Story > Chapter 4 > Section 3
11月中旬 20:10
Navi in Bottiglia

- …実はそういうわけでして。

- …

- (なんと…!)

- いや。キミさ…。それも “男の美学” なわけ? 何でド正直に言うかな…。

- だって…違うものは違いますから。一点の曇りなくそう言えるのなら、僕だって言わないですよ。

- でも美希お………じゃなかった。田中先輩の力なくしてああはコトが運びませんでしたから。それは揺るぎません。

- …もう…………ね…………。

- 田中さんが…? ぜんっぜん…気づきませんでした…。

- ありがとう、田中さん。…今回のことは、いくらお礼を言っても足らないくらいに感謝してる。もちろん、篠部くんにも。

- …だってさ! よかったじゃん! 一途なイケメンくん! このこのぉ!

- 先輩っ! それは!

- …あ!


- ………………えっ!?

- ちちちちちちちち違うんですっ! 晴花さんっ! じ、事故…そう、これは事故、事故なんです!! 僕は何も!!

- 今 何て呼んだ!?

- いいいいいいいいいいい何も呼んでなっ! 呼んだ? 呼んだような気分になってるだけ!? 呼んでしま…いや呼んだかもしれません…

- …

- …約束、破ったんだ…。

- そそそそそそそういうわけじゃ! 断じて! でですから事故で!? じ、事故なんです!

- …あ、あのさ。ごごごめんっ。
さ、篠部くんの名誉のためにも聞いてもらわないと…

- 天地神明に誓って、彼は何も言ってないから。ホントに。ただふだんの彼のわっかりやす~い態度から、アタシが勘付いちゃっただけで。おもしろがって、彼に吐かせちゃった。…ごめんね。

- いや、決して日南さんのことを詮索するつもりじゃないのよ。 …まぁ、会社の中でいろんな誤解が生まれるのは日南さんも歓迎しないかなーって思って。だから彼にも、「そのわかりやすい態度をどうにかしろ」とキツく言っておいたから。No Problemなの!(キリッ)

- …私、やっぱり辞める。

- そんな!

- …なーんて。
そもそも、私を助けてくれたふたりに、モノを言える立場じゃないしー。

- 私がまわりの目を過度に恐れてるだけだものね。田中さんみたいに、理解してくれる人がいるのにもかかわらず。

- …うん! アタシは味方!

- ありがと。これからもよろしく。

- こちらこそ!

- …ということでイケメンくん。今までみたいにわっかりやっすい態度見せたら、やさしい日南さんに代わってアタシがキビしく指導すっから。覚悟しとけ。

- なんでそうなるかな…

- …とにもかくにも。アタシたちで舘林さんにある意味妥協の利を説いてきちゃったわけだから、これから実が伴わなければ、アタシたちも舘林さんを裏切ることになっちゃうわけで。

- …いい人だし、あわよくばお客さんとしてお付き合いさせてもらい……なんて下心もあるわけで、裏切りだけは避けたいの。だから日南さん、あとのことはアタシからもしっかり頼むわ。

- うん。簡単ではないだろうけど…できるだけやってみる。

- よっしゃ!

- あの、でも私。ひとつだけ疑問があるんですけど…。

- ん?

- 海前ビジネスさん。なぜ、晴花さんにあれだけ肩入れしてくれたんでしょうか?

- あの、悪い意味じゃありませんよ。今回のことは私も含め急なことで場当たり的だったじゃないですか。いろいろと。

- なのに予想以上に上手くいきすぎちゃったんじゃないかっ…て。えーと、晴花さんごめんなさい。私が聞いててもふだんは淡白な発注を月に数度不定期に繰り返すだけの関係でしかなかったことですし…。いずれにしても、密な関係ではなかったはずですよね、晴花さん?

- ズキッ。私…愛嬌ないもんなー。確かに綾っちの言う通りなわけで。

- もちろん、そこは田中さんたちの力があったからこそでしょうし。でもですよ。極論を言ってしまえば、海前ビジネスさんにとっては、取引こそが重要なわけじゃないですか…。窓口にすぎない私たちへの関心は…正直、低くてあたりまえです。

- それこそ極端な言い方ですけど…晴花さんを救う義理さえないはずなんですよね…。海前ビジネスさんにとって他に代えがたい理由があるなら分かりますけど…それがないとなると、却って心配しちゃいますよ…。田中さんたちが、相当に無理してくださったんじゃないかって…。

- ふふふ。例えば?

- お金…とか?

- なるほどー。他には?

- と言っても…

- ふふ。

- 綾っち、深い。実に深いよ…。

- ?

- 綾っちの言うとおり、妥協の利を説いてそれが叶ったとしても、アタシたちにとってはようやく内堀を埋めたところ。日南さんを救えなきゃ意味がない。本丸はそこ。

- どうやって本丸までいっきに陥とそうか思案を巡らせてた時、この彼の横顔を目にして、いい案が浮かんだのよ。

- 翔太くんさんの? いったい…

- アタシは思った。真実を知って、彼に一度地の底まで落ちてもらおうと。…精神的な意味で。プッ。

- …


- 綾っち。日南さんって、初江さんに大事にされてるって言ってたじゃん?

- …はい。

- それって、何で?

- …あ!!

- ああ、そっかぁ! 確かに、それ以上の理由はありませんね…。初江さんにしてみたら、晴花さんは社長のお嫁さんとして会社を盛り立てていく人なわけですし。であるならば、自然、海前ビジネスさんにとっても…。いやー、ナントいうか…。

- …そこをさりげなく伝えてみたの。種明かしすれば、どってことないでしょ?

- …

- でもさ、大きな副作用がね…ともなうのよ、それには。アタシもつらかった。

- …だってそんなことをつゆぞ知らないこの彼が、アタシの隣で血の涙を流すことになるわけだから。…いや、実際には蒼白だったっけか? キャハ。

- イケメンくん! 恋敵が強大であろうと何だって言うの! おねーさんは信じてる。…あ、でももし砕け散ったらおねーさんがいっしょにトランプしてあげるから。

- はいはい…。

- あの、話は変わるんだけどさ…。さっきさ、田中さん…海前ビジネスさんのこと、“あわよくばお客さんとしてお付き合いを” って言ってたよね?

