選別の夜
- §1断罪の朝礼
- §2汚された聖域
- §3処刑台のスコア
- §4反逆の図面
- §5深夜の共犯者
「私たちは、家族だと思っていた」
朝礼の壇上、鏑木社長は潤んだ瞳でそう言った。手元には、使い古された——ように演出された——ブランド物のハンカチ。彼はわずかに声を震わせ、社員一人ひとりと視線を合わせる。その「名演」に、フロアの空気は葬儀場のような重苦しさに包まれていた。
日南晴花は、部屋の隅で無表情にその光景を眺めていた。脳内では、鏑木が先ほどから並べている「未曾有の不況」と「赤字転落」というキーワードを、先月の帳簿データと照らし合わせて高速でシミュレーションしている。営業利益、前月比プラス三・二パーセント。
「……苦渋の決断だ。だが、この船を沈ませないために、私は鬼になる。まず、営業部門と現場から、徹底した適正化を行う」
フロアに短い悲鳴のような溜息が漏れた。鏑木はそこで言葉を切り、視線を事務部門の晴花と綾子へ向けた。その瞳に、一瞬だけ「捕食者」の光が宿る。
「日南、寺畠。お前たち事務部門は、私の『目』であり『手』だ。誰を残し、誰を捨てるか……その公平な選別を託したい。期待しているぞ」
「え……あ、はい」
二十歳の寺畠綾子が、震える声で答えた。彼女の顔には、恐怖と同時に、自分たちは選ばれたのだという微かな安堵が浮かんでいる。
鏑木が去った後、フロアには毒ガスを撒かれたような静寂が残った。かつての仲間たちが、今は「選別される獲物」として、事務員の二人に怯え、あるいは縋るような視線を送ってくる。
晴花は独り、自分のデスクに座った。キーボードの隙間に溜まった僅かな埃を、ひととき見つめる。
(……ここまでか)
重たい運指でパスワードを打った。
封印していた解析ツールが、静かに立ち上がる。画面に浮かぶのは、美しい数値の羅列。それは、「高卒の事務員」にはまず扱えないであろう、真実を暴くための「劇薬」だった。
「晴花さん……私たち、助かったんですよね?社長、私たちのことは信じてるって……」
デスクに戻るなり、綾子が縋るような声で言った。
晴花は答えず、無機質なExcelのシートを開いた。隣から飛んでくる、刺すような同僚たちの視線。かつての親愛が、今は別の何かに変わってオフィスに漂っている。
内線が鳴った。鏑木からだ。
社長室のデスクに、一冊の本が置かれていた。真新しい、ビジネス書。
『不況を勝機に変える、進藤式・即断マーケティング』
表紙に、笑顔がある。完璧にレタッチされた、見覚えのある笑顔。晴花の視界が、一瞬、白く明滅した。
「数字は、残酷なほど公平だ。そう思わないか、日南」
鏑木はその表紙を撫でながら言った。アンチアカデミアを自称する男とは思えない、心酔した手つきで。
「現場の人間は、理屈を聞かされれば眠くなる。だが『お前のスコアはこれだ』と叩きつければ、誰だって納得せざるを得ない。進藤先生のこの即断スコアリング・メソッドは、経営者のための究極の武器だ。お前たちには、このモデルに従って全社員の数値を叩き出してもらう」
「……これを、私たちが入力するのですか」
晴花の声は、自分でも驚くほど冷たく、平坦だった。
「その通りだ。総務部の端末には全社員の営業成績と勤怠データが入っている。お前たちはただ、このメソッドに流し込めばいい。数字の低い者から順に、この船を降りてもらうためのチケットを配るんだ。ミスは許さんぞ」
隣で、綾子が必死に頷いている。
メソッドの計算式を最後まで追って、晴花は気づいていた。数式に、小さな、しかし致命的な罠があることを。
晴花は深く頭を下げた。
「かしこまりました。……精一杯、務めさせていただきます、社長」
オフィスに流れる時間は、粘りつくような嫌な重さを含んでいた。
誰もが自分のモニターに顔を埋め、隣の人間と視線を合わせることを避けている。キーボードを叩く音だけが、まるで秒読みの音のようにフロアに響いていた。
「……よかった。私たちだけは社長に味方だって思ってもらえてるんですよね」
綾子は憑かれたように、鏑木から渡された進藤式メソッドに営業部員のデータを入力していく。
「数字は嘘をつかないって社長は言いました。だから私情を挟まなければ、恨まれる筋合いもない……。そうですよね?」
「……そうだね、綾っち。数字は嘘をつかないよ」
晴花は画面から目を離さずに答えた。
進藤の式は、新規顧客の獲得数と短期的な利益率だけを正義とする。既存顧客との信頼関係、若手の育成——そうした変数はすべて「ノイズ」として切り捨てられていた。そしてこの計算モデルを回し続ければ、いずれは管理部門も等しく弾き出される。綾子はまだ、自分たちが自分たちを処刑するための計算をしていることに気づいていない。
「……晴花さん。では次、行きますね。えーと、佐々木さん」
綾子の指が止まった。
モニターに、赤が灯った。
「……えっ?嘘、何で……?佐々木さん、あんなに頑張ってるのに」
その時だった。
「おーい、二人とも。根詰めてるね。ほら、珍しいお饅頭が手に入ったから」
ひょっこりと、佐々木が顔を出した。いつもの、皺の寄った優しい笑顔。
「社長から厳しいこと言われてるんだろ?甘いものでも食べて、あんまり無理しないで」
綾子が息を呑み、慌てて画面を隠した。
「いいんだよ、隠さなくても。僕の数字なんてきっと大したことないしね。いいんだ、会社が生き残るためなら」
佐々木が去った後、綾子はデスクに顔を伏せた。声を殺して泣いている。小さな肩が小刻みに震えている。
フロアの向こう、社長室のガラス越しに、鏑木がその様子を眺めていた。
晴花はマウスを握り、密かに立ち上げていた独自の解析ソフトを走らせた。
「……綾っち」
「……ひっ、……何、晴花さん」
「手伝って」
残されたのは、低く唸るサーバーの排気音と、二人の吐息だけだった。
デスクの隅に置かれた饅頭は、包装紙の中で静かに冷え切っている。それは、間もなく「不要品」としてシュレッダーにかけられるかもしれない男の、最後の真心だった。
「……晴花さん。何、してるんですか?」
綾子が重い頭を上げた。その瞼は赤く腫れ、疲弊が滲んでいる。
晴花は答えなかった。私物のUSBから展開した黒い画面に、猛烈な勢いで文字列を流し込んでいく。事務員を演じるために封印していた、商学Ph.D.としての真の「言語」で。
「進藤昌のメソッドは、リサーチじゃない。願望を数値化した詐欺の台本だよ、綾っち」
タイピングの音が変わっていた。単調な入力作業のそれではない。因果関係を解き明かし、欺瞞を射抜くための、リズミカルで暴力的な連打だ。
「見て。これが鏑木社長があなたに信じ込ませている『特権』の正体だよ」
エンターキーを叩くと、モニターに複雑なグラフが浮かび上がった。D3.jsによって描画された、進藤式が切り捨てた変数の連なり。
「進藤の式は短期的な利益率だけを肥大化させている。でも最後まで走らせてみて。ほら、ここ」
晴花がマウスを滑らせると、グラフの終端が奈落へ向かって垂直に落下した。
「直接利益を生まないコストを徹底的に排除するように組まれてる。今は現場がターゲットだけど、掃除が終われば次はどこだと思う?」
「……私たち、ですか」
「そう。佐々木さんが大切にしてきた既存顧客の継続率——これを加味した真のLTVを再計算すると、この会社の利益の四十パーセントは、進藤が『無能』と切り捨てた彼らによって支えられてる」
綾子は立ち上がり、モニターに顔を近づけた。そこに映っているのは、無機質なグラフではない。自分たちが立っている足場が、音を立てて崩れていく図面だ。
「一瞬で出る答えが、いかに甘美で、いかに致命的か。……この『まがい物』の裏側に、本物の数字を埋め込むんだよ、綾っち」
夜のオフィス。青白いモニターの光の中で、晴花はもはや哀れな犠牲者ではなかった。聖域を汚した怪物たちを、自らの「子供」で狩り尽くそうとする、復讐の指揮者だった。
カタカタ、と乾いた打鍵音だけが、静まり返ったフロアに響く。
「晴花さん……これ、バレたら私たち、どうなるんですか?」
綾子のモニターには、晴花から共有された「真実のパラメータ」が不気味な脈動を伴って並んでいた。鏑木が命じた進藤式の入力フォームを完璧に装いながら、バックグラウンドで会社の十年先までのキャッシュフローを破壊的にシミュレーションする、晴花お手製の解析エンジンと直結している。
「数字は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつだって人間の方」
画面から目を離さずに、晴花は言った。
佐々木の既存顧客リストに、晴花は「信頼残高」という独自の指数を割り込ませていた。丁寧なアフターフォローが競合への流出をどれだけ食い止めているか。その変数を排除した瞬間の解約率が、赤く、どす黒く膨れ上がっていく。
「進藤の数式は短期利益だけを抽出する毒薬。鏑木社長はその毒を特効薬だと信じて、自分の会社に注射しようとしている。だから私たちはその結果を、彼が一番好きな形で見せてあげるだけ」
「……どういう形ですか?」
「佐々木さんをクビにした瞬間、主要クライアントが雪崩を打って離脱する未来を、彼の大好きな進藤式のフォーマットで完全に証明してあげるの。自分が信奉する理論で、自分の論理的退路が断たれる。……皮肉だよね」
