、安堂は刹那、社長の顔色を窺った。

そしていささか弛緩ぎみだった空気を、修正するように言う。

安堂 でもま、代わりと言っちゃなんだけど……別にひとつ、わかったことがあるんだ。
綾子 晴花 ………?
安堂 綾っち、「山門(やまかど)食堂」て聞いたことある?
綾子 えと………ヤマカド食堂、ですか?
んー、知らないですね。
安堂 ……日南さんは?
晴花 ……そ…存在は……知ってます。…存在だけ。
安堂 「存在だけ」?
晴花 半島の南のアレ、ですよね? ……それなら、とにかく知ってはいます。
安堂 そっか。
日南さんの言うとおり、「山門食堂」てーのは、かの地で古き良き時代から商いをつづける観光旅館のようだ。
安堂 実は門井さんが……あ、弘毅さんの方だけれど……
この山門食堂と、どうにも繋がりがあるように見えるんよ。
安堂 ええと、これから示す情報は、うちのデータベースから拾うことができた唯一のものなんだ。これはツカエルかも知れない、と思った。と、いうのは――
安堂 ――弘毅さんと同姓同名の人物が、そのヤマカドの「役員一覧」頁に登場する。
はて、これが同一の人物だとしたら、意味するところはいったい何だろう?
晴花 ……………。
安堂 ……日南さん、どうよ。
その……実のところ。マジ知らない?

安堂が把握するところを見るに、必死感盛り盛りの否定を付すばかりでいては、却って怪しい印象を与えそうだ―――。

そう考えた晴花は、必要なことだけを漏出させた。

晴花 ……………あ、はい。そうですね。
役員うんぬんって話は知りませんでしたけど。いずれにしろ、実家だっていう話は私も……。
安堂 ……なるほど。
やっぱりな。
安堂 ……じゃあ、

と言うと安堂は、当該情報の引用元たる現物の調書の複写を鞄から取り出した。

表紙に「株式会社山門観光」と書かれたそれだ。


安堂は付箋の付いたところを持ち上げて、「役員一覧」のページをめくる。そして、それをテーブルの中央にゆっくりと差し出した。

安堂 となれば、これ……

と言って、代表権のある役員の名を指し示す。

安堂 ……は、さしずめ、弘毅さんのお姉さん…あるいは妹さんだろうか。類推するに。
晴花 ………確か実姉さんかと。
安堂 へぇ。
となれば、なんだけど……。

安堂は、いったん調書を閉じてから拾い上げると、その表裏をひっくりかえして机の上に置き直した。


直近時点の調書の作成者を意味する「担当者」の欄の上空で、安堂は人差し指を2度弾ませてから、言う。

安堂 これ、ナカちゃんのエステート(調査報告)みたいだ。
綾子 ……ってコトは、そのお姉さん経由での芽もあったり?
安堂 ………可能性、という意味ではそうだろう。
安堂 ただし、さ。
安堂 オレはあくまで調整役に過ぎないわけだし、主張の押しつけをする立場じゃないけど、個人的な考えを言わせてもらえば………その、なんだ………針の穴に糸を通すような慎重さが必要とされる今このときに、ナカちゃんを引きずり込むのはけっこうなバクチだと思うのよ。……はっきり言えば、避けたいさ。
安堂 方法がないと来りゃ、そりゃ、しゃあないかもしれんけど。
安堂 つまり、それを避けるにゃあ、ふたりのがんばりが不可避なん。
どうだろう? この数日で、なんとかして門井さんと話をつけられないもんだろうか。

安堂の言を受けたはいいが、容易にそれができるなら綾子たちも苦労しない。

ふたりは顔を見合わせると、自然、ひきつったふうになる。


安堂は、興がさめたような社長の表情を読みながら、ひとたび空気を作り変えようと試みる。会話のバトンを綾子たちから回収すると、安堂は、その他小事に関する話題を持ち出してお茶を濁した。

―――そして、いくらかのち。

予定された2時間のレビューが、時間を30分ほど余して終わった。はじめてのレビューではあったが、振り返れば全体として消化不良なテイが目立つ内容であったことを否めない。

それもそうだろう。

“門井氏の参画を確保する”

これこそが喫緊になすべきことであることを誰しもが分かっていながら、力押し以外の有効なアプローチのしかたが、どこにも見出せないでいたからだ。



そんなモヤモヤを抱えながら、安堂・綾子・晴花の3人は、社長宅を辞去して駅へと向かう道を歩いていた。

その距離3, 4百メートルだろうか。
社長の家から距離を確保したところを見計らって、安堂があらためてふたりを呼び止めた。

それは社長の家にいたときとは異なる、深刻な空気のからんだ発声だった。

安堂 今から会社へいこう。
実はふたりに、伝えておかなきゃあかんことがある。
2月中旬 15:30
リサーチサービス社

会社に着くと、安堂はふたりを2階の旧倉庫へと引き入れた。

長机に並んで座るふたりに相対して、安堂は、手のひらを机上に吸い付けて立ち上がる。

そして、両腕を支柱にしながら前傾を強めた。

安堂 門井さんの確保―――

と口にするも、次の句がなめらかに出てこない。

安堂は、深く呼吸をしてリズムを整えなおすと、こう言った。

安堂 社長は、B案でやる気だ。
安堂 ここだけの話、これだけはマズい。
対応が、必要だ。

綾子 晴花 B案………?

唐突に耳にした「B案」なるものが、綾子らにはわからない。

ふたりの反応で我に返った安堂は、過ぎた動揺がいささか自らを先走りをさせたことに気づく。そして、咳払いをして仕切りなおすと、慎重にことばを選ぶようにして話しはじめた。

安堂 社長は門井さんを強引に引きずり込む気だ。粘り強い説得の筋は、もう陽の目を見ないと踏んでいる。
安堂 日南さんの、前回交渉時のレポートを見て、そう判断したようだ。さっき、ふたりが社長の家にやって来る前のこと、無自覚にもオレの前でそれをこぼしたんだ。
晴花 …!
安堂 「あいつじゃこれ以上押せぬだろうな」と。
「どのみちこれ以上トーシローに期待していい局面じゃない」と。
安堂 「だったら、とっとと第2案と差し替えろ」と。
晴花 ち……ちょっと待ってください。
私たちが知らない計画が、なんで出てくるんですか、ここに来て。
晴花 この件にかかるどの情報にアクセスできるかについては、格差をつくらない約束でしたよね?
晴花 ありえないんですけど。チームそのものが、信頼できなくなるじゃないですか!
安堂 ……まあ、気持ちはわかるよ。だだ今は、少し、冷静になって聞いてほしい。
安堂 オレが吹き込んだのも所以ではあるけれど、社長は日南さんたちをいっぱしの戦力として、多分に期待してたんだ。
安堂 でも、どこまでいっても猜疑心いっぱいで、楽観主義とは無縁なのがあの人 生粋の性分さ。
安堂 社長がB案を考えることに、おそらく日南さんが頭ん中で浮かべたような他意はない。ベストを期待し、ワーストを備える――しくじった場合を想定して動かないと気が済まない、それだけの人さ。
安堂 当然、あの人だって人間だ。リズムには波がある。生きるか死ぬかのせめぎ合いの前に、舞台にさえ上がれていない現状じゃ、気持ちだって余計に荒むさ。ハタから見ても、今、ひとに気を遣えるだけの余裕に乏しいのは明らかだ。
安堂 だから、いつにも増して待つことが苦痛なんだろう。
安堂 ……ことが少しでも好いように進めば、余裕も生まれる。そのときはきっと理解してもらえるよう、オレも努力するから。オレたちの考える “よい結果” を辿れるよう、ここは踏ん張りどころだと思って、なにぶん堪えてほしい。
安堂 ミッションを空中分解させたくは、ないから。
晴花 ……………ぐぬぬ。

