Third Step
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しばらくの時間を費やして、田中は綾子から渡されたリストに並んだ会社の評点を転記し終える。
そして、靴音を響かせながら経理課に戻ってきた。
勢いよくドアを開ける田中。
腫れぼったい目をして虚空に視線を泳がせるたふたりの姿を視界に入れると、田中は居場所を失したように思えてきて、逡巡した。
田中の問いかけに少し遅れて、綾子が口を開いた。
給湯スペースに向かう晴花。
給湯スペースの方から響くカン高いやかんの笛の音。
その後しばらくして、晴花がお盆を両手に戻ってきた。
綾子と田中は、晴花の淹れた茶をすすりながら、和気あいあいとした空気の中で作業を進めた。
一方晴花は、田中の転記してきたデータの入力を買って出る。予備のノートPCを開け、せわしく指をおどらせた。
しばらくして、三人がすべての準備をおえた。
DEMONSTRATION 12:
三人は、すっかり暗くなってから家路についた。
とりとめもない話に花を咲かす中、田中は思った。明日からの何日かが、自分の人生にとって、いい意味でも悪い意味でも、後にも先にもないくらい密度の濃い日々になるだろうことを。
田中は、その予感を胸に暗夜の空を見上げ、身を震わせた。
翌日。
晴花が出社したとき、経理課には総務部長の姿があった。
いや、綾子か晴花のどちらかが出社するまでは、総務部長の姿が経理課にあるのは日常のことだ。
だがいつもであれば、その後に定型文のような激励の言葉をかけて早々に上階の自分のデスクへと戻っていくはずの部長が、今日に限って経理課でのんびりと新聞を広げている。
そんな光景に違和感をおぼえたのか、綾子もほほを膨らませ、頭を小刻みに左右に振りながら受付台を雑巾で拭っている。綾子なりの怪訝な感情表現だと、晴花は思った。
総務部長は、時計にちらりと目をやった。潮時、といわんばかりの表情で立ち上がり、綾子にひとこと告げた。
といって立てた親指を上下に振る総務部長。
それを見て、綾子らの顔も強張った。
そう言って、総務部長はゆっくりと階段を上っていった。
綾子は、田中に頼まれていたデータづくりに取りかかった。昨夜作ったデータから、田中に要求されたいくつかのパラメータを計算し、これらを一枚の紙にプリントアウトした。
綾子が二階のフロアへあがると、毎日と変わらぬ喧噪があった
ように見えたが、どうやら社長をはじめ役職者の姿が見えない。綾子は田中にデータを手渡すと、耳元で囁いた。
そう言うと、田中は、綾子の手を引き階段の踊り場まで連れてきた。
経理課に戻った綾子は、田中に聞いたことを晴花に伝えようとした。が、電話中の晴花を待つうちに自身も庶務に追われることとなり、ようやく晴花に告げることができたのは、朝の喧騒が落ち着いてからだった。
上から降りてくる靴音を察知すると、晴花はあわてて会話を切った。
経理課のドアを開け、紅潮気味の社長が部屋に踏み入れる。それに続いて宮地が、雑駁な感情をうまく処理しきれないさまを表情にうつしながら入室してきた。社長は、綾子に応接室が空いていることを確認すると、宮地とともにそこに入っていった。
仕事の手を動かしながら、漏れ聞こえてくる声の断片を必死に拾おうとする綾子たち。内容は、宮地の退職を思いとどまらせるための説得であることは確信できる。が、こと宮地の反応は鈍い様子で、拾える声のほとんどは社長のものであった。
そんな説得も半時間ほど進んだとき、観念したのかはっきりとした口調になって、宮地は思いを語り始めた。
社長は、固く唇を結んだ。
宮地はしばらく黙ったまま、頭の中でどうすべきかの選択に迷っていた。
が、この場を収めるための選択肢はひとつしかない。
宮地は結局、吐露せざるをえなかった。
社長はそこで話を切り上げ、宮地に退席を許した。
しかし社長はいっこうに部屋から出てこない。社長ひとりが残る応接室の静けさに、綾子たちはただ不気味さを感じていた。
とにもかくにも、長い時間が過ぎた。
そして社長は、漸くのあと応接室の扉をあけた。
長い不気味な沈黙のあとの第一声が、自分たちへの呼びかけであったことに、輪をかけて気味の悪さを感じる綾子たち。
社長は、社内では初江のことをそう呼ぶ。役職のない非常勤の役員としての彼女を指す適当な呼称がみつからず、いつしか自然とそう呼ぶようになった。自分の母親でありながら妙に他人行儀に聞こえるその呼称には、綾子たちも内心滑稽さを感じている。
社長は、綾子たちの頼りない返事に不安を覚えながら、上へと戻っていく。
そしてデスクに腰を据えるなり、即座に総務部長を呼び寄せた。
意味深なタメをつくる社長。
社長は懐からスマートフォンを取り出し、着信履歴の映る画面を総務部長の眼前に突き出した。
圧迫感に不安を覚えた総務部長は、それと距離をとるように、目を瞬かせながらを顔を引く。社長がスクロールさせる履歴の中に、濃い密度を占領する一つの電話番号が目を引いた。
その日のお昼休み間際。経理課。
そう言って、宮地は二階に戻っていった。
留守当番の業務課社員がやってくるのを待って、綾子たちは公園へと出かけた。
二日後。
綾子は銀行に出かけ、このとき経理課には晴花ひとりだけがいた。
綾子たちはこの日朝、面接のため来社する人物があるという旨の連絡を、総務部長から受けている。
しかし彼が伝えたのはそれだけだ。
人物の名前や予定される時間といったことを、綾子たちは知らない。いや、そうしたことは彼からしたら、自分だけが知っていればいい些事だ。些事である以上、人物の名前や時間といったものが彼女らの都合と結びつきはしない。したがって彼は、人物が来社したら二階の応接に通すこと、だたこれだけを伝えていた。
「それが部長の人となりだ」
綾子たちも十分にわかっている。そもそもこの会社では、社員として、曲解気味の “一を聞いて十をなす姿勢” を求められる。くわえて総務部長は、社長の方針にたいして誰よりも勤勉な男だ。綾子たちも、それをイヤなほど感じとっている。だからこそ、総務部長に対していちいち仔細を問うようなことはしない。
いつもなら少なくとも経理課はそれでも上手く回っている。綾子もそうだが、とりわけこの場にいた晴花だって、それはそれでいいと思っている。
だが、この日の晴花にとっては…それも違った。
内線対応中の晴花は、受話器をあわてて置いた。
晴花の席は、動線的には出入り口から最も奥まった場所になる。この席を立って、晴花は、小走りで総務部長と初江の共有デスク、そして綾子のデスクを回ってドアに向かった。
あわてた晴花は、綾子の椅子に体を引っ掛ける。
痛みに顔をしかめたい思いをなんとかして抑え込むと、下を向いたままドアノブに手を掛けようとした。
その瞬間、向こうからドアノブが回る。
晴花は、あわてて顔をあげた。