Third Step
Story > Chapter 3 > Section 5
経理課をあとにした田中は、階段を上りながら晴花の言葉を反復した。
このとき、田中の頭にふとよぎるものがあった。
二階の自分のデスクに戻ると、吸いよせられるようにして引き出しに手がかかる。
田中は怪訝に記事を見つめながら、目に留まる大小の見出しをあらためて声にした。
そのまま記事を手にして、田中は椅子から腰を上げる。そして、再び経理課へ向かわんとして歩きだした。
しかし、それもつかの間。
いくらか歩みを進めたところで、はたと立ち止まった。
踵を返すと、田中は再度席に着く。
そして、机上に積み上げられた真っさらなレポート用紙の束から一枚のそれを抜き出す。
田中は、そこに心の声を走らせた。
思案は堂々巡りするばかりで、真っ暗な隘路に差す光明を見出すことができなかった。ここまでに、これぞという営業プランを持てずにいることが、田中の焦りを加速させる。
いよいよ、この空間にいるのが嫌になった。月末特有の見えない拘束力のようなものが、幅を利かせ過ぎなのだ。
散らかった机上のものをいいかげんに整え直すと、田中は、早々に家路につこうとした。
他人と異なる行動は、視界を割って届きやすい。
社長は、田中のそのなりを視野に入れていた。
そんな視線を知ってか知らずでか、フロアを出て階段を降りると、田中は経理課へと立ち寄った。誓いを立てた以上、綾子らに助力を乞うためではない。だが、何となく心の負担を共有してもらえる居心地のいい場所を求めた自分がいることを、田中は心のどこかで感じていた。
綾子はパーテーションで仕切られた物置場で、雑多に積まれた段ボール箱をかき分ける。
そして、奥に鎮座する衣装ケースのようなクリアボックスから、ポッキーを取り出してきた。
ポッキーの箱を開けると、その中の一本を取り出して口に含んだ。そして経理課を出ると、田中は会社を離れた。
空腹を紛らわせられれば何だってよかったが、「意外とおいしい」田中は思った。
思わずポッキーの箱をひっくりかえすと、箱に貼りつけられたシールに目をやる。
“Offisnack Service(オフィスナックサービス)社”
仕事柄、県下多くの会社を知る田中自身でも、これまで耳にしたことのない名前であった。
「据え置き菓子自体…新興サービスだから当然か」
田中は、箱の裏書きから、このサービス業者の所在地がそう遠くないところにあることを知った。
最初は “夕食を済ませるうちに”、それがダメなら “湯船に浸かりながらでも” やがていいアイデアが浮かんでくれば…そう期待した田中であったが、結局、その期待のほとんどは泡となって消えていった。
灯りを落とした薄暗い部屋の中で、田中はひとり鬱々とした気持ちを巡らせていた。
よこしまな思念を断とうとして、買い置きのウイスキーをストレートでグラスに注ぎ、中身を空ける。
それがいくらか繰り返された後、田中は、窓際の机につっ伏した。
どれほどの時が経ったか。
田中は、カーテン越しに射し入る陽の明るさを感じた。
そして、変わらぬ現実がずしりと重くのしかかる朝を迎えたことを、知った。
出社後しばらくたってから、田中は、綾子と晴花に挨拶しようと経理課に顔を出した。
最近の彼女にとっては、もはや日課のような行動だ。
田中は、内心を覚られるのを恐れた。何より八方ふさがりな現状に辟易している。多少の無駄話に花を咲かせることも、今は辛かった。
だが、綾子たちに心配はかけたくない。田中は苦い笑いを残したまま、そそくさと経理課を離れ外へと出かけた。
勢いで経理課を飛び出した。綾子は、階段を駆け上がった。
そして二階フロアの入り口から一面を見渡し、ひとりの人物の姿が見つけられるよう、願った。
綾子の視線の先にあったのは
宮地の姿であった。レポート棚で資料を物色している宮地のもとへ、綾子は小走りで駆け寄った。
ふだん、仕事の上での綾子とRS部員とのやり取りは、内線電話を通じてか、あるいは経理課で直接おこなわれるかのいずれかで、ほとんどは完結している。宮地は、綾子がわざわざ自分のもとに足を運んできたことで、特異な事情の存在を予測した。