綾子は晴花の左肩を穏やかにさすると、安堂に言った。

綾子 して、B案なるものはいったい?
安堂 ナーヴの取引銀行とバーターしろと。
ことばは悪くなるけれども、金の貸し借りの世界は高下が一目瞭然だ。平たく言えば、それを使って脅せ、と。
綾子 ………ふぇ!?
安堂 知ってのとおり、うちの会社は信用調査を生業としてるよね。
建前としてはどこからも独立した会社だけれど、それはあくまで外っつらの話。それを額面通りに受けとりゃあ、リサーチャーのレベルでの生存競争から弾かれることになる。ここに、差別化が必要だ。
安堂 そこで頭のいい綾っちなら、うちと同じように確度や鮮度の高い情報を手に入れられる第三者とだったら、情報を “物々交換” できることに気づくはずだ。つまり、ここには互助の誘因がはたらく。
安堂 好き好んで自ら手の内を明かすバカはいないわけで、ふつう、表には出るような話ではないけれど、うちでいう「できるヤツ」は、ほぼ例外なくこうした個人レベルのパイプを秘密裏に持っている。今回の件、社長は、これを使って操作できると踏んでいるん。
安堂 というわけで、だ。日南さん。
安堂 話を戻せば、先ほどの日南さんの言はごもっともな部分もある。オレだって、チームは一丸じゃなきゃアカン、という点には禿げ上がるほどの同意しかない。
綾子 ていうか、もうは
晴花 おっと!………そこまでだ。
安堂 とにもかくにも。一丸となって難局を乗り切るために、未だ腹の内に秘めたるものを、全部ぶっちゃけてしまった方がいいと思うんよ。お互いに、ね。
晴花 ………?
安堂 まずは言い出しっぺからだ。オレの番。
安堂 ナーヴは、どうやら提携中のコンサルタントとの話し合いでか、今、店舗外壁の塗り直しか、リデザインなんかを考えていると思われるフシがある。塗りだとしても、あの規模だと安く見積もって2、300万は下らないだろうな。
安堂 むろん、業態からしてふつう、自前で一括ドン!って用意するわきゃない内容さ。………なんつったって借りた方が金融機関との付き合いの上でもリスクが少ない。
安堂 ここで金融機関をシブらせてナーヴに動揺を与えられれば手っ取り早い――と、いうのがB案さ。
安堂 ただ、ナーヴと直接のつながりのある(銀行の)人間が不詳なんだ。そこで、社長はおそらくヤマカドつながりの人間のはずだから、ナカちゃんにそれとなく質してみろ――いや、正確に言えば操縦してみろと言うんだけれど、カンの悪くない彼女にそれをなすのがどんだけハイリスクをともなうのかと、度胸さえありゃ問いただしてみたいもんだ。
安堂 さっき、社長のところでやったように、ナカちゃんを巻き込むのは無謀だと、それとなく、いや、露骨なほどアピールしてるつもりなんだけど………はぁ………近頃のナカちゃんは社長の覚えもいいようで、いやはやオレはまったくの力不足よ。
安堂 今、恐れていることは、あと数日もすれば社長の堪忍袋の緒も切れて、その………ここだけの話、
安堂 人知れず伝えられるRS部の古い伝説の中にあるんだけどさ…………昔、「喰いつきのいい怪文書をこしらえて(銀)行内にしかるべき空気を瀰漫させるまでオレにツラを見せるんじゃねぇ!」なんて強いられた輩がいたとか。――オレもそんなハメになるかもしれんと思うと、まったく悪寒がしてくるんよ。
晴花 ……………
安堂 あ! 思い違いだけはカンベンね。
声を大にして言っとくが、昭和じゃあるまいに、オレはそうした旧態依然としたやり方には賛成できない。
安堂 門井さんたちは、決してコマなんかじゃない。
日南さんや綾っちと気持ちは同じ。オレも、あの店の強烈なファンのひとりだと自負してる。
安堂 だから、だ。
門井さんたちとは対等に寄り添っていけてナンボだと思う。この手を黒く染めるなんて、もってのほかだ。
綾子 やりぃ!それでこそ我らが安堂さん! そうこなくっちゃ!
安堂 素直にありがとうと言いたいところだけど、現実の話、この2、3日で門井さんサイドをその気にさせなきゃならんのね。まさに「この道しかない」わけだ。
安堂 そんなんだから、小躍りするわけにゃいかんのよ。悪いことにその道は、光まばらな霧深い森を横切る、茨でびっしりと覆われた獣道、だから。――行くも帰るも、難しい。
晴花 わたしも、何とか……………もう一度、無理してでもたたみかけてみます。安堂さんがそういった考え方なら、これ幸い、私だってがんばらないと。
安堂 うん。
みんなで何とかしてみせて、オレたちの力を社長に見せつけてやろうじゃないか!
綾子 しゃー! なんだか燃えてきたぞー!
安堂 …………と、いうことで今度は日南さんの番。
晴花 え……!?
安堂 心の中に潜みとどめているものを、ここですべて出してくれ。
ゆがんだ手段を排除するとなれば、オレたちが信頼し合って力を合わせなきゃ道はない。そのために、「情報」は共有のものとしよう。
安堂 失礼ながら、レビューでは時折口を濁したように見えた。
何か言いにくいことを握ってるな、と直感したんだけれども。

安堂にそこまで見透かされていたことに、晴花は不明を恥じるばかりであった。

が、けがの功名――だとも思う。このタイミングで、なら、カフェで優里が漏らした胸のうちを伝えても間違いはないだろう、そう思った。

安堂 それは……言葉にならないな………。
優里さんの意思はこれではっきりしたとして、問題はダンナさんだ。ご本人は美辞麗句を肉付けして自身の決断を正当化できるにしても、われらリサーチサービス社の問題としては、結果として何も手出しできないままにカタをつけられてしまう。
安堂 いや、それよりもっと根源的なことが問題だ。オレたち自身の、胃袋の嘆きをどうやって癒せと!?
安堂 うまいスパゲッティーが喰いたくなったら、これからは向かいの洋館に足を運べっちゅうわけか!
そんなもん……………タダでも願い下げだ!! ……ペッ。
綾子 晴花 禿げあがるほど同意ッ!!
安堂 ナーヴは終わらせない! くたばりやがれ、BBIッ!
安堂 諸姉よ、ともに肝に銘じようじゃないか。これは、ぜってぇに負けられねぇ戦いだとなッ!!
綾子 晴花 っす、さー!!

安堂 ……そんなんだから、現状のオレたちの問題は、門井さんたちを引きずり込むことにどうしても帰着するんだ。
安堂 だからと言ってバカ正直に押すだけじゃ、まがりなりにもプロとしてはダサすぎる。そして何より、日南さんの人間関係に傷をつける安直なやり方は、取るべきでない。
安堂 この矛盾を乗り越える――これこそが、社長とオレたちの “やり方” の違いさ。
安堂 だから、だ。
われわれ自身の手で、しかも独自のやり方で、門井さんたちを引き込めるに十分な材料を見つけなきゃならない。
安堂 いや、そんなことは当然、われわれはナーヴやウェスウィウスで十分に試みてきたさ。やってはみたものの、これといった決定打を引き出すことができなかったというだけだ。
綾子 晴花 うんうん。
安堂 そこには、答えがなかった。その事実は重い。
安堂 でも。そんなオレたちにも、残されたルートがまだ、ひとつ、ある。
安堂 それは――さっきの社長の前で故意に躱した、ひとつの可能性だ。 綾っちがさらりと言い放った、あれが、ある。
綾子 い……因縁の話、ですか!?
安堂 かりに人間の行動の背後には何らかの筋があってしかるべきとする前提を置いたとき、動機を問えば可能性はそこにしか思い浮かばない。もし一連の行動が本当に刹那主義によるものであったとしたら、そりゃもう、完全にハンズアップだね!
安堂 だって綾っちも見ただろ?
あの蠣崎という人間………異色中の異色よ、あれは。他でなければ、ここにこそ絶対になんかある。
安堂 というわけで…………………………

と言ってから、安堂は自分の鞄からホチキス留めのいくつかの紙束を出して、机に置いた。

安堂 これまでの経緯を振り返れば、材料は想像しうる範疇の常識的なところに潜んでいるような感がある。 ただし、門井さんの今のビジネスでのトラブルを背景としたもの……といった線は、さっき消えたな。
安堂 優里さんの反応を聞けば、そこんとこは確信できる。であれば優里さんが既知なはずだ。
安堂 ――つまり。
安堂 答えはやっぱり、ヤマカドか――いや、それをとりまくもっとおおきな塊か、そんなところにありそうに思えてならない。
安堂 正直言うとさ、最初は本体はともかく、同業者、というかコミュニティといったものにまで視線を向ける必要は薄いだろうなって踏んでいたんだよね。オレは。
安堂 いや、いくらかの用意はしてあったんだけれども、どのみち、オレひとりで片づけられる規模でもないし。そんなわけだから、この線は今日のレビューまで着手するには至らず、といった状況でございまして。
安堂 だから、さ。
ここに来て必要が増した以上、これから3人で手分けして掘ってみようと思うんよ。急な話だけど、なにぶん時間は待ってはくれないから。
安堂 ――ふたり、賛否をぜひ。

と、安堂が問う。

綾子も晴花も、黙って首を2回、縦にふった。

安堂 よし。なら、綾っちにはヤマカドそのものを担当してもらおっか。調書うんぬんというよりも、もっと通俗的な視点からの情報を補強したいね。
安堂 具体的には………ヤマカドにまつわる話題を何でもいいから洗える限りネットで拾って、それを………そうだな………………大きな付箋に書き出して、綾っちの後ろの壁にダーっと貼っていってくれる人の役。
綾子 あ、はい。問題ないです。
安堂 それじゃ、よろしく。あ!重複する話題も拾っておいてね。近傍に、まとめて貼り付けといてくれりゃ、いいからさ。そうすりゃ “パレート図” のようにボリュームが把握できる。
綾子 仰せの通りに!
安堂 では日南さんとオレは、

と言うと、安堂は紙束の上に手のひらを置いてから、言った。

安堂 この “おおきな塊” を担当ってことで。
安堂 具体的には、同地同業者のたくさんの調書から分かることはないか、探ってみよう。
ただし、これを丁寧に読み込んでる時間はない。卒読で。
安堂 よって、ところどころは分担としようと思う。
セクション1は共通で、財務関係……ええとセクション2, 5, 8はオレが、その他は日南さんでどうだろう?
晴花 わかりました。

と言ってから、晴花は調書を指さし、安堂に反問した。

晴花 これ………BBIの調書……。安堂さんの言う、「いくらかの用意」ですよね?
これも善意の協力者、を通じてのことですか?
安堂 どうだろう………そのとおりかもしれないし、そうでないかもしれない。
が、主役のふたりは、そんなこと、気になんてしなくていいさ。いらぬリスクを拾うだけ損、損。
安堂 警戒されるわ、調整が面倒くさいわで、とりま、社長の耳にも入れてない………入れるつもりもない文書――とだけ言っておくよ。いうなれば、オレたちの “プランB” ってヤツ。

