Fourth Step
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場は、静まり返っている。
総務部長が催促するように手を叩いて、ようやくまばらに拍手が起こった。
さて、田中の勝利で九月も幕を閉じ、リサーチサービス社は無事にあたらしい月を迎えた。
決算の仕事に忙殺される中、綾子は翔太が幾度か来社したのをおぼえている。そうしたやり取りを経たのち、綾子たちは翔太の採用が決まったことを知った。
そして、月も半ばのこの日。
アルバイトとしてはじめて社のメンバーに加わることとなった翔太が、出社した。全体朝礼が始まるまで、彼は経理課で待機することになっている。
朝礼から遡ること、およそ30分前。
そのとき、総務部長が翔太を呼びにやってきた。
総務部長は、彼を朝礼で紹介するため、場を移動するよう促す。
指示を受け、翔太は、荷物を抱えて経理課を出た。
はじめに綾子を必ず立てる総務部長が、直接自分に話を振ってきた自分の仕事に直接関係するコト以外で、そんなことがあろうはずもない。
晴花は直感した。人事、であろうと。そしてコトこの渦中である。その方面でいい話などありえないであろうことを。
そう言い残して、総務部長も経理課を出た。
朝礼後。
経理課。
田中が、活気に満ちた表情で入ってきた。
田中は晴花を茶化した後、ご機嫌な面持ちで経理課を出て行った。
翌日夜。ナーヴ。
翔太をのぞく五人は、次々と運ばれてくる料理とワインに舌つづみを打った。
新メンバーはとかくいじられる。翔太は、食事の味など楽しむ余裕がない。RS部の面々は、そうした初々しい反応を、いたずら心から楽しんでいた。
それからしばらく。
田中は、宮地にあらためてSEM社の礼を告げると、昔を回顧し、あれやこれやと吐露している。それに対して、宮地は笑いながら、自らの思うところを開陳する。
SEM社の件を通じて、宮地から授かったものの大きさが、ここに至って過去の希薄な付き合いを悔いさせる。田中は、宮地と最後に心をひらいて会話ができる機会を楽しみ、時間の流れるのを惜しんだ。
一方、こちらは…
そんな様子で会もたけなわ…さらに時間が経ってそろそろお開きも、というとき。
タイミングをうかがって、オーナーがキッチンから出、皆の前へとやって来た。
そう言って、弘毅は慇懃に頭を下げた。
「こんな習慣、このお店にあったっけ?」晴花は思った。
そして、デザートを平らげたそれぞれが家路につこうとするとき。
出口の近くにいた綾子が、レジのところにいた晴花を呼ぶ。
安堂をタクシーに乗せおえると、皆固まって駅へと歩いた。経理課のふたりにとって、宮地とはいよいよ最後の時だ。
やがて駅に着くと、宮地は、同じ会社でやってきた田中に 晴花に 感謝を伝える。そして翔太の肩口を叩いてひとこと励ましの言葉をかけると、最後に綾子に右手を差し出して握手を求めた。
綾子が手を差し出すと、宮地はもう片方の手を加え、綾子の手を包む。
手の甲に、冷たいものを感じる。
「あそこの」宮地は駅の一角に目線を向け、笑って言った。
そして綾子の手をゆっくりと放すと、ポカーンとしている綾子をよそに、いたずら顔で去っていく。
甲の上には、ロッカーのカギがのっていた。
そして…。
別の日。
田中は営業先からの帰路、ハンドルを握る。その助手席には社長がいた。
この月に入ってから、田中は、サービス業を中心に顧客の恢復を図ってきた。そのために努力を惜しまなかった。リクツ云々ではない。自らの会社がおかした過ちを、他の誰でもない自分が受け入れ、何より詫びることから始めようと思ったのだ。確かに、多くの顧客にとってはいまさらのことだ。が、自分のような若い世代がひっぱってそれを正していくそんな強い意志が伝われば、顧客の胸をひらかせることもきっとあると、田中は信じた。
好かない社長を連れ出す機会が増えた真意も、そんなことろにある。田中の視線の先には、あのBBI社による調査がある。いつしか自分の会社の商品でメーカーとサービス業とをつなぎ、相乗的な価値が生まれるような瞬間をつくりあげたいそんなビジョンが、おぼろげながら見え始めていた。
あの日を境に、田中は変わった。心の内がそのまま所作に滲むものであるならば、まさしくこう言えるのだろう。
ゆとり、があるのだ。
謝罪行脚のハンドルを握るその横顔にすら、穏やかな空気が漂う。
強烈な成功体験は諸刃の剣だ。自分へとその刃が向けば、過分の驕りや慢心、さらには流れに掉さす発想をも枯らす固定観念を生んでしまう。言うまでもなく、ときの判断を曇らせ身を滅ぼすものだ。
短い間ではあったが、バランス感覚に優れた宮地という有能な模範から大きな影響を受けるに至ったことは、田中にとっては幸運なことであったろう。
顧客と一緒に、何でもないことを心から笑い、核心について得意分野から寄り添える姿勢。少なくとも今は、小手先のテクニックに依存しないその姿を、高みから冷静に観察することができる。
徐々にではあるが、舵がようやく、自分にとっていい方向へまわり始めたと田中は思う。それだけに、あの日の記憶は強烈だ。
「綾っちたちが、あの時もし、引き止めていてくれなかったら…」
そう思いを巡らすと、田中は、背筋に冷たいものが走るのを感じる。
言いやがる。
「いちいち微妙なところを突いてくる」社長は、そう思った。いや、自分でもわかっている。結局、長い目で見たら収穫においては奇策などノイズなのだ。
しかし、つい半年前。必死の覚悟で退路を断った。「今日の糧を盗んでこられる者を貴ぶ」とさえ明言した。情にほだされず、切るべき人間を切った。それによって、傾いていた会社が、利益を生み出せる体質へと生まれ変わろうとしている。田中の件は、その端緒とでもいえるものだ。にもかかわらず、田中はキレイゴトを言う!
