ひとりマーケティングのためのデータ分析

Second Step

Story > Chapter 2 > Section 1

6月中旬
飛び込み営業
RS3部 田中
…せ。…せめてパンフレットだけでも。お、お願いです…

田中は、外に出ていた。

締め付けが厳しくなる一方の昨今、一部のRS部員は手段を選んでいられなくなった。

“見込み” なんて冠を付けられる表層のアテなどは、とうにすべて堀りつくした。

どこまでも深い鉱脈で1粒あるかないかのダイヤモンドに希望を掛ける例えるならそんな水準まで田中は追い詰められていた。

要らないと言ってる! 警察呼びますよ!

いや、こんな応報はまだマシだった時間を無駄にしない分。

RS3部 田中
お話を聞いて頂けるんですか!? あっ…ありがとうございます!

思わせぶりなそぶりを見せながら延々と続くセクシャルハラスメントに耐えるものの、最後には「ねーちゃんたのしかったわ」と端から慰みに利用する気しかなかったことを隠さない醜漢を引こうものなら、田中は、時間と気力の両方をごっそりと削られた。

RS3部 田中
あぁ、この上調査も片付けなきゃいけないし、成果のないままサビ残だけが増えていく…

光明のカケラさえない毎日でも、片付けなければならないことは待ってくれない。結果、睡眠も不足する。こんな状態で行く先のことを考えると、食道がガラス球で塞がれたような苦しさを覚えた。

悪い連鎖は易いのだろう。やがて食事という根源的な欲求でさえ、息抜きの役割を果たせなくなる。

田中はそんな毎日を繰り返すうち、ひどく疲弊していった。

6月中旬 12:10
会社近くの公園

梅雨の中休み。

久しぶりに太陽が顔をのぞかせたこの日、綾子らは外で弁当を広げようと会社近くの公園へ向かっていた。

「そういえば、前に公園へ足を運んだ時も、こんな空の日だったか」

綾子は思った。状況はあの時とまるで変わらない。ただ、自分のやるべきことを見つけたことで、ネガティブな心情の膨張性は弱まりつつあった。

綾子
んー、いい天気ですねー。太陽が気持ちいいと思えるのも梅雨ならでは。
晴花
同感、ありがたいね。
晴花
でも油断するな~綾っち。陽に焼いてしまうと、私ぐらいの歳になってからがイタイんだぞぉー。
綾子
…たく晴花さんは。サバけた人なのに美容にはこだわるんですか。
おもしろっ!
晴花
…そんな。言わないで…恥ずかしっ…
晴花
…とでも私が言うと思ったか! 甘いぞ綾子。
綾子
ちょっとー…それ、もしかして私の真似ですかー? …サイテー。
晴花
あは。はっはっはっ…
翔太
はっ!
晴花
…。

突如街路から通りへ出てきたスーツ姿の青年と、鉢合わせになる晴花たち。

その青年と相対したまま、晴花はしばし自由を失った。

綾子
…。はるかさん、はるかさんって…
綾子
…もう…。…あの、ご、ごめんなさい。ボーっとしてました、気をつけま…
翔太
……

歳の頃、二十歳そこそこのその青年は、まるで思考回路が焼き切れたかのように微動だにしない。

まるで感情を失ったかのような平坦な表情で、眼前の晴花をただじーっと見ていた。

翔太
……………そんな。…………やっぱり…は…る…
晴花
ぐぎゃあぁぁぁあぁ!!!