- もしかして、それ…算段もすでについてたりして? …ここ最近の田中さん、ホントすごいね。…あの宮地さんが、そっくり憑依しちゃったみたい。

- …いやいや、そう簡単にはいかないさー。もっとも、宮地さんだったらわかんないけれど。…でもね、館林さんとはちょーっとばかし共通の話題とかもあって、話しやすい人だから。これからそんな機会もあればラッキーなわけだし、RS陣としても何らのかたちで関係を保っていければ…と思ってさ。ね、イケメンくん。

- はい。ただ、どうやら苦しいのはウチだけでなく海前ビジネスさんも同じですから…。

- 舘林さんは、新規のお客さんに恵まれない状況で、なじみのお客さんだけでかろうじて回ってるというお話をされていましたし。まぁ、余裕がない…と。

- …この時代、ネットで注文翌日到着おまけに送料無料があたりまえになっちゃいましたもんね。私が社長さんだったら、もうそれだけで敵う気がしませんよー。

- …まったく。

- でもそんな時代でも一定の固定層を堅持されてるわけですし、海前ビジネスさんには海前ビジネスさんなりの強みをお持ちなんだろうなとも思いますよ。

- あとはご本人もおっしゃっていましたけど、新規開拓とかいった営業活動に割けるリソースがあれば、状況も変わってくるんでしょうけどね。

- …なるほど、タイヘンなんですね。海前ビジネスさんも。

- …。
後日。
経理課に日常が戻った。この日はとりわけ穏やかに時が過ぎていく。
「RS部員が社に戻ってくる夕方までは、きっとこんな調子がつづくだろう」
そうした見込みもあって、ふたりはここぞとばかり、初江から託された “課題” を話題に選んでいた。

- …なーんか、これまで綾っちの話に乗っかってばっかりで…
自分で何かやろうなんて思ったこと、これっぽっちもなかったから…

- いざ私が “ひとりマーケティング” の必要に迫られると…うーん。
いや…「自分がやってやろう」って心から思えることと出会えたことは、本当に幸せだとは思うよ。

- でも綾っちをサポートするのと、自分でやるのとは勝手がちがうというか…何から手をつけたらいいか、わからない…。

- こういう立場になってあらためて思った。
“綾っちの突破力はすごかったんだ” って。

- そんなことないですよー。カンタンにいきましょ、簡単に。

- そうだ!

- じゃぁ、こうしましょう! 私がリードします。

- 綾っちが?

- いやだなぁ晴花さん。これまで晴花さんにいろいろと教えてもらって、私だってちょっとは進歩してるはずですYO! …ほら、見てください。この本!
と言って、綾子は机上に並べた冊子やファイルの束から一冊の本を抜き出した。そして、それを得意気に晴花に見せる。
『マンガ・OLのためのビジネスデータ分析』だ。

- …すげ。ボロボロ。

- 何回往復したことか…。「恋を科学」の気配はいっこうにありませんけど…

- でもま…理解できてるかどーかは別なんですですよ、コレガ。

- …ううん。でもすごいな。じゃ、綾っちが迷惑じゃなければ…

- お願いしちゃっていい?

- 私の方もいろいろと勉強できちゃう話なのに、迷惑なわけがありますかー。

- それに…私にだって、手伝わせてほしいですYO。そもそもこんな大きな話、私たちにはなかなかあるもんじゃないんですから。指をくわえて見てろなんて、言わないでくださいねー。

- …じゃ、なおのこと甘えちゃおっかな。

- まっかせってくださーい!

- …と、いうことで早速ですけど…私なら、どうするかな…

- …うん。私がポイントつけ始めたときにアドバイスしてもらったように、やっぱり目標…というか…成果…というか、そんなところをはっきりさせることが必要ですよね?

- だね。ソコがあいまいだとやるべきことが見えてこない。

- …じゃ、ここではっきりとしときましょう。ええと…ではいきますよー。

- 晴花さん。今回指示されたことを…まず簡潔におっしゃってください。…どうぞ。

- うん。これまでの通り用紙・封筒の仕入コストと、あわせて文具とかその他の消耗品費の削減も。ま、私の管理してる部分を包括的に評価した上で改善してみなさいと初江さんから指示を受けてる。

- ふむふむ。…「仕入・消耗品コストの削減」っと。カキカキ。

- ただし、これ重要。海前ビジネスさんとの約束は絶対に果たしたい。だから海前ビジネスさんとの取引ありきで考えたいんだ。

- ですね。私もそれを前提として考えるようにします。

- さて、と。「仕入・消耗品コストの削減」についてですけど、これでは大まかすぎますね…。もうちょっと細かく見ておいたほうがよさそうなカンジもします。

- ん。

- …なぜ、こんな問題がでてきたのかって。カキカキ。

- なーる。

- じゃ、いっしょに考えてみちゃいましょう。

- なら…こういうのはどうだろ。カキカキ。

- いきなり会社っていう枠で考えるのもムズカシイかなっ…て。部門別になら、考えやすくない?

- ですね。

- じゃ、わが経理課部門については…“闇部長” の異名をとる、綾子センパイにお答えいただくべきでしょう!

- どうせならもっとマシな異名をください…ほら、あの (版権) さんみたいな…

- んーと、じゃあ…こんなところですか。カキカキ。

- …はい。まんま、私への批判をいただきましたぁー。

- 綾子さん…。よろしいんですか?

- よ ろ し い ん で す ね !?

- 自分で言わせたんじゃないですか…

- …ごめん。誰かのせいにしたかった。今は反省している。

- …はいはい。

- …ま。正直反論の余地もないわけで。昔から踏襲してきた手続きさえ正しくやっていたならば、少なくとも初江さんや部長に怒られるわけではなかったし。そんな中だから、仕事を増やしてまで会社のために現状をよりよくしようなーんていった発想は、確かに持ちづらかったわね。

- ふんふん。

- …では、業務課的な視点だとどうでしょう? 何かありますか?

- こっちも、半分私の問題でもあるんだけど…ナントいってもコレと…

- コレでしょ…。

- 1階のここと、2階の倉庫。これに尽きるってカンジ。カキカキ…っと。

- 1階も2階も…乱雑に荷物を並べるか、あるいは積み上げておくかといったありさまで。特に2階なんか、最深部の段ボールを開ければ、きっと茶色く黄ばんだ年代物の用紙が発掘されること間違いなし!

- …とまぁ考えただけでも、ヤバいな。

- キノコとか生えてそう…。

- ま、この点で怒られることだけは間違いない。こうなった以上、割り切ろっと。

- じゃあ次は…。RS部的にはどうですか?

- RS部はこの会社の直接部門だし…やはりまずはこれだね。カキカキ…と。

- …異議なし。

- 過去のP/L(損益計算書)とこっそり比較すると、売上は最盛期のおよそ半分。

- …でさ、思ったの。そういうことだから…レポートの製本に必要なコピー用紙や、梱包・郵送に必要な名入り封筒の使用量もさぞかし減ってるんじゃないかって。

- ふむふむ。

- でも実際は…こうだったんだ。カキカキ。

- …えっ!? ホントですか?