安堂は、小さく笑ってそう言うと、積み上げた調書の一冊を手に取った。

その向かいの席で、綾子はノートPCをひろげてから、ひとたび部屋の外へと出ていった。


そして晴花は、冊子の束をはさんで作業を分担する必要から、安堂の隣席まで荷物を持って移動した。

晴花は、自らもノートPCのヒンジを開いた。安堂と違って、調書の勘所を熟知する人間でない自分が読解に詰まったとき、“プロ” の手をいちいち止めてしまうことが憚られたゆえだ。

―――やがて部屋に戻ってきた綾子は、カラフルな色の付箋の束をいくつか握っていた。

隣のRS部のいろいろな人のデスクから、ばれない程度に少しずつ拝借してきたようだ。

晴花 ……。
安堂 ……。
綾子 ……。

最初は少なからず口頭でのやり取りを挟んでいた3人だったが、それぞれが目先の作業に集中しだすと、部屋の中はいつしか紙を捲る音と、キーボードの打鍵音、そして筆記具で加わる圧をはねかえす、固い机の音だけになった。


綾子は手元にいくらかの付箋が溜まったところを見計らって、席を立ち、壁にそれらをペタペタと貼っていく。


―――そんな光景が幾度か繰り返されるのと並行して、晴花は、手元の調書の束からかえすがえす冊子を取り替えていた。

拾い上げた冊子のどこかのページを捲ったかと思うと、じっと目を止め何かを確認する。かと思えば、その冊子をまた元の束に戻し、今度は別の冊子を手にして同じように紙を捲る――そんな作業を反復していた。

いくらか経って。
晴花は一度口をぎゅっと結ぶと、何かを思い立ったのか、自らのPCを手元にゆっくりと引き寄せる。そして、調書を片手に取っ替え引っ替えしながら、何やらをタイプしはじめた。

―――そして、しばしのあと。

晴花は安堂に向けて、

晴花 ……あの。

と発語した。


安堂は顔を上げ、晴花の方に首を回した。

晴花 ……こういう業界って、地域の同業者と何らかの連帯があるものなんですか?
安堂 それは、そうだろうさ。
個々の利益を追求するばかりじゃ、全体としてはどうしてもなおざりになる部分も出てくるし。
安堂 ほら、この辺で言えば、あの駅西商店街の店主組合なんかが、そんなカンジ。
晴花 ……お金のやり取りも、発生するもんですか?
安堂 ああ、だよ。組織の運営こそ、タダじゃあできっこないもんね。つまり、その利益を享受する人間らが出資せずに誰がやるかと。
晴花 ……あ、いえ。
たとえばその組織のメンバーをとりあえず「会員」と呼ぶとして、会員同士がその、直接。
安堂 ち…直接!?

安堂は、「怪事か」と言わんばかりな、音吐の高い反応を返した。

晴花はいわんとするところを示そうと、PCの画面を、安堂の方にゆっくりと向けた。

晴花 「取引先」にちらちらと同業者の名が出てくることが、不思議……だったんですね。
それで隣接行列をつくってみれば……もしやと思って可視化……あ、ネットワーク図にしてみたんですけど………………

※ここでネットワーク図は,姉妹サイトによる次の解説ページ:

■フォースダイレクテド(力指向)・レイアウトによる有向グラフの作成[1]

の考え方を下敷きに描画します。ここでは見本データを用意しませんが、雰囲気を追うには引用元か、あるいは引用元の詳解となるPart1(無向グラフ)のページなどを参照ください。

晴花 そしたら、その、まさかの……こんな……輪郭のハッキリしたものが…でてきちゃったというわけで……。
安堂 マジかよ!
こんなストレートなヤツ、まったくアホみたいに目立つじゃん。
安堂 にもかかわらず、うちの側の調書には、これを掴めた記述がない……。惜しむらくは、横の連携が盛んだったら、気づきそうなもんやけど。

と言って、安堂は手元で少しの時間を使って、彼我数個の調書を照らし合わせた。

安堂 ……あ。BBIの側にもないな、この指摘。
安堂 オレらのようなリサーチャーからしたら、循環取引は減点ファクター以外の何物でもないけれど、BBIの調書にも、これが存在する点は――直接の言及がないんだな。うちと同様、はたして把握できなかったんか………?

安堂は、さらにいくつかの調書を流し始める。

安堂 あ……………いや、まさか。
安堂 顧みれば、BBIの側の調書、確かに “気づいてください” といわんばかりのエクスキューズが盛り込んであるな。
安堂 と、なれば、書いた人間の遊び心か。あるいは、子供だましかも?
綾子 ……それ、どんな意味です?
安堂 ああ、そっか。説明をしようか。
ふつうはこの循環取引が露見すりゃ、信用上無視できないおおきな話になる。「不正会計」って呼ばれるヤツさ。
安堂 ただ、ここに居並ぶ調書の束の、財務状況のページから推量するに、このカラクリには、どうも「不正会計」が仕組まれるに常識的な “うまみ” の部分が見えてこない。
安堂 正直、どこかが売上を吊り上げるにしろ当座の資金繰りを確保する目的にしろ、十分に機能を果たすようなシロモノじゃないと思うんだ、こんなものでは。
安堂 BBIが無関心?あるいは無視?した理由はそんなところにあるのかもしれない。ガチのやつなら露見したとき、BBIという巨木の幹に――すなわち調査能力そのものに大きなキズがつくわけで。………ここに至るまで、うちが「○○ヘルプケア」社の後遺症を引きずってきたように、ね。
安堂 と、なれば、だ。
こんだけ規模のデカい地下茎は何の目的で? 慣習化したやつが放置されてんの? ――はたして、動機に目星がつかねえわ。

安堂 ……て、いうよりは。おかげでこれが際立つ、んだよな。

安堂は、画面の一点を指で示した。

安堂 この、“仲間外れ”。
向こう(BBI)のIDで48208262…………これ、ええと、どこだったっけ?
晴花 ……ヤマカド、ですね。
安堂 だよね。やっぱ。どういうことだ?
綾子 ……!

何かに気づいた様子の綾子は、ひと呼吸おいて、こう言った。

綾子 ……そうか。 十兵衛シーズン2、第8話だ。
晴花 ……はい?
綾子 いや、十兵衛シーズン2第8話!ですよ!第8話!
綾子 「傘連判状」 か・ら・か・さ・れ・ん・ぱ・ん・じ・ょ・う!

と言うと、綾子は席を立って、壁の一角を彩る付箋の前で掌を広げた。

綾子 これ……
集めた話題を似たような集団で固めてあります。
綾子 集団……っていうのは、その、付箋の色の違いで区別されたものって考えてください。
綾子 青はポジティブ、赤はニュートラル、それから黄色は……………
晴花 ネガティブ!?

晴花は、綾子の説明を遮るようにして、言葉を被せた。

無理もない―――。赤や青の付箋に比べて、黄色の付箋の固まりがあまりにも巨大だった。

安堂 これは………悲惨だ……。
安堂 見るにほとんどがレストランの方の話、か……。期待の裏返し、と見れば、昔得た称賛はさぞかしでかかったんだろうな。

そう感想をつぶやくと、安堂は綾子に問うた。

安堂 して、綾っちの言う「傘連判状」って、どういう意味なん?
綾子 その「ネガティブ」の内容ですけど……
ほとんどがこんな趣旨です。「昔と違っておいしくなくなった」
綾子 で、そうした感想を見てると高い確率で付いてくるセンテンスがあるんです。
「誰誰から聞いたとおり」「どこどこで見たとおり」とか「みんなの評判どおりに」とか。
綾子 まるでイメージの据わった状態からの評価ばっかりなんです。
………なんか統制でもされたかのような、この状況は気持ち悪いな、と。
綾子 そこへ来て晴花さんのこの図ですよ、まんまるさーくる。
綾子 十兵衛シーズン2第8話ですけど、第六天魔王軍の侵攻を阻止しつづけている、ある不思議な里の話が出てくるんです。そこ、賊あがりのならず者たちが悪政の限りを尽くす土豪を討ってからというもの、主を作らず連帯して統治されてきた土地なんですね。
綾子 忠誠を尽くす主もいないのに、ましてやある人物にとっては親の仇までいるような “仲間” なのに、強固な絆と一糸乱れぬ計略で第六天魔王軍の侵攻を撥ね退け続け、挙句の果てには業を煮やした魔王本人まで引きずり出してしまうという…………そんな話で。
綾子 その力の秘密が…………このまんまるサークルなんですよ。
この「連帯」の象徴こそが、傘連判状なんです。「十兵衛」のお話の中では、“最愛の娘” がこの矢印で人質に供されて、連帯の実効性が担保されていたんですよ。
綾子 あるとき家族の情にほだされたひとりの仲間が、闇夜密かに娘を奪取して里を抜けると、それが連帯にとってアリの一穴となってしまうんです。
綾子 そう――サークルの、崩壊です。
晴花 おー、それがホントのサークルクラッシャー、だな!
綾子 は!
晴花 いえ、何も………。
綾子 状況を苦々しく思うものの、心打たれた十兵衛は里抜けに力を貸し、組織の立て直しにも協力しようとするんですけど………結局は、究極の混沌へと身を投じてしまうハメになるんです。 十兵衛は、利害の一致する、いわば敵の敵は味方の「連帯」に銃口を向けたくはないわ、もちろん第六天魔王軍は待ってくれないわでシーズン最大の盛り上がりを見せる場面につながるんです。
晴花 あー、あれ涙腺にきたよねー。十兵衛がエリアス軍曹の姿とかぶ
綾子 あ、説明はもう十分終わってますから。
晴花 そ、そう………。
綾子 つまりこれは…………

と言うと、綾子は晴花のPCに映る “山門食堂” ノードを指差した。

安堂 その、十兵衛の話でいうところの、里抜けした輩?
綾子 私たちが直面する現実の話としたら…………「距離を置かざるを得なかった理由をもつ者」というか、そんなところのようにも思えるんです。