言葉を継ごうとしていた青年を制するように、突如、晴花が奇声をあげた。

綾子
(通行人A)「おい見ろよ。今の何だ!? もしや痴漢か?」
(通行人B)「まさか。こんな白昼堂々、大胆すぎるだろ…」
翔太
…。
晴花
翔太くん! ちょっとこっちで。

晴花は、「翔太」と呼ぶ青年を小さく手招きし、綾子と少し距離をとった。

そして、綾子に背を向けるような立ち位置をとって、青年と言葉を交わす。

いかんせん、車の往来が激しい場所だ。ふたりの言葉は雑踏にかき消され、何を話しているのか綾子にはまったくもって漏れ聞こえてはこなかった。

翔太
…。
綾子
(あの人、泣い…てる)

しばらくして、晴花は綾子のもとへ駆け戻った。

晴花
綾っちごめん。彼、ちょっとした知り合いなんだ。私…少し話をしていくから、悪いけど公園でのお昼はまた今度じゃダメかな?
綾子
いえ、いえ、気にしないでください…そういうことなら、私、会社に戻って食べますから。
晴花
ありがと、ごめんね綾っち。

綾子はふたりの関係について、いろいろと突飛な妄想を膨らませながらひとり会社へと戻っていった。

6月中旬 12:55
リサーチサービス社

お昼の休憩時間もおわる頃、晴花が会社へと戻ってきた。

晴花
ただいま。
綾子
むふむふ…おかえりなさーい。
晴花
な、なによ。その含みのある笑いは…。鼻の下伸びきってるし…
綾子
いえいえ、なんでもありませ~ん。むふ、むふ、むふふ。
晴花
アカン…。綾っちまた勝手に変な妄想してるっしょ?
綾子
モーソー? いやだなぁ晴花さん…隠さなくてもいいんですよ。実を言うとまぁちょっと意外でしたけど…そういう選択もあってもいいんじゃないかと…今、思ったりして。大丈夫です、私は大切な晴花さんの選択を理解しますからっ。
晴花
…こりゃダメだ。綾っち、さっきの子、一体私の何だと思ってるの?
綾子
え、言わなきゃいけませんか? でも…プライベートなことですし、何だか悪いじゃないですか…
晴花
もったいぶらんでよし。 言えッ。
綾子
うっ。えーと、「 ……… (自主規制) ……… 」
晴花
晴花
こ、このっ、変っ態っつ!! ちがう!
晴花
た・だ・の・知・り・合・いっ!
前、失業してた時、知り合いの伝手で少しだけ学習塾の事務のバイトをさせてもらってたのっ! そのときの同僚、というかバイト仲間。
晴花
あれから時間経つし、突然会っちゃったんでびっくりしちゃった。
綾子
それだけ?
なーんだ。ちょっとつまんないです…。
晴花
つまらんでよろし!
綾子
それにしても、なかなかのイケメンさんでしたね…私と歳もそんなに違わないように見えましたけど。今、どっかの会社のサラリーマンさんですか?
晴花
いいや、まだ大学生だと。今4年生なんだって。
なーんか大手の会社に就職決めてて、そこへ書類出しに行ってきた帰りだったみたい。で、私たちに会ったってわけ。
綾子
運命の出逢い…じゃないのは残念ですけど、それでも、昔の知り合いと不意に会えるのだってカンドー的じゃないですか。あの人、泣いてましたし。
晴花
ほんっと、バカ。何も泣くこたぁないのに…。でも、そういう実直さが買われるヤツなんだ、彼は。
晴花
それにしても…。
綾子
…それにしても?
晴花
綾子がそんなにディープな妄想をするとは…ピュア少女の看板は今日で降ろさせてもらうわ。
綾子
なっ! 妄想ぐらい自由ですよー、妄想ぐらい…。それに言えって迫ったのは…晴花さんですって…。
6月下旬 20:30
リサーチサービス社

