Third Step
Story > Chapter 3 > Section 1
あとちょっとのところで、田中は勝利を逃した。勝利に確信をもっていたふたりは、そのぶん反動に凹む帰り道となった。
月があけて、翌日。
当の田中は、結果を冷静に受け止めているようだった。勝敗の結果はともかく、やれることをやり尽くし石井と最後まで互角に渡り合えたことが、ある種の自信を与えたのかもしれなかった。
さて、ここリサーチサービス社は、ほとんどすべての人間を集めた月初めの全体朝礼の只中であった。
全体朝礼が終わって、しばらくの後。
田中は、綾子たちの労をねぎらおうと経理課を訪れた。
そう言って田中は、ビルに同居するコンビニへと出かけていった。
束の間、小さな買い物袋を片手に戻ってきた。
と言って、田中は綾子たちにペットボトルのお茶を渡した。
自身も、缶コーヒーの蓋を開けて、少量を口に含む。
三人は、嵐のような月末が過ぎ去ったあとの、まったりとした空気を歓迎した。
話題が昨日のことに及び、顔を曇らせて押し黙る綾子と晴花。
田中は、配慮を欠いたことを口にしてしまったと思い、焦燥をおもてに出した。
田中は、困惑の上に笑みを重ねたような複雑な表情をつくった。
綾子は、ファイリングされた伝票の束から一枚のそれを抜き出した。
じっと売上伝票を見つめたまま、田中の身体は全機能を停止したかの如くピクリとも動かなかった。
田中はほどなくその硬直を解くと、ポケットからスマートフォンを取り出し、慣れた手つきでフォーンブックをあさる。
電話を切り、固く唇を結んだかと思うと、田中の表情がみるみると怒気を含んだものへ変わっていく。
缶コーヒーを握った左手が、ぷるぷると震えていた。
次の瞬間、田中は綾子らに背を向け、勢いよく経理課のドアを開けた。
逸る気持ちを代弁するかのごとく、前傾姿勢で階段を一段づつ飛ばしながら上っていく。RS部のフロアに入った田中の視界に映るのは、社長のデスク…ただそれだけだった。
この時間、RS部員の半分ほどがフロアに残っていた。皆、この日の仕事の準備にあわただしくとりかかる喧噪のなか、フロアを脇目も振らず縦断していく田中の歩みは、他の者たちにもある種異常になものとして映った。
田中は社長の面前までやってきた。社長は、各部の営業計画書を見ながら、この月の行方についての思案を重ねている。文字と数字の雑多な羅列に視線を落としていた社長は、前方にできた奇妙な圧迫感に注意を引かれ、ゆっくりと顔をあげた。
田中は、怒りを解放した。
田中の勢いに押された。
自然、田中の行動はフロアにいたすべての人間の耳目をひきつける。やがて、フロアからは電話のコール音以外の音が発せられなくなった。
社長は、言葉を発しなかった。いや、衆人環視の状況の中、何を言っても自分にとって利があろうはずもない。ただ、黙っていることを選択する以外になかった。
そう言うと、田中は左手に握っていた缶コーヒーを右手に持ち替え、中身を勢いよく社長めがけてぶちまけた。
社長を汚した液体は、飛沫となって周囲に散った。
「感謝することね!」
そう言うと 田中は背を向け歩き出す。そして、自分のデスクに置いていた鞄をむんずと掴むと、フロアを出ていこうとした。
状況を見かねたRS3部長が、あわてて田中に静止を求める…
も田中はそれを無視して、足早にフロアをあとにした。
その頃、一階では。
晴花の言う「狭い会社」の中の出来事である。一時間も経たないうちに、田中のしでかした不始末が業務課の仲間より綾子たちにも伝わってきた。
その後、いく時間かののち。
田中はRS3部長に会社へと呼び戻されると、こってりと弁明を強いられることとなった。
翌日。
そのとき、ドアを開けて経理課に入ってくる人間があった。
久しぶりに顔を見せた、初江であった。
初江が晴花に是非を問うたとき、綾子は机の下で足先を伸ばして晴花の脛を二度つついた。
「都合よくコトが運ぶような環境をつくれ」
無茶振りを被った晴花は、案の定うろたえた。
そう言い残して、初江は上階に向かった。
その日の昼。
賞罰委員会を経て、田中の処分は明日(みょうにち)からの出勤停止五日間と決められた。そしてこの処分は、その日のうちに本人へと伝えられた。
解雇という最悪の結果を免れただけで、綾子にとっては十分だった。おそらく初江がいい方向に働きかけてくれたに違いない……綾子たちは、そう思った。
その日の夜、ナーヴ前。
薄手の七分袖のパーカーのトップス、ダメージドのボトムス、そのうえベースボールキャップを目深に被った田中が、ナーヴの向かいの道路わきに隠れるようにして立っていた。
いつもと違って、長い髪を右サイドからクリップで止めている。ちょっと見、田中とは分からない装いであった。
綾子の言に導かれるようにして、三人はナーヴへと入っていった。
処分が出た後、綾子は田中に連絡を入れ、会社帰りにナーヴで会う約束を取り付けていた。
そもそも処分を受け入れず、田中が辞めてしまうかもしれないことが、やはりどこかで心配だった。
さて三人は、木椅子に身体を預けてからというものなごやかでいながら、それでいてそこはかとなく緊張感の抜けない、奇妙な空気の中で食事をとっていた。
翌日。
田中の出勤停止一日目。
社長は、ビルの共用通路の片隅に止めてある社用自転車にまたがると、荷物も持たずに軽装で出掛けて行った。
しばらくの後。
DEMONSTRATION 9:
DEMONSTRATION 10:
DEMONSTRATION 11:
しばらくの後。
と言って、プリントアウトしたグラフにシールを貼っていく綾子。