安堂は少しの時間思考に耽ると、顎を撫でながらつぶやいた。

安堂 これ……ひょっとしたらひょっとするかもな。
綾子 とりあえず私…………本当にこの山門食堂が批評どおりのとるに足らないお店なのか、明日現地に行って確認してこようと思います。
晴花 (現地!? あ…イヤな予感…)
綾子 もちろん、蠣崎さんの痕跡とかも当たってはきますから。
晴花 (金欠なのねー♪ でも年長の私が行かないと言えば白い目を向けられるに必定なのねー♪)
晴花 あ!綾っち!私も行く。体力だけは任せな(意味不明)
安堂 でもこの話、社長の耳には入れられないし、収穫なけりゃ当然経費請求なんてできる空気じゃないよ。……んでもいいの?
綾子 もちろん。その覚悟です。
2月下旬 11:10
半島南端・小さな旅館街

翌日。どんよりと黒い雲の広がる空から、凍てつく寒さが降ってくるような朝を迎えた。天気予報によると、南の方でもめずらしく降雪の可能性があるとかないとか。

そんな中、ふたりは綾子の自宅近くの駅で待ち合わせをしてから、電車に揺られて小一時間。目的地よりやや手前の、古びた駅舎をもつ朽ちたアスファルトのホームに、4両編成の電車が入ってきた。

乾いたブレーキ音を響かせながら、電車は止まった。そして、前2両のホーム側の扉が、排気の音とともに一斉に開放された。

―――そのひとつから、綾子らが降りてきた。

ふたりは改札を抜けると、駅を離れてしばらくのところにあるコンビニまで徒歩で向かう。

晴花はその道すがら、スマートフォンでタクシーを手配した。「できたら、地域の飲食店をよく知ってる運転手さんだったらうれしいんですけど」と注文を付けるのを忘れない。これも、計画のうちだった。

10分ほど待って、タクシーがやってきた。ふたりは一刻も早く寒さから逃れようと、後部座席にいそいそと乗り込んでいった。

年の頃、五十を過ぎた印象の運転手であろうか。

彼は、ふたりに「観光ですか」といの一番に訪ねた。なんとも配車センターから “注文” を聞いているという。

幸先を占う意味では渡りに船、だった。

食事だけはノープランで来たことを綾子が告げると、重ねて人懐っこい声色で運転手におすすめの有無を問うた。

運転手は海鮮料理―――時節柄、てっちりなどのフグ料理を勧めている。客の好みは万別なれど、海のさちを売りにしているこの地ならでは、旬のものなら嫌われにくい。運転手の選択として、当然の帰結だろう。

運転手は、おすすめのレストランとして、晴花の円環の中で見た、聞き覚えのある旅館の名のいくつかを列挙していた。

機をはかって、綾子は肝心の店の名前を口にする。

「そういえば、あの、『山門食堂』っていう名前の旅館はどうなんですか? タコの唐揚げが美味しいとか、そんな話を…」

と尋ねると、「うーん、どうだろう。派手さはないねぇ」と、バックミラー越しにゆがむ運転手の顔が、綾子に見えた。

聞けば、鍋・刺身・唐揚げとバリエーションに富むフグ料理とくらべると、いかんせん地味すぎて客の反応も数段落ちるという。おまけに地元の人間からは、「代替わりしてから味が落ちた」という評判を耳にするのも常で、あげくの果てに、ここ最近では身売りやなんやらのうわさ話も出てくる始末―――といったわけで、運転手自身にとっても、ヤマカドはどうにも食指の動かぬ存在のようだ。

綾子は言う。

「じゃあ、行先はその山門食堂でお願いします」

怖いもの見たさで、と言う。SNSで目立てるからと、てきとうな補強も加えた。

運転手は「たのむから、あとから本部にクレームをよこさないで」と、冗談をまじえ再度意思を確認した。綾子は、晴花のうなずきを待ってから、運転手に諾を返した。

―――車は一路、ヤマカドへと向かった。

しばらく走ると、綾子らは旅館街から少し離れた県道沿いに、くすんだ凸の字型の建物の、目的地の姿を認めた。

外見から判断するに、凸の字の上半分が「旅館」としての機能を果たしているようだ。

この隣地には、いくつかの車両が止められていまだ十分な余力を残す大きな駐車場が見えた。その過半くらいであろうか。敷地は、近くの浜から舞ってきたであろう砂塵で駐車ラインさえ埋もれてしまったありさまで、盛衰の時を経た今を綾子らにも十分に窺うことができる――そんな、状態であった。

「2500円、です」

路傍でハザードを焚く車中にて、運転手は言った。

晴花 あ!お釣りはいいです。ためになる話、聞けたので。
それに名刺ください。

精算を終え、ふたりはタクシーを降りた。外気は変わらず、歯が鳴るような厳しさだ。

車は彼女らを背に、来た道をUターンして、やがて視界から消えていった。

綾子 ややや、やりますねぇ晴花さん…………少し余裕出たとたん、私の忠告も聞かず無計画に生活グッズ新調して金欠なのにあんな無茶を!
晴花 ドラマとかでさ、「釣りはいらない」って啖呵切る人いるじゃん。いちど、やってみたかったんだよねー。
晴花 あ…そうそう。っていうかあれ情報料。割り勘だから。ほいっ、綾子、250円請求ね。
綾子 まじか!

目的の店は、旅館を経ずとも、公道に面した専用の出入り口から行き来できる構造になっていた。

綾子は店ののれんを掻きあげる。そして、エンボスガラスのはまったアルミの引き戸に手をかけると、ゆっくりと、力を込めた。

厨房を含めて、一般的なコンビニエンスストアの売り場くらいの広さであろうか。入口の戸を引いた瞬間、この空間から揚げ油の匂いが香ってきた。

お昼には少し早いこの時間、カウンターの席はほぼカラだった。他方、テーブルを利用するグループ客が、まばらにいた。

綾子らは店員に案内されると、小ぶりな黒いテーブルを囲んで着座した。そして、お目当ての「タコのから揚げ定食」を注文し、周囲をちらちらと観察――目で追える範囲には、弘毅の姉と推定できるような人物の姿を認めることができなかったが――しながら料理を待った。

―――10分弱で、ふたりのもとに「タコのから揚げ定食」が運ばれてきた。

ぷしゅ~
綾子 ぷしゅ~
晴花 ん!? もう7回表も2アウトなんか?
綾子 ぷしゅー!
晴花 ぬ。いすゞ4トン、いや切れのいい日野の方ね…。
綾子
晴花 うっさいわ!
水でやんな水で! だまって食え! だまって!
綾子 ふへぇ…。私たちの使命をお忘れですかぁ?
舌がものを言う仕事の最中ですよ、舌が…。
晴花 うん、誰にも期待されてないから。そのあたり。
綾子 ふんふ~ん♪ 黄金色の外皮はカリッカリでいて歯ごたえがありますねー見飴細工のように繊細だけどその存在をビシビシと主張してくる衣もったいないけど一口がじっとすれば豊饒の海の果実がぷるるんっと歓迎うん最初にぷりぷり感が来たかと思えばこの身お刺身のトロじゃないかと錯覚するほどコクのあるとろけ方をしますぅいやーこれすごい濃縮された海のエキス天然の出汁ともいうべく何かが奇跡のシンフォニーを奏でますーまるで人類の英知を超えた化学反応が起こったとしか表現できない稀有なうまみが執拗にも溢れてきますねーこれうんーごはんにめっちゃ合うおいちー♪
晴花 くそっ、なんという粘稠性の当て擦りをブチ込……………。私が悪かった、お願い、許して………

およそ一時間も経ったころ、ふたりはヤマカドをあとにした。

ボアミトンの手袋、厚手の長いマフラーといった防寒装備を、それぞれが思い出したようにととのえはじめた。それで身を固めると、ふたりは、この店から半キロほど離れたホテルへ、海風にもまれながら歩いていった。

綾子 おなかいっぱいですねー♪
晴花さん、実際のところ、どうでした?
晴花 あんなもんじゃないのかな? タコのから揚げ定食って。
晴花 そりゃ、正直、突き抜けるものは感じなかったけど。それなりに、おいしかったと思うよ。
晴花 本当に以前が今以上に秀でていたのか、はては先代の偉大さが評価のハードルを上げるのか、あるいは今となっては代名詞的に広く伝播した “おきまりの” 批評が、肯定的な評価を下すことを許さない空気を醸し出すのか。それとも、もっと単純なところで「あきられた」だけなのか。
晴花 ますます分からないけれど、実際のところは、昨日目にしたような評価、そうした理由の一つ一つが複雑に絡み合ってるんかもね。

しばらくして、目的のホテルに着いた。

ここで「スパ&エステ」の看板につられた綾子はあやうく戦線を放棄しかけたが、晴花に脳天を割られ軌道修正を図られると、やむなく――というか、予定どおりに1台のレンタルサイクルを手配するに至った。