月末の経理課。終業時間はとうに過ぎていたが、初江の出社と仕事の追い込みとが重なり、ふたりはいまだ家路につけてはいなかった。

総務部長
…そう、今度は全商品の売上で偏差値グラフが。社長がそう強くおっしゃるから。…キミらにこれ以上の負担を強いるのは心苦しいけれど、なんとか捻じ込んでちょうだいよ。
晴花
あれからつい先日も…社長から直接指示されてマーケティングリサーチの売上…偏差値グラフを作りましたし、昨日も個人別商品別の前年同月比一覧表を…貼り出してますけど…いったい…
綾子
それだけじゃないですよ!
私もつい数日前…社長から くだんの偏差値表の一部の人たちに対して必要だうんぬんで、コーケンなんたら他の資料をつくるよういわれましたし。晴花さんの力を借りれば…と一緒に調べながら作ってみても…
綾子
都度、計算の仕方から文面にいたるまで社長からダメだしをされ…それと同じ回数だけ具体的にどうしろと指示が下りてくるありさまで…。「これなら…私が作るより社長ご自身が作られた方が絶対早いし確実なのに」…なんて思うほどで…。
綾子
しまいには、以後の資料の発行にかんして「責任の所在を個人名で示すようにしろ」って…。私たち…ですよ!? 意図のよくわからない資料な上に…課名ならまだしも…なのに…。
綾子
…それ以外にも 一部のRS部長には、一度不在の折に営業計画書の回収を経理課で頼まれてから、なし崩し的にここ(経理課)を提出場所にされちゃってますし…
晴花
それに関連して…言いづらいんですけど…なぜか私が営業日報のウラトリの仕事を…一部ですけど振られるようになったのか…正直わけがわかんないです…。RS部の人たちにも いろんな意味で「ハァ?」という顔されますし…。
綾子
なんか…どうしたんでしょう…最近は…
何でこう…ふわふわとした指示が四方八方から…それも小出しに来るんでしょうか?
総務部長
それは…
社長
(総務部長の回想)「これからは、会社のために貢献するということを間接部門の人間にも十分に理解させなければならん。今後、会社方針の上で経理は特に重要となる。だが、彼女らは会社のために貢献するということをはきちがえているフシがある。今、会社のために貢献するということはRS部員の肩をもつことじゃない。もう一人のオレになることだ。オレの手の届かないこまかな点に目を光らせ、徹底された管理体制を敷く一助をなすのが彼女らの役割だ」
社長
(総務部長の回想)「…だからRS部員には、経理課はオレのコマだということを十分に認識させなければならん。何度も、何度も小さな指示を出しRS部員の目に彼女らの役割をすりこませる。そうしたうちに、やがて彼女らも麻痺していくだろう」
社長
(総務部長の回想)「結局、味方はわれわれの側にしかいなくなる。ならばいやでもわれわれに忠実な職務姿勢をとるしか、この会社でやっていく道はない。そこからが本当の意味での改革だ。間接部門の処遇は、その時に考えればいい」
総務部長
…ま、まぁ…社長もここ最近は時間を惜しんで会社のために奔走されていしる毎日で…。各部長もいろいろと調整に苦慮されてるところも見えるし…。平時ならいざ知らず、まとまりに欠ける部分も生じようよ…。こんな時なれば…と思って、どうかくれぐれも理解してさしあげてくれんか…? 頼むよ…。
綾子
晴花
…分かりました。明日のうちに貼り替えておきます。
総務部長
ん。…では今日のところは ほどほどに仕事の目途をつけといてくれ。あまり遅くなると私に社長からガツンとくるんだな、これが…。

総務部長はドアを開けて経理課を出る。彼の顔に疲労の色が窺えるのを目のあたりにすると、綾子らも詮索を強める気にはなれなかった。

綾子
…なんだかな。やりづらいですね。
晴花
…。
晴花
…あ!しまった。さっきの話に気を取られて、私…備品の決裁書、部長のハンコもらっとかないとダメなのに。やらかしたー。
晴花
むぅぅ…メンドーだけど…上までもらいに行ってくるね。
綾子
了解でーす。

晴花はいくつかの書類を抱え、二階へ階段を上っていった。

RS部のフロアでは 追い込みをかける部員がまだ半数近く残っていて、営業電話を掛けたり、リサーチの段取りを確認したり、あるいはそれをまとめ上げたりする面々の苛立ちと気迫に満ちていた。