「結局、こいつが自分の力を引き出せたのも、オレの決断があったからこそじゃないか」
悶々としたものが消化できない。
社長は、自分の決断が上手くいっている証明が欲しくてたまらなくなった。いや、実際にはもっと下種なものなのかもしれない。部下が、自分という存在を認めていることを、無性に確認したくなった。
田中は、社長の真意を知らない。
心から思うところを、ただ、述べた。
社長は、言葉をなくした。
退路を、そして甘えを断ち切り、これまでのやり方が誤りだったということを自覚でき、行動を見直せた。きっかけを与えてくれたのは他の誰でもない、“オレ” だそんな趣旨の回答が返ってくることに期待をしてしまった。
「窮屈ながらも期待した軌道に乗り始め、そこに人心がついてくる。
そう考え始めていたオレこそに、甘えがあるじゃないか。まったく、ピエロだな」
そんなふうに、社長は思った。
外資のときには人からどう評価されようが無関心を装えた。が、立場を変えた今、田中の口からほろりとこぼれた言葉が、はからずも胸中に大きな空洞を自覚させて仕方がない。
他方、社長はこうも思う。「それを口にしたときから、この会社は再び終わりに向かう」と。
「半年前に皆の前で誓った通り、それこそがこの改革のコストなのだ」
そう自分を戒めると、社長は口を固く結んだまま、車外に流れる景色を眺めていた。
月末が近づき、ここ経理課も再びあわただしくなってきた。
秋晴れの澄み渡った昼下がり、ふたりは眠気と戦いながらそれぞれの仕事を処理していた。
そのとき、出先から戻ってきた社長が 経理課へと入ってきた。
新規の顧客を獲得し、売上伝票を綾子に手渡しに立ち寄ったのだ。
綾子が伝票を受け取ると、無駄口を叩くでもなく、毎度のことのように社長はそのまま経理課を出ようとした。
しかし、ドアノブに手をかけた瞬間、社長の足がはたと止まる。
以前、田中と車中で話したことが、フラッシュバックされるのだ。
そうだ、経理課だ。
「自分の心にひっかかりを残したものは、ここなのだ」
「背後で黙々と仕事につとめるこのふたりが、自分とは違うやり方で田中という人間を変えたという。以前、ふたりを諭したことがある。“オレの方を向いて仕事をしろ” と。そのためにRS部との間で対立も煽った。なのに、このふたりは飄々としてかわしながらやってきたということだ」
「この小さな会社で、事務屋の評価は、オレの意をくむかどうかがすべてだろうに…
母さんが大事にしていなかったら、よろこんで切り捨ててやるところだ」
社長は、私心に走った。子供じみた嫉妬と言っていい。
「ここらで、一度痛い目に合わせてやろう」
そう思ったら、行動が早い。立ち止まったまましばし考えをめぐらすと、再びふたりの方を振り返り、晴花に声をかけた。
むろん、残念になど思っていない。
そんなことは承知の上だ。ただ見せかけの上では、安直さを遠ざける演出が必要だった。
社長はそれについて返答をよこさない。
晴花が取り出したファイリングされた帳簿を、社長はぱらぱらとめくっていく。
いや。中身など社長にとってはどうでもいい。初江が厳格に管理しているはずなのだ。社長は初江を信頼している。
晴花の返事を確認すると、社長は一度うなずいて、ドアの方へ体を向けた。
晴花は社長を呼び止める。
晴花は黙っている。社長は、そのまま経理課を離れた。
翌日。
社長に命じられた用紙・封筒・消耗品等のコスト削減を図ろうと、晴花は過去の取引記録を追ってみた。そして…
そう言って、晴花は顧客データベースを叩いた。
綾子は、晴花から古い請求書の束を受け取った。
綾子はパーテーションの奥を指でさし示す。
パーテーションの奥には、山積みの段ボールが鎮座する。この会社では、これらはそもそもは二階の倉庫スペースにおかれるべきものだ。