晴花がマウスをカチリとクリックする。
禍々しいグラフが、進藤式・即断スコアレポートのフォーマットへと自動変換された。見た目は鏑木が愛読する本と同じ、シンプルで残酷な評価シート。だがその中身には、晴花が仕込んだ反逆の猛毒が致死量まで詰まっている。
「……できた」
晴花がふっと息を吐き、背もたれに体を預けた。
「晴花さん。……あなた、本当は何者なんですか?」
綾子が、畏怖の混じった視線で晴花を見つめていた。
晴花はデスクの隅で冷え切っていた饅頭を一つ手に取った。包装紙を剥がす音が、深夜の静寂を裂く。
「……ただの、数字オタクだよ。汚された数字を、得意の掃除で片づけに来ただけ」
一口齧る。驚くほど冷えた甘さ。
翌朝。
嵐の前の静けさを孕んだオフィスに、鏑木社長の軽い足音が響く。
彼はまだ知らない。自分のデスクに置かれた「完璧な査定結果」が、自分自身の王国を焼き尽くす時限爆弾であることを。
毒の証明
- §1完璧な計算書
- §2ノイズの記憶
- §3聖域の告白
- §4毒の杯
- §5反逆のプレゼンテーション
社長室には、エスプレッソマシンの立てる優雅な駆動音と、深煎り豆の芳醇な香りが漂っていた。
鏑木はオーダーメイドのスーツに身を包み、革張りのチェアに深く腰を下ろした。デスクの中央に、美しく製本された「即断スコアレポート」が静かに置かれている。
彼はゆっくりと表紙をめくった。
最初の数ページ、若手や成績不振者のスコアは予想通りの赤だった。鏑木は満足げに頷き、最大の標的である佐々木のページへ指を進める。
鏑木は目を疑った。
『佐々木を解雇した場合の、連鎖的LTV損失予測:-40%』
進藤式のロジックでそんな数値が出るはずがない。短期的な売上だけを抽出するはずの数式が、佐々木という人間を会社の心臓として評価し、彼を切り捨てれば主要クライアントが雪崩を打って離脱するという未来を、精密なグラフで描き出している。
血眼で数式を追った。どこにも破綻がない。進藤メソッドが意図的に切り捨てていた「既存顧客の信頼残高」という変数が、数式の中に組み込まれ、逆に進藤のロジックの欠陥を内部から食い破っていた。
「あの事務員に、こんな計算ができるはずがない……ッ!」
エスプレッソのカップが、デスクに叩きつけられた。琥珀色の液体が飛び散り、完璧なレポートの端を汚す。
内線を取った綾子が、ビクンと肩を震わせた。
「晴花さん……社長、すっごく怒ってます。殺される……私たち、絶対クビにされる……!」
晴花はゆっくりとPCの電源を落とした。
「大丈夫だよ、綾っち。あれは怒りじゃない。自分の足元が崩れ落ちる音を聞いて、パニックを起こしてるだけ」
立ち上がり、ブラウスのシワを軽く伸ばす。
「さあ、行こうか。本物の数字の重みを、教えてあげる時間だよ」
晴花の足音が、静まり返ったフロアにコツ、コツと響く。
綾子は怯えながらも、その後ろ姿に強烈な引力を感じ、操られるように立ち上がった。
重厚なオーク材のドアを開けた瞬間、足元に紙の束が叩きつけられた。
美しく製本されたはずのレポートが、無残にひしゃげて絨毯の上に散らばっている。
「……どういうつもりだ」
デスクの向こうで、鏑木が二人を睨みつけていた。慈愛に満ちた経営者の仮面は完全に剥がれ、元外資コンサルの素顔が剥き出しになっている。
綾子が晴花の背中に隠れた。
「誰が勝手な変数を加えろと言った。この佐々木の数字は何だ!LTVの損失予測マイナス四十パーセントだと?……進藤先生のメソッドをコケにしやがって」
「いえ、そんなつもりは。進藤式のロジックで、計算を最後まで走らせただけです。新規顧客の獲得コストは、既存顧客の維持コストの五倍かかります。佐々木さんが切り捨てられれば、彼が繋ぎ止めていた既存顧客のチェーンが連鎖的に崩壊する。その損失を組み込まずに短期利益だけを測るのは、リサーチではなく粉飾です」
「黙れ、高卒の事務員風情が……ッ!」
鏑木はネクタイを緩め、晴花を指差した。
「ビジネスにおいて、複雑な因果関係は意思決定を遅らせるだけの敵だ。佐々木のような人間が持つ泥臭い繋がりなど、数値化できないただのノイズに過ぎない」
ノイズ。
その単語が鏑木の口から吐き出された瞬間、晴花の視界がぐにゃりと歪んだ。
高級な香水の匂いと、楽屋に飾られた胡蝶蘭。
四年前。学部史上初の女性学部長として名を上げ、ワイドショーのコメンテーターとしても持て囃されていた進藤昌は、晴花の書き上げた論文を手に、完璧にレタッチされたような気品のある笑顔を浮かべていた。
『素晴らしいわ、日南ちゃん。あなたのこの理論は、きっとマーケティングの歴史を変えるわね』
『でもね、これは学術的には正しくても、テレビやビジネスの現場では複雑すぎるの。大衆や経営者が求めているのは真実じゃなくて、一瞬で白黒がつく劇薬なのよ』
『先生、でも……この変数を削れば、長期的なリスクを見落とすことになります。それは、現場の人々を切り捨てる欠陥品に——』
『世間にウケるためには、複雑なノイズは捨てるべきだわ。……日南ちゃん、専任のポスト、欲しかったわよね』
専任という言葉を餌に、晴花は馬車馬のようにこき使われ、数知れない共著という名の単独執筆を奪われてきた。晴花がその改悪を決定的に拒絶した翌週から、すべてが始まった。
根も葉もないスキャンダルが、巧妙に捏造された証拠とともに学内にばら撒かれた。進藤が調査委員会の席で涙ながらに愛弟子の裏切りを嘆く間、晴花は自分の生み出した理論を奪われたまま、社会から抹殺された。
狭いアパートのベッドで、天井の染みを数えながら死を待つしかなかった、あの一年間。
「……全体を生かすためには、不要なノイズを削ぎ落とす。それが経営の真髄だ。お前のような事務員に理解できる世界ではない」
鏑木の声で、晴花は現在に引き戻された。
「……ノイズ、ですか」
晴花の声は、低く、澄み切っていた。一歩、前に出る。
「鏑木社長。統計学における『過学習』という言葉をご存知ですか」
社長室の重いドアが閉まった直後。
廊下に出た綾子は、晴花の腕から自分の手を引き抜いた。
「……晴花さん、やっぱりおかしいですよ」
壁に背中を押し付け、過呼吸気味に肩を上下させながら、綾子は言った。
「あんなの、絶対クビにされます……!私、ただ普通の事務員として生き残りたかっただけなのに……ッ」
「ごめんね、綾っち。全部、私が勝手にやったって言っていいよ。……これからは少し、私から離れていた方がいい」
「晴花さんの……馬鹿」
綾子は涙を拭いながら、逃げるように給湯室へと駆け出していった。
晴花はその背中を静かに見送り、ふっと息を吐いた。
その日の終業後。
『ナーヴ』のカウンターに座った晴花の前に、赤ワインのグラスがコトリと置かれた。ガーリックとオリーブオイルの香ばしい匂いが漂う、こぢんまりとした店内。ここだけが、晴花にとって唯一呼吸ができる聖域だった。
「……で?ついに抜いちゃいけない伝家の宝刀を抜いちゃったわけだ」
優里が呆れたように言う。
「宝刀なんて高尚なもんじゃないよ。ありふれた、ただの、数字」
晴花はワインを一口飲み、自嘲気味に笑った。
「馬鹿みたいだよね。追放されて、療養して、やっと社会復帰しようとしたのに、どこも三十過ぎの商学Ph.D.なんて見向きもしなかった。何十枚目かの不採用通知を破り捨てた時に、もうどうでもよくなったんだ」
グラス越しに、店の外の夜の路地を見つめる。
「あそこを選んだ理由なんて何もない。この店に近くて、疲れた足でも歩いて来れる距離に求人があっただけ。……あんな場所に進藤の影が潜んでいるなんて、あの時は夢にも思わなかった」
「それが、ああしたモンスターに目をつけられちゃうんだから。本当に、計算できないところで悪運が強いわね」
優里がカウンター越しにグラスを磨きながら言う。
「『余計なものが邪魔なら、捨ててしまえ』って……あの時はただ、プツンと何かが切れただけなんだよ。なのに、逃げ込んだはずの場所に、私を壊した張本人の『まがい物』が蔓延っている。……運命って、本当に残酷で悪趣味だと思わない?」
優里はため息をつき、お通しのブルスケッタを差し出した。
「ま、あんたがキレるのも無理ないわ。で、メンツを丸潰れにされた社長さんは、今頃どう出てるか見物だね」
同じ頃、RS社の社長室。
「母さん!すぐ来るんだ!日南と寺畠の解雇通知を用意しろ!理由は命令違反だ!!」
鏑木がスマートフォンに怒鳴り散らしていた。
しばらくの後。ゆっくりと威厳のある声を響かせながら、社長室のドアを開けた人物がいた。
「……一体どういうことなの、和也」
和装に身を包んだ白髪の小柄な女性。RS社の株式の三割を握る非常勤役員、鏑木初江だ。
「その、日南の解雇。総務部長としては許可できません」
初江はデスクに投げ出されていた晴花のレポートを拾い上げ、細められた目でそのグラフを眺めた。
「口出しするのか!そいつは俺の計画に泥を塗った危険分子だ!」
「危険だからこそ、手元に置いておく価値があるのでしょう」
初江の鋭い視線が、息子を射抜いた。