晴花
…部長。今日、店頭買いした備品の決裁書…判、いただくのを忘れていました。領収書はここに…。

クリアファイルを脇から取り出そうと視線を移したとき、ふと、フロアの隅にある、社長のデスクのパーテーションあたりの景色に違和感を覚えた。

パーテーションの上から、三、四人の頭がのぞく。

それが、晴花の懸念を揺さぶり起こした。

総務部長
そうか … はい。ご苦労さんよ。
晴花
…すみません。

晴花は、その足でフロアの角にある給湯スペースに身体を運んだ。

近くのレポート棚に決裁書類を置いてから、雑巾をしぼる。そして社長のデスクの脇にある会議室へと、もっともらしく、用事ついでの掃除をすませておこうという風体をかもしだして入っていった。

決して明瞭ではなかったが、そこは聞き耳を立てるに十分の場所だった。

社長
…おまえたちはいやしくも大学で学を修めた者たちだろう。それをなぜここで活かそうとしない。この緊急時こそ、おまえらのような者たちが先陣を切って会社をまとめあげてくれねばならんというに。
社長
勘違いするなよ。何もオレが学歴を羨んで妬み吊るすわけじゃない。オレのような人間は経験と資質に依存するところが大きいと思うが、対して、おまえらには知識と論理思考の土壌があることを有効に使えと言っているんだ。オレの様な学を修めていない人間に較べて、おまえらはスタートラインから得をしているはずだ。違うか?
社長
…そんな恵まれた条件にあることを否定して、戦線を放棄する者がいるのであれば、オレだってあきらめるしかない。穏便に事が運ぶうちに進退を考えておけ。おまえらはオレと違って若い。違う場所でならやり直せるかもしれんしな。
社長
だが戦う意思があるのなら、眠れる力を解き放って、がむしゃらになって巻き返せ。これこそ、オレの望むところだ。
社長
最後に重要なことを言う。おまえらに残された時間は多くないと思っておけ。くれぐれも「歩きながら悩む」ことを忘れるな。
晴花
(うへぇ…これじゃ…最後通牒じゃんか……)

テーブル・チェアをひととおり拭き終えた晴花は、血の気の薄い顔をして会議室を出た。一秒たりともこの場にとどまっていたくないそんな気持ちが激しく踊る。

晴花は手にした雑巾を戻し、決裁書類を乱暴に掴みあげると、足早に経理課へ戻っていった。

綾子
…晴花さん、遅かったですね。
晴花
あ、うん。ついでに会議室の掃除も済ませておこうと思ってさ…。…明日の朝、もうやらなくていいよ。
綾子
おお、やった。ありがとう晴花さん。
晴花
じゃぁ綾っち、私たちもそろそろキリつけて帰るとする?
綾子
…ですね。じゃ、少し待っててくださいね。

上のフロアで耳にしたことを今すぐにでも話したいそんな衝動を、晴花は必死になって抑えていた。口に出せば会社への批判となる。それだけに、晴花は慎重にタイミングを計らざるをえなかった。

6月下旬 21:10
会社からの帰路
綾子
え!? 社長がそんなことを?
晴花
うん。ただならぬ気配に気になって…。思わず会議室から聞き耳立てようと…そしたらそう言って…。
綾子
…で、対象は…誰だったんですか? 社長は誰に!?
晴花
チラ見なんですべては分からないけど…確かなのは …さんと、安堂さん、あと田中さんも。
綾子
そんな……。でも…なんとなくそうかもとは…。
晴花
綾っちがせっかくサポートを決めたのに…。社長が綾っちの決意を知るわけはないけれど…これじゃあまりにもむくわれない。
綾子
……それが社長の目指す成果主義ってものなんでしょうか。外資で悔しい思いをした経験を、立場を変えて繰り返したとして一体何が得られるんでしょう。過去の清算ですか?
綾子
だとしたら会社って、これまた何のために存在しなきゃならないんでしょう?
綾子
いくら御託を並べても、つまるところ私情、じゃないですか…こんなの。好きだった会社がそんな風に崩れていくのだけは…見たくなかったです。
綾子
そもそもウチの社長は、大卒の人に対しての偏見が過剰です。おしなべて冷静でいて機敏なところは素直にすごいと思えても、意固地なところは…すっごく残念です。
晴花
ねーねー、もしかして…ウチが新卒採らないのって…そういう理由…じゃぁないよね、まさか。
綾子
何言ってるんですかー。それ以外理由なんてありませんよ。「声の大きなノーキャリアこそ扱いづらいものはない」って…。
綾子
間接部門はことさら顕著ですよ。業務の人だってみんなそうじゃないですか。私もそうだし、晴花さんのように中途で入った人さえも、大学出たような人、誰もいないです。だから私がもし大学を出ていたとしたら、きっとここにはいませんよ。
晴花
ダメだ… めまいがしてきた…。
晴花
相当な反動だな、こりゃ。昔、私たちの思ってる以上に過酷な経験をしたんか…。
晴花
…まったく、会社を統括する人間としてどーよ。絶望的な度量の狭さ。
晴花
いずれにしろ、管理者が十分な施策をとることなく人員のスーパーマン化だけを待望するようになると、これは安堂さんたちだけの問題じゃなくなるんじゃないかしら。会社全体の士気に大きく響いてくる…そんなふうに思えてならない。
綾子
会社…。みんな…。私たち…。いったい、どうなっちゃうのかな…。
7月上旬 9:00
リサーチサービス社