そのあとふたりは真っ赤な自転車を引きずって、この町の小さな図書館へと向かった。

2月下旬 13:20
公共図書館

外気と隔離されたこの空間は、およそ快適なものであった。

簡素ではあるがイートインスペースも揃えるとあって、ふたりは予め、ここをこの時間以降の行動に臨んでの、ハブとして利用しようと決めていた。

ふたりは、壁と正対するように配置されたカウンターテーブルの一角を確保すると、コートを脱いで、椅子に並んで腰を下ろした。

綾子は膝の上にコートをたたんで置いた。その上に握った両手をのせて、晴花の方に向け座面を回した。

綾子 予定だと体力ある方――すなわち晴花さんが街中から蠣崎さんの痕跡を自転車コキコキサーチングすることになってましたけど、予定通りで大丈夫ですよね?
晴花 いや、あれは私って意味じゃなくて………ですね………
っていうか年齢からして、テラハタ氏の方が体力、あることね?
綾子 いや、住宅地図の走査なら任せてください。
閲覧可能な相当分を遡らなければならないですし、スピードと正確さ、それに総花的な情報をひとつにする、司令塔としての冷静な状況判断がものをいいます。それすなわち、若い私が有利です。
晴花 っていうかワレ、どずくでほんま。
晴花 交代制、交代制。当初の予定通り40分交代制。でなきゃ片方が凍死するんよ。
綾子 仕方にゃい―――。
では “虎の巻” に載ってる、ベイズでやります?
晴花 だね。
ベイジアンネットワーク、これで的を絞って探ろう。

ベイジアンネットワークで確率推論をおこなうためのしくみづくりの一例を表示します

晴花 ネットワークシートを引っぱりだしてきたところで、ついでだし5分くらい消費していい?
綾子 ん?
というと?
晴花 私にさ、いかに綾っちがちょろまかされやすいかを見せておきたいと思って。
綾子 ぬ。そんなことあるはずないですが。……まぁ、どうぞ。
晴花 じゃ、唐突だけど、綾っち。
私とYouとで、いろいろと分かり合えないものがあるけれど、その最たるものと言った……
綾子 映画の好み。
晴花 ………フライングしてまで断定どうも。
晴花 じゃ、私が「これこれ!この映画おもしろいよ!綾っちもぜひぜひ!」と今オススメすると仮定する、よ。
―――その映画、綾っちにとってガチにイケてるだろう確率は?
綾子 20………いやもっと低いか…………18%。
晴花 あ、そ。
信頼できるを「true」できないを「false」として、これを事前確率にしよう。……カキカキ。
晴花 じゃ、綾っちの経験から言って。
信頼できる人に「おもしろいよ!」と言われた映画が実際におもしろかったのはどの程度?
綾子 ………60%くらい?
晴花 なるほど。
んでは、あんまりアテにならない人に「おもしろいよ!」と言われた映画が、実際にイケてたのは?
綾子 う~ん…ええと……20%くらいですか。
晴花 うんにゃ。
これを条件付き確率として書き加えとこ。……カキカキ。
晴花 ベイジアンネットワークを用意して、と。
………カタカタカタカタ。
綾子 ………出たよ、デコ差別。
晴花 さて、ご覧のように、信頼度18%の私? かあいそう?
晴花 ………チッチッチ!
晴花 綾っちの食いつきの良い恋愛もので、信頼を1回釣るのだー。
晴花 えいっ………ポチ。
晴花 えへへ。
およそ40%まで回復さ。ベイズ流に言うと、更新されたよ。
晴花 え!?
まだまだ “信じられない度” の方が高いって?
晴花 しょうがにゃいにゃぁ。
もう一回、綾っちの好きな長編アニメで釣っておこう。………ポチ。
綾子 ………あ、逆転。2回前まではほぼ不信感しかなかったというのに。
晴花 念のためもう1度釣っておけば、ヒナミ教の信奉者さまを獲得さっ………ポチ。
綾子 ………私ちょろすぎ。
綾子 ………とはいえ、肌感としてはわかりみかも。
晴花 私の言いたかったのも、それ。
「評判」ってことば、さ――どこかアンコントローラブルで崇高な響きさえない? ウン十万歩の誠実な歩みの果てにこそ、よい評判は存在する、みたいな。
晴花 でも、やり方次第でその歩幅、意外にも短くできたり?――私は、そう思うの。
晴花 ヤマカドもきっとそう。将来ステキな復活劇も、あるさ!
綾子 ………うんうん。わかります。
晴花 まぁ、何だ………それだけに、今の話をしちゃうと、うまくいってはないよね…。
さっき見た感じじゃ、どう見ても……。
綾子 ………え。
話、そっち系に流れちゃうです?
綾子 皆口部長の番の朝礼みたいな、“ちょっといい話” するんかと思って、勢いでハンカチ出してしまったというに…。
晴花 …弘毅さんにしたら、あれは、大事な実家ぞ。あそこの実情は、後顧の憂いだろうさ。しかも相当根が深そうときた。
晴花 本当のところ、今日ね、弘毅さんをその気にさせる材料として、ヤマカド問題の一端からヒントが見つけられればって、ちょっと期待して来たとこがあったの。けどね、綾っち。
お昼をあそこで食べてよくわかった。
晴花 あんとき実はね、綾っちに嫉妬しちゃったんだ。
綾っちがさ、舌一本で活路を見出す能力者かと思ったんで。
晴花 …てんでインチキヤローだったけど。
晴花 ウイ・キャン・ノット・舌一本勝負なのぉぉおぉ―――!
綾子 (ていうかあのとき否定しときながら舌で勝負する気満々だったんですね…それはそれで…)
晴花 とくれば、よ。そこのおねーさん。
今からの探索で収穫をゲットできるか否か、に、今後のすべてが掛かってる。
晴花 もうこんなんしか残されてないのぉおぉ! 私にはぁあぁ!
晴花 だから、ぜ……ぜったいに……ここで何か……み…見つけ……ようね……うっ、うっ。
綾子 こ…「こんなん」じゃなくて、最初からメインの計画ですしおすし…。とりあえずハ………ハンカチどうぞ。ついでだし。
晴花 あずわっず…。でもあんたも「ついで」はないだろ……。
晴花
晴花 というわけで。はいっ、これ以上無駄に時間を消費してる場合じゃないっすね。
痕跡探査、早速、ベイジアンネットワークを使ってやりまひょうです。
晴花 そこで、この町。
この図書館をハブとして、分割しようね。
晴花 規模的に…………ええと、そうだね、この4つでいいと思うんだ。
晴花 さて綾っち。Youの感性が欲しいよ。
……これ、どのエリアにどれくらいの可能性があると推測する?
綾子 可能性がいちばん高そうなのは………やはり山門食堂のある旅館街のD地区でしょうか。
綾子 次点は観光客向けの施設がたくさんあるC地区。
綾子 続いて古くからの住宅密集区A。…………一番可能性が低そうなのはB、ですかね。新しめのアパートのような建物が多いですし。
晴花 そうだね。じゃ、発見できそな確率は地区の別にこんなところ。
晴花 次に、探索のしやすさといった意味だとどうだろう。
1回の探索で不成功――つまり、何も発見できない確率となると、どれくらい?
綾子 A地区――あそこは、どうやら狭い道が多くてゴミゴミしてるようです、ね。ええと、D地区は――やっぱいくらか広めな分、探索はたいへんだと思います。おまけに、この2地区はこの図書館からもいくらかの距離がありますし。
綾子 その意味ではBとCの方が探索はしやすそうです。いや、Cの方がちょっとばかしむずかしそうかな。
晴花 ……おおむね同意。
つまり、これくらい(黒の数字)ってとこでどうだろ? 異議などござる?
綾子 いえ。いいんじゃないです?
晴花 じゃ、これらをシートにセットして、カタカタ…………っと。
晴花 ってことで、素の状態でいちばん可能性があるのはD地区なわけで。………素直にこっから始めますか。
晴花 じゃ、私から行ってくるよ。せっかく観光に来たんだし(やけくそ)
綾子 そうですか。
晴花さんが一発で見つけてくれれば、私は出ずにすみますから。めっちゃ応援してますYO。

晴花は装備を固めると、再び建物の外に出た。

駐輪場に停めた、大きなカゴのついた自転車にまたがって、晴花はD地区へとペダルを漕ぐ。

いよいよ探索を開始した晴花。

街路という街路を、鈍足の自転車がゆく。気に留まるものを見つけるたびに、銀輪から足を下ろして可能性を潰していった。

そして、40分後―――。

晴花は図書館へと戻ってきた。自動ドアをくぐってからの一歩が、南国の楽園を想起させる心地よさだ。

晴花 さむっ! さむっ! さっむ!
晴花 綾っち! あとは任せた。
あ、私の方は手掛かりゼロね。
綾子 ですよねー。
……ホントに全くなし?
晴花 うん。
綾子 そうですか。
私の方は、直近の住宅地図の半分程度目を通してみましたけど………残念ながら収穫ないのは同じですね。
綾子 じゃあ D地区の「NO」にエビデンスをセットしてみると、
次の可能性はC地区、ですか。
綾子 じゃあ私の番ですから、行ってきちゃいますけど、
何なら特例で代わってあげてもいいですよ。
晴花 お断り~!