「このレポートを作った人間は、ただの事務員ではありません。あの女の目には、私と同じ……すべてを奪われ、絶望の底を見た人間特有の『影』があります。あの凄み、そこらの温室育ちの男には出せませんよ」
「影だの感情論は不要だ!第一、あいつは……」
「和也。あなたはあの女の数字に反論できなかった。だから権力で押し潰そうとしている。違いますか?」
鏑木は口を噤んだ。
「本当に会社を再建したいなら、耳の痛い真実を突きつけてくる毒薬を飼い慣らしてみせなさい。……あの女、面白いわ」
初江はレポートをデスクに戻し、不敵に笑った。
鏑木は、ぐっと奥歯を噛み締めることしかできなかった。
翌朝のオフィスは、昨日までとは異なる、ざらついた熱を帯びていた。
鏑木が晴花に「論破」されたという噂が、見えない粉塵のようにフロアを舞っている。
「……おはようございます、晴花さん」
綾子が消え入りそうな声で挨拶した。その瞳には、昨夜の拒絶への後悔と、拭いきれない恐怖が入り混じっている。
「おはよう、綾っち」
晴花はいつも通りの、平穏な声で返した。
その時、フロアの喧騒が水の引くように止まった。
社長室のドアが開き、鏑木が姿を現した。その背後に、昨日は会社にいなかったはずの小柄な老婦人——初江が、影のように寄り添っている。鏑木の顔からは「役者」の余裕が消え、剥き出しの憎悪が晴花に固定されていた。
「日南。社長室へ来い。……寺畠、お前もだ」
二人が入室するなり、鏑木はデスクに書類を叩きつけた。
「昨日のデータだがな……あれがお前の空論であることを、お前自身の手で証明してもらう」
晴花が書類に目を落とす。それは、来週開催される「第1回リストラ実行委員会」の招集通知だった。
「総務部長の推薦だ。お前を、この委員会のテクニカル・アドバイザーに任命する。進藤先生の数式と、お前の言う真実の数字、どちらが正しいか——全社員の目の前で、一人ずつ査定して見せろ」
鏑木の口角が、歪に吊り上がった。
アドバイザーとは名ばかりの、処刑人。救おうとした佐々木を含む全同僚の顔を見ながら、その首に刃を当てるロジックを紡げという命令だ。
「できないとは言わせないわよ、日南さん」
後ろで控えていた初江が、鈴を転がすような声で言った。その細められた瞳が、晴花の奥底を楽しそうに覗いている。
「社長はあなたの数字が偽物だと信じているの。でも、もしあなたが本物なら……この会社に巣食う本物の無能を、そのグラフで炙り出してみせなさい」
綾子が晴花の袖を握った。震えている。
晴花は書類を手に取った。その指先に、迷いはない。
「承知いたしました、総務部長。……社長」
鏑木を、冷徹な瞳で見据える。
「数字には感情はありません。私が描くのは、あくまで事実の図面です。その図面を見て、誰が自分の首を絞めているか——どうぞ、楽しみにしていてください」
「ふん、言わせておけ」
社長室を出る直前、晴花は初江と視線が重なった。
初江はわずかに頷き、その紅い唇に笑みを浮かべた。歪な、しかし本物の共感だった。
廊下に出ると、窓から朝の光が差し込んでいた。
晴花は少し目を細めた。
脳内で、Pythonのコードが、D3.jsの軌跡が、音を立てて構築されていく。
RS社最大の会議室は、百名近い全社員の熱気と、凍りつくような緊張感で満たされていた。
鏑木はマイクを握りしめ、いつもの「苦渋の決断を下す悲劇のリーダー」の顔を作っていた。
「……皆には、辛い現実を突きつけることになる。これから、テクニカル・アドバイザーの日南から、皆の客観的なスコアを発表してもらう」
全社員の視線が、会議室の片隅から立ち上がった晴花に一斉に突き刺さる。剥き出しの敵意と恐怖。最前列の佐々木でさえ、不安げに目を伏せている。綾子は部屋の隅で今にも泣き出しそうに震えていた。
来賓席の初江だけが、扇子の奥で静かに目を細めていた。
晴花は演台の前に立ち、PCをプロジェクターに接続した。
「本日は皆様個人の査定を発表する前に、まず一つだけ、別の査定を行わせていただきました」
エンターキーを叩く。
スクリーンに映し出されたのは、社員のリストでも、Excelの表でもなかった。画面の左から右へ、何本もの川が合流し分岐していくような巨大な図——データの流量を線の太さで視覚化した、サンキーダイアグラムだった。
「なっ……個人のスコアを出せと言ったはずだ!」
鏑木が低く怒鳴るが、晴花は無視した。
「これは、進藤式メソッドが導入されてからの、利益とコストの真の流れです」
レーザーポインターで、画面左側の太い青線を指し示す。
「左端の最も太い青線が、現場の皆さんが稼ぎ出した売上です。しかし右の最終利益に向かうにつれ、線が異常なまでに細くなっている。皆さんの努力は、途中の赤い分岐線によって、会社の外へ捨てられているからです」
ざわめきが起きた。社員たちが身を乗り出してスクリーンを凝視する。
赤い分岐線には、ラベルが貼られていた。
『メソッド導入による強引な営業手法へのクレーム対応コスト:+300%』
『短期評価による若手の離職と再採用コスト:+150%』
『進藤昌氏へのメソッド使用料および外部コンサルティング費用:月額〇〇〇万円』
「この数式は、現場の人間を切り捨てることで見かけ上の数字を良くします。しかしその裏で、これだけの見えない負債を生み出している。つまり——」
晴花は、鏑木を真っ直ぐに見据えた。
「この会社で最も利益を食い潰しているノイズは、現場の皆さんではありません。社長がお持ち込みになった、この進藤メソッドそのものです」
水を打ったような静寂。
社員たちの目に宿っていた晴花への憎悪が、一瞬にして驚愕へ、そして鏑木への疑念へとスライドしていく。
「貴様ぁ……ッ!誰に向かって口を利いている!!」
鏑木が激昂し、立ち上がった。
「詭弁だ!出所不明のグラフで誤魔化せると思うな!いいから佐々木のスコアを出せ!進藤メソッドの計算上、奴が最下位の寄生虫であることは変わらんのだ!!」
「……現実、ですか」
晴花は小さく息を吐いた。
「では、進藤メソッドによる完璧な現実をお見せします」
スクリーンが切り替わった。
無数の点と線で構成された、プラネタリウムのような図——フォースダイアグラムだった。社員とクライアントの相関関係を表した生態系マップ。緑色の点が、強固な信頼関係を示している。
晴花はネットワークの中心近く、最も多くの線が繋がった一点を赤く光らせた。
「これが、佐々木さんです。では、進藤メソッドを適用し、佐々木さんをノイズとして削除してみましょう」
細い指が、Deleteキーを静かに押し込んだ。
——カチャッ。
赤い点が消えた。
次の瞬間、佐々木というハブを失ったことで、繋がっていた若手社員の点が一気に揺れ始め、緑から赤へと変色していく。大口クライアントの点から、プツン、プツンと繋がりが千切れ始めた。
『エラー:LTV喪失』
『エラー:連鎖的解約見込み』
赤く染まったノードが次々と画面外へ吹き飛ぶ。美しかった生態系は十数秒でズタズタに引き裂かれ、数個の孤立した点だけが残る焼け野原と化した。
誰かが、短い悲鳴を漏らした。
「これが、効率化の行き着く先です」
暗転したスクリーンの光を浴びながら、晴花は静かに宣告した。
「佐々木さんを切り捨てれば、この会社は三ヶ月以内に連鎖的な解約でキャッシュがショートします。……誰を捨てるか。その選別は、社長、あなたがご自身でなさってください」
圧倒的な沈黙が会議室を支配した。
社員たちの視線は、もはや晴花ではなく、完全に鏑木へと向いていた。
「あ、ああ……これは……!」
鏑木が後ずさりし、震える手でスクリーンを指差したが、言葉が出てこない。外資コンサルのプライドが、たった一人の事務員が構築したコードの前で、音を立てて崩れていく。
その隅で、初江だけが扇子で口元を隠しながら、押し殺した笑い声を漏らしていた。
晴花はPCを閉じた。
進藤昌のメソッドを、全社員の前で公の毒として証明した。やがてこれは、メディアの寵児である進藤の耳にも入る。後戻りはできない。
消された真実
- §1嵐のあとの凪
- §2招かれざる庇護者
- §3消されたコントロールグループ
- §4逆行列の告発
- §5完璧な防壁(ハニーポット)
あの「公開処刑」から数日が過ぎた。
RS社のオフィスは、表面上だけなら驚くほど平穏を取り戻していた。朝の挨拶が交わされ、電話が鳴り、複合機が規則的に書類を吐き出す。
晴花が給湯室へ向かうために席を立つと、談笑していた社員たちが一瞬だけ口を噤み、視線を泳がせる。彼女が通り過ぎた後、背中に刺さる好奇と畏怖の混じった視線。
晴花はコーヒーを淹れ、デスクへ戻った。
牙を見せた瞬間、もう二度と事務員には戻れない。その痛みは、誰にも見せないように深く沈めたまま、静かに自分を削り続けていた。
「……綾っち、そんなに肩をいからせてたら、綾っちの愛嬌が台無しだぞ」
Excelと格闘していた綾子が、弾かれたように顔を上げた。その瞳には、圧倒的な畏怖と、「この人に見捨てられたくない」という必死さが滲んでいる。
「ごめんなさい、私……また集計が合わなくて。私、やっぱりダメなのかな……」
「そんなことない。綾っちは、私よりずっと丁寧に現場の声を拾えるじゃない」