- さっき綾っちが挙げてくれたように、これまでドンブリ管理だったから金額ベースでしか見てないけれど…たとえば用紙に注目してみると…

- 仕入先の海前ビジネスさんに対する年間の支払額…ざっとしか見てないけれど150万前後。毎年、ほぼそんなもの。乱暴だけど価格変動なんかを無視するなら、使ってる量にあんまり差がないという見方もできるかな。

- それってどうなんでしょう? うーん、業務課で製本をそれだけ失敗してるとかいった話でもないだろうし…。

- うん。たぶん…だけど業務課的な話じゃないよ、きっと。ちょっと待ってね…。

- ペラペラ…と。

- 過去の切手の購入記録を見ても…若干バラツキがあるけど…まぁ、同じようなモンかな。

- …ということは、レポートそのものの送付数は…変化がない可能性が高いってことですよね。

- そんなとこ…だろうね。こっちは後から業務課の方の記録で正確なところを確認してみるわ。でもおそらくそれで間違いないと思う。

- …ということはその理由は1つ。

- 出荷数を基準に考えると、単価の低い商品の構成比が、その…高くなったと。

- おそらくは。いずれにしろ、業務課の方の記録で確認してみないとハッキリとは言えないけれど、現状では高いお金を払って新規調査をかけるより、古くていいから安価な既存レポートの複写の方で間に合わせようっていうお客さんの方が、増えてるのかもしれない。

- ま、それはそれできっと深くて複雑な背景があるんだろうけど…。

- …さて、と。

- すべて出そろったところで…どうかな? おおきく会社として、求めるべきものがどこにあると考えるのが自然だろう…。キュッキュ…と。

- こ3つの視点ですか…。キュッキュッと。
えーっと。そうですねぇ…。

- あれ? 結局のところ…これって…この問題ですよね。…カキカキ。

- なーる。効率…か。

- じゃ、会社としてはなぜそれを求めるんだろっかっと言ったら…こう、なるのかな。…キュッキュッ。

- 利益率!

- ここかな、やっぱ。これを改善することが、今、この会社からしたら大きな課題なはず。

- で…でも…。社長はかねがね売上売上と…。利益率なんてものに注目されてますでしょうか…?

- 確かに、綾っちの言う通りかもしれない。でも道はひとつじゃないさ。綾っちがこれまでやってきたように。

- もしかして…ボトルシップ!?

- うん。
さっきP/Lから売上は最盛期のおよそ半分だと言ったけど、営業利益はそれにも満たない。こっちだって、大きな問題だと思うな。

- なるほど。

- でもこの利益率で、私は一度失敗をしたんだな…。キュキュッっと。

- 失敗…?

- うん。海前ビジネスさんの件。

- まわりにさ、こういった人たちの存在があることをわかってたつもりでも、結果として破たんしちゃったんだー。社長どうのこうのでなくて、私の考えがもう少し深く及んでいれば足元をすくわれずにすんだことなんだから。

- お客さん・従業員。その他の利害関係先…ですか…。

- たとえばだけど、やみくもに利益率だけを追求したとき、お客さんの読むレポートの用紙の品質を極端に下げて大幅にコストカットできるとしたらどうだろう?

- …半値以下にはなったけど、インクのノリがすこぶる悪くて読みにくいし、「いつのまにか字が消えちゃってるじゃないか! ぷんぷん!」なーんてクレームでいそがしくもなれば、ウチとしてはそれこそ…○○ヘルプケアでやらかしたときのような信用に傷をつける事態だって招いちゃうかもしれない。

- そのリクツは、ウチで働いてる人たちにだって同じようにあてはまるはずで…。

- 「中の人間だから我慢しろ」って方針は通らない。コストをとって粗悪な筆記具にとっかえちゃったとしたら、きっと弊害のが大きくなる。手書きメモで取材する人にとっては、筆記具の良し悪しは生産性を大きく左右するものだろうこと、RS部の人間じゃない私でも想像できるし。

- だから次こそはこうしないとな…

- “VIP” と。

- わお! Very Important Person! 最ジューヨー人物…のことですよね!? すなわち…まわりの人たちを最優先に据えて、利益を考えていこう! そういうことですか! カッコイイー!

- …いや。バンバン いかずに ぽちぽちと …っと…。何より思い込みで突っ走って痛い目に合うのはもうヤだから…。

- (Vじゃない! Vじゃ…)

- ま、コストカットそのものを目的としてカン違いしちゃわないようにというコトで。その意味でも今回は利益率を確保しつつ、海前ビジネスさんはじめ周りの人たちと共存できるようにしたいんだ。

- うーむ。利益率の改善を念頭に置いていく以上、具体的な目標は必要ですね。とは言っても、利益率なんてどちらかと言えば私たち現場のものさしとしては発想が大きすぎてなじみませんね…。

- そう考えると…やっぱり、仕入費用の前月比…いや、前月比はマズいな(Chapter2-Section3)…前年同月比とかしか…評価のものさしとしては扱いづらいですよ?

- …たとえば、仕入費用の前年同月比95%くらいをごく近い目標にしてくとか。

- そこだよなぁ…。

- 最初に前提とした通り、海前ビジネスさんとの約束は果たしたいの。これまでのようにとは言わないけれど、海前ビジネスさんと取引を続けながらそうした数字だけに評価を求めてくってーのは、ちょっと “VIP” とは違う気がする。

- 私的にはホントはね、まずはナンであろうとさ… “いいふうにちょっとづつ変えようよ” っていうきっかけがつくれればお腹いっぱいなトコロがあって…。

- でも初江さん。さすがに腰を上げて一度やると決めた以上、こうしたことについては甘くはないと思いますよ~。数字が何より幅を利かせてきますよ! 最後には。…ま、晴花さんに初江さんをそれ以上に納得させる何かがあるのなら別ですけど。

- 否定できない…。ホント、難しいね。…もう少し考えたいかも。

- ですか。…じゃ、別のアプローチを探してみましょう。たとえば、こっちとか。…これ。

- …これについて、改善策を考えてみましょうよ。

- うん。じゃ、ホワイトボードいったん消しちゃおっか。その前に写真撮って残しておこっと。あとで初江さんに見せる資料まとめなきゃダメだし…

- あ!…でも私ガラケーじゃん…。やっぱ綾っち、スマホでキレイなの、お願い…。

- はいはーい。カシャ…と。

- …ありがと。じゃ、消すね。ケシケシ。

- じゃ、準備しますから少し待っててくださいね…。カキカキキュッキュ…

- …できました。早速いきましょう。

- では晴花さん。お好きなところからどうしたら改善できるか案をください。

- なら「経理課的」に関して。棚卸機会は最低、増やすべきだなー。反省も含め。

- 私はウチにとって有利な条件を満たせる業者さんが必要だと思います。「ステーショナリーズ北中川」さんなんかは、そうでしたね。

- それと…そうした業者さんは一定期間で評価していった方がいいですね。無批判なのは、今回のようなトラブルのもとですから。

- はむはむ。

- と…いうことで…カキカキ。

- よし…と。次、何かありますか?

- なら…RS部。これは私たちではコントロール不能な要素だろうけど、一応ね。これについては利益率の高い新規調査の需要がupすることとか、品質の点でお客さんにとっても、高付加価値の点で会社にとっても魅力的な商品ができることかな。結局はそんなところに収束してくと思うんだよNe。

- なるほど。じゃ…カキカキ。

- ふむ。…じゃ、最後いきましょー。

- 業務課的には…えーと

- はい! 整理整頓! 私も含め!