そして、40分後―――。

綾子 ふへぇ、ダメダメでした~。
晴花 そっか。お疲れ。
私の方も、残り半分、ざっくり見てみたけれど――「蠣崎」なる姓は一軒たりとも出てこないね。
晴花 私たちが当初から考えてきたような、“門井さんと同じ土着の商売人” だって方向性、違うんかな?
綾子 ともかく遡れる限りは遡りましょう。まだ時間はありますし。
晴花 となると次は………
晴花 お! D地区。2回目か。
なら、前に到達できなかったところを中心に回ってみるよ。

またまた、40分後―――。

晴花 ええぃ、かすりもしなかった…。
晴花 綾っちの方は?
綾子 これ、20年前の住宅地図、引っぱりだしてきました。
まだ半分くらいしか確認してませんけど、ここにないようならこの土地ゆかりの人っていう線は残念ながらハズレじゃないかと思います。
晴花 ……うん。それにしても当初の仮説を外すのは労働的にもお財布的にも痛いな。
晴花 とりま私、住宅地図は置いといて別の線から追ってみるよ。ここ、昔の商工人名録や企業年鑑も置いてあるみたいだし。
この地域、古くからの商売のところばっかだし、どっかに痕跡がありそうなもんだけど。
綾子 了解です。
じゃ2回目のD地区をハズしたから――このとおり、ですね。A地区をターゲットに変えましょう。

綾子はA地区を探索中、一軒の朽ちた倉庫を見つけた。

あたりの敷地は、雑多な物資が投げ捨てられいる。その隙間を、枯れた果てた草木が覆っていた。

錆びたシャッターにふと目をやると、前面に積まれた段ボールの隙間から「蠣」の字が覗いている。

綾子 え……あれは…もしかして、屋号……?
綾子 あ、むちゃくちゃ緊張してきた。
綾子 おねがいーっ! 答えであってくらさいですぅ!

綾子は自転車を降り、シャッターを目指し障害物を避けながら近寄っていく。

「蠣崎商店」あるいは「蠣崎旅館」その他屋号。それらに類する文字が書いてあることを期待して、綾子は段ボールの横からシャッターを覗き見た。

綾子 うぅ~、ハズした……………。鮮魚系の広告?………とにかく海のミルク、そのものなんだ。

―――そんなこともありつつ、40分後。

晴花 どうだった?
綾子
晴花 …同じく。
2月下旬 18:10
半島南端・小さな旅館街

すっかり日も落ちて、捜索も限界に近づいていたころ。

晴花にとっては三度目の正直、D地区の上にいた。

晴花 (そろそろ探索も厳しくなってきた。…結局、収穫なしなのか)

廃小学校の脇を流していた晴花は、ゆっくりと自転車のブレーキを握った。

路面にスタと足を降ろすと、敷地を囲む壁に向かって首を傾けた。

晴花 あれは、何だろう?

ブロックの壁面に並ぶいくつかの茶色の矩形が、どうやら単純な模様でもなさそうなことが気になった。

晴花 んん?

晴花は “模様” に近づいていく。

よく見れば、人物のアップショットが模られた陶板のレリーフであった。

晴花はスマホのLEDで、そのひとつを照らした。

晴花 「卒業制作」……。

そして陶板の下部に、制作年度と制作者の名前とが刻まれていることに気がついた。

晴花 門井さんは……今36だっけか。卒業が12歳だから、ってことはええと…………
晴花 …………
晴花 ……って、こともあるなっ!

その瞬間、晴花はスマホを片手にブロック塀にとりついた。

―――24年前のそれが、存在することを期待して。

晴花 小さな学校とはいえふたまわり……ふたまわりはあまりにも昔…だよね。
朽ちて果てていてもおかしかないし……そもそもこれ、そんな昔からの慣習なんだろうか……

思わず神経が昂った。鼓動が漏れ伝わるくらいに張り詰めた調子でいくつかの陶板を調べていくと、晴花は、それらが反時計回りで時代を遡っていっていることを知る。

―――晴花は左方向に、ひとつずつ制作年度をのぼっていった。

晴花

そのとき、晴花は目の前の陶板をなでながら、

晴花 ………むずかしい事情がありそ、これ。

と、言った。

手袋の向こうの色褪せた陶板に「蠣崎胤次」―――と、

そして、1ブロック左方向のそれには「門井弘毅」―――と、

風化がすすんで輪郭の薄れゆく2つの刻みを晴花は見つけた。

晴花は思わず、苦労が実を結んだ喜びを素通りして、戸惑いに満ちた所懐の方を口にした。

2月下旬 9:50
Navi in Bottiglia

翌朝。

晴花はアポをとってナーヴまで足を運んでいた。

安堂から耳にした社長の無理押しも気になるところで、事実上、これが最後の説得の機会になるだろうと踏んでいた。


「しくじれば、船頭が多くなる」


風を味方にテイクオフできるかどうか、晴花の関心はその一点にのみあった。これを失敗したならば、舵取りにおける晴花らの影響力は相対的に弱くなる。説得はとてもむずかしいことだが、弘毅や優里をとりまく脅威を想えば、退路を断ってでも成し遂げねばならぬことであった。

晴花 ……てことで、あちらの経営者は蠣崎胤次という方でして。
ナーヴ 弘毅 …。

この名前をフルで口にしたとき、弘毅は、怪訝な顔を見せたり、その者の何人たるやを質すこともせず、表情ひとつ変えなかった。

(この名前に、相当の免疫を持っているかな)

内心でそんな予断を組み立てながら、淡々と晴花は続けた。

晴花 ………この方は東京で「モンテ・ディ・コッチ」というスパゲッティリアを創業された方で、今に至っては繁盛店として経営も順調と聞いています。ま、私が実際に見てきたわけでもないんで、眉唾ですけど。
晴花 それ以前は、うちの会社を虐げて止まないビジネスブレイン・インテリジェンス社――略してBBIと呼ばれる大手リサーチ会社に勤務していたようで――とどのつまり、サラリーマンあがりですね。
晴花 食材をあつかう意味では、所詮素人の範疇を超えるもんじゃなさそうです。いわんや、弘毅さんを脅かす質でもない。
晴花 ――ま、BBI憎しのあまり、うちの会社が少々神経質すぎましたか、ね。

「!?」

テーブルで対面する晴花と弘毅の真ん中で、立ったまま聞いていた優里の顔が、とっさに曇った。

「私の思いを、全然酌んでくれていない」

優里は口を挟もうとした。

テーブルの木目を見つめて沈黙する弘毅の隙をついて、刹那、晴花は優里に強い視線を向ける。

―――優里は、機先を制されるかたちとなった。

晴花 そんなわけで、あの「ウェスウィウス」――弘毅さんにしてみれば、つまらないノイズのようなものでなんでしょう。弘毅さんは、きっと謙遜されるでしょうけど。
晴花 というわけで、このまえのことを謝りたく思います。
何だか分もわきまえず騒ぐだけ騒いじゃって、振り返れば不快な提案してをしてしまいましたよ、と。本当、振り返れば浅薄の限りですが、私もまた会社が消し飛んですわ困窮かと恐怖にとりつかれていたもので。重ねがさね、申し訳ありません。
ナーヴ 弘毅 …。
晴花 弘毅さん。うちの会社的には、向こうの蠣崎という方の背後にいるあの目障りなBBIが悲鳴をあげればあげるほど、それが血肉となって組織の体力が向上します。
晴花 だからこそ、ナーヴが、対BBIのフロントで、われわれの代わりに、これから予想される粘着質で、いやらしい遣り口を撥ね退けるのにひと役買ってくださいますこと、まるで敬拝するしかありません。もちろん、私たちもいち客として、これまで以上にこのお店に通いつめて応援させてもらうつもりでいます。

卒爾のこと、弘毅は晴花をカッとにらみつけ、まくし立てた。

ナーヴ 弘毅 なんだ、それ。
結局、お宅らは労せずしてうまい汁を吸いにたかる、ハエかよ。
ナーヴ 弘毅 甘いんだよ、日南さん。見通しも、考え方も、何もかも。
ナーヴ 弘毅 オレたち3人以外、誰もいないここだから言わせてもらうが、いろいろある前、曲がりなりにも経営の学者さんを志した人の言うことなのか。
ナーヴ 弘毅 味だけで勝ち負けが決まるなら、どれだけラクか。ハッキリ言って、このへんに畏怖すべき存在なんていないとさえ思ってるのに。
ナーヴ 優里 弘毅!

晴花に対し礼を欠いた発言をした弘毅に対し、優里はやにわに感情を出した。

晴花 いやいや、優里。間違ってないんだ。まぁ、落ち着いて。

と晴花は優里に言って、再び弘毅と向きなおる。

晴花 であれば、弘毅さん。蠣崎さんの東京のお店が成功しているからといって、弘毅さんだって、もう何年も優里といっしょにこのお店を繁盛させてきたじゃないですか。私が言うのもヘンだけど、弘毅さんだって十分に経営の才はあると思います。
晴花 それでも甘い、とおっしゃるなら―――
晴花 どうやら私も、蠣崎さんを軽視したことから、反省をしなければならないのでしょう。
晴花 ………つまり弘毅さんは、蠣崎さんの実力をご存じ、なのですね。
ナーヴ 弘毅
晴花 あ……っていうか。蠣崎さんとは、同窓なればこそ。
心得るものがあっても当然………でしたか。

晴花のひとことを聞いて、弘毅は思わず目を皿のようにした。

ナーヴ 弘毅 ……そういうことか。
……知っていたんだ。
ナーヴ 弘毅 ……すべてをわかった上で、オレの逃げ道を封じたというわけだ。あなたは。
晴花 そんな。さすがに思い過ごし、ですよ。
「児童」と呼ばれる期間の最後の方の接点を、わずかに知ってるだけですし。

弘毅はうつむいて、首をひねりながら一度「フッ」と呼気をこねた。

かと思うと、やにわに上体を起こして、のけぞるように頭を反らす。そして、両手で頭をがしと抱えながら、悲鳴をあげた。

ナーヴ 弘毅 があぁーっ。くそっ! くそっ!
ナーヴ 弘毅 まったく、リサーチ会社ってのは何なんだ! マジで恐ろしい! 向こうにも、こんなんがいるのか!
ナーヴ 弘毅 お宅ら同士で何でも勝手にやっててくれればいいんだ! 巻き込まないでくれ!

