Fourth Step
Story > Chapter 4 > Section 2
いったい初江が嘆き悲しまねばならない理由がどこにあるのか、ふたりには皆目見当がつくはずもなかった。
動揺の中で、晴花は初江に問いかける。
初江はそれに反応し、顔を上げる。そして晴花を睨みつけるようにして、言った。
深くため息をつくと、初江は荷物をまとめはじめた。
そう言うと、青い顔をしたままに席を立った。
そして、鉛のように重たくなった体を引きずるようにして、会社を出て行った。
ふたりの仕事に対して、初江はふだんからとても厳しい人間だ。が同時に、身内の会社であろうとも公正で、常々ふたりに思いやりをかけられる人物でもあったのだ。たからこそ、ふたりは初江を心の内で尊敬してきた。
その初江が、不意に、いまだかつて見せたことのない怒気をみせた。
どんな言葉も受け付けない初江の気迫に、ふたりは動揺し、ただ息をのむ。ふたりには、経理課から出ていく初江の後ろ姿を見送ることしかできなかった。
その日の夕方。
あれから、初江の勘気にふれた理由を晴花はずっと考えてきた。
「でしゃばった?」
「生意気だった?」
「分をわきまえなかった?」
いや。この会社の中でひっそりと生きていければ満足な自分には、そのいずれもに一線を超える動機がなかった。第一、社長から権限を与えられての行動だ。“出張りすぎた” という感情以前に、それが晴花の “仕事” であった。そう考えると、思わず場にのまれ、道理を主張できなかった自分が情けなくもなってくる。
ともかく、初江の勘気にふれたことはまずい。これを黙殺しておくのは部長にも迷惑がかかると思った。そして晴花は、今、この場で初江とのトラブルを部長に報告している。
晴花は部長の指示で、ことの顛末を順番に開示していった。
いやな仕事をひろったな。
そんな心もちを表情に顕わにして、総務部長は経理課を出て行った。
そして、二階・RS部のフロア。
社長のデスクの前で、直角に頭を下げる総務部長の姿があった。
総務部長の反応に、社長の顔もおもわずにやける。
「思った通りになったな」
初江の抱いたであろう失望と、晴花の感じたであろう絶望を思うと、社長は笑みを隠せなくなった。
社長ははたと席を立ち、フロアを出た。
そのまま階段を降りると、やがて経理課のドアのノブに手をかけた。
そして勢いよく、扉を開けた。
晴花は伝票の束を社長に手渡した。しばらくの間、社長はその一枚一枚をなめるようにして確認していった。
何十枚か捲った後、社長の指がはたと止まる。
指先には「ステーショナリーズ北中川」の伝票があった。
綾子が社長にケチをつけ出すと、晴花はあわてて制止した。
晴花は綾子を巻き込むまいと、激しい口調で冷徹に突き放す。
社長はそう言って、経理課を出ていった。
「灸も、このへんでいいだろう」。
田中の言葉から生じた溜飲が、ふっと下がる思いがした。
この不況下のご時勢だ。能力の塊のようなよほど優れた人間ならばいざ知らず、退職願などやすやすと出てこようはずもない誰だってそう思う。それに、ただでさえギリギリでやっている間接部門の人間が、具体的な人員計画もなしに欠けられても困るのだ。
だからこそ、社長はこれ以上を望んでいない。社長は、勢いで振り上げた拳を決まり良く降ろせたことに気をよくした。それとともに、当て馬にすぎなかったコスト削減のとりくみも、眼中から消えていった。
その日の夜。
自宅に戻った綾子は、心労でへとへとだった。だが今直面する事態を前にゆっくりと落ち着けるはずもない。綾子は、田中に協力を仰ごうと電話をとった。
フォーンブックをあさる綾子の指が、思わず早まる。
不安はあったが、綾子は翔太を信じることしか手段がなかった。
そして、次の朝を迎える。
翌日。
翔太は南港海前ビジネス社を訪問して真相を探ろうと、いつもの駅までやって来た。
ここから隣り合う地下鉄に乗り換えて、同社に向かう。
昨日、綾子には自分を信じるようにいったものの、翔太にもいまだどうしていいのか分からない。それもそのはず、見えないことが多すぎるのだ。
それでも自分こそが晴花を守りたい。結局、出たとこ都合でなんとか話をつくっていくしかないと、半ば開き直った体でここまでやってきた。