- あの…私もです。

- それを改善するためにも、ここと2階の倉庫については、搬入や搬出のときのルールみたいなものを作っといたほうがよさそうですね。すぐに雑然としちゃうのは目に見えてますし…。

- う~ん。だーねー。その意味では、それが無理なく続けられる仕組みでないと、みんなの協力をお願いできないねー…。

- じゃあそんなところで…。カキカキ…と。

- よし…。出揃いましたね。こういったものが上手に数字につなげられれば、大きなアピールポイントにはなりそうですよ。…解決できれば、ですけど。
ここでもスマホに残しときますね。…カシャ。

- 綾っち。ちょっと疲れたね。
少し休憩しない?

- はい。なーんか、すっきりさわやか炭酸ジュースが飲みたい気分ですー。
私、Cマートさんで買ってきますけど…晴花さん、どうですか?

- ありがと。じゃ、私はコーヒー牛乳で。お金、後で払うね。

- …じゃ、今度は私が。
とりあえず左側だけ消して…。ケシケシ。

- …さっき出た改善案に番号を振っとくね。カキカキっと。

- …で、空いたところに単純なマトリクスを書いて…と。カキカキキュッキュ。

- このフレームを使ってそれぞれの改善案の実現可能性を検討してみよっか。縦軸はその案のもたらす効果が高いか低いか、横軸はその案を実行するにあたっての難易度の高低をあてはめたものだよ。

- 綾っち。判断、お願いできるかな。たぶん綾っちの方が1歩引いて冷静に見られると思うから。

- はい。ここだと思う位置に数字…書いていけばいいんですよね?

- …うん。

- じゃぁ…えーと、1番はぁ…どうだろう…。うーんと…ここらへんかな…

- はげしく悩みますけど…これ。こんなところで…いいですか? ゲッソリ…

- ありがとね。助かったわ。

- それじゃ、ヌリヌリして…と。こんなカンジ。

- 右列の「GO! GO!」あるいは「GO!」エリアの改善案は、難易度も低いことだし、やっとかない理由もないわね。

- 幸いにも、最も効果の望める2番についてはほぼカタがついてるから、ここなわけだね。海前ビジネスさんと並行してステーショナリーズ北中川さんと上手にお付き合いできれば、品質を下げずにコストを減らせる。

- 問題はその付き合い方だけど…。

- ま、今はいいや。次は…えーと、3番についても綾っちの言うとおり、そう苦になるものじゃないね。で、4番は心がけにすぎないけれど意外とあなどれないかもなー。考え方によっては、この心がけからすべてが始まるのかもしれないし。…私たちが思ってる以上にいろんなところに波及して、大きな効果を生む要因になりえるかもね。

- じゃ…この3つ。「実行」としちゃいましょう! カキカキ。

- これを実行すればいいわけですね! 「よぉーし、パパがんばっちゃうぞぉ~」

- …とは、言えませんね。まだ。

- だーねー。この左の列の改善案をどーするか…。
難しいけど、工夫してできるものなら手をつけたいし。割り切らなきゃいけないものは、ここですっぱり割り切っておきたい。

- そこで、さ。この中からいくつか、工夫して右列に持っていけるようなアイデアはないものかなーって。

- うん…

- この5番をここにしたの、私たちだけの力では何ともならないと思ったからですけど…。実際に製本・発送をしてる業務の人たちの協力なくして、2階の倉庫はきれいにできませんし…

- あっ! でもそれができないと…

- 1番の難度もさらに上昇しちゃうじゃないですか! それにせっかく右列にある4番の効果だって私たちだけでは薄まってしまいます…。

- うん。5番は絶対にはずせないね。…ということで、今のところこれを右側に持っていけるようないいアイデアは浮かばないけど、これも実行にするしかない…ね。

- ところで7番はもう、アクロバティックなこじつけでもしない限り…私たちにはムリだよね? だから捨てよう。

- そうですね…。じゃ、8番も同じようなもんですから、こっちも消しましょう…。

- あ…。8番は、待って…

- ?

- …ごめん。少し確認してみたいことがあって。…私のモーソーなんだけど。

- モーソー? 何ですか?

- ホント、私はバカだから。とりあえずはずかしいから、ここでは置いておいて。…お願い。

- そうですか? じゃ、とりあえず…こんなカンジになりますね。

- あと1番と6番ですかぁ…。1番は、晴花さんの仕事モーレツに増えるの目に見えちゃいますし、普段の仕事に差し障りますよ? 仮に増やしたとしても、労力と残業代に見合った効果が生まれるとも思えません…

- それが6番にも通じますよねー。コスト削減の取り組みは瞬間的なものではないわけですから…。結局、無理なく継続していくしくみとしてすべてをまとめあげられるか否かが重要なんじゃないかなーって思えるところがあります…。

- …む。簡単じゃない。

- でも私が魔法少女になれば別。…先に言っとく。笑うな。

- …はい?

- だから魔法少女…

- (魔法少女って…。巷でそれが許される上限の齢を2周してなお余りが出ますけど…)

- …よし。

- マジカル

- ミラクル

- コレステロールぅー …ササッ!

- (ホントにやっちゃった…。しかもいち時代前の詠唱系ときたら…。ああもう取り返しがつかない…)

- (…私はどんなリアクションを返せばいいの? なにげに試されてるような気がする…)

- …あの

- …ひ…ひとりにするなんて…ひどい…

- …わ…笑ってくれるかと…思った…のに……

- …今「笑うな」って…

- 方 便 です!

- …と、とにかく。6番と1番はいっきにこっち側へ持ってっちゃいましょー!

- 持ってっちゃうって…。アイデアなしではムリですよー。

- チッチッチ!

- 魔法アラサーおねーさんの力をなめてもらっちゃこまるよ! あやこちゃん。

- ほらっ! もうそこにすでに魔法の力がっ!!
と言って、晴花は綾子の机上を指し示した。
人さし指の先には『OLのためのビジネスデータ分析』がある。
綾子は怪訝な顔をして、『OLのためのビジネスデータ分析』を再びゆっくりと引っぱり出した。

- ん?

- 付箋が! 「ひなみん」と書いてあります…。晴花さんが? いつの間に?

- …That's Maaaaagic!

- すごい! まさに魔法ですよ! 魔法! きっとここに6番と1番をムーブできるアイデアが!

- 魔法しょ…いや魔法アラサーおねーさんは実在したんですね!! 私、カンドーで涙が止まりませんっ!

- そうなの…今まで黙ってなきゃならなかったのはツラかったわ…。

- よーし、どんな方法なんかなー。わくわく。
早速付箋の先の内容を確かめようと、綾子は本の表紙の側を手前に向けた。

- …………………………あ。

- ……(参考:オリジナルの表紙)

- なななななな、な、なんてことするんですかーはるかさんーっ! て、じ、重要文化財級の寺畠家家宝にぃいぃ! ぷんぷん!!