周囲の耳目を避けられるところで話したいそんな綾子の意思を汲んで、宮地は綾子に階段の踊り場へ移動するよう促した。
綾子は、田中の直面する事情とその経緯について、宮地に細かに打ち明けた。
田中を助ける?突拍子もないことを言う綾子が、冗談でも言っているのか…宮地は最初、そう思った。しかし、悲壮な訴えを自分に寄せる綾子を目の前にすると、それが本心であることが痛いほどに伝わってくる。
「長く一緒にやってきた以上、自分に対し不平や不満を抱えたこともあっただろう。にもかかわらず、文句ひとつ言うことなくいつだって笑顔で接してくれた綾子が、今、心から自分を頼ってくれている」そのことに、宮地は稀有な喜びを感じた。
しかし、綾子にそれほどまでに親身に思ってもらえる田中のことを考えると、嫉妬の感情も否定できない。
宮地は綾子をなだめると、仕事へと戻っていった。そして経理課に戻った綾子は…
晴花に自分のとった突飛な行動を打ち明けた。
その日の昼。
RS部には、宮地の姿があった。
たとえ少しであろうと、綾子の思いに沿うことができれば
そう考えた宮地は、スケジュールボードの走り書きから田中が帰社するタイミングを待ち受けていた。
しばらくすると、予定の通り、期限の調査原稿を収めんとする田中が帰着した。
宮地は田中の仕事が落ち着くのを待って、声をかけた。
ふたりは会社を出、近くの古めかしい定食屋で食事を済ませることにした。
これまで、田中は宮地と一緒に食事をする機会をもつことなどなかった。お互い外回りが中心の仕事である。すれ違うことが当たり前の世界にあって、そんな機会を持たなかったことは不思議でない。
ただ、田中にとって宮地は “別格” だった。この業界で生きるために必要なすべての資質を備えているように映る人間であった。そうした劣等感が、これまで宮地と一緒に食事をする機会すらなかったことに、妙にはまる理由を与えていた。
それゆえ、田中は宮地の不意の誘いに躊躇し、いぶかしんだ。いつ宮地が何らの本意を語るのか…そればかりが気になった。
しかし、あたりさわりのない会話をしながら食事を終えたかと思えば、あっさりと店を出てしまう。
結局、田中には宮地がわざわざ自分を誘った理由も解せなかった。田中は内心、大切な時に無駄な時間を費やしてしてしまったことを、ひどく後悔していた。
…奇妙な組み合わせのふたりが会社に戻る道で、宮地は、尋ねた。
田中は焦った。確かに、食事中も、うわの空で話を聞いていたような気がする。頭の中には、目先の問題ばかりがちらついていた。心の翳りを上手に覆えていなかったことは、宮地にも十分に伝わっていた。
宮地は、唐突にとある会社の名前を口にする。田中は、その意図を測りかねた。
宮地は、笑顔を消して問いかけた。
時間がない。
田中にはやらねばならないことが多すぎた。宮地と別れるなり、躊躇なくアポを入れる。
意外にも、感触は良好だった。
アポをとるだけでもハードルが高そうだ最初に抱いていた予想をいい意味で裏切った。
「少しでもいい。とにもかくにも、会ってもらわないことには可能性さえ生まれない」
田中には、そんな思いがある。
電話を切ってから、早速、シナリオづくりに取り掛かった。
そしてこの時間。田中はSEM社にいるのだが
田中は、例の新聞記事を応対に出た男に示した。
なんともイカツイ顔をした大柄なこの男は、応接に通された田中をゆうに半時以上も待たせている。そしてようやく現れたかと思えば、待たせたことを詫びることもない。男は、田中の名刺を一瞥もせずに受け取ると、そのなみなみと膨れた腹の重さに相応しい音を立て、ソファに腰を下ろした。
「で、何?」
男は無粋な第一声を発した。拍子抜けした田中をよそに、男は、対向して座る田中に向け、「購買部資材調達課長」と書かれた名刺を机上を滑らせて放った。
「なんとも扱いにくい人物が出てきた」田中は、運命のいたずらを呪った。
それでも、宮地の話を聞いて自分なりに顧客の利益を織り込んで練ってきた営業プランには、そこそこの自信がある。今、まさに自分が描いたシナリオどおり、BBIの調査記事の話題にまで持ち込んだところであった。
