First Step
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社内に衝撃をもたらした、社長による、突然の決意表明から一日が経った。
この日の昼、綾子と晴花は、社内で昼食を済ますことに息苦しさを感じ、示し合わせるでもなく少し離れた公園へと足を運んでいた。
公園に着くと、ふたりは手頃なベンチを見つけ、ハンカチを敷く。そして、心の重さに耐えかねるかのように、ドンッ!とベンチに身を預けた。
ふたりは、緩慢な手つきで弁当箱をひらき、ミートボールやおにぎりをちびちびと無言で口に運ぶ動作を繰り返した。まるで、ただ義務を果たすかのごとく。
頭の中に湧いてくる不安・焦燥・失望。
綾子はそんな感情の羅列に葛藤し、口を開くのをためらっていた。
そんなとき、ふたりの後方から馴染みのある声が聞こえる。
綾子が声の方向を振りむくと、同じ会社のRS1部に所属する “安堂” が立っていた。
安堂は、綾子らの向かいの芝にドタっと座った。そして、会社階下のコンビニで買ってきた菓子パンの袋を破って噛り付いた。
綾子がベンチに並ぶよう勧めるが、安堂は気恥ずかしいのか座ろうとはしなかった。
安堂は、スーツの内ポケットから手帳を取り出し、挟みこんであったカラーシールを抜き出した。手帳のリフィルに指を這わせ白紙のページで手際よくとめると、そこに小さなシールを次々と貼り付けていく。
来客の予定のある安堂は、昼食を済ますとそそくさと戻っていった。
綾子は、社長の当面のターゲットがRS部隊にあることを聞かされると、心のすきにホッとした気持ちが広がっていくのを抑えられなくなった。RS部隊の苦難と自分たちの行く末は表裏一体の関係にある。綾子はこのことを十分に理解していたつもりだった。だからこそ、実効を伴わない安堵の感情が邪魔なものに思えて仕方なかった。
「私は特別な誰かじゃない…遅いか早いかだけで、結局は当事者」
咄嗟、そう心に念じる。
「現に私には、何ができる。何も出来っこないじゃないか」
雑多な思いがやがてそこに収束する頃には、失意にも似た萎えた気持ちが再び心の統制権を握り返した。
ふたりは、くすんだ春の空を時間まで眺めていた。
月末が迫ったこの日。朝から、商品に関する顧客からの問い合わせの電話が鳴り響く。だがこうした仕事は、本来、経理課の職責にない。
しかし、ご多分に漏れず小さな会社だ。
ただでさえ人員の少ない業務課の回線はすぐにキャパの上限を迎える。そうなると、この社では経理課に機械的に転送されるようになっている。このとき、晴花はそうした電話に対応していた。
その向かい側で綾子は、ノルマに追われ、いささか高ぶったふうな出先のRS部員からの電話を受けていた。
このとき、綾子は不意にあたりを見回して人の気配のないのを確認した。そしてしばらく間をおいてから、小声で晴花に話しかけた。
小声で話す綾子の姿に内々の話であることを察した晴花も、つられて小声になる。
何気なく放った綾子のひと言が、晴花の心に奇妙な引っかかり方をするものを残した。
晴花は、感情だけで仕事を語ったあとに残される虚無感を知っている。それだけに、綾子の心情を慮って十分に言葉を選んだつもりだった。
しかし、言葉によって巧妙に編みこんだつもりでいた心のベールの薄っぺらさを、なぜだか綾子に見透かされた気がした。
晴花は、このところの出来事に嫌気がさしてちょっとばかり投げ遣り気味になっていた自分に気づく。綾子の言を耳にすると、そんなふうに客観視する自分のことさえ、ただ無気力さを覆い隠す目的の虚像のようにも思えてきた。その招かざる思いに苦い味を覚え、晴花は押し黙って唇を噛んだ。
晴花との思いの違いを汲んだ綾子は、その後、社長の考えについて口にすることはなくなった。
ゴールデンウイーク明けの会社。
毎年、この日はどの部でも旅行や帰省などの土産話が聞かれるところだ。だがリサーチサービス社の人間にとって、この年の休日は多くの者がもやもやを抱えて過ごすこととなった。
そんなことだから、所々で交わされている会話から、どこか景気の悪い話が聞こえてくる。
部長が不在のここ経理課も、例外ではなかった。
RS3部に所属する “田中” が話に興じている。
外出の用事ついでに経理課に立ち寄ったつもりが、いつしか長話になっていた。
甲高いヒールの音を響かせながら、田中はビルを出ていった。
綾子はディスプレイを確認しながら打鍵している。およそ自身では気づいてはいないだろうが、言葉にならないような途切れ途切れのフレーズをつぶやきながら、タイプ音を響かせていた。
晴花は経理課のドアの方を指し示す。綾子はつられて振り向いた。
が、晴花が示したところには誰もいない。
いたずら心を起こした晴花は、その隙に綾子のディスプレイを覗き見た。
晴花からしたら最後までつかめない話だったが、綾子がことさら恥ずかしげな様子で顔を赤らめていたことが、印象的であった。
綾子がぶつけた思いはあまりに純粋だった。ふと、晴花は先日のことを思い出す。
「安直に肯定や激励の言葉を返すより、本音で語ろう」そう、思った。
しかし今、たとえ綾子にできることがあったとしても、会社全体からしたらノイズのようなものにすぎないだろう。綾子がその現実を身をもって経験した時に感じる喪失感を思うと、晴花は本音をそのまま伝えるのも憚られるところがあった。
だからこそ、晴花は綾子の意思を尊重しつつ、理想と現実とのギャップを受け入れられる “免疫” のようなものをつけておいてあげたいと思う。晴花はどう伝えるべきか、整理するための長い間をつくった。
そう言うと、晴花は店内のいたるところに飾られたボトルシップを次々と指し示していく。
ガラス越しの麗々しい帆船は、細い首・優雅な肩の膨らみ・肉厚の胴体が特徴的な淡色のワインボトルを殻に纏うことによって、より強烈な個性を帯びる。
しばらくの後。