月が変わって

綾子と晴花は、掲示してある各種の実績表に最新のデータを反映させて作りかえる旨、部長から指示を受けた。最初は小出しの指示が来ることを怪訝に思っていた彼女らも、ここに至っては毎度のことでもう詮索するのも億劫な、投げやりな心持ちになっていた。

そしてこの時間。ここRS部には、ジャンケンで負けた晴花があたらしい実績表を貼り出しにやって来ていた。

晴花
(…たく。忙しいのに毎度毎度こんなものをつくらされる私らって…なんなのよ…)
晴花
(…細かく管理するのは…RSの部長たちのしごとですよーっと)
ショ…と。ペタペタ。
RS3部 田中
…。

晴花も、綾子も、たびたび実績表を貼りにやってくるふたりに対し、後方から憎悪に満ちた刺すような視線を送る人物がいたことを、このときはまだ知らなかった。


晴花は、必要な仕事をおえると、経理課へと戻っていった。

晴花
あぢー。綾っち、上、植物園なみの湿度と温度! いくら経費削減のためとは言え、あれはヤバい…。
晴花
それに比べてここは天国だねー。お客さんの受付を兼ねてるから、冷房絞られることはないし。あー私経理課の人間でよかったわ。
綾子
…はぁ。
晴花
ん、どうした綾っち? 浮かない顔して。もしかして…上とは逆に、冷房にでもやられた?
綾子
いえ、違います。ちょっと…。
晴花
「ちょっと」どうしたぁ? まさか私を差し置いて、本当に「恋の病」にでもなったんじゃないだろーな、この!
綾子
それならどんなに幸せか…。これですよ、これ。
綾子の記録したポイントをもとにつくった6月のパレート図
晴花
わお、パレート図。先月の…6月のをあたらしく作ったんだね。
綾子
すみません…前、お話したとおり私には 80%でAクラスを区切るのは広すぎるので… 60%あたりでやらせてもらってます。
晴花
すげ、綾っち。自分で考えたポイントシステム、もうすっかりものにしてら。
綾子
でも…正直、真正面からは見たくなかったことも…。
晴花
どういうこと?
綾子
先月あたりから、何かおかしいな…気のせいだといいけどな…と思ってたことが、やっぱり気のせいじゃなかったというか…。
綾子
…これ、先先月…つまり5月のパレート図です。晴花さんに手伝ってもらって、私が初めて作ったものです。比べてもらえますか?
(再掲)綾子の記録したポイントをもとにつくった5月のパレート図
晴花
どれどれ……仕事上の習慣なんて、そうそう変わるもんじゃないでしょ? 前、綾っちが「身の丈ゆえの選択・第2案」で最初に絞ったトップの5人なんて特に…
晴花
………前言撤回。
綾子の記録したポイントをもとにつくった5月・6月のパレート図を比較
晴花
田中さん、大きく……下げたの? 仕事の関わりが減ったってことよね。
これ…何で?
綾子
…さぁ、わかりません。
綾子
でも、先月半ばから、何かおかしいなーと思ってはいたんです。もちろん集計はしてなかったので肌感覚でしたけど。でも間違いじゃなかった。
晴花
…ま…待った綾っち…結論が性急すぎるのも…。…ほら、ふたつのグラフは縦軸の目盛りのとり方も違うし…比較するにしても、もーちょっと全体を見てから考えてみよっ。ね、ね。
晴花
…そうだ! じゃあ、ファンチャートで検証してみようよ。どの程度のものか、さ。
綾子
ファンチャート?
晴花
…ある一定のタイミングにとった値を1…つまり 100%と考えて、その後の値の変動を比で見てみようっていうものなの。線グラフでね。だからここでは…5月の綾っちのポイントを1として、6月のポイントの変動比率を見てみる…ということになるね。
綾子
了解です。早速作って確認してみたいです。
晴花
じゃ…まず綾っち、5・6両月の部員別のポイントをひとつの表にまとめてみてよ。