購買部資材調達課長は、ここにきてはじめて田中の名刺を眺めた。
田中は、この傲慢で威圧的な言葉を投げかける男を心底憎たらしく思った。その気持ちをしゃにむに堪えながら、田中は宮地の言う設備投資の話がどの程度の確信をおけるものなのか、確かめるまでは死んでも帰るか!…と思う。
資材調達課長が席を立ち、この場を切り上げようとする。田中は思わず立ち上がり、彼の肩口をはたとつかんだ。
それでも、彼は意に介すこともない。
田中の手を肩で払うと、重い体を引きずって応接室をあとにした。
商談をさせてもらうことなく、門前払いと何ら変わらない恰好で、田中はSEM社を追い出された。その田中が、今、会社へと戻ってきていた。
帰路、田中は不思議な経験をした。
「無名だからと見下しやがって。 形式主義に堕ちたレッテルヤローめ…」
いつもの自分なら、そうして怒りをひきずっただろう。そして、二度とSEM社とはかかわらない選択をする。見通しの厳しい先に、大きな労苦・時間といったリソースを割くことは往々にして博打となりがちだ。
しかし田中は、撤退しないと決めた。
「空回りは楽しいぞ! アタシ」笑って言った。
「もともと、ダメもとで足掻いてみようと思ったんだ。アタシはスーパーマンじゃない。これでいいんだ。ホントーに徒労に終わっても、逃げなかった自分でいたい。自分のやりたいことをやりつくして終われれば、もう悔いはない」田中は、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
帰路、田中はSEM社をどう攻略するか、あらためて練り直した。
「あいまいではマズい。ここにきてあらためて考えてみると、アタシが握っていったプランなんてものは、いささか貧弱だったかもしれない。とにかく、ウチとの取引が相手に利を与えることに説得力をもたせないと…」そう思った。
しかし、たとえシナリオを固めなおしたとしても、そもそも交渉の機会を得られなければ意味がない。形式にどっぷり浸かった相手に、もう哀願は通じない。田中は、それに悩んでいた。
いや。
悩んでいたというのも語弊があろう。ここにきて、カードは、ひとつしかなかった。ただ、それを切ることへの葛藤があまりに大きかった。
落ち着かない。
席を立ち、外気を求めて建物の外へ出ていったかと思うと、田中はまた席に戻って椅子に身体を預けている。
田中はがばと席を立ち、ゆっくりと歩き出す。
そして、この人物の席の前にやってきた。
ふだん決して良好でない関係のふたりは、接触も多くない。それゆえ社長は、田中の行動を茶化した。
が、田中もいちいち気に留めない。
田中は、SEM社を営業ターゲットとしていること、その理由、およびSEM社での出来事について、目の前に座る社長に打ち明けた。
なるほど、と思った。だが、今回ばかりは一度決めたターゲットに正面からぶつかって、終わりたかった。
社長に対し、田中は慇懃に頭を垂れた。ここに来て、石井との勝負への執着さえも、社長への恨みつらみも、もうどこかへととんでいた。誰でもない “自分との闘い” をただ完遂させたかった。
そんな思いが、田中の頭をすなおに低くさせた。
それからしばらくの後。
田中は、明日の面会のアポを取ることができたことを知らされた。知らせを聞いた田中は、ひとまず安堵する。が、それも束の間、すぐに帰り支度を整え、あわてて会社を出ていった。
その深夜。
「なつかしいな」
自身が大学生だった頃の講義ノートを眺めながら、感傷に浸る田中がいた。
“産業連関表”
「日南さん、これが私の “突破口”。そして、あなたへの答え」
田中は心の中でつぶやくと、悩みぬいたすえにようやくひり出したこの回答に賭けてみる決意を固めた。「アタシのシナリオの成否は、もう、これ以外の選択はない」
しかし、いくらか昔の記憶である。田中には、まずその基本的なしくみを思い出し、整理しておく必要があった。だからこそ、帰路、実家へ寄って押入れの奥からノートを引きずり出してきた。
深く息を吐いて呼吸を落ち着けると、田中はノートパソコンをひらく。今、田中の記憶をたどる作業が始まった。
DEMONSTRATION 13:
翌日。
社長がいない!
