First Step
Story > Chapter 1 > Section 3
自分の手さぐりの取り組みが、同僚として、友人として、そして人生の先輩として慕う晴花に理解してもらえたことを、綾子は何よりうれしく思った。
「本当に無駄なことなんて、めったにない」
そんな趣旨の励ましが、背中を押す風となる。ふたりは経理課でお昼を済ませた後、早速「ポイント」について話を詰めようとしていた。
綾子は身体ごと椅子を回して、ディスプレイに対向した。
そして表計算ソフトを起動させ、晴花に対し、画面を確認するよう促した。
会社をとりまく境遇は相変わらず、だ。
にもかかわらず、綾子と晴花ふたりだけの経理課はオーバーロードの傾向にある。人員が、もとより足りない。こと月末月初の仕事量は凄惨だ。
そんなことからここしばらくは困憊したが、月も開けたこの日、ふたりは何とか落ち着きを取り戻しつつあった。
疲労の残渣が、お昼休みの晴花をドッと襲う。晴花はお昼をとったあと、視界を蝕む睡魔に耐えきれなくなった。
そして机に突っ伏したまま、微動だにしなくなった。
不意に晴花がそう叫んだかと思うと、次の瞬間にはまたすーぴーすーぴーと寝息をかいて突っ伏している。
それから一時間後。昼寝の機会を逃した綾子の方が、心地いい陽気にさそわれて頭を前後に揺らしていた。そんな綾子の様子を見ながら、いまだ天日に干したふかふかの布団にもぐり込みたい衝動を消化できない晴花があった。
そのとき、階上から靴の音が降ってくる。
その音の主が誰であるのか、綾子たちはよく知っている。
“総務部長” だ。
綾子たちの直接の上司である彼は、毎日ほぼ決まったサイクルを信念のように繰り返す人間だ。こうして経理課にやって来るタイミングさえ、そのサイクルにコントロールされているように見える。
この男の任は、いわずもがな総務部すなわち経理課およびの業務課のマネジメントにある。そんな彼に対し「経理課にやって来る」という表現を用いるのはおかしな話かもしれない。いや、役職の名に違って、実際には経理課との関わりが薄いから、そうした表現の方がはまるのだ。
彼は、この社内で自分のデスクを二つも持っているという意味で稀有な人間だ。むろんその職責ゆえで、ひとつは業務課の、いまひとつは経理課のそれである。もっとも、経理課のものは不定日出社の初江らとの兼用物ではあるが。
彼がいずれの方を好んでいるか。その答えは、二階のデスクの方であろうことをハッキリと言える。時間にして八割がた、そちらの方を温めているさまは、証左として十分だ。
人間、自分の専門には首を突っ込みたがるものだが、そうでなければ積極的に交わることは難しい。元RS部員のこの男が経理課にいる時間が少ないのも、そうした理由があるのかもしれない。また、初江の息のかかる経理課で、彼女とのパワーバランスを慮るところもあるのだろう。
とまれ、総務部長が経理課のドアを開けて入ってきた。
経理課で何かを尋ねる時、総務部長はその相手として十中八九綾子を選ぶ。入社の先後を配慮してのことだ。管理職として、それが綾子をくさらせないための手段だと信じているところがある。
そう言って、総務部長は手の甲を綾子らに向け、親指を立てる。それを上下に小刻みに揺らす素振りを見せると、ふたりはそれが「社長の指示を意味しているらしい」ことを感取した。
ふたりに必要なことだけ告げ終わると、総務部長はそそくさと二階へと戻っていった。
DEMONSTRATION 1:
DEMONSTRATION 2:
綾子は売上実績の偏差値表をつくり終えると、会議の終わる夕方を待って総務部長に持っていった。
総務部長はその一部をデスクに広げ、内容を一瞥する。その様子を、綾子はじっと見守っていた。
綾子の興味は、総務部長の顔色一点にある。彼が示す何らの反応から、RS部の人間がそれを目にしたときと反対の反応をくみ取れるかと思ったからだ。
ひと通りの確認を終えると、総務部長は綾子にひとこと労いの言葉をかけて、用紙を傍らのサブデスクへと畳んで置いた。彼が満足そうな笑みを浮かべなかったのは、自分たちなりの「バランス」が一定の功を奏したかのように綾子には思われた。
実のところ、綾子は「ついでに貼り出しといてくれ」と指示されることを半ば予想してここに来た。だが、結果は違った。晴花から冗談半分に脅されたような、余計な非難の類を買わずにすんだことに、胸をなでおろす思いであった。
そして、その日の夜。
ふたりが既に家路についた経理課に、スマートフォンを片手にした社長が降りてきた。
社長はこの時間、社外の初江から突然の連絡を受ける。
明朝、銀行とのやりとりでに急遽必要になった書類を初江の居宅まで持ち帰るよう、電話で催促を受けた社長は、その書類のありかに見当がつかず、初江の指示を受けて経理課まで足を運んでいた。
この日の昼、ふたりが偏差値表を作ったときに、何気につくったグラフが社長の関心を引き寄せた。
社長は目的の書類を見つけると、鍵を引き出しに注意深く整えて戻し置いた。
そして静かに引き出しを閉じると、何事もなかったように上階へと戻っていった。