DEMONSTRATION 5:

晴花
…というわけで、出来たね。こんなとこさ。
ファンチャート
晴花
でも、これじゃ線が密集してて誰が誰だかわかんないから、これで判断しろというのも…。使えそうになかったね、ごめん。
綾子
えええ~!? まさかの展開…。
綾子
でも仕方ないですよ。前、晴花さんが私に言ってくれたように、本当に無駄なことなんてそうそうないと信じることにしましたし。このアプローチがダメだったってことが、いずれ何か他のことにつながるかもしれませんから。
晴花
(綾っち!)
晴花
確かに。そう考えると、実は私がバカだったかも。私、すこし的外れなことしてる。
綾子
…て、言いますと?
晴花
それは…。綾っちなら自身でつかむことができるよ。私なんかじゃなくてもさ。…パレート図と、このファンチャートとをにらめっこしていれば、きっと分かるって。
綾子
ホントですかー?
晴花
ホントもホント。でもとりあえずは、自分らの仕事に戻るとしましょ。たまってるしね…
7月上旬 12:40
会社近くの公園

その日の昼

公園で昼食をすませた綾子らは、近所に住むという女性が散歩させていた猫に興味をひかれ、ほんの数分前までいっしょになって遊んでいた。

綾子
散歩させられるネコちゃんって…めずらしいですよね。ウチのチビ子はビビリなんで、絶対無理だなー。
晴花
前、綾っちのおウチにお邪魔したとき、いた子だよね? チビ子という名前とは逆に、堂々としたカップクの子。
綾子
昔、拾ってきたときは本当に小さかったんですよ。お母さんが…ごはんあげすぎなんです。
綾子
それにくらべ、さっきのネコちゃんはスレンダーな美猫ちゃんでした。うちのチビ子にもそろそろ本気出してもらおうかな。
晴花
ダイエットさせる…ってこと?
綾子
甘く見ないでくださいねー。チビ子だって素質はきっと負けてませんよー。
晴花
じゃぁその美猫になったチビ子ちゃんに会えるの、楽しみにしてるわ。
晴花
………だけどさ…
綾子
晴花
よくよく考えてみれば、1週間もダイエットさせれば さっきの猫ちゃんにも間違いなく勝てるよ! もちろん “アレ” ならだけど…。
綾子
ちょっと! 晴花さん! うちのチビ子に何する気ですか! まさか…
晴花
(まさか…の先が気になるな…ある意味)
晴花
もし、チビ子ちゃんとさっきの猫ちゃんに1週間同じダイエットメニューを与えたとしたら、どっちがダイエット成功すると思う?
綾子
それは…チビ子でしょう。何てったって元がちょっと太ましいというか…ですから。
綾子
さっきのネコちゃんはあそこからダイエットすることなんて簡単じゃないですよ。そもそも必要ないんですから。だいたい恰幅のいいチビ子とさっきのスレンダーな猫ちゃんを同じ土俵で比べるなんてナンセ…
綾子
………
晴花
ナンカ来た?
綾子
来ました。そりゃもう…ビビっと!
晴花
よし、じゃぁ帰って朝の続きをやろっ。撤収ーっ!
7月上旬 13:30
リサーチサービス社
綾子
このファンチャート、値の変動を「比率」で見るものでしたよね。そこを重く見るべきでした…。
綾子
例えば私のポイントですけど…その中に…元は5でその後10に増えた人がいたとします。この場合、ファンチャートの値は 200%になりますね。200%と聞くと大きな変化に思えますけど、ポイントの実数を考えれば、200を超える総ポイントの中の、個人の5ポイント程度の差はたんなるバラツキと言えなくもありません。
