Third Step
Story > Chapter 3 > Section 2
綾子は、銀行からの帰路にいた。
9月に入っても秋の気配など微塵も感じさせない街並みを、歩く。容赦なく街を刺す強い日差しを避けるようにして、綾子は建物の影を次へ次へと踏みながら会社へと向かっていた。
しばらくして、以前「OLのためのビジネスデータ分析」を買い求めた駅近くの書店のあたりまでやってきた。すると、うつろな面持ちで書店に入っていく安堂の姿を認めた。
悪戯ごころを起こした綾子は、安堂の後をつけるようにして書店へと足を踏み入れた。
平日の、それも開店して間もないこの時間だ。客足は、まばらであった。
綾子は人波のカムフラージュをあきらめて、何やら物色している安堂の傍らへ、本棚の陰を伝って近づいていった。
そう言って、安堂が胸の前で広げている本の表紙を、綾子は首をかしげて覗き込む。
安堂と別れた綾子は、まっすぐに会社へと戻った。
晴花がタスクバー上のブラウザのアイコンをクリックすると、画面いっぱいに写真ビューが広がった。
その日の夕方。
綾子は、毎月の恒例 “ポイント” のパレート分析をおこなっていた。
週があけこの日、出勤停止期間を終えた田中が出社した。
「面目もないこのくすぐったさをどう処理したらいいか」最初、田中は社内での居心地の悪さに悶々とした。
が、それもつかの間。
期間中にためこんだ庶務への対応に追われ、ささいな重荷とは向かい合う暇もなくなっていった。
日が落ちきった頃、ようやくひととおりのカタがつく。
田中は、その足で綾子たちの待つ経理課へと向かった。
ひろがる沈黙。
失意極まる表情をつくる田中。
それを見て、自然とふたりも押し黙ってしまった。
と思えば、田中は突然表情を崩し、吹き出した。
もっとも田中の沈痛な面持ちは、端から悪戯ごころのなせるものだ。にもかかわらず、自らが作り出したはずの沈黙にまっさきに耐えられなくなったのも、田中自身であった。
田中は口角をとがらせながら、唇の前で右手の人さし指を数度左右に払った。
綾子は自分のパソコンに向かい、田中の望むデータを抽出する。
田中は、綾子の背後へまわり身を乗り出すようにして画面を覗き込んだ。そして、綾子の頭を二度なでてから微笑んで晴花に言った。
と言って 田中は一度口を結んでから、ふたたび口元を緩めた。
田中は 左手に抱えたポケットファイルから、一枚の紙片を取り出した。
記事の小見出しを数度叩く。
綾子らは、再度その場を覗き込んだ。
田中は、紙面の円グラフを指し示した。
今度は、綾子のディスプレイのヘリを二度つつく。画面には、先ほど綾子が作成した顧客の業種別構成比(金額ベース)が、表示されたままになっていた。
晴花は田中がしたように綾子の頭をなでると、田中の方に顔を向けた。
綾子は本を自分の顔の高さで遠慮気味に掲げると、開いたページを田中と晴花の方に向けて示した。
晴花は、下くちびるに人さし指を添えた。
そして、綾子のひらいたページをまじまじと覗き込み、眉間に大きなしわを寄せる。…晴花は嫌悪を隠さない。
しばらく眺めていたかと思うと、綾子の方へ顔を向け、やさしい微笑みを返した。
が、田中には唐突に突き放すような言葉を放つ。
勇みすぎた。
言葉の背後にあったものを晴花に敏感に察知され、かわされた田中は、そう思った。
田中はあわてて、自分の招いた妙なきまりの悪さをとっぱらおうとする。
確かに、田中はきまりの悪さを自分で招いた。
しかし、それは取り繕ったつもりでいた。
それなのに、晴花は脈略もない呑気な問いかけを投げてくる。
「いささか寛容さに欠けるのでは」。
大人げない晴花の反応に、田中は怒りを覚えずにはいられなかった。
どこか壊れた。
晴花から矢継ぎ早に発せられるボーナスの話題を止めようと、綾子は咄嗟に遮ろうとした。
めてください。
そう、言おうとした。
言えなかった。途中で止まった。
綾子は晴花のことをこのうえもなく慕っている。晴花の性格も、人柄も、能力も、それに容姿にだって、すべてに憧れているところがある。そんな心服の対象が、脈略のないことを言って田中を悩ませるとは、綾子には思えなくなった。
思いつくところをあさる綾子。
気持ちが、先走った。眉間にしわを寄せ、必死に、そして命の危機でも迫るかのように懇願する綾子の口調は、ひどく滑稽で、思わずふたりの笑いを誘った。
少々困惑したものの、田中はまんざらでもない気分になった。
晴花は再び、田中の評価を制するように淡白な返答をかえす。
パソコンに向かって作業を始める綾子。表計算ソフトのピボットテーブル機能を使って、数分の作業を経てデータを抽出した。
綾子からリストを受け取り、田中はひとたび二階へと上がっていった。
作業の間、晴花の優しい微笑みに幾度かふれ、綾子のなかにひとつの衝動が芽生えてきた。
伝えたかったけど我慢しないといけないと思ってきたことやがてこれを口にしたい気持ちが抑えられなくなっていた。
晴花はふたたび綾子に笑顔を返す。綾子をまっすぐに見つめる瞳は、意外にも気丈な光をたたえていた。
綾子は、晴花の心の奥に潜む “陰” を初めてみたような気がした。初江が言っていたことは間違いではなかったことを、初めて理解できたような気がした。
綾子は涙をこらえきれず、晴花の胸に額を垂れ、泣いた。
100件を超すデータを閲覧する田中は当分戻らないだろう。晴花は、綾子の背中をそのまま両手でやさしく抱えていた。