予定では、とっくにSEM社へ一緒に向かっているはずの時間であった。
しかし、社長は外出したまま連絡もつかない。これ以上社長を待っていても、SEM社との約束の時間に遅れてしまう。田中は身動きが取れなくなった。
約束の時間を変えてもらうか、単身向かうか。
そもそも田中の置かれた状況は、例えるならば断崖の一本橋を注意深く歩くさまに似る。かすかに引かれた道筋を外れた時点で、再び橋上に這い上がってこられる確率は…皆無だ。田中は究極の選択にイラついた。
「もうダメだ。アイツを信じた私がバカだった」
…そう思った瞬間、社長が会社に戻ってきた。
そう言って、田中に鍵を投げて渡した。田中は空でそれを受け取ると、鞄を片手に早足で駐車場へ向かう。
社長を会社の前でひろった田中は、ふたりでSEM社へと向かった。
面を、くらった。
応接室にやってきたのは、「購買部資材調達課長」ではなかった。
財務部長は、来訪に対する礼を丁重に告げる。彼は、田中の驚きの表情を見て、言った。
彼は、田中の反応を見越して悪戯心に満ちた質問をした。
眼前の男が何を言いたいのか、このときの田中には分からなかった。
彼は田中の質問に答えることなく、にこやかな顔をして黙っている。いかにもな作り笑いだ。
昨日のこともある。その、“いかにも” な部分を察した田中は、警戒した。
しばらくの沈黙がつづく。
本当のところ、田中はこの気まずい沈黙を早々にやぶりたかった。しかし、我慢した。昨日から相手のペースに嵌められっぱなしで、少しの意地も出てきた。相手の出方を我慢できるギリギリまで見定めるべきだ…そう思った。
先に沈黙を破ったのは、SEM社財務部長の方だった。しかし、彼の顔から笑いは消えた。
田中は返事に困った。
つい、横に座したまま物言わぬ社長の横顔を、ちらりと見る。
…反応がない。無反応っぷりに腹が立った。
しかし、この社長は物言わぬ屍ではないのだ。「アタシが危うい手順を踏んだとしたら、この人はきっと口を挟む」そう思った。「だから好きにやろう」 そう決める。
田中は結局、本当のところに触れることにした。
財務部長は仰ぐようにして、天井を見た。
「またか」とでも言わんばかりに。
「選択をあやまったか」…田中はそう思った。
彼は、手のひらを田中に向けて、会話のバトンを渡した。しかし、田中にはその意図がわからない。
田中の反応を見て、財務部長は再び会話を引き取った。
田中は、思わず驚嘆の声を上げた。
財務部長は再び笑う。
田中は、うれしかった。昨日はあれだけ腹立たしく思った資材調達課長が、なんだか愛らしいハズレくじを引かされているようで、おかしかった。
「やはり、甘くないな…」
田中は思った。
しかし、これは宮地の情報だ。
「彼のことだ。十分な状況証拠が揃っての情報のはずだ」
田中は、宮地の仕事を信じた。
財務部長は、「空虚な話に付き合えない」とクギをさす。「財務の人らしく、とても合理的な考え方をする」と田中は思った。
シナリオは、ある。
しかし、それをどう開陳していくかであらたな悩みが出てきた。
「期待していない」財務部長の言葉の端々から、そんな慢侮の念がにじむのだ。乾いたスポンジが余さず水を吸い上げるがごとく、自分の話を受け入れてもらえるような心の状態にあるとは思えない。
田中は、社長の横顔をちらりと見る。
この人なら「ならばそれを利用してやれ」と言うはずだ田中はそう考えた。
しかし、実際の社長の見方は違った。「ここまでだな」と。
社長の頭の中には、ひとりで勢いで突っ走って、あげくの果てに大怪我して帰ってくるそんな田中のイメージがある。「急く者は運頼み。ゆえに運に恵まれなければ潮時だ」そう思った。
