First Step
Story > Chapter 1 > Section 4
「この日、可能な限りスケジューリングして17:00までに帰社すること」
RS部員には、そう通知されているという話を、綾子が業務課の同僚から聞いてきた。
年度初めの朝礼での社長の発言からおよそふた月経ったこの日、そろそろ具体的な動きがあるやもしれぬ…。そう考えるのは、誰にとっても自然なことであった。
その時、不意に経理課のドアを開ける音がした。ふたりは、拳を握ったままドアの方を振り向いた。
社長だ。
社長は、自分の意向を満たす偏差値グラフを作りながら、わざわざ回りくどい表の方を上げてきた経理のふたりに、にわかに関心を得た。母親の初江や総務部長に管理を預けるうち、会社の歪みの一端が、会社の方針を外れて何一つメリットのないはずの間接部門のこんなところにまで現れていたそんなふうに考えると、まるで飼い犬に手をかまれたかのような憤懣がないでもなかった。
社長は、早いうちにそれを正しておこうと思った。が、盗み見のなりゆきである。加えて、綾子らは初江が厳しくも信頼し目をかけている存在だ。どう正すべきか、思案した。
「直接叱責し、会社の人間としての自覚を問うよりもいい方法がひとつ、あるな」
そう考えた社長は、普段は足を運ぶことも少ない経理課にやって来た。
いかんせん、フザケていた綾子らは、不幸にもそれに気づくのが遅れたが。
そう言って、丸めた用紙を少し広げて見せる。綾子らが昨日つくらされた、件の偏差値表だ。
近くにいた晴花が、答える。
そう言って、社長は紙片を晴花に突き出す。晴花がそれに目を落とすのを、社長は待たない。すでに経理課をあとにしている。
社長は、とにかく二人の動揺を誘いたいと思った。自分の方針に沿わない仕事をすることがいかに不利益を生むか、それを理解させるために。
その端緒として、管理部門に縁遠い専門用語を条件として散らしてみた。だが、昨夜のグラフを仕上げている限り、これは咀嚼してくるだろうとも踏んでいた。しかし、ふたりに与えた時間はA0紙に転記するまでには厳しいと見積もっている。その時点で、ふたりの自覚を正すためのあつらえ向きな口実ができあがる。
それでもなお、社長は用心深い。可能性を低く見積もってはいたが、仮に時間内に仕事を仕上げられても…社長の頭の中ではやがて同じ利益が得られることが想定されていた。
社長は、階段を交互に踏みしめるその刹那、ニヤリと笑った。
せわしく作業に集中するふたり。そして数分後。
そして、グラフが完成した。
階段を上っていると、静まり返ったフロアから社長の声だけが聞こえてくる。綾子らの緊張も、いやがうえにも高まっていった。
綾子らは下を向いたまま、小声で「すみません」を連呼しながらフロアの集団をかき分ける。まるで、自分たちがしたことの詫びを兼ねるかのように、過剰にも「すみません」を繰り返す。そんなふたりが社長の視界に入った。
緊張感あふれるフロアに、社長の声でふたりの存在は必要以上に強調される。この一瞬、綾子らの行動が一切の耳目を集めた。
ふたりは顔を真っ赤に染めながら、作ったばかりのグラフをホワイトボードにテープであたふたと貼りつけていく。
綾子らはグラフを貼り終えると、小さくなって小走りで出口へ駆け、フロアへ一礼して階下へ降りる。
社長の話は、さらに続けられた。
翌日、仕事中。
ナーヴで食事を楽しんだのち、綾子は晴花とともに駅へ向かう途中にある書店に立ち寄った。晴花に勧められた「データ分析」への興味から、綾子はそのガイドとなる手頃な本を手にしてみたいと考えた。