と、錯乱したかのようなことばを放った。

水気を帯びてうなだれる弘毅を前に、晴花は諫めるように言った。

晴花 そうですか…。残念です。
晴花 でも弘毅さん、なぜ、ここにきてそんなに争いを避けようとするんです? これまでだって、界隈の苛烈な競争の世界の中で、生き抜いていらっしゃったじゃないですか。
晴花 思うにその理由は………ご実家に、あるん、ですよね。…山門食堂。

弘毅は歯をかみしめ、うつむいたまま無言、だった―――。

―――いや、それは誤りだ。

よく見れば、晴花らの目の前で、首を小刻みに縦に揺らしているではないか。

それが数秒間繰り返されたとき、晴花は、肯定を意味する所作であることを確信した。

ナーヴ 優里 弘毅……
ナーヴ 優里 晴花たちはわたしたちにとってお客さま以上の存在。きっと、何があってもあなたを最後まで支えてくれるはず。
ナーヴ 優里 だから、教えて。
あなたの抱えているものを、私たちにも。

弘毅は優里を見上げると、打ち手を失って茫然とするような、どこか苛まれたような笑みを浮かべた。

そして、晴花の方に身体を向かいなおしてから、言った。

ナーヴ 弘毅 ……まず、日南さん。あなたは、いったいどこまで知

と言ったとき、優里のスマートフォンが通知音を響かせる。

これは、勝手口のドアホン子機が押された時の音だった。

ナーヴ 優里 …こんなときに。

添付されたモニタ画像は、見知らぬ人物の一瞬のうつむき顔をとらえていた。

(たく、タイミングが悪いって言ったら…)

もとより風が吹けば桶屋が儲かる――どちらかと言えば、この句の良いほうの意味を、箴言のように用いてきた飲食ビジネスの世界。SNSの隆盛にともなって、それが笑い話ですまなくなってきた昨今、たとえ売り込みであれ無作法に追い払うことは軽率だ。

優里は、いつものように当たり障りなくいなそうと、ふたりから離れ、親機のある事務室へと向かった。

事務室のモニタに、勝手口の映像が映る。

薄手のスタンドカラーのコートをまとった、背の高い男がモニタ越しに立っていた。金色に光る刈り込まれたアシンメトリーの髪が異彩を放つ、どこか強烈なオーラをまとった男だった。

(あら、モデルさんみたいなひと。でもご縁がないのが残念ね)

優里は受話器を持ち上げると、「はい」と答えた。

蠣崎 あー、お忙しいところ申し訳ありません。
こちらの向かいの「Vesuvius」という店のオーナーで、蠣崎と申しますー。
蠣崎 開店の前に、こちら様にご挨拶をと思い、お伺いいたしましたー。
なにとぞ、オーナー様にご挨拶をさせて頂きたく。
ナーヴ 優里 !!

優里の脳天に、稲妻が貫いたような衝撃が走る。「渦中の人物が、ついに現れた」―――そう思った瞬間、冷静さが消し飛んだ。

ナーヴ 優里 あの………ち、ちょっとお、お待ちください。

狼狽した優里は、それだけを口に出すのが精いっぱいだ。あわててインターホンをフックに戻すと、弘毅のもとへと駆け出した。

ナーヴ 優里 例の―――向こうの人が―――あ、挨拶したいと、今、外に―――

まるでこの日を予想していたかのような冷静さで、優里に言う。

ナーヴ 弘毅 オレが、出るよ。

と言って、ゆっくりと席を立ち、勝手口へと向かった。

その傍らで、優里は晴花に「事務室!事務室!」と連呼して、人差し指の伸びた右手を一生懸命左右に往復させている。

「自分と一緒に事務室にこい」――そういうこと、らしい。

晴花はうなずきを返す猶予も与えられぬまま席を立つと、優里と一緒に事務室へ小走りで駆けていった。

弘毅は勝手口のドアを前にして、瞬時、動きを止めた。

そして、ロックを外してゆっくりとドアノブを回した。


優里と晴花は、ドアの向こうの蠣崎の姿を、モニタを通して見つめている。

―――弘毅と蠣崎が、わずかの距離を隔てて対面した。

蠣崎 オーナー様でいらっしゃいますね。私、Vesuvius、オーナーの蠣崎と申しますー。
近々、ご近所で商いを始めさせていただきますので、こちら様にもごやっかいをお掛けするかと存じますー。本来ならもっと早くお伺いしたかったのですが、なにぶんたてこんでおりまして。つきましては本日ご挨拶をと………

と言って蠣崎は、名刺とともに菓子折りを弘毅に手渡した。

弘毅にとって、目の前の人物の声やかたちは、薄れつつあった記憶の中の「蠣崎」と、簡単に結びつきはしなかった。

人生の時間において、再び空間が交錯するなぞ最近までついぞ考えもしなかった。だが自らの掌の上にある名刺には、確かに「蠣崎胤次」と書いてある。自分の知らない幾多もの年月が、蠣崎という人間を目の前の姿にしたのだろう―――

―――そんな思考の背後で、弘毅は自らの名刺を差し出した。

ナーヴ 弘毅 門井、といいます。
ご丁寧に、どうも。

名刺に目を落とした蠣崎は、にわかに吃驚の表情を浮かべた。

蠣崎 門井さん………門井…弘毅さん……。
あれ!? もしかして………
蠣崎 あの、門井さんとか? ヤマカドの、ヒロキさん!? ヒロにぃ!

この瞬間、蠣崎の声色が明確に変わった。

蠣崎 いやー、なんという偶然だろう。
元気そうじゃないかー!
蠣崎 まったく、ヒロ兄がここでイタリアンレストランをやっているとはつゆ知らず。おまけにこの偶然。ボク、言葉にならない驚きだよー。

弘毅は思う。

「あの時の彼は、まだ彼の中にいるのだろうか」と。

それにしても、蠣崎が偶発的な再会を装っていることが気になった。

自身で調べ、あるいは耳にした情報から思料して、弘毅はひとつだけ確信めいたものを持っている。

「彼の行動は、計算以外にない」

今さら、偶然などありえない――そう考えるからこそ、弘毅は目の前の男の三文芝居に腹を立てた。

ナーヴ 弘毅 ああ、本当に奇跡のようだ。出来すぎなくらいの確率だろうさ。
というわけで、オレがここで商いをしていること――本当は知ってたんだよな? ガッキー君。
蠣崎 まさか!
だってヒロ兄は家業を継いでるもんだと思うよ、ふつうはー。
蠣崎 でもイタリア料理とは意外だなー。
ヤマカドなら唯一無二のタコカラかとー。……あ、でもあれはもうダメか。
蠣崎 とにかく。再開できたことを、ボクはうれしく思うよー。
これから旧交を温められるかと思うと、ボク、わくわくするさー。
蠣崎 そうだ!

と言うと、蠣崎は懐から洋型の封筒を取り出し、弘毅に渡そうとした。

蠣崎 オープンの前に、限られた人間だけで内覧をやるんだよー。
よかったら、ヒロ兄も来てくれないか。チケット、2枚入ってるからー。その薬指……ん、そうだね。幸せそうだ。奥様とぜひ!
蠣崎 同業者、いや旧友として、忌憚なき批評を聞かせてくれたらうれしいんだー。

「そんな暇ないよ」

と弘毅が受け取りを拒んでいると、蠣崎は「他の誰かにあげてもいいし、捨ててくれてもいい」と言って弘毅に強引に押しつけた。そして蠣崎は、手を振りつつ、

蠣崎 それじゃ、来てくれるのを待ってるよー。

と言ってから、踵を返す。が、束の間、

蠣崎 あ、そうそう。

と嘆息して振り返ると、弘毅に向かって言った。

蠣崎 そういやボクは、ヒロ兄のもとではたらく未来を想像したっけ。
蠣崎 大人って素晴らしいなー。想像を超える未来だって、手に入れられるんだから。
ナーヴ 弘毅 ――!!
蠣崎 …というわけで、マジに、待ってる。

蠣崎は一度にこりと微笑んで、ナーヴから去っていった。

事務室では―――。
モニタを通して一部始終を聞いていた優里が、目をしばたかせながら、晴花に質した。

ナーヴ 優里 あのさ―――晴花。
このふたりは、知り合い………ってこと、なのね?
晴花 あ。ええと、まぁ。
本当のところは、私もよくは知らないんだ。そこんとこ、弘毅さんから教えてもらおうよ。

しばらくして、愁然とした顔をした弘毅が事務室にやってきた。

弘毅は、にわかに優里の右肩に左手をのせると、

「結局、ここに至るまで、自分じゃ決断できなかった。最初から、わかっていたのに」

と言った。

ナーヴ 弘毅 1%でありながら、そこはかとなく重かった心の残滓が、今日の今日まで、自分ではどうしても除けきれなかった。
ナーヴ 弘毅 結局、彼自身がそれを除けにやって来るまで待ってしまった。…オレは昔とちっとも変わらない。
ナーヴ 弘毅 本当に、ここぞというときに、いつも自分を見失ってしまう。

つづけて晴花に向きなおると、弘毅は言う。

ナーヴ 弘毅 日南さん。強者気取りの自分が、今さら優里に弱いところを見せられまいと、ひとりで抱え込んだ結果、このありさまさ。
ナーヴ 弘毅 オレは優里にたすけられてこそ、ここまで来られた人間だ。それ以上の人間では決してないと、今、彼にあらためて突き付けられた思いだよ。口惜しいけど、瞬発力では、あの彼らに敵うとも思えない。
ナーヴ 弘毅 だからこそ、知る限りのすべてをお話ししたいと思う。今からでも遅くなければ、力を貸すに値する話なのか、今一度、考えてみてくれないだろうか。
2月下旬 20:00
商店街・おでん屋台