晴花は椅子を滑らせ、綾子の隣に寄り添った。ふわりと、落ち着いた香りが綾子を包む。
「ねえ、もしよかったら、この顧客リストのクレンジング、手伝ってくれない?前に話したVLOOKUPの練習にちょうどいいと思うんだ。……綾っちに手伝ってもらえると、めっちゃ助かるんだけどな」
「えっ……!晴花さんのお手伝い、ですか?」
沈んでいた綾子の顔に、光が差した。
「はい!何でもこいと!」
「ありがとう、マジ最高」
晴花は優しく綾子の肩を叩き、データを転送した。
綾子はまだ知らない。自分が「助けてあげている」と信じて打ち込んでいる数字が、晴花が次に構築する防壁の最も重要な基礎データであることを。
「日南さん、ちょっといいかな」
佐々木が立っていた。いつもの皺の寄った笑顔。その手に、老舗の和菓子の包みがある。
「あの後、クライアントの何社かから電話があったんだ。『君が辞めるって噂を聞いて心配したよ』って。日南さんが見せてくれたあの図面の通りだった。……僕がここにいられるのは、君のおかげだ」
佐々木はそっと、晴花のデスクに包みを置いた。
「これ、君と寺畠さんで食べて。……君の力、きっといつかこの会社を本当の意味で救うことになると思うんだ。僕は難しいことはわからないけど、それだけはわかるよ」
佐々木が去った後、晴花は包みをじっと見つめた。
彼のような善意は、進藤昌や鏑木のロジックでは「コスト」として切り捨てられるものだ。だが、この手に伝わる温かな重みこそが、数字には現れない「真の価値」なのだと、晴花は静かに息を吐いた。
社長室。
デスクの上に、晴花が提示した崩壊するネットワーク図のプリントアウトが、まるで四隅をピンで留めたかのように整然と置かれている。鏑木は何時間も、無言でその図面を凝視していた。
変数の一つひとつ、線の太さの定義、データのサンプリング手法。そのすべてに、徹底した学術的な洗練が宿っている。その洗練の癖に、心当たりのある既視感があった。
進藤昌のメソッドに似ている。だが決定的に違う。進藤のそれが売るための整形外科だとすれば、この図面は真実を暴くための解剖刀だ。
鏑木はスマートフォンを手に取り、古くから知る民間の調査員の連絡先を呼び出した。
「……ああ、俺だ。調べてほしい人間がいる。名前は日南晴花。経歴は高卒の事務員だが、そんなわけがない。……特に、四年前のアカデミアの記録を洗え。進藤昌の周辺が臭う」
静まり返った社長室に、鏑木の声だけが響いた。
その日の午後、エレベーターの扉が開き、和装に身を包んだ初江が現れた。
高齢を理由に滅多に出社しない彼女の登場に、フロアの空気が一瞬で凍りつく。社員たちは慌てて背筋を伸ばし、ディスプレイに向かうふりをしながら、その一挙手一投足を盗み見た。
初江は出迎えに駆け寄る管理職たちを扇子一つで制し、迷いのない足取りでフロアの奥へと進んでいく。
彼女が足を止めたのは、窓際の地味な事務デスクの前だった。
「……日南さん。ちょっといいかしら」
鈴を転がすような声。しかしその奥に、逆らえば切り捨てられるような重みが潜んでいた。
晴花が顔を上げると、初江は慈愛と毒を等分に混ぜたような微笑を浮かべていた。
「……部長。何かご用件でしょうか」
「いいお茶が手に入ったのよ。一人で飲むには少し寂しくてね。……付き合ってくれるわね?」
「……とおっしゃいましても、まだ作業が残っていまして」
「そんなものは寺畠さんにお願いすればいいじゃないの。あなたは今、この会社で最も価値のある仕事をしているのだから」
初江は綾子に視線を向けた。
「寺畠さん。日南さんの残りの仕事、引き受けてくれるわよね?」
「は、はい!喜んで!お任せされました!」
綾子は直立不動で、おかしな日本語になっていた。
晴花は小さくため息をつき、立ち上がった。社員の視線が背中に突き刺さる。
役員フロアの奥の応接室には、鏑木が苦虫を噛み潰したような顔で窓の外を眺めて立っていた。
「社長、お客様ですよ。ご挨拶くらいされたらどうです?」
「……母さん、あまり勝手な真似はしないでくれと言ったはずだ」
鏑木はようやく晴花を振り返った。その瞳の奥に、怒りより先に、わずかな恐怖が揺れていた。
「日南。……お前が母さんに何を吹き込んだかは知らんが」
「いえ。私は、部長にお茶をお誘いいただいただけの、ただの事務員ですから」
初江はそんな二人の火花を楽しむように、優雅な手つきで茶を淹れ始めた。
「和也。あなた、日南さんの背景を調べさせているそうね。……無駄なことはおやめなさい。今この会社を救えるのは彼女の数字だけ。進藤昌のメソッドに縋って溺れかけているあなたを、彼女が引き揚げてみせたとは考えられないの?」
鏑木の顔が、屈辱で赤に染まる。
「母さん、それは言い過ぎだ!彼女の数字が正しい保証などどこにも……」
「正しいかどうかは、あなたが一番よく知っているはず。……日南ちゃん、召し上がれ。このお茶はね、苦味が強いけれど、後味がとても清々しいの」
差し出された茶碗を、晴花は静かに受け取り、一口含んだ。
それは、かつて進藤昌に裏切られた時に味わった絶望の味に似ていた。
「社長。私はね、日南さんに総務部の特別顧問という席を用意したいと思っているの」
「なんだと!?」
「冗談はよしてください、部長」
晴花が、鏑木より先に言葉を被せた。
「私は今のまま、普通の事務員で結構です。……目立つ椅子に座れば、見えるはずの数字も見えなくなりますから」
初江は一瞬だけ目を見開き、そして楽しそうに笑い声を上げた。
「ふふ、面白いわ。……いいわ。ならそのままの席にいなさい。ただし、私の相談にはいつでも乗ってもらうわよ」
フロアへ戻ると、綾子が心配そうにこちらを伺っていた。
「……晴花さん、大丈夫でしたか?」
「大丈夫だよ、綾っち。それより、そっちのデータはどう?」
「あ、はい。言われた通り紐付けしたんですけど……この、2022年の第2四半期だけ、不自然に欠損データがあるんです。これ、私のミスかな……」
晴花の思考が止まった。
2022年。進藤昌がRS社と本格的にコンサル契約を結んだ時期だ。
「……綾っち、マジ!?ちょっとその画面、見せて」
晴花は綾子の隣に椅子を引き寄せ、キーボードに細い指を滑らせた。いつもの気怠げな事務員の瞳が、瞬時に研究者の刃へと切り替わる。その横顔の鋭さに、綾子は息を呑んだ。
「綾っち。この2022年の第2四半期って、全社システムが今のクラウドに移行した時期だよね」
「あ、はい。だから移行時のバグでデータが飛んだのかなって……」
「違う」
晴花は即答した。Excelのフィルターを解除し、生のCSVデータをエディタで開く。黒い背景に、緑色の文字列が滝のように流れていく。
「システム移行のバグなら、データはランダムに欠損する。でもこれは違う。特定の条件を満たす顧客の解約履歴だけが、ピンポイントで削り取られている」
「特定の、条件……?」
「進藤式メソッド導入前に、うちを見限って解約したクライアントのデータよ」
晴花の指が止まり、いくつかのIDがハイライトされる。
新しい薬やメソッドの効果を劇的に見せるにはどうするか。答えは単純だ。比較対象となる過去のデータを意図的に下げる。あるいは都合の悪い失敗を隠蔽し、「導入前はもっと悲惨だった」と錯覚させる。進藤昌はRS社にメソッドを売り込む際、過去の解約データを改ざんし、架空の成功ストーリーを作り上げていた。
「自分の手を汚さず、客のカルテを書き換えて名医を気取る。……相変わらず、吐き気がするほど効率的なやり方」
「晴花さん?カルテって……?」
晴花は深く息を吐いた。
この空白は、鏑木でさえ気づいていない進藤メソッドの根本的な詐称の証拠だ。これを復元できれば、進藤昌という教祖の足元を根底から崩せる。
「綾っち、ファインプレーかも。これ、私が引き取るから、今日の分の入力に戻っていいよ。本当に助かった」
「あ、はい!お役に立ててよかったです!」
綾子は少し赤くなって自分のディスプレイに向かった。
晴花は黒い画面に視線を戻し、復元プログラムを頭の中で組み始める。
その時、スマートフォンが短く振動した。
『あんたの過去を掘り起こした野良犬が、一匹うちに来てるよ』
優里からだった。
少し時間を遡る。
『ナーヴ』の重い木製のドアが開き、カウベルが低く鳴った。
カウンターでグラスを磨いていた優里は、入ってきた男を一瞥し、営業用の笑顔を貼り付けた。
仕立ての良いグレーのスーツ。ネクタイは緩み、靴は歩き込まれてすり減っている。ビジネスマンというより、獲物を探す猟犬のような空気を纏う初老の男だった。
「エスプレッソを一杯いただけるかな。……実は、人を探していましてね」
男は内ポケットから写真を取り出し、優里の前に滑らせた。無表情でオフィス街を歩く晴花の姿。望遠レンズで隠し撮りされたものだ。
「日南晴花さん。……ご存知ないですか?」
「さあ。毎日たくさんのお客さんがいらっしゃるので」
優里はグラスを磨く手を止めず、冷ややかに微笑んだ。
男は写真の横に古びた紙を広げた。四年前の大学の紀要のコピー。タイトルは『複雑系ネットワークを用いたLTVの変動予測モデル』。著者名に『日南晴花』『進藤昌』の文字。
優里の目が、一瞬だけ細められた。