仕事のタイミングみたいなもの…と言いますか…。
綾子
でも、元は 100でその後 150に増えた人がいたとします。こちらはファンチャートの値で言えば 150%で先ほどの人よりも少なくなります。でもですよ、ポイントの実数には 50ポイントもの変化がおこっているわけじゃないですか。これを単なるバラツキと言うのはやっぱり無理がありますよ。何か理由あってのことと…ふつう、考えたくもなりますよね。
晴花
うんうん。
綾子
だからですよ、私の場合は…こうした方が判断にあたっては適当だと思いました。どんっ!
パレート図Aクラスのみのファンチャート
綾子
説明しますね。
綾子
ある程度近い特性をもった集団の中でないと、比較する意味があんまりないかなーと思って、パレート図のAクラスに該当する人たちだけでファンチャートを作りなおしてみました。
綾子
あ、でも「総計」だけは…比較するため…全体のものと、Aクラスだけのものとを両方表示しています。
綾子
…で、その総計ですが、まず全体のものは…えーと、こう↓なっていますね。
パレート図Aクラスのみのファンチャートから総計だけをハイライトしたもの
綾子
ビゾー…っていうんですか? とにかくちょこっとだけ上昇してます。
綾子
で、これ↓はですね…Aクラスだけのポイント総計の指数です。
パレート図AクラスのみのファンチャートからAクラスの総計だけをハイライトしたもの
綾子
全体は増えたんですが、Aクラスだけを見ると横ばいでした。といっても両者に大きな差が見られるものでもないので、全体でも、Aクラスでも目立って変化したと言えるような状況でなかったことは確かかもしれません。
綾子
その点をふまえると…これ↓だけはやっぱり…別です。
パレート図AクラスのみのファンチャートからRS部の田中の指数だけをハイライトしたもの
綾子
変動の幅にして 40ポイントを超える状況は、全体・Aクラスともに照らしてみても激しすぎる動きですよね。加えて言うなら、Aクラスの田中さん以外の人たちはぼぼ ±20ポイントの範囲に収束しています。
綾子
何かの意図でもなければ、こんな風にはならないんじゃないかな…って。やっぱり、先月から私が感じてたことは間違いじゃないです。
晴花
なるほど。納得。
晴花
でも…田中さんに何があったんだろう。ま、私は仕事上の接点が多い方じゃないから変化に気づくことはなかったけれど…。綾っちは何か思いあたるフシでもあるの?
綾子
本当にわからないです。ただ、ちょっと…以前と比べて…そっけなく…そんなことが多い…かな…って…。
晴花
そっか…。なら、何かあると思った方が自然かな…。
私もさ…そのへん、注意して観察しておくようにするよ。
7月上旬 10:00
街中

別の日。

綾子は、売掛金の入金を確認するため、銀行に向かおうと経理課をあとにした。

綾子は雑居ビルの出入口で立ち止まると、しとしととした雨を落とすどんよりとした空をいちど見上げてから、空に向けて真っ赤な傘をひらく。


一日のほとんどを会社の中で過ごす内勤の人間にとって、外の空気を吸える時間はどんな時だって貴重だと言える。綾子は何でもない街の様子をながめながら、外の空気を楽しんだ。