「無茶をする」
社長は、驚くしかない。「こいつは、いろいろと若い」それでも社長は、田中の主導権を横取りして口を挟むことをしない。田中も当初は、無言を貫いたまま加勢しない社長の存在が腹立たしかったが、ここに至ると、そこに腹を立てているような余裕さえ、ない。
財務部長は知っている。取引を求めてやってくる大方の人間が、急いて田中と同じ選択し、散っていくことを。「彼女も同じだ」自然、そう思う。
田中は、鞄からノートパソコンとホチキス止めした紙の束を取り出た。目の前のテーブルの手元のほうに、紙束を、何も書かれていない面を上にして置く。そして、財務部長により近いところへ、ノートパソコンをひろげて置いた。
「いよいよ、この時が来た」
田中は感慨に浸る。綾子らに励まされ、ここまでやってきた。始まる前から、そんな苦労の日々がちらついた。
にこやかに言った。緊張もあって、つい、記憶に侵入してきた綾子の口調に引きずられた。「相手のペースに呑まれてやがる! どうせやるなら自分のペースでやれ」…そんなふうに、社長は目線でいちいち無言のツッコミを入れている。
アクシデントが先走ったが、考えれば田中は、「提案がある」という。
社長には意外だった。「とにかくおまえの長いこれからに影響を与えるような大怪我だけは、してくれるな」それだけが気がかりだった。
自己批判をオレに振りやがって。
社長はそんな顔をしている。この時ばかりは無言を貫くわけにはいかなかった。
田中と社長の、立場を転じた自虐的な掛け合いに、財務部長は思わずあきれたように笑った。
田中は、「地域志向」と書かれた見出しに人さし指を置いた。
荒唐無稽とはまさにこのこと。
「根拠もなしに、誰がそのように都合よく解釈してくれると言うか!」
表にこそ出さなかったが、財務部長はせせら笑った。
「大きな話は、フタを開けてみればたいていがハリボテだ」幾多の交渉の場を踏んだ経験から、彼はそんなことを学んできた。
田中の話も例外でない。都合のいい夢物語、なのだ。
「ウチを相手に、私を相手に…この程度の見識とは。なめられたものだ」
その瞬間、彼の心の奥深くに抑えていたものが姿を現したがった。
これが、無名の会社たらしめる資質だ…内心でそう思う。
ただ、“相手を格上と認める儀式” を経て道理を示し、今、眼前におとなしく座している人間たちの忠実さは嫌いではない。
久方ぶりの商談の場を得て、抑圧していた邪なものがことさら首をもたげたがる。
「見識の低さは、会社としてのステータスの低さや社会人としての経験の浅さにある」
両者において優れる者が諭すべきだ財務部長の中で、いよいよ傲慢なものが表出した。
彼は、田中とリサーチサービス社を完全に見下した。
田中が話を続けようとしていたところに、財務部長は強引に言葉をかぶせた。
田中は黙って聞いている。会話の主導権は、財務部長へと移った。
田中は下を向いた。
腹の内で、ひっそりと考えをめぐらせながら。
一笑に付す。財務部長がこの時見せた表情は、例えれば文字通りそんな感じなのだろう。
ともかく、彼はこの場を閉じようとした。しかし…
…と、おもむろに田中は言う。
財務部長は、田中の冷静なモノの見方に驚いた。そんな彼の姿を見て、田中は思った。
田中は、手元に裏返しておいていた用紙の束をひっくりかえし、数々のデータがプリントされた面を上にする。
しかし、財務部長にそれを提示するわけではない。交渉カードとして、ギリギリのラインを探りたかった。
「こんな危ない橋を渡る営業は二度とするまい」田中は思った。
一企業の投資から地域貢献度を試算?