- (ヤベっ! 渾身の力作を…どうやらハズしてしまったZO、私…
)

- あ、綾っち。大丈夫大丈夫…。「はがせるテープ」で仮どめしてあるだけだから…。キレイに剥がせる。うん、うん…


- ぶぅうぅー…

- いやー、サ、サプライズが必要かなーって。ほ、ほら…。「たいへんなときにこそ笑いを楽しめる余裕がさ、真のビジネスパーソンたるや必要なんだよんっ
」てさ、えーと…500年前の偉人・北ノ沢孫右衛門さんも言ってるわけだし? い、今、ビジネス界で大人気の人っ!!

- …なるほど。そうだったんですか。誰だか知らないけど、たしかにイイこと言いますねー。

- そうだよ、そう! こんなテキトーでごまかせるとは…チョロイyo…キミwa…

- あの…剥がせるかどうかでとりみだしちゃったわけじゃないですから、ごめんなさい。ちょっとした気の迷いです、迷い!(なにげにNTRなんだな…)

- ま、いいや。ところで、さっき私がコンビニ行ってたわずかのあいだに、これ、仕込んでたんですか?

- …ま、まぁね。

- (あの短時間で社員証のコピーや矢印を切り貼りして…なんという才能の無駄遣い)

- …うむ。

- でも晴花さーん、ひとつだけ言わせてくださーいね。

- …な、なに?

- これからコストカットに取り組もうって人が、こーんなコトでカラートナー無駄に使っていいのかなー
コピー用紙無駄に使っていいのかなー
テープ無駄に使っていいのかなー
はさみ無駄に消耗させていいのかなー
どう考えてもシメシがつっかないなー

- で・す・よ・ねー。スミマセンデシター


- さて…と。晴花さんの魔法は何かな~、と。ペラペラ。

- ああ、これか。「基本的在庫管理手法」 …なるほど。

- うん。それで6番と1番を解決しようと思って。だから綾っちに、私の方が教えてもらわないと…

- 無理ですよ。ここ “立ち入り禁止区画” でしたから。

- (ガクッ)

- …そうなんだ。ま、どっちにしてもデータ集めなきゃすすまないから、並行してベンキョーしとくわ。もろもろ準備するから、何日か時間ちょうだいね。本も借りるよ。

- はい、楽しみに待ってますー。私も手伝いますから~。

- じゃ、6番と1番も実行ということで。写真、残しときますね。…カシャ。

- …ね。綾っち。例の件だけど、早速手伝ってもらいたいことがあって。今、聞いてもらっていいかな?

- はい、なんなりと。

- …で、何をですか?

- 企業調査のレポート…1冊あたりだいたい何枚くらい用紙を使ってるもんなのか、そのヘンを知っときたくて。

- あ!…それなら業務課で把握できると思いますよ。あそこのシステムなら、直接データベースさわれる人であればそういうデータも取れるんじゃないでしょうか?

- それが…リーダーに聞いたら、そうしたスクリプトが必要になるので自分らの裁量だけで簡単にはできないと。百歩譲って新しいレポートについてはそれでカタがつくとしても、ましてやデジタル化されていない古いレポートについてはデータのとりようがないと…。デジタル原稿の提出が義務になったの、まだ最近なんだってね…。

- はい…RS部の人の調査原稿ですけど…有無を言わさずデジタルデータでの提出が課せられるようになったの、たしか2年ほど前じゃなかったかな…。

- ということで…私のちっちゃな話で業務課の人たちの手を煩わせちゃうのもアレだし、自分でアナログで調べようと思ってさ…。

- といっても万単位のものを…全部調べるつもりですか?

- い、いやいや。あたらしい発注まわりの計画を練るのに、だいだいのところがわかればいいの。いくらかをピックアップして、調べようかなーって…。

- だから綾っちに手伝ってもらっちゃおっかなーって。合間合間でOKだから…。

- そういうことでしたら…。まかせてください。

- ありがとー。

- よしっ…。じゃあ、早速割り当てを決めるね。
晴花は着座して自分のPCの表計算ソフトを起動した。
綾子はその画面を背後から覗き込む。

- 登録の順に連番でつけられている調査対象企業の固有コードは…昨日の時点で101番から52768番だったから…カタカタ。

- 計算上はこの差の 52,667 冊のレポートが存在するわけだね。とりあえず、こっから現物の100冊をでたらめに抜き取って…それをもとに全体の平均使用枚数を推定してみようと。

- レポートの下余白にさ、頁数、ふってあるじゃん? てっとり早く、そっから用紙の使用枚数を判断しよっかなって。…両面使ってるわけだから、頁数÷2で考えちゃえばよいよねって。

- …ふんふん。

- その100冊はどうやって決めるんですか? そうした調べものは、ムサクイ…でないとマズいですよね?

- このエクセルで決めちゃおうと。綾っちの言う通り、無作為でないとせっかく調べても意味がないので、「乱数」って呼ばれるでたらめばらばらチックな数を出しちゃうね。

- 今回はデータが重複しないものが欲しいんで…えーと…重複チェッカー(重複があった場合 “D” と表示)を100個作っておいて…

- randbetween関数を使って、minからmaxまでの範囲で同じく100個の(整数の)乱数を発生させると…

- …あ。重複が出たね。

- …ということで重複が出なくなるまでシートを再計算してやるよ。F9キーを押すたびに再計算ねー。

- あとはこれを別のシートにコピーして…並べ替えるね。

- …できた。

- じゃ、私が上の50冊を調べます。…問題ないですよね?

- …うん。ありがとね。

- …あの、いまさらナンなんですけど…晴花さん。100冊ってどっから出てきた数字なんですか? 全部やるのが無理だからって言うのはわかりますけど、だからといって100っていう数字が全体の平均を推し量るのにちょうどいいもんなんですか?

- 理由? …テキトー。

- …え?

- ほんとに。だいたいこんくらい調べればいいかなーって。

- じゃ、そうした背景にちょっとだけ触れるね…。今回のように、一部分から全体を推定したい場合には「大数の法則」と「中心極限定理」っていうすごーく便利な考え方があってね…

- 大数の法則は、平たく言っちゃえば サンプルサイズ(標本の大きさ)が大きければ大きい調査であるほど、無作為に抜き出したものの平均(標本平均)を全体の平均(母平均)と同じように見られるようになりますよーってものなんだけど…

- …言葉だとピンと来にくいかも。せっかくだから、どんなのか見てみる?

- はいはい。ぜひぜひ。

- じゃ。
ランダムな数字を…なんとなくだけど10,000個、用意して…と。カタカタ…。

- ね、綾っち。「正規分布」覚えてる?

- …はいはいもちろん。ヒストグラムと偏差値勉強したとき、それにZチャートで田中さん説得したときにも使いましたし。

- 今ね。その…
正規分布にしたがうようにして…ランダムな数字をつくったの。…ヒストグラムにしてみれば、それが分かってもらえると思う。あ、そうそう…便宜的に平均50・標準偏差10程度をとるようにしてあるよ。…ターン。

- ここに正規分布曲線をのせると…こうなるね。
このランダムな10,000個のデータの平均…正確に計算したら、49.62となるみたい。

- あ! 左右対称な釣鐘をかさねてみると、たしかに正規分布っぽいですね。

- じゃあ、この10,000個のデータの中からさ、1個・10個・100個・1000個の…おのおののサンプル(標本)をPCにランダムに選んでもらうね。んで、そうしたサンプルの平均がどうなるのかを見てみるの。

- ふむふむ。

- …でもちょっと時間をちょうだいね。カタカタカタカタ。タタタターン。

- ん?

