Second Step
Story > Chapter 2 > Section 3
泣き崩れる田中の左傍に、寄り添うように近づいて数度声をかけると、綾子はただ無言で背中に被せた手を動かしていた。
綾子は、田中にただならぬ心労があったことを察した。
ここでどんな言葉をかけても安っぽいものになってしまいそうな気がして、綾子はただ傍に寄り添っていることを、選ぶしかなかった。
一方、そんなふたりの様子をきょとんとした面持ちで見つめているだけの晴花だったが、目前の出来事を把握すると、
瞬間、人の出入りの頻繁なこの場所で、目を腫らした田中の姿をさらしてしまうことが可哀想に思われる。晴花は綾子の名を呼ぶと、経理課の中にある少人数の会議・応接用の小部屋にむかって人さし指を数度ふった。
晴花は、田中の傍らに歩み寄り、言う。
「田中さん、少し、休もう」
そして、綾子とともに両脇から田中を支え、小部屋へと連れていった。
田中は、ひどく憔悴しているようだった。
手で顔を覆ったままの田中に少しの視線を残し、晴花は小部屋を出ていった。
ふたりだけの狭い空間に、ただ嗚咽の声だけが漏れる。
綾子にできることは、この状況を見守ることだけだった。
その間、思いがけない言葉を田中に浴びせられたあの日のこと、それ以前の良好な関係、そしてリストラへ舵を切った社長のことなどが、綾子の頭の中をぐるぐるとまわる。
どれくらいの時間が経っただろうか。
少し落ち着きを取り戻したふうな田中が、項垂れたまま口を開いた。
田中が再び歩み寄ってくれたことが、綾子にはとてもうれしかった。
心は舞い上がる思いだった。そんな心情が、少し突飛な返答を生み出した。
そういって、田中は席を立ち小部屋のドアを開け、外に出る。
田中は晴花に視線を向けた。
小部屋から離れた晴花は、田中から発せられた唐突な言葉の意図をはかりかねた。
思わず間の抜けた返事をかえし、意図を質そうとあわてて言葉を発しようとしたそのとき、綾子が首を振ってそれを制するしぐさを見せる。
田中は手洗いに籠って崩れたメイクを整え直した。が、瞼の腫れだけはどうにも簡単に退かせられるものでない。
田中はついぞあきらめて、外へと出かけていった。
綾子は、晴花に事の顛末を説明した。
翌日。
綾子・晴花・田中は、三人で店の中へと入っていった。
優里は店の奥まった席へと三人を案内した。他のお客さんを気にせずに話ができるように……という優里なりの配慮であった。
三人は、これまでとは打って変わって和気あいあいとした空気の中、食事を楽しんだ。
皆が食事をひととおり終えた頃、綾子は田中に尋ねた。
田中は、太腿に揃えて置いた両手をじっと見つめた。
そして口元をギュッと結ぶ。
無言の時が、過ぎてゆく。
やがて顔をあげ、ふたりに対し、田中は言った。
当事者たる田中の言動が、綾子らにはずしりと重かった。
固まりつつある田中の決意を聞くと、ふたりには、もうこれ以上気持ちを喚起させられる言葉など見つけられそうにもなかった。
綾子らは話題を替える。
そして、しばらくワインとともにそれを楽しんだのち、家路へと散っていった。
会社に戻った綾子たちは、早速、田中の気持ちを喚起させるための作戦会議?らしきものをおこなった。
互いに意見を出し合った末、ふたりはひとつの方針で一致した。
その日の夕方、ふたりは、田中に奮起してもらうための材料をいっしょになって用意した。
それを終えると間髪をいれず、綾子は田中に連絡をとった。
綾子は仔細をあかさず、ただ立ち会ってほしい旨を伝える。
結果、「翌日のお昼なら」ということで無事約束をとりつけた。
そしてその時がやってきた。
綾子は、田中の傍に近寄って耳打ちをする。
そう言って、晴花は綾子にアイコンタクトを送った。
予定外の行動に綾子は驚いたが、状況が改善するのを晴花に託すしかなかった。晴花の意図をくんだ綾子は、晴花の望みに沿うようにと、笑顔で首を縦に振った。
田中は、Zチャートの黒い線をさして言う。
田中は、Zチャートの黒い線と赤い線を交互に指した。
晴花は、ホワイトボードからピンク・青・白のカバーのついたマグネットをいくつか剥がすと、掌の上に落とした。そしてピンク色のそれをつまんで…
紙の上に置き、テープでとめた。
今度は青のマグネットを落とし、同じようにテープでとめた。
つづいて、白のマグネットをそのまま紙の上に置く。
引き出しから一本の大きな輪ゴムを取り出すと、輪の1点に躊躇なくハサミを入れる。
そして、一本の紐となった輪ゴムを、紙の上に置かれた白いマグネットの上にテープで貼り付けていった。
紙の一端をつまみあげたかと思うと、それを細かく幾度か上下に揺さぶった。
綾子はホワイトボードに石井のZチャートを貼り付けた。
ちょうど昼休憩も終わる頃になって、田中は再び外へと出かけていった。
田中の意気の高まりを肌で感じ取ったふたりは、ハイタッチを交わして作戦の成功をよろこんだ。
しかし、このイベントでエネルギーを使い果たしたと言っていい綾子にとって、この日残った仕事は空回りの連続となったことは付け加えるまでもない。