「ネットの海ってのは厄介でしてね。進藤先生のような権力者が表層をいくら隠しても、CiNiiの奥底までは消しきれない。……雇い主は検索の一ページ目しか見ない御仁でしたが、プロが掘れば一発です」
男はエスプレッソを一口すすり、名刺を取り出した。肩書は『フリーランス・リサーチャー』。
「もし彼女を見かけたら、伝えておいてください。……あなたの過去は、もうとっくに暴かれている、とね」
男が出て行った後、優里は名刺をゴミ箱へ放り捨て、スマートフォンを取り出した。
送信完了の表示を見届け、再びグラスを磨き始める。
スマートフォンの画面が、デスクの隅でひっそりと暗転した。
晴花は端末をポケットに滑り込ませ、キーボードに指を戻した。
隣では、綾子が鼻歌まじりにVLOOKUPと格闘している。158センチの背中を丸め、楽しそうにキーボードを叩くその姿は、この殺伐としたオフィスで唯一の純粋なノイズだった。
「ねえ、綾っち。さっきの欠損データの件だけど。やっぱりこれ、システムエラーじゃないっぽい。この進藤式の数式そのものに、答えが隠されてる」
「えっ?数式に、ですか?」
晴花は綾子のディスプレイを引き寄せ、Pythonの実行環境を立ち上げた。周囲からは綾子にExcelを教えているようにしか見えない。だが画面の中で踊っているのは、行列演算の嵐だった。
「進藤メソッドはね、特定の入力に対し素晴らしい成果を返すブラックボックス。でも数学的にはただの関数よ。消されたデータそのものを復元する技術は私にはない。だけど、この不自然に整えられた結果という影を見れば、逆行列を使って本来そこにあるべきだった数字を推定できる」
晴花は、猛烈な勢いでコードを書き換えていく。
進藤昌がベースラインを操作するために削ぎ落とした不都合な変数。それらが消えたことで、統計モデルには必ず残差という歪みが生じる。晴花はその歪みを逆算し、消されたデータの輪郭を静かに浮かび上がらせていった。
「古典的な生存者バイアスだね。都合よく生き残った成功例だけを並べて、死体は全部隠してる」
「見て。この期間、進藤式では利益率が20%向上したことになってる。でもこの逆行列から導き出される本来の解約率は——今のデータの三倍。彼女は都合の悪い解約案件を、この空白の中にすべて葬り去ったの」
「……三倍!?それじゃ、このメソッド、全然魔法なんかじゃないじゃないですか」
「そう。魔法じゃなくて、ただの粉飾」
晴花は綾子に微笑みかけ、優しく肩を叩いた。
「悪いんだけど、これから少しの間だけ、私の後ろに立って資料を整理してるフリをしてくれない?誰かが来ても、私が何を見てるか隠してほしいんだ」
「あ、でも盾としては私、横幅は貧弱ですよ!」
「こいつめ」
綾子は晴花の背後をカバーするように動いた。
晴花は彼女の影に隠れながら、復元した真実のシミュレーションをRS社の全基幹システムと密かにリンクさせていく。
その時だった。
「——日南さん。少し、お耳を拝借してもよろしいかな」
背後から、低く湿り気を帯びた声が響いた。綾子がビクッと肩を震わせる。それでも彼女は、晴花の背中だけは守ろうとしていた。その理由は、自分でも説明できない。
そこにはグレーのスーツの男がいた。不気味なほど冷ややかな笑みを浮かべて。
オフィス全体の空気が、一瞬で凍りつく。
晴花はキーボードから指を離さず、首だけをゆっくりと巡らせた。
「……何かご用でしょうか。ご覧の通り、仕事が忙しいのですが」
「いや、失礼。……大学の研究室で、あなたが書き残した未完の論文について、少しお話を……」
男が懐から紀要のコピーを取り出そうとした、その瞬間。
「……綾っち、今さ。Enterを押して」
混乱した綾子の指が、言われるがままにキーボードを叩いた。
背後で、全社員のPCから一斉にシステム更新のアラートが鳴り響いた。
晴花はゆっくりと立ち上がり、男を見据えた。
「……お待たせしました。私の過去に、何かご用ですか?」
黒いターミナル画面に、緑色の文字列が滝のように流れ始めた。消されたデータを逆算する、逆行列のプロセス。
だが——次の瞬間。
文字列が、突如としてピタリと停止した。
『Error: Singular Matrix(特異行列エラー)』
『Warning: ZeroDivisionError』
「……えっ」
晴花の顔から、表情が抜け落ちた。
バグではない。コードのミスでもない。計算プロセスが、データの中に潜んでいた特異点に衝突し、自壊したのだ。
「……晴花さん?画面、止まっちゃいましたけど……」
綾子が不安そうに晴花の背中を見つめる。
(……カナリア変数……!)
晴花の背筋に、氷のような悪寒が走った。
進藤昌は最初から、誰かがこのメソッドを逆算して過去のデータを暴こうとすることを予測していた。だからデータ群の中に、計算を破綻させるダミーデータを一つだけ混ぜておいた。普段の表面的な集計では絶対に引っかからない。データの深層を逆算しようとした者だけが、その毒を飲み込むように設計された罠。
ピロン、と。
静まり返ったオフィスに、電子音が響いた。
鏑木の胸ポケットのスマートフォンだ。画面には『進藤コンサルティング・SaaS管理システム』からの自動警告メールが届いていた。
『貴社の内部ネットワーク(端末:総務部・日南)から、機密アルゴリズムへの不正なリバースエンジニアリングが試行されました。当規約に基づき、該当端末のアクセス権限を凍結します』
「おや。どうやら、あなたの魔法は不発に終わったようですね」
調査員の男が言った。
「あの方はね……自分の作った嘘に触れようとする者を、必ずこうして迎え撃つんですよ」
「……進藤、先生」
四年間封印していた名前が、晴花の口からこぼれ落ちた。
進藤昌は、ただの盗作者でも詐欺師でもない。自分のメソッドの脆弱性を誰よりも理解し、いつか必ず破滅させに来るであろう愛弟子の影に、四年間怯え続けていた。だから最初から、嘘を守るための仕組みをシステムに埋め込んでいた。
晴花が積み上げてきた反撃は、すべて進藤の掌の上だったということ。
「……晴花さん……どうしよう……」
綾子が震える声で袖を掴む。
晴花は答えなかった。
真紅の警告画面がフロア中のPCに次々と広がっていく。社員たちのざわめきが、恐怖と混乱の色を帯び始める。
「日南さん。あなたの過去については、こちらで詳しく伺いますよ」
調査員が懐から紀要のコピーを取り出した。晴花の名前と、進藤昌の名前が並んだ論文。その紙が、ゆっくりと晴花の視界に差し出される。
晴花は俯かなかった。
ゆっくりと顔を上げ、調査員を真っ直ぐに見据えた。
「……いいですよ。話しましょう。ただし——あなたが思っている日南晴花の話じゃない」
夕暮れのオフィスに、晴花の影が長く伸びた。その影は、もはや事務員のものではなかった。進藤昌という怪物に育てられ、そして捨てられた亡霊が、四年の時を経てようやく戦場に降り立った、その姿だった。
亡霊の逆襲
- §1チェックメイトの先
- §2深淵からの呼び声
- §3魔女の城
- §4取引の値段
- §5盤面破壊
「……私の過去に、何かご用ですか?」
晴花の声は、騒然とするオフィスの中で不思議なほど静かに響いた。
真紅のセキュリティ警告が、全社員のモニターを禍々しく染め上げている。
「母さん、見ろ。これがあなたの推していた女の正体だ」
鏑木が調査員から受け取った論文のコピーを、晴花の足元へ投げ捨てた。
「高卒どころか、教え子と不純な関係を結んで大学を追放された不埒もの。その上、我が社のシステムを破壊しようとした。日南、お前はもう終わりだ。懲戒解雇、いや温い、損害を賠償してしかるべし」
「晴花さんは、そんな人じゃありません!」
綾子が鏑木と晴花の間に割って入った。小さな体が、怒りに震えている。
「このデータだって、会社を良くしようとして……!」
「どけ、寺畠!お前も共犯として処罰されたいのか!」
鏑木が綾子を払いのけようとした瞬間、晴花の腕が静かに綾子の肩を引き寄せた。
「いいよ、綾っち。下がってて」
晴花は足元に散らばった論文のコピーを、一瞥すらしなかった。
ゆっくりと顔を上げ、調査員と鏑木を見据える。
「社長。一つ、反論をさせてください」
「この期に及んで往生際が悪いとは」
「あなたがその男に調べさせた私の過去。……それは、進藤昌が書き上げた脚本に過ぎません。四年前、私は彼女の盗作を告発しようとし、逆に捏造されたスキャンダルによって葬られた。」
晴花は一歩、前に出た。
「ですが、そんなことはあなたには関係ないこと。進藤昌が、なぜ私の逆行列をこれほどまでに恐れ、専用の罠まで用意して待ち構えていたか。……その理由をお考えになったことは?」
鏑木がわずかに眉をひそめた。調査員の男も、薄笑いを消して晴花を注視する。
「社長。先ほどあなたのスマートフォンに届いた警告メールですが、それは『セキュリティシステムからの不正アクセス通知』ではありません。ただの『システムエラーによる保守通知』です」
「……何を言っている。規約に基づき凍結すると書いてあるだろう!」
「ええ。システムに致命的なエラーを発生させたから、安全装置が作動したんです。……私のコンソールのログを見てください」
晴花は自分のモニターを鏑木たちの方へ向けた。
