First Step
Story > Chapter 1 > Section 1
ふたりは優美な木椅子の座り心地に未練を残したまま、席を立つ。そして、いつものように財布からポイントカードを取り出して、レジへと向かった。
ホールを切り盛りしているこの店のオーナー夫人・優里は晴花と旧知の仲だ。晴花にとって、唯一心許せる大切な同僚となった綾子も、今では自然とこの親密な付き合いの輪の中に加わるようになっていた。
ふたりは優里と二言三言、ことばを交わす。それから、店をあとにした。
会社まで、およそ5分の道のりを歩く。
春の訪れを匂わせる日差しにつつまれ、往来を行き交う人々の足取りがすこぶる軽やかに感じられた。
ふたりは、会社まで他愛のない話を続けた。
新しい生活、新しい挑戦を心から歓迎できそうな、この季節だけにしかない清々とした空気が、眼前にひろがる世界を支配している。それは、自分たちのおかれた境遇とのコントラストを容赦なく自覚させた。
「目に映る人々がただ理由もなく恨めしい」
―そんな身勝手な思いを湧いては潰し、また湧いては潰し…しながら、ふたりは春の街路を並んでゆく。
綾子と晴花は、企業の信用調査やマーケティングリサーチを手掛ける「リサーチサービス社」の経理課に所属している。創業して10年あまりの同社は、全体で30人超の人員を抱える、若く、ちいさく、無名の会社だ。
創業以来大小の紆余曲折を経ながら、同社は成長フェーズに乗れたこともある。
だがしかし。
近時は、会社の中の人間なら、誰もが危険水域に近づいていることを肌で感じることができるような状態にあった。
綾子らの所属する経理課について、話を移そう。
ここでは、この人物の存在をあげなければならない。
“初江” だ。非常勤の役員で、社長の母親でもある。
初江の仕事は、決算・財務・給与に関係する、会社の経営上機密性が要求される資料を統括し、目の届く範囲で徹底した情報統制を維持することだ。現状、経理部門では、職位のない綾子や晴花らが重要な情報を取り扱っている。そのため、たとえば売上管理は綾子以外が携わることを禁止するといったように、職務領域ごとに専任制を敷いて、責任の所在を明確にして自らのチェックを重ね、外部へ重要な情報が漏えいしないよう睨みを利かせる必要があるのだ。
とはいえ初江は、採用面接からの縁となった綾子らに対して、これまでの日々のなかで小さな信頼を見出してきたところがある。そうして一定の信用を与えたところに、このところは老齢にともなう肉体的な限界が重なった。…自然、初江の出社日数は以前にくらべ減っていく。
このところの初江は、不定時にふらっとやって来る…そんな存在となっている。でも綾子たちにしてみれば、小うるさい立場の者と接する機会が減って安閑……でもない。
出社した折には、その空白を埋めんと密度の濃いチェックを入れてくる。むろんその日は、綾子たちのルーチンワークはすすむことはない。
だが、初江のそんな厳しい姿勢が、綾子たちの仕事に対して以前と変わらぬ緊張感を与え続けていられる理由となっているこのことだけは明確だろう。
初江の担うところの役割は、信頼できる肉親にしか果たしえない以前と違って初江の活躍の機会が減った今でも、社長はそう考えている。それが、血縁の情を超え、敬意というかたちで社長の内面から滲むのだ。そして会社の中の人間は、その滴りを敏感に感じ取る。結果、この会社の中では、彼女は独特の威厳のようなものを纏っていた。
「晴花の入社から一年経ったこの時まで転職の祝いができていない」………仕事の都合といえど、優里はそれを長く気にかけていた。そんな折、彼女はオーナーである夫の研修にともなって、まとまった休みを取らざるを得なくなった。そこで、綾子ともども食事会をしようと急遽ふたりに誘いの声をかけたのであった。
仕事帰りにナーヴへとやってきたふたりは、降って湧いた店舗貸切パーティーの機会に興奮しつつ、優里とともに彼女が用意した食事を楽しんだ。そのあと、三人でいろいろと話に花を咲かせていた。
やがて店のポイントのことに話題は変わった。
四月だというのに外は真冬に逆戻りしたかのような寒さだった。が、ピークを迎えた公園の桜の下にはまだたくさんの人の活気がある。
ふたりは白い息を吐きながら小走りで駅へと向かった。充実した時間を過ごせたことが、終電に急かされていることさえも楽しいことのように感じさせた。
建物の二階を占有するRS部(Research & Sales: 調査営業担当部門)は、この会社を代表する区画だ。それゆえ、全体朝礼のように大勢を集めた催事の場としても利用される。
綾子らがこのフロアに上ると、社長は皆に背を向け窓の外を眺めるようにして立っていた。
出先に直行した者を除いて全員が集まると、総務部長がその旨を社長に伝える。
少しの間をとって、社長は集められた者たちの方へゆっくりと身体を向け、いつにもまして平坦な面持ちで口を開いた。
しばらくは、定型的な訓示を冷静に伝えていただろうか。しかし、話題はほどなくすると、めずらしくも社長自身の過去の話へと変わっていった。いくぶん唐突な感のある展開は、綾子らにも一抹の不安を感じさせるものがあった。
口調は、徐々に熱を帯びていく。
すると、社長は突然目の前のデスクを平手で荒々しく叩きつけた。
始業間もないこともあり、仕事モードに切り替えられずに半ば話を聞き流していた人間がいる。これらの人間に対し、社長は荒々しい牽制を放った。
社長は、何ら思惑の見え隠れする沈黙をつくった。
再びデスクを激しく叩く。が、拳では勢い余った。机上のコーヒーカップがひっくり返り、いくつかの書類を褐色に変えた。
社長の近くにいた業務課の女性社員が機転を利かしハンカチを取り出してそれを拭う。
社長は口を真一文字にして黙している。興奮もピークに達しようかという矢先であったからこそ、コーヒーで書類を汚してしまったことよりも、文字どおり話に水を差してしまったことを嘆いているかのようだった。
その場にいた誰しもが、不意を突かれた。社長の意思は、皆の想定の範囲を超えたところにあった。皆、動揺を隠さない。
場が、ざわついた。
皆の反応をはかるように、社長はことばを継がずに黙っている。
ますますイヤな方向へと想像を掻き立てる、その静寂の長さを嫌ったのだろう…
そのとき、RS部のひとりが、意を決して社長に問うた。
社長はその男へ刺すように視線をやって、無言で一度頷いた。
朝礼が終了したら、持ち場に戻るそんな単純な原則さえ、しばらくの間、誰もが失するところとなった。喧噪がこの場に伝わっていく。
そんな空気を見かねた総務部長が、両手を小さく広げて、からだ全体で集団を押しやるような仕草を見せる。仕事にかかるよう無言で促された集団は、それぞれがようやく鈍い足取りで、持ち場へと戻りはじめた。
「こんなことを聞かされた以上、いつものペースを取り戻せたりなんかするものか」彼らの背中は、そんな心情をありありと代弁していた。