これはホンモノか、あるいは “本物のバカ” かどっちかだ。
見極めるには、時間がいる。本音を言えば、一度見下してしまった以上、「本物のバカ」の方であってほしいと思っている。いずれにせよ、講釈を垂れてしまった自分の羞恥を増幅させないうちに、この場を切り上げたくはあった。
しかし、彼は合理を大切にする人間だ。ここで、合理に縛られた。
「感情にまかせては狭量っぷりをさらすだけだ」
彼の自尊心は、それを最悪の恥とした。
財務部長はいましばらく、この人間たちのために時間を割くことにした。
田中は、自分が失意のどん底にいた頃、綾子らに励まされた時のことを思い出していた。「人の心を最後に動かせるものは、結局のところ相手のことを真剣に思いやれるかどうかだ」…あの時の経験で、そんなことを学んだように思っている。
ここに臨む自分の本気さはウソではない。「でなきゃ深夜まで相手のために仕事を引きずったりするものか」そんな確信がある。自分がやれることをすべてやり終えた以上、最後は気持ちをストレートにぶつけておきたかった。
話を聞いて、財務部長は、目の前の人間たちを軽んじたことを恥じた。
だがそれでも、「リサーチサービス社」という会社を信じかねていた。
企業の器が大きくなるほど、“前例” や “実績” というものの有無が重くのしかかる。SEM社にとっても、それは例外でなかった。
その時、今まで押し黙っていた社長が、ふいに口を開いた。
驚いた田中は、社長におもわず目をやった。
社長は、眼前の真っ白なテーブルの上に両手を小さく添え、額がテーブルとくっつくほどに頭を下げる。
田中は目を疑った。勝ち気で、傲慢で、思いやりに欠け、いけ好かないと思っていた社長が、何を思ってか自分のために土下座に近いかたちで頭を垂れている。
田中に眼前の出来事がようやく理解できたとき、社長に続いて、自身もテーブルに頭を擦りつけた。
田中は、言葉を失った。
SEM社を墜とした。
田中には、うれしさよりも、信じられないといった気持ちが先にあった。
契約に係る事務手続きを済ませ、ふたりがSEM社をあとにした頃、空はすっかり陽が落ちていた。
自分の隣で頭を下げた社長は何だったのか。田中は、ハンドルを握る社長を見ながら舌打ちした。
社長は黙っていた。
無言の時間がしばらく続いたかと思うと、社長は、妙なことを言って路肩に車を止めた。
車は、郊外の辺鄙な場所の路上にある。こんな場所の一体どこに寄りたいというのか、田中は皆目見当もつかなかった。
田中が躊躇しているうちに、社長は周囲の暗闇へ姿を消している。
田中は、状況が呑み込めないまま運転席へ移った。そして、周囲にあるものを確認しようと、カーナビの画面を覗いた。
○○墓地。
田中は、そう遠くない距離にその文字を確認すると、社長を残したまま車を出した。
経理課。
この月の最終営業日。
ほとんどのRS部員が出払ったこの時間、二階のフロアの一角には、社長と石井の姿だけがあった。ふたりは、何やら話こんでいた。
石井は売上伝票を社長に押しつけるように渡すと、逃げるようにして外出していった。
経理課。
この時間までに、すでに多くのRS部員が会社に戻ってきた。しかし、田中の姿は見かけない。綾子は、夕方あたりから田中が帰ってくるのをずーっと待っている。仕事が、手につかない。いよいよというところで、心が落ち着くはずもなかった。
二時間あまり前、社長が経理課にやってきて、綾子に各部門の売上状況について説明を求めた。石井と田中の個別の状況についても、もちろん聞かれている。
綾子のもとには、二人の状況が動くような伝票は降りてきていない。