- …あれ? 晴花さん、今やってるのって、あのウワサの… VBA! っていうのじゃ…? 「できない」って言ってたのに…できるようになったんですか?

- …あ…うん。す…少しだけ。…カタカタカタカタ。タタタターン。

- ……できた。じゃ、やってみるよ。

- …ええと。真の平均(母集団[ここでいう「元データ」]の平均)は49.62だったから…

- サンプルサイズが大きい方が、真の平均に近づいていきますね!

- うん。その意味では、サンプルサイズは…1よりも10が、10よりも100が、100よりも1000あった方が望ましいってことになるね。…無作為に選んだものであれば、だけど。

- この大数の法則は、元が正規分布じゃなくてもあてはまるんだ。たとえば、サイコロなんかがいい例。

- サイコロってさ、イカサマじゃなければどの目が出る確率も…

- 1/6 …ですよね。

- うん、いっしょ。じゃ、こっちの方もPCにサイコロを10,000回振ってもらうね。

- …カタカタカタタタ…と。

- …綾っちの言うとおり、それぞれの出目、ほぼ均等だよね。正規分布とはまた違ったこんな分布…「一様分布」って言ったりするんだ。

- …ところで、このサイコロを10,000回振った一様分布の場合、出目の平均はどうなってるんだろう? 綾っちはどう思う?

- …それは…どの目も出る確率が同じだから…単純にすべての目を足して平均をとると…(1+2+3+4+5+6)/6で…えーと…

- 3.5!

- うん。…ま、それが大数の法則なんだ。

- ?

- 綾っちの期待する 3.5 っていう数字は、サイコロを1回振っただけでは…

- なるほど…出ませんね。何回も何回も振ってようやくそのヘンに近づいていくようなカンジですね? きっと。

- かな? じゃ、見てみよう。
…1回目から10,000回目まで毎回毎回、出目の平均をグラフにプロットしていくとね…カタ。

- たしかに、何回も何回も振って 3.5 周辺に貼りつくようなカンジ? 私のつくったデータだと、2000回を越したあたりからようやくそのヘンで落ち着いてきてるかな…。

- なぁーるほど…。

- この大数の法則…難しいこと抜きにしてイメージとしてはしっくりこない?

- きますきます!

- で、もう1つ。中心極限定理の方は…ね。この大数の法則のお友達みたいなもんで。

- …ま、百聞は一見にしかずだね。こっちも実際にやってみよう。

- ラジャー!

- …じゃ、またこの↓データを使うね。便宜的に正規分布にしたがうようにしてつくった、平均50・標準偏差10程度のランダムなデータ。

- こっからランダムに30個のデータを抜き出してみるの。そしてね、その平均を計算してみるの。

- つまりね、あとで私たちが調べようとしてる “調査レポート1冊あたりにどれくらいの用紙を使っているか” の調査と同じようなことをやってみるんさ。本番は100部でやるつもりでいるんだけど、とりあえずここでは30個を抜き出してみるね。

- …カタカタカタ。

- と。こんなカンジになったね。

- あ! たったそれだけで真の平均… 49.62 にすごく近い数字がでてきました!

- うん。でもさ、よくよく考えてみれば…これってタマタマな数字かもよ。

- ?

- また同じようにでたらめにさ…30個のデータを引っぱり出してやると、出てくる数字も当然…変わってきちゃうもんね。

- だから他の組み合わせでは全然かすりもしないのに、今このPCが引いた30個の組み合わせに限って、たまたまハマる数字が出てきちゃったのかもしれない。

- …ふんふん。

- …とういことで、実際にどうなるか。あらたにもう1回引っぱり出して、見てみよっ。
…カタカタタタタタっと。

- 確かに、少しですけど…ブレましたねー。

- これってさ。これから何か調べようってときに、微妙にヤッカイだよねー。もしかしたら真の平均からとんでもなくブレてくる数字ひろっちゃうかもしれないしー。かといって何回も何回もレポート引っぱり出して用紙の数かぞえるなんて、まるで苦行じゃん?

- …ま、でもPCくんはタフだから、それをやってもらおっかな。
とりあえず30回程度でいっか…。えーとだから…あと28回! ランダムに30個のデータを引っぱり出して平均を計算してもらってみるね。

- …タタタタっと。じゃ、がんばってNe! …カタ。

- …できた。

- …んで、この30回の調査のそれぞれの平均を、さらに平均(標本平均の “平均” [標本分布の平均])してみるとー…どうなるかなー?

- …なかなか、悪くないっしょ!?

- ですね。

- じゃあ、今度は今とキホン同じ条件で、抽出する数だけを変えてみるね。
私たちが用紙の枚数調べるのと同じ 100 個のデータを引っぱり出してみる。それをさっきと同じく、30回繰り返してみるよ。…カタ。

- こっちも悪くなくなくない? さっきのと比べて、また少し、真の平均に近づいたし。…ま、このシミュレーション自体がモドキだからエラそうには言えないけれど。

- …うーん。でも、サンプルサイズが30個の場合でも100個の場合でも…思ったより結果に差が出ないもんなんですね…

- ってことは…大数の法則ってものがあるにしても、まぁ30個程度引っぱり出して調べれば十分!…ってことになりませんか?

- …なら、そのアタリを見てみるね。
サンプルサイズ30個×30標本で平均を出したもの(標本分布)と、サンプルサイズ100個×30標本で平均を出したもの(標本分布)の、バラツキ具合を見てみるの。ということで…

- あ! バラツキ! …標準偏差っ!?

- …を計算してみるね。…ジャカジャン…と。

- あれ!? (標本平均の)バラツキはケッコー違う! …サンプルサイズが大きい方が…バラツキも小さいですね!

- だーねー。この標準偏差の値とさっきの標本平均の平均(標本分布の平均)の値。実はいちいちこんな面倒なことしなくても、最初から計算できたものなんだ。…中心極限定理でね。

- 元データ(母集団)の方の平均をμ(ミュー)、標準偏差をσ(シグマ)、そっから抽出するサンプルのサイズを n (ある程度の大きさがあると仮定)として…さっきみたいにそっからいくつもいくつも標本をつくってってさ…

- …その標本の1つ1つの平均を求めて(標本平均)、その分布(標本平均の分布)を見てみると…これもまた、正規分布になっちゃうんだ(標本平均の分布は正規分布にしたがう)。

- ?

- …イメージ、湧きづらいよね? ちょっとこっちから触れよかな。

- 中心極限定理の要点のひとつに…この標本平均の平均(標本分布の平均)の方は母平均と同じものに、標準偏差の方は σ/√n って値になるってことが示されるの。

- …ってことでこの式に、実際にわかってる σ と n をあてはめて確認してみるね。えーと…

- っていう数字がでてくるね。さっきのと比較してみると、どうかな?