翔太は苦悶に満ちた表情で、ロータリーを地下鉄の駅へと向けて歩いていく。
そのとき。
ロータリーに止めた車から、翔太を呼ぶ声が響く。
田中は缶コーヒーをすすりながら、大きな手振りで翔太を自分の方へと近づけた。
そして右手を天に向かってピンと上げ、叫ぶ。
田中の乗ってきた社用車のドアを開けると、翔太は助手席に乗り込んだ。
田中はそれを待って、車を出した。
翔太の額を、冷たい汗が流れた。
見かねた田中が、声をかける。
そう言って、田中は透き通るような笑顔で翔太の肩口をポンと叩いた。
一帯は、港湾機械や港湾車両、船舶の汽笛や集積する小さな金属加工工場から響く雑多な音が交じり合う。そんな活気を背に受けて、ふたりは小さな事務所へと向かっていった。
「ごめんくださーい」
事務所に人の影がない。田中が何度か声を張りげたが、誰が出てくる気配でもない。というよりも、周囲の活気に負け、声が届かないのだろう。
「倉庫を調べてきて」
死角となっている倉庫から、フォークリフトの音がするのがわかる。翔太はうなずき、倉庫に向かおうとした。
そのとき、階上から降りてきた人間が階段のかげから姿を見せる。
淡い空色の作業ズボンをはいた、見たところ四十代半ばのその男は、季節外れな、肩口の細い真っ白なタンクトップ一枚でそこにいた。
「また押し売りか。 あんたらも相手を見てモノを売れよ。ウチのどこに余裕があるように見えるんだ」
度重なるとびこみに辟易しているのか、開口一番、男はそう凄む。翔太はともかく、こうしてあしらわれることは、田中にとっては定型行事のひとつにすぎない。今更どうってことはない。
だが、さすがの田中もここではちいさな恐怖を覚えずにいられなかった。
真っ白なタンクトップから伸びた顔の太さほどもある日焼けした腕が、はげしく主張をするのだ。いや、それだけでない。タンクトップ越しに確認できる分厚い胸板、いくつにも割れた腹筋と、肩から首に盛り上がった僧帽筋、そして見事なまでの逆三角形をつくる広背筋は、無言の圧力となって翔太たちを襲う。
田中はあわてて、自らを鼓舞した。
男に促され、田中と翔太は事務所へと入っていた。
ふたりは事務所の一角の、ちいさな角机が置かれた場所へ案内された。
ふたりが毛羽立った布地のソファに腰を下ろすと、その背後で、屈強な男が小さなマグを取り出した。そして、およそ客用のそれとはほど遠いそのマグに、とてつもなく大きな缶に詰められたインスタントコーヒーを手際よく放り込む。そして、これまた大きなポットにためられた湯を、三つのマグに測ったように正確に注いでいった。
田中はその様子をじっと見ている。その愛らしいギャップに、おもわず吹き出しそうになった。
男は、角机の上にコーヒーをならべる。
田中と翔太は、名刺を渡し自己紹介をした。
篠部くん、じゃあ。
そう言って、田中は翔太にバトンを渡した。
館林は、眉をハの字にして机上のコーヒーに手を付ける。
翔太は頭を下げ、懇願した。
悲観した。「取引が維持できる」そこにこそ正義があると、館林の言から覚ったばかりだ。
「貴方ならきっと、晴花さんの命運を変えられるのに!」
喉元まで出かかったその言葉を吐き出せないのがもどかしい。いや、吐き出せたとしても、舘林を動かすことはできないのだ。
話を終えて、館林はコーヒーをグイと飲み干す。まるでそれが麦茶であったかと錯覚させるほど、豪快に。…そして、空になったマグを持って席を立った。
翔太には、なすべきことが見つからない。
やがて二杯目のコーヒーで満たされたマグを手にして戻った舘林は、いまだ手の付けられてない卓上のコーヒーを気にして、再度ふたりに勧めた。
が、そのとき。館林は、砂糖とミルクを出し忘れていたことに気づく。ふたりが手をつけなかったのは、きっとそれが理由だろうと思った。
舘林は再び席を立ち、棚と冷蔵庫をあさって砂糖とミルク…いやパックの牛乳をもってきた。
そういって、再びコーヒーをすすめる。
だが、今の翔太に余裕はない。
そんな翔太を横目に、田中が「では」とコーヒーに手を伸ばした。