『Error: Singular Matrix(特異行列エラー)』
『Warning: ZeroDivisionError(ゼロ除算警告)』
「現実の複雑なビジネスデータにおいて、計算の分母が完全に『ゼロ』になるような完璧な相関など、自然界では絶対に起こり得ません。これは意図的に仕込まれたダミー変数……過去の解約データを隠蔽し、私のように逆算で真実を暴こうとした計算機だけを確実にクラッシュさせるための、数学的な地雷です」
「な、何をデタラメをッ!」
「デタラメかどうかは、少しでも統計をかじった人間ならこのログを見れば一目でわかります。彼女のメソッドは、ただの過学習を起こした欠陥品。それを隠すために、彼女はこの会社の顧客データに、計算を破綻させる『毒』を混ぜたんです」
鏑木が弾かれたように自分のデスクへ駆け戻り、手元のタブレットでエラーのログを凝視した。外資コンサル出身の彼の顔が、みるみる青ざめていく。
「彼女は自分の知的財産を守ったのではありません。嘘がバレるのを恐れて、真実に繋がる橋に爆弾を仕掛けていた。……今鳴ったアラートは、私を捕まえるための網じゃない。進藤昌のメソッドが偽物であると証明された瞬間の、無様なSOSの音なんです」
鏑木の顔から、急速に血の気が引いていく。調査員の男が、舌打ちをしてタブレットを閉じた。
その騒乱の中で、初江だけがゆっくりと立ち上がった。
「……面白いわ、日南さん。チェックメイトをかけられた盤面を、盤ごとひっくり返すつもりね」
晴花は初江に向かって、わずかに口角を上げた。
「チェックメイトじゃありません。……再計算ですよ、総務部長」
晴花は背後で震える綾子の手を、強く握り締めた。
進藤昌の罠に嵌まり、過去を暴かれた。だが、その罠そのものが、進藤自身が四年間必死に隠し続けてきた最大の「毒」を白日の下に晒す、揺るぎない数学的証明となった。
亡霊の逆襲は、ここからが本番だった。
嵐のような一夜が明け、RS社のオフィスは異様な静寂に包まれていた。
社員たちはキーボードを叩きながらも、時折、総務部のデスクに座る「あの事務員」を盗み見る。昨日、彼らが目撃したのは、ただの反抗ではない。圧倒的な論理によって、会社が絶対視していた「教典」を、一行のエラーログから読み解いてみせた怪物の姿だった。
「……おはよう、晴花さん」
出社してきた綾子が、腫れた目で挨拶をする。
「おはよう、綾っち。……昨日は、盾になってくれてありがとう」
晴花は、昨夜の「戦場」での表情が嘘のように、穏やかに微笑んだ。だが、その瞳の奥には、これから訪れるであろう決定的な瞬間に備える、氷のような静かさが宿っている。
午前十時。
社長室から、椅子が倒れるような激しい音が響いた。
直後、内線電話から、むき出しの地声が大音量で鳴り響く。
「日南……!貴様、すぐ社長室へ来いッ!寺畠もだ!」
鏑木の声は、怒りよりも先に、制御できない動揺に震えていた。
社長室のドアを開けると、そこには、昨日とは別人のように憔悴した鏑木がいた。
デスクの中央には、彼の私物であろう最新型のスマートフォンが、鎮座するように置かれている。
「……たった今、連絡があった。進藤先生の事務局からだ」
鏑木は、まるで呪いのアイテムを扱うかのように、その端末を指差した。
「『昨夜のシステム異常について、進藤本人が直接説明したい』と……。信じられるか?業界の寵児、時の人であるあの進藤先生が、我々のような会社に対し、直接、だぞ」
鏑木の言葉には、恐怖と、「選ばれた」という卑屈な高揚が混じっていた。
彼は震える指で、事務局から指定された番号をタップした。
電子音が二回、静寂を切り裂く。
接続が確立された瞬間、スピーカーから溢れ出したのは、かつて晴花が耳に馴染んだ、鈴を転がすような、しかし一切の不純物を許さない気品ある声だった。
『——ごきげんよう。リサーチ・サービス株式会社社長、鏑木さま。お初にお目にかかるわね』
鏑木が、椅子から滑り落ちんばかりに背筋を伸ばした。
「し、進藤先生……!お電話をいただき、身に余る光栄です。私は、先生の著書をすべて拝読しておりまして……」
『ご丁寧な挨拶は結構よ。多忙な身で、時間は限られているの。……早速だけれど、昨夜、あなたの会社のシステムが、私の『即断スコアリング』の心臓部に触れようとしたわね?』
「は、はい。不徳の致すところで……今」
『今』
進藤は被せ気味に言葉を吐いた。
『——あら、日南ちゃん?もしかして、そこにいるのかしら』
空気が凍りついた。
進藤の声から、ビジネスライクな硬質さが消え、甘やかな、しかし猛毒を孕んだ慈愛が滲み出した。
「……お久しぶりです。進藤先生」
晴花は、震えそうになる膝を精神の力だけで抑え込み、スピーカーを見つめた。
『ええ、本当に。まさか、あなたがこんな辺境の、いや、鏑木さまには失礼ながら、名もなき会社の事務員として『擬態』していたなんて。四年前、あんなに見事に姿を消したから、てっきり別の道を選んだものと思っていたわ』
「先生に教わったことは、今も忘れていません。……特に、真実を隠すための『掃除』の仕方は」
電話の向こうで、進藤が楽しげに、クスクスと笑い声を漏らした。
その笑い声だけで、鏑木の顔面は蒼白に染まっていく。自分が心酔していた「神」が、目の前の「無能な事務員」と、対等の、あるいはそれ以上の深い因縁を持っていることを、その声が証明していた。
『いいわ。鏑木社長、この『侵害行為』については不問にしてあげましょう。ただし、一つだけ条件があるわ』
「は、はい!何なりと……!」
『日南ちゃんを、私のオフィスへ寄越してください。彼女が犯した知財 への不当なアクセス……その落とし前を、私の目の前で、彼女自身の口から聞きたいの。……いいわよね、日南ちゃん?』
それは、決定的な召喚状だった。
「……晴花さん、行くんですか?」
社長室を出た廊下で、綾子が必死に袖を掴んだ。
「あの人の声、怖いです。まるで見透かされてるみたいで……。行ったら、二度と戻ってこれない気がします」
晴花は、窓から見える午前の光を眩しそうに見上げた。
「大丈夫だよ、綾っち。……数字を汚した奴は、最後に自分がその数字に溺れる。それは、私が一番よく知ってる」
晴花は、冷え切った指先を強く握りしめた。
進藤昌が、ついにその重い腰を上げた。それは、彼女の無敵の論理に、晴花が「決定的な亀裂」を入れたことの裏返しでもあった。
晴花は背筋を伸ばし、迷いのない足取りでRS社のフロアを後にした。
都心の一等地にそびえ立つ、全面ガラス張りのオフィスビル。
進藤昌のオフィスは、その最上階にあった。
エレベーターを降りた瞬間、晴花を包んだのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。大学の研究室とは別に構えた、進藤昌のプライベートオフィス。RS社のような安っぽい電話のベルも、怒鳴り声も、キーボードの連打音すらここにはない。
徹底的にノイズを排除し、磨き上げられた大理石と、幾何学的なモダンアート。それは進藤昌が提唱する「効率」という名の美学が具現化したような、冷徹な城だった。
「スマートフォン等電子機器をお預かりします」
秘書の言葉に、晴花は無言でスマホを差し出した。右手首のクロノグラフが、かすかに光を反射する。
「——お入りなさい、日南ちゃん」
最奥の扉が開くと、白を基調とした広大な執務室が広がっていた。
デスクの向こうに座る進藤昌は、画面越しに見ていた通り、あるいはそれ以上に完璧な存在だった。四年前と変わらない、計算され尽くした微笑。そして、一点の曇りもない肌。
「随分と逞しくなったわね。事務員の制服が、あなたのその『凄み』を隠しきれていないわ」
進藤は手元のタブレットを置き、椅子の背にもたれた。
「昨夜のセキュリティアラート、あれには驚かされたわ。まさか私のアルゴリズムの深層にまで手を伸ばしてくるなんて。……でも残念だったわね、計算がクラッシュして。あれはね、私のメソッドに対する『敬意』を欠いた者への、ちょっとしたお仕置きなのよ」
晴花は一歩も引かず、進藤の視線を受け止めた。
「先生。昨夜のアラートが、不正アクセスではなく、単なる数値的エラーによるものだということは、お互い百も承知のはずです。法的に私を裁くことなどできない」
「ええ、もちろん。そんな野蛮なことはしないわ。……私はね、日南ちゃん。怒っているのではなく、感心しているのよ」
進藤は立ち上がり、ゆっくりと晴花に歩み寄った。高価な香水の匂いが、晴花の鼻腔を突く。
「あの特異点に気づき、かつそれを逆算の鍵にしようとした。……あなたの才能は、やっぱりあんな薄汚れたカイシャで死蔵させておくには惜しすぎる」
進藤は晴花の目の前で立ち止まり、慈愛に満ちた師のような顔で、晴花の頬に手を伸ばそうとした。晴花はそれを、無言で回避する。
進藤は動じず、手を下ろして囁いた。
「ねえ、日南ちゃん。私と取引をしない?」
「……取引?」
「あなたの過去を、すべて洗い流してあげる。……私が各方面に手を回せば、四年前のスキャンダルは『調査の結果、悪質な捏造であった』と、一週間以内に結論を変えられるわ。そうなれば、あなたは再びアカデミアの舞台に戻れる。どこかの大学の助教、あるいは私の研究所の主任研究員のポストを用意してもいい。……あなたがもう一度、純粋な『数字の海』で呼吸ができるようにしてあげるわ」