- あ! すっごく近い近い! 便利な式ですねー。

- だね。ということで、さっき触れた「標本平均の分布は正規分布にしたがう」って点に戻るね。これまで具体的に見てきた3つのデータのカタマリについて、ここで正規分布曲線を描いてみるよ。…正規分布曲線は、平均と標準偏差がわかっていれば描けるんだ。

- …まず、元のデータ(母集団)の方。…っと。こんなカンジ。

- 縦軸は「確率密度」って言って、簡単に言っちゃえば横軸あたりの数字がどの程度の割合で登場するかをあらわしてるんだ。厳密には「ピンポイントで50っていう数字の登場する確率いくら!」って言えちゃうものじゃないけれど、まぁ、だいたいそのアタリの数字の占める割合が高いのは一目瞭然だね。

- んでもって、あらかじめわかってる元データの標準偏差(σ)を重ねてみると、ピンクの部分のようになるよ。

- ふんふん。これがバラツキぐあいの指標ですね~。

- うん。それじゃぁ、次はさっきの…異なるサイズの “標本平均の分布” を、正規分布曲線にしてみるね…。…カタ!

- 標本平均の分布の方は、サンプルサイズでこれまた極端にかたちが違うんですねー。サンプルサイズが増えるほど、剣山のように…貫通力高そう…

- うん。つまりそれは…?

- …サンプルサイズが大きいほど標本平均のバラツキも小さくなってくる?

- …こんなカンジに。

- ああ…なるほど。私たちがこれから用紙の調査をするのって、今エクセルでやったみたいな何回も何回もデータの抽出を繰り返すようなものじゃなくて…一発勝負ですよね?

- 同じ一発勝負でも、サンプルサイズが大きい場合は、小さい場合とくらべて、真の平均を大きくはずしちゃう確率をより小さくできるってコト、ですか…。

- うん。図のとんがり具合からマンマなんだけど、サンプルサイズが大きくなるほど真の平均のあたりの確率密度が高くなっていくんね。「中心極限定理」なんて呼ばれ方も、そんなトコロでピンときたりして?

- …というわけで、この “標本平均の分布” の方の標準偏差は真の平均を推定してみようってときの精度の目安としてツカエルね。そうしたことから、とりわけ「(標本平均の)標準誤差」と呼ばれることもあるよ。

- つまり、だよ。私たちも大数の法則と中心極限定理を前提として用紙の調査をすれば、さ。あとはアレで…真の平均が存在するであろう範囲を推定できちゃうじゃん?

- 確率計算っ!

- なるほどー。えーと、正規分布の場合は、たとえば±1標準偏差にはいる割合が68%くらいで…±2標準偏差にはいる割合が95%くらいだったから~…

- この標本平均の分布も同じで…±1標準誤差にはいるのは、調査を10回やったとしたら7回くらい、±2標準誤差にはいるのは、同じく20回中19回って言うこともできますね…。

- 裏を返せば、±1標準誤差を基準にすると10回中3回は外れる、±2標準誤差を基準にすると20回中1回は外れるってコト。

- …じゃあ私たちの調査の場合も、こうして標準誤差何個分で考えるかを決めてしまえば、その境界あたりの枚数を調べて「だいたいこんなトコからこんなトコかな…」っていうふうに言うことができるんですね?

- …そうかも。

- たしか±1標準偏差はおよそ68.3%, ±2標準偏差はおよそ95.4%…だったね。でもさ…ふだんこうした場合によく使われる数字は、95% か 99% なんだ(信頼率)。整数のが、なんとなくキリもよくて使いやすいよね。

- あ、そうそう…その95%とか99%とかの百分率を小数であらわした数字、ここでは特に「信頼係数」って呼ぶことにするね。…0.95と0.99。

- …ということで、さっきの標本数30・サンプルサイズ30の標本分布のデータを使って、タメシに確率計算してみよっか。信頼係数0.95だと…標本平均はどっからどこまでの区間をとるかな?

- ふんふん。
この本に書いてあるのだと…確率とかの計算は…


- …ですから…
確率Pに対応するxということで…Norm.Inv関数(ver.2007ではNormInv関数)でできますね。

- …この関数、左からの累積の確率(下側確率)を入力するみたいですから…ええと…少し、整理しますね…
まず、私が求めたいのはこの赤い点…ですね。

- …ということで、最初に必要なのはこの左の色のついた部分の確率と…

- 次はこの部分の確率。

- この両袖部分は 100%-95% で 5%だから…。

- 最初の色のついた部分の確率は半分で 2.5%って入力するんだね。

- …そして中央の 95%をくわえると…

- 次の色のついた部分の確率は 97.5%って入力すればよさそうです。

- んでもってさっきの中心極限テーリから…この場合平均はμ(母集団の平均), 標準偏差はσ/√n(サンプルサイズ)でしたからこれも引数に指定してと…

- こんなんなりましたけど…あってます?

- うん。と思うよ。

- …ホッ。

- …ということですから、こっから30個のデータをでたらめに引っ張りぬいて平均を出したとき、20回中19回は46.03~53.21の範囲に入るってことですか。…なるほどなぁ。

- 本番もこんなカンジで推定しちゃうの。サンプルサイズを100にして。

- あの…でもひとつギモンが。
これって元が正規分布だからこそ計算できることですよね? もしですよ。もし、元データが正規分布以外のぐにゃぐにゃ分布とかだったら、どうやって推測するんですか?

- いーねぇ綾っち…。実にいいギモン。
もしそうであっても、さっきの綾っちの考え方で計算できるんだ。

- なぜ?

- そこが中心極限定理のありがたいところ。
…実際に見てみよう。

- じゃ、もったいないからさっきのサイコロのデータ…これは一様分布だね…を使って試してみるよ。

- この10,000個のデータから、とりあえず今度はちょと豪華に 標本数300・サンプルサイズ300 までパパがんばっちゃっうぞ~って標本平均の分布を調べてみよっか。マクロのちから、ご覧あれ! …ターン!


- …。


- …ジカン、カカルネ…


- ………………………

- …お、終わりました!

- (チョウシニノッテ デカクシスギタ…)

- で、で…。この300の標本平均の分布をヒストグラムで確認してみると…
な、な、な…なんと!

- あ! 一様分布じゃなく釣鐘! …すごい!

- だからある程度のサンプルサイズを用意できちゃえば、母集団が正規分布でなくても標本平均は正規分布にしたがうって前提で、母集団が正規分布の場合と変わることなく平均の推定をすすめられちゃう…ってコトみたいね。ちゃんちゃん。

- わっかりましたぁ! …とにかく、やってみなきゃはじまりませんね。
手の空きそうなときに、交代しながらリストの番号のレポートを順番に調べていきましょー。
仕事の合間を見ながら、ふたりはRS部を行き来した。割り振った番号のリストを手にして、該当する番号のレポートを一部一部目視してつぶしていく。
そして数日後。ふたりは、予定したすべてのレポートを調べ上げた。
晴花は、綾子から結果の記されたメモを受け取る。晴花はそれを片手に、データをPCに入力していった。

- 綾っちありがと~! 入力できたー。

- あとは綾っちに足で電源コード引っかけられないウチに…保存、保存…と。

- …うっ。トラウマに触れましたね…

- …あ、ごめんごめん。

- …なら私も晴花さんのヒミツに触れますよ?