鼻腔を、コーヒー特有の芳しい香りがくすぐ…らない。まるで義務を果たすかのようにしてそれをすすってみると、淡白な印象をはこぶだけの液体が口内にひろがった。
田中にとって、まったく嗜好のはたらかない味だ。田中はすこしでもマシになるかと、いくらかの牛乳と砂糖をコーヒーの中にそそいで、かき混ぜた。
褐色と白が完全に重なり合ったとき、田中はちらりと翔太を覗く。
「以前のアタシも、社長からはきっとこんな風に見えたんだろうか」そう考えると、頬に少し熱が挿した。
翔太がようやく手を付けたのを見て、田中は館林に言った。
きっと、空気を嫌って話をいったん置こうとしたにちがいない。だが、何を思ってか、田中はそれをさらに悪化させるようなことを言う。「そうした物言をここでしますか…」翔太は心の中で、思わず泣いた。
しかし。
館林の顔に一瞬の笑みが宿るのを、翔太はみとめた。それがなんとも不思議だった。
翔太には、まるで意味が分からない。
館林は、人が変わったように饒舌になった。
「話にのってきてくれた!」
田中はおもわず笑顔になる。翔太に見せた、あの透き通ったそれに。
田中は「してやったり」の表情で、翔太を睨む。
自分がストイックに取り組んできたものに対する賛嘆の念が、田中の文脈から伺える。舘林はそれで上機嫌だ。
舘林は腕を折って二頭筋を隆起させ、田中に近寄せた。田中は、興味津々でそれをつついたり、もみしだく。
田中は目を輝かせていう。こどものように。
舘林は席を立つと、田中を障害物のない場所へ導く。田中は無邪気にその腕につかまった。
掛け声と同時に、田中の身体が宙に浮かぶ。田中は、地から離れた足をバタバタさせて喜んでいた。
はしゃぐ田中に気をよくして、館林はいたずら心を持った。
そう言って、舘林はくるくると回転し始めた。不意のことで、田中は舘林の太い腕にがっしりと掴まる。吹っ飛ばされないよう、必死だ。
何回転させられたであろうか。
田中がへとへとになったころ、ようやく地に足がついた。
舘林が心配そうに見守る中、田中は両膝についた手で身体を支え、前かがみになって呼吸をととのえていた。
幾度か太い呼吸を繰り返して、自分のペースを取り戻す。
そしてここぞとばかりに、田中ははたと顔をあげた。
舘林を、三日月の目が、見つめている。
田中は、思いを声にした。
車中。
時間を経て、南港海前ビジネス社を離れたふたりは、車へと戻ってきた。
その後しばらくして。ナーヴ。
同じころ。リサーチサービス社。
経理課では、昨日、初江が処理半ばとしていた仕事のつづきが沈黙の中でおこなわれていた。
初江の機嫌は相変わらずだ。部屋全体に、昨日と同じ鈍重な空気が淀む。
この日出社してから今このときまで、綾子も晴花とまともな会話ができずにいる。
綾子は、膝の上に隠し置いているスマートフォンに目を落とした。
まいどーっ!!
そのとき、ドアの向こうで威勢のいい声が響く。
声の主は、誰かがドアを開けるのを待たず、自分で開けて入ってきた。
舘林は、この部屋にいた人間に向かって、快活に啖呵を切った。
初江は、舘林の予期せぬ来訪に狼狽した。
それもそのはず。舘林自身は、長く別ルートへの配送を担っている。いや。もっとも配送ならおかしくもないのだろう。だが、荷物を持たずにここに現れた。思いの詰まった大切な取引先の来訪に「何事か」と初江も思う。
と言いながら、館林は綾子と晴花の方を交互に確認する。
…綾子は、微笑んでいた。舘林は、自然、それが晴花ではないと判断する。
そして、綾子と初江の机を回って、椅子に座す晴花の傍まで大柄な身体を運んだ。舘林を見上げる晴花。その表情は…ひきつっていた。
晴花は動揺した。いったい何事だろうと。返す言葉に思わず窮した。
晴花の返事ににこりと笑うと、初江の方に翻る。館林は初江の机に両手を置いた。そして…。
再び。ナーヴ。
再び。リサーチサービス社。
晴花は動揺した。いったい何事だろうと。返す言葉に思わず窮した。
晴花の返事ににこりと笑うと、初江の方に翻る。館林は初江の机に両手を置いた。そして、初江に身をのりだすようにして語りかけた。
厳しさとやさしさの同居した舘林のストレートな思いに触れ、初江の中でいろいろな記憶があふれ、よみがえる。