しばらく歩みを進めたとき、綾子は向こうからやってくる見慣れたシルエットに気がついた。

フチにさりげないレースがあしらわれた濃紺の傘をさす人物は、極端なほど傘を目深にして顔を覆う。が、ヒールが奏でる小気味良い独特のリズムは、同じ会社のRS部・田中の存在を隠せるものではなかった。


田中との距離が縮まる。田中を覆う傘の先端が、綾子に鋭角に対向する。それは、鋭利な切っ先となって綾子に迫ってくるかのようにも見えた。


綾子は思わず歩みを止めた。だがどうしていいのかもわからない。

やがて動揺を覚える綾子と田中が交差する。結局田中は、傘で視野を塞いだまま、言葉を発することもなく綾子の横を通り過ぎていった。


綾子はつい自分の判断を誤った気がして、通り過ぎた人物の後姿を目で追った。


いや、間違いなく、田中だ。


「田中さんっ!」


綾子は彼女を呼び止める。

田中はぴたりと足を止めた。

歩道の傍らで、その場から振り返ることもなく綾子にただ背中だけを見せつづけた。

綾子
お疲れさまです、田中さん。前をよく見てなくて…気づくの遅れてすみません。

綾子がいそぎ取りつくろったふうな言葉をかけると、田中はようやくと振り返る。その視線を飛沫散るアスファルトに置いたままに。

RS3部 田中
…。
綾子
どうか…しましたか?
RS3部 田中
…私は、知ってたけど。
綾子
何が…ですか?

田中は視線を上げると、直視するのも耐えられざる陰鬱な睨みを綾子に投げつける。そして語気を強めて、言い放った。

RS3部 田中
前から来るのが、アンタだってことが。
綾子

思いもよらぬ返答に、綾子はただたじろいだ。

あまりの変容ぶりに、目の前にいるのが田中であることを信じたくない…そんな気持ちがこみ上げる。

綾子
…え…どうして…そんな言い方を…
RS3部 田中
ハ!? 分かんないと?
綾子
……はい
RS3部 田中
あのバカ社長の太鼓持ちは、これだから…
RS3部 田中
いい! ヤツの顔色うかがっていい気になってるアンタたちに痛くもない腹を探られるのは ご・め・ん だってこと。これまではいろいろしてもらったこともあるし、せめてもの思いでじっと避けようとしてきたけれど…
RS3部 田中
…これ以上バカに加担して人の心をふみにじろうものなら、はっきりと言っておくわ。
RS3部 田中
…正直、もう限界なのよ! 限界限界限界限界限界限界限界限界限界限界っ! 分かる!?…バカや、ア、アンタたちがどんなにプレッシャー掛けようが…もう…もう…絞りとれる…ものなんて………残ってると…!?
RS3部 田中
…何も…ない、のよ…何も!!!何も!!!何もっ!!!
RS3部 田中
なのに…アンタたちはー…アンタたちはーっ…つっ…
RS3部 田中
アタシたちの苦労を顧みることもなく…ヤツに心を売って、まぁ楽しそうなこと…
RS3部 田中
よく、やれるわね。アタマ、イカレてんじゃないの?
RS3部 田中
イカれてるか。人が壊れてく様を見て、楽しめるんだから。…アンタたち、マジ最低だわ。

田中は、すべての怒気を吐露してしまおうかという勢いでなおまくし立てようとする。しかし、とめどなく溢れ出るのは大粒の涙ばかりで、言葉を組み立てるに足るわずかな冷静さはとうにロストしてしまっていた。

RS3部 田中
いい! とにかくもう…私に関わらないで!
私を裏切った手前…金輪際今みたいに友達ヅラして話しかけないでっ!

ぐちゃぐちゃになったフレーズだけをなんとか絞り出すと、田中はきびすを返して、傘を掲げる余裕もなく駆け出した。

思いのたけをぶちまけた以上、もう、綾子の前にはいられなかった。

綾子
あ、そんな! 田中さん、ご、誤解です! ゴ…
綾子
田中…さん…。