Second Step
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会社に戻った綾子は、一呼吸置いてから、外での出来事を晴花に伝えた。
綾子は、心のうちに動揺をしまった。以前から僅かながらもこうしたことが起こる可能性を危惧してきたことが、今になって見せ掛けの平静を保ち得ているのかそんなことに妙な感心を覚えた綾子だった。
晴花はふと、綾子のペースに乗せられている自分に気づく。
綾子自身は口にしないが、きっと言いたいこともあっただろう。にもかかわらず、空気を変えようと痛々しくも明るくふるまう綾子の姿を目の当たりにすると、「私が綾っちの思いを尊重してあげられなくてどうする」なんて、まるで他人事でも見るかのような憐憫の気持ちにとらわれる。
晴花は綾子の言うように当面、事態を見守ろうと決めた。
別の日。
晴花が家路についたのを待って、綾子は『マンガ・OLのためのビジネスデータ分析』を机にひろげる。
やみくもにページをあさる綾子。
分析手法の銘銘に付けられた、この本に特有のまるで焚きつけるような幾多のコピーが、どうしても注目を引く。
綾子は、再び『マンガ・OLのためのビジネスデータ分析』に目を落とした。
綾子はディスプレイと対面し、表計算ソフトを立ち上げる。
翌日。
晴花が家路についたあと、この日も綾子はひとり残って田中のデータと向き合った。
DEMONSTRATION 6:
独力でデシル分析表をつくり終え、心地よい疲労を感じながら綾子は駅への道を歩いていた。むんむんとした湿気まじりの熱気に、綾子の喉も渇きをおぼえる。
カフェやファストフード店の輪郭が視界に入るたび、渇きを癒したい猛烈な衝動に駆られるが……ひとり家路をゆく身の綾子には、それを叶える勇気がない。望みを満たせないと考えるや、綾子の喉は水分を文字どおり渇欲するばかりであった。
とぼとぼとコンビニに入っていった綾子は、しばらくして紙パックのコーヒー牛乳だけを手に店を出てきた。
コンビニの向かいには、綾子の言う「こじゃれた」カフェがある。
橙色の間接照明に照らされた、どこか癒され感を無言のうちにアピールしてくるような佇まいは、心身ともに疲れた綾子をはげしく誘惑するものだった。
コンビニの少し外れでコーヒー牛乳の口を開け、左手を脇腹に添える綾子。
そして顔を空に向け、ひと口グッと流し込んだ。
コンビニの前でひとり気を吐く綾子。
コーヒー牛乳を爽快に平らげんとする銭湯民族の真似をするも及ばない 年齢の割に幼げの残るひとりの女性を、入ってはいけないスイッチが入ってしまった通りすがりの男性たちが、いつしか遠巻きにして見つめていた。
綾子は自分に軽蔑の視線が向けられていると勘違いすると、紙パックを手にしたまま、早足でコンビニを離れようとした。
その時、だった。綾子は「こじゃれた」店から出てくる見慣れた顔に気がついた。
いや、“見慣れた” なんて言い方は他人行儀もほどがあろう。綾子にとって、その人物はそれくらい身近な存在だった。
視線の先に、晴花の姿を捉えた。
その晴花が今、スーツを身にまとった背の高いひとりの男性とともに、うっすらと笑みを浮かべてカフェから出てくるところを認めてしまった。
綾子は思わず並木の陰に身を隠す。
晴花に気づいた様子はない。が、咄嗟、そんな反応をしてしまった自分をなさけなくも思った。何事もなかったようにサラリと場を取り繕える自信が、綾子にはまったくなかった。
店の照明を背にして陰の黒をまとう男の顔が、歩みを進めるにしたがって街灯のあかりに照らされて、ぼんやりと浮かび上がる。
綾子は、晴花に気づかれないよう、違う道を選んで駅へと向かった。
その後、いく日かの話。
綾子は田中に関するヒントが何かデータから得られないか、本をあたって少しづつながら試行錯誤を続ける日々を続けた。しかし、田中とのこれ以上の関係悪化を恐れる綾子は晴花を頼ることができず、成果と言えるような成果には、思うようには出会えなかった。
田中とは “あの日” 以後も、仕事の上で必要な最小限のやりとりだけは交わしている。
しかし、無駄話に花を咲かせることは一切なくなった。
「はい」や「分かりました」のフレーズだけで事足りる冷えた関係となっていた。
それでもつとめて、表情や声のトーンに昔と変わらない自分の気持ちを投影しようとした。先行きが見えない以上、たとえ無駄であろうとなかろうと、いつだって関係を修復できる用意があること……これを田中に何とかして伝えておきたいと思ったからだ。
そんな状態のまま、新しい月を迎えた。
綾子は『マンガ・OLのためのビジネスデータ分析』をひらく。
DEMONSTRATION 7:
セミの鳴き声がもれ響いてくる経理課で、綾子と晴花はただ黙々と目前の仕事を片づけていた。
RS部員の多くが出払って間もないこの時間帯は、とりかかった仕事の手を止められることが必然的に少なくなる。一日の中でも集中して自分の仕事に取り組める好機といっていい。
打鍵音と筆記音、そして紙の擦れ合う音だけが、今、この空間に雑じる。
だからこそ、いつもと調子の違う音には敏感になる。
階上から、すこしの時間を挟みながらまだらに響くヒールの音。力ないその歩みは、徐々に階下へと近づいた。綾子はその音の主を確かめようと、出入口ドアのはめ込みガラスに目を向けた。
垂れた赤みがかった髪束が、ガラス越しにその人物の顔先を覆っている。
田中が、力なく経理課のドアを開けて入ってきた。
顔をあげると綾子らを見つめ、呆然と立ち尽くす。綾子も、晴花も、何が起こっているのか理解できず、ただ沈黙の時が続いた。
そのとき、だった。
田中が、突然、床に崩れた。
口を真一文字に結んだまま、大粒の涙をとめどなく落とす。
綾子はその光景に我に返ると、田中の傍に寄り添うように近づいて声を掛けた。