晴花の喉が、かすかに鳴った。
それは、四年間の地獄から抜け出すための、唯一にして最高級の梯子だった。
「その代わり——」
進藤の瞳が、一瞬だけ鋭利な刃のように細まった。
「RS社での一件は、すべてあなたの『計算ミス』ということで幕を閉じなさい。そして、あなたが気づいた私のメソッドの『毒』については、二度と口にしないこと。……これからは私と一緒に、もっと大きな、もっと効率的な世界を作りましょう?」
「……私を、飼うつもりですか」
「いいえ、救うのよ。……これほど魅力的な再計算 、他にないと思わない?」
静まり返った城の中で、進藤の甘い提案が、呪文のように晴花の周りを取り囲んでいた。
晴花は進藤の提案に対し、数秒の沈黙を返した。
そのわずかな空白の間に、晴花は右手首に視線を落とした。いかついクロノグラフの竜頭を、ほんの一度だけ、音もなく押し込む。事前に割り当てておいた、録音起動のショートカット。
かすかな振動が手首に伝わる。進藤には見えない、小さな観測機器の、静かな作動。
「……どうしたの?迷う理由なんてないはずよ」
余裕の笑みを浮かべる進藤へ、晴花はおもむろに口を開いた。
「先生。……ひとつ、確認してもいいですか」
「何かしら」
「『進藤式・即断スコアリング』の第二弾。……出版予定から、もう三年になりますね。まだ書店でお見かけしていませんが」
進藤の微笑が、ほんの一瞬だけ、ガラスにヒビが入るように固まった。
「……何が言いたいの?」
「あのメソッドは、私の理論の『第一章』に過ぎません。導入時の短期的なブーストと、その後に必ず訪れる相関の崩壊。先生は、その崩壊を制御するための続きを、ご自身では書けなかった」
晴花の声は、どこまでも平坦で、容赦がなかった。
「だから私が必要なんですよね、今も。私を救うためじゃない。先生ご自身が、行き止まりの迷路から抜け出すために」
静寂の城に、初めて「ノイズ」が走った。
進藤の完璧な仮面の下から、認めたくない事実を突きつけられた動揺が、生々しい感情となって滲み出す。
「……生意気ね。底辺の泥水をすすって、少しは身の程を知ったかと思っていたけれど」
進藤の口調から、甘やかな慈愛が消え失せた。
「ではあなたに聞くわ。あの程度の欠損データで、本当に私を追い詰められると思っているの?たかだか数ヶ月分の空白を見つけたくらいで。……四年前と同じ結末になるだけよ。あなたはまた、すべてを失って放り出される」
その瞬間。
晴花の胸の中で、何かがカチリと音を立てた。
完璧な論理の城に、決定的な特異点が発生した音だった。
「……『あの程度の』」
晴花は、ゆっくりと進藤の目を見据えた。
「先生、今、欠損データの存在をご存知だとおっしゃいましたね」
「……え?」
進藤の表情が、初めて、完全に止まった。
「私は今日ここへ来てから、RS社のデータに欠損があるなんて一言も申し上げていません。昨夜のシステムエラーについて話しただけです。なのに先生は『あの程度』と、その規模まで知っている口ぶりだった」
空調の微かな音さえ消え去ったような、圧倒的な沈黙が進藤を包み込む。
「……それはつまり、先生がその欠損を、最初からご存知だったということですよね」
進藤の喉が、微かに動いた。言葉を探している。だが、どのような言葉も、すでに塞がれた退路をこじ開けることはできない。
否定すれば、今しがた口にした自白との矛盾が深まる。肯定すれば、自らデータを改ざんしたと認めることになる。
進藤が最も愛した「合理的な選択肢」が、盤面から完全に消滅していた。
右手首のクロノグラフが、その沈黙の重さすらも、冷徹なデジタルデータとして刻み続けている。
「取引の話、お受けします」
晴花は、氷のように冷たい声で宣告した。
「ただし、条件が一つあります。——2022年第2四半期のデータを、元に戻してください。それだけでいい」
進藤は、何も答えられなかった。
晴花はそれ以上何も言わず、踵を返した。
背後から引き留める声は、最後まで聞こえなかった。
大理石の廊下に出た晴花は、深く、冷たい息を吐き出した。
右手首に視線を落とし、クロノグラフの竜頭をもう一度押し込む。録音停止。
それから手首を返し、文字盤を確認するふりをしながら、晴花は静かに息を整えた。
その瞬間、ポケットのスマートフォンが震えた。
『寺畠 綾子』
少しだけ躊躇ってから、晴花は通話ボタンをスワイプして耳に当てた。
進藤昌の「城」から一歩外へ出た瞬間、初夏の熱い風が晴花の頬を叩いた。
手の中のスマートフォンが、震え続けている。表示されているのは、綾子の名前。
晴花は録音終了を確認すると、素早く通話ボタンをスライドさせた。
「……綾っち?」
『晴花さん!よかった、やっと繋がった……!』
受話器越しでもわかるほど、綾子の声は上ずり、過呼吸に近い状態だった。
「落ち着いて。何かあったの?」
『大変なんです。今、初江部長のところに呼ばれて……。あの、私、わけがわからなくて。部長が、私に……「総務部長の席を用意した」って……』
晴花の足が、アスファルトの上で止まった。
「……あなたが、総務部長に?」
『はい。今の仕事の引き継ぎなんてどうでもいいから、今すぐこの書類にハンコを捺せって。これ、臨時株主総会の「招集通知」っていう書類で……。社長の解任決議を行うって書いてあるんです』
晴花の脳内で、パズルのピースが高速で組み変わっていく。
初江は鏑木社長の実母であり、RS社の株式の三割を握る大株主だ。しかし、社長の解任には株主総会での過半数の賛成が必要になる。
初江が動いたということは、残りの二割以上の大株主、あるいは委任状の取り付けに目処が立ったということだ。
(……そういうことか)
初江は、晴花が進藤を足止めしている隙に、RS社内での「大掃除」を完遂するつもりなのだ。
総務部長は、株主総会の招集手続きや議事録作成を司る、実務上の鍵。鏑木の息がかかった人間を排除し、真っ白な「駒」である綾子をその椅子に座らせることで、手続き上の瑕疵 を一切排除し、法的に完璧なクーデターを成立させる。
「綾っち、聞いて。初江部長はあなたを助けようとしているわけじゃない。でも、あなたがその席に座ることが、今のRS社を、佐々木さんを救う唯一の道なの」
『そんな……私なんかに、そんな重いことできません!』
「できるよ。あなたはただ、部長の言う通りに『正しい手続き』を見届ければいい。……後の数字は、私が全部持っていくから」
その頃、RS社の社長室。
鏑木は、目の前に立ちはだかる小柄な老婦人に、言葉を失っていた。
「……母さん、正気か?私を解任するだと?この私が、どれだけこの会社を……!」
「和也。あなたは数字に目が眩んで、自分の足元に流れる『血』の匂いに気づかなかった。……それは経営者として、致命的な過ちです」
初江は扇子を閉じ、静かに息子を見据えた。その瞳の奥には、権力者の冷酷さではなく、深い悲哀と、揺るぎない愛情が宿っていた。
「先ほど、総務部より全株主へ招集通知を発送させました。明日、この会議室で臨時株主総会を開き、あなたの代表権を剥奪します」
「明日だと!?招集期間の短縮には全株主の同意が必要だ。そんなもの……」
「三割は私。残りの三割を握る投資会社の代表とは、先ほど話がつきました。彼らも進藤メソッドによる離職率の悪化には頭を痛めていたようでしてね。……同意書はすべて、新しい総務部長の手元にあります」
鏑木の顔が、土気色に変わった。
「新しい、総務部長……?」
「ええ。あなたが『ノイズ』として切り捨てようとした、若いお嬢さんですよ」
鏑木が膝から崩れ落ちそうになるのを、初江は冷ややかに、しかしどこか慈しむような目で見下ろした。
「和也。あなたがこの会社を継いだ時、社員一人ひとりの名前を覚え、一緒に泥水をすすって歩いていたあの頃の熱意を、私は忘れていませんよ」
「母、さん……」
「だからこそ、一度すべてを失いなさい。進藤昌という怪物の猛毒から身を清め、一番下からもう一度這い上がってきなさい。……あなたが『本当の数字の重み』を理解できる日まで、この会社は私が預かります」
初江は背筋を伸ばし、踵を返した。社長室の重いドアが閉まる音だけが、すべてを失った鏑木の耳に虚しく響いた。
ビルを見上げる晴花の元に、一台の黒いタクシーが停まった。
「日南さんですね。部長がお待ちです」
後部座席から降りてきた男が、恭しく頭を下げる。初江の手の者だ。
(……再計算、か。言いえて妙だな)
晴花はスマートフォンを握りしめ、車に乗り込んだ。
ドアが閉まる。タクシーが静かに走り出す。
清算
- §1真実のLTV
- §2計算の終わり、あるいは始まり
RS社最大の会議室に、人の気配だけが重く沈んでいた。
円卓の最上座に初江。その隣に、顔面蒼白のまま議事進行のファイルを両手で抱えた綾子。円卓を囲む投資ファンドの代表たちと、急遽召集された役員たち。誰も余分な言葉を発しない。
静寂を破ったのは、演台に立つ鏑木だった。
「……以上が、現経営陣が提示するリストラクション案の全容です」