そのひとつひとつに、感情が交錯した。初江の目が、水気で満ちる。
初江は言葉が出なかった。とりとめもなく、涙があふれた。
またまた。ナーヴ。
またまた。リサーチサービス社。
舘林は再び晴花の方へと振り返って、言った。
晴花は思わず立ち上がる。
…何を発していいのか、分からなかったが。無意識が、そうさせた。
そう言って、館林はリサーチサービス社を離れようとした。初江は思わず
と呼びかける。しかしその途中、館林が振り向きながら言葉をかぶせた。
すがすがしい笑顔を残し、館林は去っていった。
初江も、綾子も、そして晴花も、立ち上がってその背中をただ見送る。まるで、言葉など存在しない世界にいるかのように。声のない時間が、長く、つづいた。
意を決して、綾子は初江に切り出した。
つっけんどんな言い方を、引きずっていた。だが、ここにさっきまであったはずの重苦しい空気が消え去っていたことだけは、綾子にも確信が持てた。
初江は激しく晴花に迫った。
晴花は引き出しから封に入れられたそれを取り出すと、俯いたままゆっくりと初江に差し出した。
初江は便箋を抜きだし、その文面を凝視する。一字一句を、追った。
その視線を晴花へとあらためて戻したとき便箋を持つ手が、震えていた。
とつぶやくように言うと、初江は便箋を封筒にきれいに戻した。
そして封筒の側面を上にして両指でそれをつまむ。
かと思えば、やにわにそれを裂いた。…まっぷたつの紙片が、机上に散った。
晴花は、咄嗟に何も言い出せなかった自分に気づく。それほどに、決意が固まっていた。覚悟も決まっていた。急に気持ちを変えられるものではなかった。そんな様子を見かねた綾子が、言う。
初江の正直な気持ちを聞いて、晴花は思った。
「もう一度だけ、話そう」と。
「こうして誰かに顛末を説明するのは何度目だろう」
初江に説明をしながら、そんなことが脳裏をよぎる。
晴花をそう錯覚させるほど、昨日からの出来事が心にずしりと重かった。
晴花は説明をつづける。
ひと言ひと言吐き出すたびに、胸のつかえが少しずつ掻き消えていくような、そんな気がした。
しばらくの後。
そう言って、晴花の手から奪い取る。
封書を自分のものとした初江は、その足で経理課を出ていった。
二階にやって来た初江は、社長のデスクの前までゆっくりとした足取りでやってきた。休憩時間に入り、このフロアにはまばらに人が残るのみであった。
初江の願いを聞き入れ、ふたりは同じフロアの小さな応接室へと入っていった。区切られた区画のここなら、皆の目が届くこともない。
初江は口をひらいた。
消え入りそうな、小さな声で。
社長は、初江から手渡された反省文を広げる。そして、流し読んだ。
初江は、笑った。
社長は、ちいさなソファから腰を上げる。
初江の顔が、少し曇った。
そしてなお初江の腰は重かった。未練でもあるかのように。
そんな初江を見下ろして、社長は言った。
と。
心に、いちばん大きな思いを残していた。
初江は、時を得たかのように豹変した。
初江は立ち上がって社長に近づいた。
そしてひるんだ社長の胸倉を、ぐいと掴んでさらに引き寄せる。
瞬間、胸倉を握る手から、フッと力が抜けた。
初江は声を、絞り出し、言った。
その日の午後。経理課。
晴花は席を立ち、給湯スペースに向かった。
綾子はドアのガラス越しに、目から上をのぞかせている翔太を見つけた。翔太は晴花が奥に入っていったのを見て、音を殺してドアを開け、入ってきた。
そして小声で綾子に問うた。
そんな翔太に合わせて、綾子もヒソヒソ声で返す。
こっそりと振り返ると、出口へ向かって忍び足で歩き出す。翔太は経理課を出ていこうとした。
だが、そのとき。
お盆に乗せたカップにお茶を満たして戻った晴花が、翔太の後姿を見止める。
晴花の声を耳に入れた翔太の身体が、出口の方を向いたままに硬直した。
あわてて近くの机にお盆を置くと、晴花は翔太の元まで駆け寄った。
翔太は観念したかのように、ゆっくりと振り返ろうとする。
だがそれを制するようにして、晴花は翔太の右腕をぎゅっとつかんだ。
右腕を通して、晴花の存在を感じる。鼓動が、おどった。
晴花の視界を、翔太の背中が覆いつくす。
晴花は、その背中に向かってつぶやいた。