「72万円と78万円」。状況は、昨日から変わるものではなかった。
ただ、先月のことがある。綾子らには、情勢がどう動くかまったく読めるはずもない。この時間になっても田中の勝利に確信を持つことはできなかった。
社長は綾子に説明を受けると、そのまま共有デスクに腰を据え、新聞をひろげはじめた。「社長が経理課に居座り出した!」…各部長たちは、半ばあきらめたような顔をして、状況報告のために経理課にせわしく足を運んでくる。
「余計、仕事にならない…」。綾子は、晴花に憂えた視線で訴えた。
それから…2時間がたつ。
「社長は田中さんを待っている」。何一つ無駄口をたたくことのない社長だが、綾子らには、そうとしか思えなかった。しかし、時間が時間だ。いつ「締めろ」と言われるか、だんだんそればかりが気になってきた。
「何があるかわからない。田中さんが戻るまでは締めさせちゃマズい」
そう思った綾子は、時間を引き延ばそうと画策した。
すかさず晴花の後を追いかけて、綾子は給湯室へ向かった。そして、晴花の耳元で囁く。
ガサゴソガソゴソ…。
そして綾子は、経理課の物置場から “例のもの” を取り出してくると、再び給湯室に向かう。
綾子は、“ハイパーウルトラアルティメット激辛ポテチ” を皿にあけると、晴花の淹れた熱々のお茶とともにお盆に乗せて社長へと持って行った。
社長は新聞に視線を置いたまま、礼を言った。
そして…湯呑をつかもうとした…
…が! 熱いのだ。社長は、そっと手を引っ込めた。
社長は新聞から視線を外すことなく、片手でポテチをつまみ、口へ運ぶ。
どんっ…
その時、ドアの向こうで鈍い音がした。
はめ込みガラスの向こうで、くすんだ茶色の影が、ゴンコン音を立てている。
ドアの向こうから、田中の声がした。
綾子はあわててドアまで駆け、ノブを回した。
田中は、胸に大きな段ボールを抱いていた。
そして、やれやれといった具合に、それを受付台の上に降ろした。
この時、田中ははじめて社長の存在に気がついた。
田中は社長の座る机の側まで行って、売上伝票を差し出し、そう言った。
社長はそれに視線を落とす。
綾子と晴花も、思わず身を乗り出して伝票を確かめた。
社長はゆっくりと席を立ち、田中の伝票を綾子に渡す。
そして懐から別の伝票を取り出すと、
社長はそれを裏返したまま綾子に手渡し、言った。
社長は上に戻ろうとする。
田中は思った。
またか!と。
どんだけ自分をコケにすれば気が済むのか!と。
結局、端から自分を勝たせるつもりなんてなかったんじゃないかと。
コイツは
最低の人間だ
体中の血が、一気に沸騰した。
田中は、怒りに震えた。
声にならないかすれた言葉を絞り出すように吐き出すと、次の瞬間、田中は、怒声を上げた。
驚いた社長が、振り向く。
背後には、田中がいる。
刹那、田中の左手が背中の方へしなる。
そして、社長の右頬めがけ、平手がとんだ。
「終わった」
綾子は、思わず目をふさいだ。
もう、二度目の幸運はない。綾子と晴花もその瞬間…最悪の結果を甘受した。
綾子は、おそるおそる目をあける。
目の前の光景に、驚いた。
社長の右手が、田中の左手首を空でしっかりとつかんでいた。
そう諭すように言うと、田中の手を放し、やれやれといった顔をして両手を天に伸ばした。
そして大きく欠伸をしながら、社長は経理課を出ていった。
呆然と立ち尽くす田中。その田中に、綾子が声をかけた。
田中は泣きながらふたりの懐に飛び込んだ。
一日が終わる間際の静寂が、この小さな経理課を、ただやさしくつつんでいた。
Chapter3 Finished.