その日の夜。


仕事をおえた綾子と晴花は、屋台村のおでん屋台にいた。

晴花 ………正直、BR(符丁:商売仇=蠣崎のこと)が闖入してくるとは思いもしなかったし。タイミングだとは思うけど、私……嗅ぎつけられたんじゃないかって、マジ、心臓が飛び出るかと思うくらい、ドキドキしながらモニタ見てた。
綾子 それで、実物のBRさんはどうだったんですか? 姿、見たんですよね?
晴花 あー、それ。なんかけっこうイケてる人かも。ずっと陽の元を歩み続けてきたような、キラキラしたオーラがあったというか。
晴花 それだけに、すえ恐ろしさみたいなものを感じるよ。
綾子 なるなるー。それで、肝心の真相、教えてくださいよ。
CL(符丁:依頼人=弘毅のこと)さんとBRさんのつながり。
晴花 ああ、ええと………BRのお父さん、例の旅館の料理長、やってたんだって。
晴花 盛況だったころ、旅館傍に従業員舎があったらしくさ。一家は、そこで住み込みで生活していたみたい。
綾子 …と、いうことは、CLさんと同じ屋根の下で少年時代を過ごしたようなもんですね。つまり、CLさんとは、お友達?
晴花 いや。ちょっと違う。年長のCLと年下のBRだから、兄弟みたいな関係だったと言ってたよ。
晴花 CLは自分で言うところ、地味で、消極的で、何をやらしてもダメといった感じの気の弱い少年だったと。田舎の学校らしい小さなクラスにもかかわらず、皆とかかわることが苦手で、空気のような存在だったとか。
晴花 そんな中、BRだけは接し方が別だったようで。BRは「ぼくもいつか兄ちゃんのもとではたらくんだ」と慕ってくれたと。
晴花 そんな関係が、あるときを境に崩れた。
綾子 ……それは?
晴花 料理長が、あの店を “辞めた” とき。
晴花 料理長………働き盛りの真っ只中という頃に、不幸にもがんを患ってしまったというんだ。
晴花 当時の医療の水準じゃ、まだ予後が芳しくない種類のそれだったようで。でも、CLの父親――つまり、当時の旅館の経営者は活況だったことも手伝って、寛容に彼を待ったと。そして料理長は、2年にわたる闘病生活の末、奇跡的に職場復帰を果たすことができたんだって。
晴花 でも、現実は甘くはなかった。
長きにわたる闘病生活は、料理長のQoLを著しく低下させてしまっていたんだ。以前は、何の気なしにできていたことが、もう、できない。おまけに、気力がつづかない。当然、厨房の一切を仕切ることなんて無理。
晴花 …そんなことを理由に、店は料理長を雑務へと配置換えしたというんだ。
晴花 でも悲惨なことに、料理長の身体は、その “雑務” さえも耐えかねた。後遺症に、さいなまれたと。CLは、業務用階段の陰で人知れず涙するBRの父親の姿を、何度も見たことがあると言ってたよ。
晴花 そんななか、店の傾斜が始まった。経営者は余剰人員の整理を企画し、件のBRの父親は、対象者として真っ先に “退職勧奨” を通知され、受諾したというんだ。
晴花 それが、実のともなった「退職勧奨」なのか、名ばかりの「退職勧奨」なのか、こどもの頃のCLにはわからない………。
晴花 ハッキリと言えることは、ちょうどこのときから、CLとBRの関係もプッツリと切れたこと。
晴花 「おとなたちが争いごとをしている」
晴花 ――そんな空気を感じ取ってから、CLはBRと普通に接することができなくなった。ふと、ことばことばに悪意に満ちた感情を穿ってしまう。そして、感情のやり取りといったものが、ただ、おそろしくてたまらなくなる。
晴花 ふたりの亀裂は、そんなふうに成長してしまったというんだ。
晴花 そして中学に入るころには、ことばを交わすこともなくなった。それからすぐ、BRはどこかへ転校していってしまったと。
綾子 そっかー。
お互いに、大きな傷を刻みましたね。
晴花 ……だろうね。んでもって、今回の騒動さ。
CLは、例の洋館の情報収集のために目を通したてた求人情報誌で、忘れもしないBRの名前を、はるかな年月を隔てて再び目にすることになる。
晴花 偶然? いや、誰だってそんなんありえないと思うよね。CLは必然的に、悪い意味での可能性にブチ当たる。
晴花 “恨み”
綾子
晴花 だとすれば、なぜ今さら―――。
晴花 往時のBRの父親の状態を鑑みるに、その後の生活で経た苦労は想像するに火を見るより明らか。CLは、そのきっかけの場となったヤマカドへの逆恨みだと考えたんだ。
晴花 対立や争いごとといった、面倒が苦手な性分のCLは、人――ましてや、それが少年時代の弟分から嫌われると来て、精神的に大きなダメージを受けた。
晴花 以来、CLの心をそれが悩ます。
とばっちり、理不尽。
晴花 自分は誰にも迷惑をかけない代わりに面倒なことにも邪魔されず、ただ “すき” を仕事に1段1段コツコツと登っていきたいだけなのに。
晴花 思わぬところで、その階段から突き落とされてしまった。
晴花 …でも、優里の才能に助けられてやってこられたことを理解するCLは、退勢に入ればなおさら自分を試される。今や、弱さなぞ見せられなくなっていた。
晴花 さて、混乱さ。ひとたびパニックを起こせば、CLには優里のように何をすればいいのかがわからない。どう動くのが最善か、考えるほどに深みにはまる。いろいろな感情が波状的にやってきて、やがて心が悲鳴を上げる。
晴花 そしてCLは、心の均衡を取り戻すため、別の可能性を移入しはじめた。
晴花 同じ屋根の下、昔は自分を慕ってくれた。
対立、ではなく、何か特別な理由があってのことかもしれない――と。
晴花 いや、CLもわかってはいるんだ。そんなハズもないことを。それでも、自身がネグレクトを肯定するにはこれ以上きまりのいい理由はなかったんだ。
晴花 そして今日、CLはBRによって、心に棲まわせてきた1%の可能性を放出せざるをえない状況に直面させられるんだ。
晴花 CLは明鏡止水の境地に至ってようやく悟った。自分だけでは “負ける” と。
晴花 それからのCLは、ホント、別人のようだったよ。
晴花 結局、弱さはどこかで自らが打ち砕く以外に解決する術がない。そのために力を貸してほしい、助力を乞うに値する人たちは、優里が信頼を寄せるあなたたちしかいない――と、申し出てくれたんだ。
綾子 …っていうか、それはそれで切迫してきましたねー。晴花さん、内に外に気を抜けませんよ。安堂さんはともかく、社長は思わぬ行動をとりかねませんし。
晴花 だぁーよーねー。
うちの会社も、結局は自分のことしか大事じゃないわけだし、真摯な申し出が逆に心にズシリと来たよ。え、私、ヤバくね?……って内心。
晴花 まったく、善とか悪とか。こう、スッキリと割り切れる世の中だったら、ここでちびちびとグチなんて吐いてない、か。
晴花 とにかく、仕事としてはこれでやっと望んだところのスタートラインに立てたことだし。
晴花 しばらくは、むずかしいこと考えないで、パリピでいきますか。
綾子 ここで? おでん屋さんですよ?
晴花 ん、もう!
それがむずかしいことだっちゅーの!
綾子 せめてどこか……そうだ、ならフルーティーサワーに行きません?
晴花 ん、よいよ。
じゃ、そろそろここ切り上げよっか。
綾子 その前に晴花さん……安堂さんには報告、入れました?
今日の件、ここに来る前クラウドのぞいた時、まだ上がってなかったようなので。
晴花 んー、仕事の話はいいよぉ。当分。
なんか、疲れた。
綾子 わかります……けど、ですよ。
早く入れといたほうがよくないですか、こればっかりは。知らずに社長、勝手やられたらまずくないです?
晴花 んんッ!?
綾子 それに……昨日は貴重な持ち出しも……ねぇ…察し。
晴花 んッ――たしかに、堂々と、請求、しても、バチ、あたらないなっ!
晴花 よしっ! すいすいーっと3分で仕上げるよ。
待っててにゃ―――!

同じ頃。


安堂は、駅の東の賑わいの中を歩いていた。

乾いた風に逆らいながら、高層ビルの街を往く。

そして、隘路を折れて、くすんだ色をしたビルの地下への階段を、一歩ずつ、踏みしめて降りた。

古めかしいランタンに揺れる淡いオレンジの光で照らされた、背の低いウッドドアを目前にしたとき、安堂のスマホが震えた。

安堂は、立ち止まったままコートの右ポケットからスマホを取り出した。かじかんだ手で、ロックを外す。


安堂は画面を覗くと、存在する限りの、と修飾を加えても不自然でないほどに、表情筋をいっせいに緩めた。


安堂は、ふたたびポケットにスマホを戻すと、まっくろなドアを押した。

カウンター越しに見える幾多もの澄んだグラスが、ダウンライトの照り返しとバーテンダーの影に揺れ、光彩をつくる。その小さな店は、星空のような艶美なかがやきを満たしていた。

安堂は、カウンターの一角に、ひとりの女性の後ろ姿を見た。

そのすぐ側まで、安堂は近づいた。彼女の肩越しに、汗をかいたコリンズグラスに半分ほどの、ウイスキーソーダが見える。


(待たせたみたいだ)


安堂はにこりと笑って、女性の隣のハイスツールに腰を下ろした。

「しばらくぶり。 ―――――と、言うのが正解なんかな」

[Chapter5] Finished.

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