物資を搬入する業者だって、重い荷を抱えて階段を往復するより、この部屋に置いて行く方がはるかに手軽だ。今では一日数度、レポートの製本と発送を担当する業務課の面々がいくらかの束をここから上げにやってきているが、創業以来の歴史の中で、当初のルールがなおざりになっていったのだろう。
そんな過程で、経理課にはいつしかこのパーテーションが存在することとなった。むろん、リサーチサービス社に来社する顧客に対し、雑多な荷の山を視界に入れさせないための配慮である。
だが、いつしかそれさえ形骸化した。何にしろ、この荷の山は、パーテーションの高さを超えて顔をのぞかせているのが常なのだから。
晴花と綾子は、仕事の合間をみながら少しづつ業者をつぶしていった。
たいていの業者は “むこうから来た話” に興味を持ったが、そのほとんどが条件を提示すると 「なめるな!」と言わんばかりに冷笑に付す。そうしたことが、何度も繰り返されていった。
そして、後日。
絞り込みの末、晴花たちはひとつの可能性を見つけた。
「ステーショナリーズ北中川」という事務用品卸会社が、晴花たちの譲れない条件で取引できる、という。安全を期すため、晴花は同社へ自分で足を運び、現場を確認する。そして先方に頼み込み、見本として一セットの用紙束を譲り受けた。
見本を持ち帰ると、晴花は業務課の人間に協力を仰いだ。幾種類かのパターンからインクの乗り具合を確認するためだ。念のため、雨水にさらされた状態を想定しての可読性もテストした。これらの結果に問題がないことを確認すると、晴花は再度同社へ出かけ、取引の条件を書面にしてもらい、社に戻った。
計算の上では、月あたりの仕入費用を、仕入の比により年間数%~十%程度削減できる見込みであった。あとは、南港海前ビジネス社からステーショナリーズ北中川社へと仕入先を移すのみだ。
社長は晴花に「キミの意思が裁量だ」といった。晴花の意思でいつでも実行に移すことができるはずだ。だが、晴花には躊躇が生まれた。
「この微妙なときに私なんかに大きな権限を与える人…? それが、ひっかかるんだよな…」
抜擢といえば聞こえはいい。だがそれは、たとえ今は脆弱であろうとも、人間の資質的な側面に、秘めたものが洞察されるからこそあり得ることなのだ。社長が自分に、そんなものを見出している気配はかけらもない。それ以前に、間接部門の人間にはこと無関心であることを、晴花はよく知っている。
それが晴花の行動に、小さく “待った” をかけた。
「やっぱり、部長に話を通して指示を仰ごう」そう、思った。
晴花は仕方なく社長のところへと向かった。
社長は、掌を晴花の顔前に突き出した。
晴花の話を制すると、ニコリと笑みを向ける。
予想はされた返事にますます失望し、晴花は経理課に戻ってきたところであった。
後日、晴花が発注した用紙と封筒がはじめて納入された。
晴花としては、それらを業務課に実際に利用してもらい、顧客から歓迎せざる反応が出ないかどうかを確認しておく必要があった。そこで古い在庫に優先して、届いた商品をいくらか優先して業務課へと運んだ。
それからしばらくの日数が経過したが、社の内外のいずれからも、それらを変更したことによる不都合な声は聞かれない。
ふたりはひとまず安堵した。
さて、月があけて11月。ふたりは月初のあわただしさの中にいる。
初江もひさびさに出社したこの日。彼女は、早朝より綾子らの仕事にチェックを入れていた。
そう言うと、綾子は机の引き出しをあける。
綾子はうれしそうに、Zチャートやデシル分析表などを示す。
初江は、ふたりの自主的な貢献を心からうれしく思った。
そんなふうで、初江のチェックは続いていく。
晴花は初江に、ファイリングされた伝票の束を手渡す。
初江はみるみると青ざめる。
あわてて、掻き毟るように伝票をめくっていった。
初江は、頭を抱えてデスクにへたりこ込んだ。
晴花たちは状況が呑み込めない。
初江は、乾いた空気を飲み込んだ。
そして、激しい口調で言う。