レーザーポインターが、スクリーンの右肩上がりのグラフを指し示す。鏑木の声には、追い詰められた者特有の、過剰な確信が滲んでいた。
「初江取締役は情実による経営継続を訴えておられますが、それではこの不況は乗り切れません。直接的な利益を生まない古参社員を整理し、身軽になること。数字は決して嘘をつきません。これが唯一の『ファクト』です」
外資コンサル出身のプライドを全身にみなぎらせ、投資家たちを見据える。それは彼なりの、最後の信念だった。進藤のメソッドが正しく、自分の判断が正しかったと、彼は本気で信じていた。
「見事なプレゼンテーションですね、社長」
初江が扇子をゆっくりと閉じた。
「では、その『ファクト』の正確性について。総務部より、補足報告をさせます」
綾子が震える声で告げた。
「て、テクニカル・アドバイザーの、日南晴花さん……お願いします」
会議室の隅から、地味な制服姿の晴花が立ち上がった。演台の横へ進み、会議室のノートPCを立ち上げる。その動作に、一切の余分がない。
「社長のプレゼンに、三点だけ補足させていただきます」
スクリーンが切り替わった。派手なグラフではない。シンプルな、三列の年表だった。
「まず、時系列をご確認ください」
縦軸に日付。横軸に三つの項目が並んでいる。
『進藤メソッド導入日』『2022年第2四半期・解約データ消失』『佐々木氏・査定急落』
三点が、一本の直線上に並んでいた。
それだけだった。説明は何もない。
投資ファンドの代表たちが、無言で身を乗り出した。
「次に、先週時点でRS社の既存クライアント三社から届いた書面です」
晴花が頷くと、綾子が立ち上がり、震える手で紙の束を円卓に配り始めた。投資家たちが受け取り、目を走らせる。
件名は、どれも同じだった。
『営業担当者変更の噂について、契約継続の再検討を通知いたします』
データではない。現実が、すでに動き始めていた。
「馬鹿馬鹿しい!」
鏑木が演台を叩いた。
「それはただのシステム移行時のバグだ!進藤先生がデータを改ざんしたという証拠がどこにある!」
「ございます」
晴花は鏑木の怒号を、そよ風のように受け流した。
「本日の会議室への電子機器の持ち込みは禁止。プレゼンテーションファイルも事前に指定フォルダへの登録と、内容の確認が必要——そのようなご指示でしたね、社長」
鏑木が、わずかに顎を引いた。その通りだ、という無言の肯定。
「確かに私のファイルも、昨日の時点で社長室に提出し、確認を受けています。スライド十二枚。グラフ三点。異常なし、と」
晴花は演台のPCに向き直り、スライドを表示したまま、静かにコンソールを呼び出した。黒い画面に、数行のPythonスクリプトが走る。それが何を意味するか、この会議室で理解できる人間は一人しかいなかった。
「……何をしている」
鏑木の声に、初めて動揺が滲んだ。
「スライドの画像データに埋め込んだ音声ファイルを、復元しています。ステガノグラフィという技術です。……スライドを目で見ても、耳で聞いても、何も検出されません。Pythonのコンソールを動かせる人間だけが、取り出せる」
エンターキーが、カチャリと乾いた音を立てた。
会議室のスピーカーから、澄んだ声が流れ始めた。
『……生意気ね。ではあなたに聞くわ。あの程度の欠損データで、本当に私を追い詰められると思っているの?』
鏑木の顔から、スッと血の気が引いた。
『「あの程度の」——先生、今、欠損データの存在をご存知だとおっしゃいましたね』
『……え?』
『私はRS社のデータに欠損があることを、今日ここで初めて先生にお伝えしました。なのに先生は「あの程度」と言った。……それはつまり、先生がその欠損を、最初からご存知だったということですよね』
決定的な沈黙が、会議室に流れ込んだ。
音声の中の進藤は、何も答えなかった。
投資ファンドの代表たちが、顔を見合わせ、鏑木へ視線を向ける。その目に、もはや迷いはなかった。
晴花は音声を止め、静かに言った。
「以上です」
「……あ、ああ……」
鏑木は後ずさりし、演台のへりに手をついた。感情論ではなく、彼が最も信奉していた「データとファクト」によって、自らの立っていた地盤が完全に崩れ落ちた。
「社長」
上座から、初江が静かに声をかけた。
「あなたが乗っていた船は、最初から穴が空いていたのですよ。そしてあなたは、その穴を塞ごうとしていた船員たちを、自らの手で海へ突き落とそうとした」
鏑木は何も言い返せなかった。
「……臨時株主総会の決議に移ります」
綾子が震える手でファイルを開き、か細い声で読み上げた。
「現・代表取締役社長、鏑木和也の解任動議について。……賛成の方は」
全員が、無言のまま頷いた。
綾子も、震える手で「賛成」の欄にチェックを入れる。
「け、決議は……可決されました」
鏑木は最後に一度だけ、スクリーンに残ったままの年表を見上げた。三つの点を結ぶ、一本の直線。それが、彼の経営者としての墓碑銘だった。
重い足を引きずり、会議室のドアへ向かう。
誰も、声をかけなかった。
晴花はプロジェクターの接続を静かに解除し、ノートPCを閉じた。
これは復讐の完成などではない。ただ一つ狂っていた変数を、元の正しい位置に戻しただけの——ごくありふれた、掃除だった。
臨時株主総会が終わり、静まり返った会議室。
投資家たちが去り、初江と綾子、そして晴花の三人だけが残された。
「……初江部長。いえ、代表取締役」
晴花は一通の白い封筒を、大理石のテーブルに静かに滑らせた。
「退職願です。一身上の都合——というより、契約の前提条件が崩れたため、とご理解ください」
綾子が、短く息を呑んだ。
「え……?晴花さん、何、言ってるんですか。これからじゃないですか!あなたがいなかったら、この会社は……」
「綾っち、落ち着いて」
晴花は優しく、しかし有無を言わせぬトーンで言葉を遮った。
「私はこの会社に『高卒の事務員』として採用された。けれど、その経歴は偽りです。……不正なデータの上に成り立つ雇用関係は、私のロジックでは『粉飾』に他ならない」
晴花は初江を真っ直ぐに見据えた。
「進藤の嘘を糾弾した私が、自分の嘘を不問にするわけにはいきません。……これが私の、数字への落とし前です」
初江は封筒を手に取ることなく、じっと晴花を見つめていた。その瞳には、落胆ではなく、予想していた答えを受け取った充足感が浮かんでいた。
「和也を救うために『劇薬』を求めたけれど、あなたはそれ以上の、研ぎ澄まされた『真実』そのものだったようですね」
初江はわずかに口角を上げた。
「わかりました。その退職願、受理しましょう。……ただし、日南さん。偽りの事務員が去るのなら、空いたその席に、新しい『専門家』を招く権利も私にはある。……そうでしょう?」
晴花は微かに苦笑し、深く頭を下げた。
「……ご期待に沿えるよう、まずは自分の『掃除』を終わらせてきます」
数週間後。
RS社の掲示板には、前社長・鏑木和也の解任と、進藤メソッドの全面廃止が公示されていた。
晴花は、整理の終わったデスクを一度だけ振り返り、エレベーターホールへ向かった。165cmの背筋を伸ばし、かつての「地味な事務員」の猫背ではない、凛とした佇まいで。
「晴花さん!」
駆け寄ってきたのは、総務部長のバッジを胸に付けた綾子だった。158cmの小さな体を震わせながら、彼女は必死に笑顔を作った。
「私、頑張りますから。あなたが残してくれたこの『真実の図面』を、汚さないように」
「大丈夫だよ、綾っち。……困ったことがあったら、いつでも『ナーヴ』に連絡して」
エレベーターの扉が、静かに閉まった。
信頼残高
数ヶ月後。
郊外の、年季の入った雑居ビルの一室。
そこには、かつての高級スーツを脱ぎ捨て、袖を捲り上げて段ボールと格闘する鏑木和也の姿があった。
「……よし、これでインフラは整った」
壁に貼られた社名は、『株式会社LTVコンサルティング』。
進藤昌の幻影を追いかけ、数字の魔力に溺れた男が、文字通りゼロから立ち上げた小さな城だ。
彼のデスクには、晴花が株主総会で突きつけた「崩壊のグラフ」が、自戒を込めて額装されていた。
「……見ていろ、日南。次は、俺が本物の数字を持ってお前の前に立ってやる」
鏑木は、泥臭く営業に奔走する準備を始めた。その瞳からは傲慢さは消え、代わりにかつての、社員と泥水をすすった頃の熱い光が戻っていた。
同じ頃。
イタリアンレストラン『ナーヴ』。
ガーリックの香ばしい匂いが漂う店内で、晴花は優里が差し出した赤ワインを一口啜った。
「……で?結局、学界に戻る誘いは断っちゃったわけ」
「今は、現場の方が面白いんだよ。数字を凶器に使う奴らがまだたくさんいるしね」
晴花はタブレットを開き、RS社から業務委託として送られてきた最新のキャッシュフローをチェックする。
「おーい、晴花さん!またここの集計が……!」
店内に、仕事帰りの綾子と、なぜか饅頭の包みを持った佐々木が姿を見せた。
「……もう、閉店時間だってば」
晴花は呆れたように言いながらも、自然と口角を上げていた。
経歴を捨て、名前を捨て、それでも捨てきれなかった「数字への誠実さ」。
それが今、新しい「信頼残高」となって、彼女の周りに静かな輪を広げている。