- …え。

- …その紙袋!
と言って、綾子は晴花のデスクの下におかれた紙袋を指した。

- 荒木さんとよく交換してるソレですよ! いったい何やってんですか? 翔太くんさんに言いますよ?

- …翔太くん…は…関係あるん?

- これは…その………………
なら、見る?

- え? 見ていいんですか?

- 別にやましいものじゃないから。
やましいものじゃないんだけど…でも荒木さんに悪いような気も………………いいよね?

- むふむふ。ナニかな~?
晴花が紙袋を抱えて机上に持ち上げると、綾子は鼻の下を伸ばしながら興味津々に中身を覗き込んだ。

- マンガ?

- …萌えマンガや女性コミックも! これって…

- …荒木さんの。交換で貸し借りしてるの…。

- 交換? 晴花さんもマンガを?

- …いや、マンガはあんまり持ってないんで…。私はDVDとか…。

- …趣味というか…ケッコー嗜好が似てるから。

- DVD!? 晴花さんの好きそうなジャンルと言うと… (自主規制)…とかですか?

- 私はいったい……………。でもビミョーにあたってる…くやしい…

- 冗談ですよ。
晴花さん、映画好きですもんね。

- 特に戦争モノとか。最初は正直どういう嗜好かと思いましたけど…そんなん封切のたびに連れて行かされる私も、おかげでずいぶんと耐性がついちゃいましたけど。

- まぁだわかってくれないんかな~……極限の人間ドラマだからこそ惹きつけるのに………。

- たまには純愛モノが見たいんですー。そっち誘ってください!

- …………前向きに、検討します。

- …それにしても荒木さん、意外というか…こんな趣味あるんですか。

- …こういうコミックにすごい精通してるの。今はこれがおもしろいとか昔のアレはせひ読んどくべしとか峻別して勧めてくれるんで、なーんかすごくいい作品と出会えるようになったん。

- …おかげで月に何度かのマンガ喫茶への投資も、ずいぶんと減らせるようになったわー。

- …なるほど。そんなやりとりをしてたんですね…。

- でもこういった本に偏見をもつ人もいるかもしれないし、そしたら荒木さんにも迷惑がかかるから、みんなにナイショね。

- はい…

- さてと、綾っち。脱線しちゃったけど、そろそろやろっか。

- あ、ですね。

- どうする? データも集まったし…あとはおいしいところだよー。私がやっちゃっていいのかなー?

- え…。

- …もしかして…私にやらしてくれるんですか?

- 綾っちになら。よろこんで。

- やります! やりますっ! ツイてる~

- …ありがとね。

- じゃ、んとね。やり方はね…虎の巻のこのページになるんだ…ペラペラ…。

- 前にちょっと練習したときと違って、ここでは確率計算に標準正規分布を使うよ。PCがなくても(Norm.Inv関数が使えなくても)標準正規分布表からz値を拾えるし、関数のように計算過程がブラックボックスってわけでもないから、一般的にはこっちのが便利だし明瞭だね。

- それとね。あたりまえだけど今回は母標準偏差がわかってないわけだから、大数の法則や中心極限定理の考え方をふまえてさ… 母標準偏差=標本標準偏差 に置き換えて計算してみてね。サンプルサイズが100もあれば、ま…それで問題ナイっしょ。

- 了解でーす。じゃ、手順を追ってやってみますね。


- ズカジャン! でーきましたー。

- 調査レポートに使われてる用紙の平均枚数は 46.97枚~ 51.21枚の間にありそうですね。

- …あ、同じ調査を20回したら19回はこの区間に入るくらいの確からしさで。

- なーるほどねー。メモメモ…。

- ありがと綾っち。これからあたらしく発注や在庫まわりを組み立てるのにどうしても必要だったデータが、これでひとつ手に入ったよ。

- よかったです。

- じゃ、今日はそろそろ帰りましょー! …ほどよく疲れましたし。

- …うん。

- …でも私はもう少し残っていくよ。この借りてる本、荒木さんが仕事終わってから取りに寄ってくれることになってるから。

- …そうですか。わかりました。
綾子は着替えをすませ、家路についた。
静まり返った経理課で、半分におとした照明にてらされながら、晴花はただ黙々と残務をつづけた。
しばらくして。
仕事を終えてすっかり帰り支度をととのえた荒木が、晴花との約束通り経理課にやってきた。

- やぁ。お待たせ。

- …オツカレです。さっそくだけど、これ。ありがとう。

- 今回は特にコレなんか…。マミちゃんの魔法がマサオ兄さんのサイキックムービングだったなんて! マサオ…つかまっちゃうし、マジにどうなっちゃうんだろう…。

- …アレね。大丈夫。覚醒するから。

- …言わないでくださいよ。

- ごめんごめんごめん。
ところで、もう終わった? …仕事?

- …あ、うん。まぁ。

- じゃぁ、よ、よかったら…オイラと、その…メ…メシでも、行かない?

- …え。

- …今から? ふたりで?

- …い、今から。ふたりで。

- あの…もう遅いですし…。さすがにどうでしょう…

- そんなことないってー。
そ…そうだ。今晴花ちゃんに借りてる例のDVD、いろいろ設定が複雑で…。よく知りたいんだよ!

- …ほら、あの空挺部隊がどうして敵の背後をとれたのか…とか。…そ、そんなところを議論したいと思ってたんだーっ!

- …と言っても…。

- お願い! 詳しいひなみんと議論できれば、ミリモノ映画に関する造詣も増すってーもの。

- ……そういうのは………

- 行こうよ。かねがねお礼もしたいと思ってたし。それも兼ねて。

- いやそれは…お互いさまですし……
瞬間
晴花は、ハッとなった。
うら悲しげなその顔が、晴花の心に痛くも刺さる。荒木をひどく悲しませているような、そんな自責の念におそわれた。

- …

- ………じゃ、少しだけなら。

- ………ホントに…

- よっし! じゃ、いっしょに行くのもなにかとアレだから、オイラ、先に出てるよ。○○ビルの横のファミレス。そこで待ってるから!

- はい…。
晴花は帰り支度をすませると、経理課を施錠して総務部長にカギを戻した。階段を下りビルの出入り口までやってきて、ひとたび立ち止まる。そして重たいガラス戸をぐいと押すと、刺すように冷たい風が、晴花の身体をがつんと襲った。
晴花は、両脇をしめて胸を抱える。そして身を縮めるようにして、こごえた夜の風に抗った。
胸の下で交互にした手を解くことなしに、晴花はトボトボとした足どりで荒木との約束のファミレスへと歩いていった。