Fourth Step
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後日。経理課の昼休み。
翔太は経理課にいた。ジョブトレーニングの一環として、この日のお昼は経理課の電話番を任されている。
最初は翔太も、晴花たちと同じ空間に公然といられることを手放しに喜んだ。…が、これから至高のひとときを楽しもうとしたのも束の間、不運 ? にも顧客からの問い合わせがつづく。
綾子たちは、その横でまったりと弁当をひろげていた。
翔太は思わずガッツポーズをつくる。
と言って、綾子は晴花の玉子焼きに手を伸ばした。
電話中。
そして、終了。
晴花の手刀が、翔太の脳天に落ちた。
晴花の手刀が、再び翔太の脳天に落ちた。
そして、綾子がパーテーションの方角を指して言う。
晴花の手刀が、三たび翔太の脳天に落ちた。
晴花の手刀が、翔太と綾子の脳天に同時に落ちた。
翔太はちらりと時計を見た。
DEMONSTRATION 16:
感激した。“晴花にやさしい言葉をかけてもらった” それが翔太を舞い上がらせた。
感激のあまり、翔太は晴花の手を取り両手でガシと握りしめる。晴花は驚き固まった。
その時、経理課のドアが開く。
安堂が経理課にやってきた。
が。
安堂の眼前に、はからずも理解のすすまぬ構図が、ある。
安堂は、自分の目の前で背を向けて立っている男を探して、ここまでやって来た。が、その背中の向こうに見える引きつった晴花の顔の方が、よほど関心を奪うものであった。
安堂は、翔太が不埒をはたらいたものと覚った。
手に抱えていた大きな皮の黒い手帳を身体にひゅっと引きつけると、次の瞬間、それを翔太の首根っこめがけて「やっ」と放った。
どかっ。
翔太に命中した手帳は、そのまま鈍い音をたてて床に吸いついた。
落下の衝撃で、手帳の留め具が外れてしまった。
と安堂が言う傍で、晴花は安堂の手帳を拾い上げようと屈んだ。
そして、開けた手帳のページに目をやったとき、晴花は再び色を失った 。
ページを埋める、字・字・字。
インクの黒が、支配する世界だった。どんな意味があるのか晴花にはわからなかったが、そのただでさえにぎやかな世界を縫って、丸や傍点、斜線などの記号が所狭しとおどっていた。
その乱雑な走り書きの塊は、晴花にはまるで余白を好んで食い尽くす細菌のようにさえ見てならない。
狂気的。
晴花の脳裏には、そんな言葉が浮かんだ。
手帳を拾って、安堂に手渡した。
と、手帳をはたきながら、言った。
何て人だ。
晴花には、それ以外の的確な表現が浮かばなかった。
安堂のリサーチに関する顧客からのリスペクトは、この会社の窓口としての役割を担う内勤の人間ならば、誰だって感じ得る。だからこそ、そもそも自分の嗜好を二つ三つつまんだだけで、軽々と「母集団」なんて言葉を使えるような男では、最初からなかったはずなのだ。
「日常の行動でさえ、リサーチャーとしての好奇心が自分の欲求に勝る人なのか」
翔太の言う「安堂さんという人」とはそういう人間のことなのだと、このときはじめて理解できたような気がした。
…と、上機嫌でふたりに問うた。
翔太が言い終えるのを待たず、安堂はマウスのホイールを回し始める。
検定の結果より、ローデータの方に興味があるらしい。
晴花は安堂の手帳を凝視した。意図を察した安堂が、笑って返す。
安堂は携えてきた鞄を開け、一枚の紙片をちらりとのぞかせる。
が、それは綾子たちに文脈で期待させたような、何か希少で神秘性に満ちた類のものではなかった。
それもそのはず、どこかの会社のパンフレットのようなページが一枚、複写されているだけのシロモノである。三人は、反応に窮した。
と言うが、三人には安堂の意図するところがさっぱりだ。反応がないのもつまらない。安堂は、たまらず、
と言って、紙面を指で差した。
途中まで顔をのぞかせていた用紙の上端をつまむと、鞄からそれを完全に引っぱり抜いた。
「Cマートエキキタテン FAX 0xx-…」
用紙の下端には、発信元のコンビニ名とFAX番号が印字されているだけだった。
安堂は、皆の反応を楽しんでいる。しかし、同時にそろそろ線引きが必要な頃合いだ…とも思う。
といって、安堂は頭を掻いた。
安堂は別のシートに切り替えて、task B のデータに目を向けた。
翔太の脳天に、安堂の手帳チョップが落ちた。
お昼休みも終わるころ、翔太が再び経理課に戻るのを安堂は待っていた。
翔太が部屋を出ていくと、安堂は応接室へと入っていった。以前の安堂なら、綾子とくだらない会話を楽しみながら時間を潰したものだろう。だがこのときは、その饒舌さが顔をのぞかせることはなかった。皆の死角となる狭い応接スペースの中で、ひとりしずかに翔太の支度が整うのを待っている。
ひと息ついた瞬間に、抱えているものが心にふっと顔を出す。
テンションが、続かない。これを綾子たちに覚られるのを、嫌った。
経理課のふたりに対して、安堂は日ごろから配慮を忘れない男だった。
仕事のやりとりを経る中で、こことの円滑な関係がちゃんと自分の仕事に返ってくることを、安堂は理解している。
しかし、裏を返せばこの関係性は、利害の枠のなかで築かれたものだ。仕事の中での、スマートな関係性なのだ。同じRS部員でも、田中のようには、いかない。同性で歳も近い田中のように、仕事を超えて理解しあえる関係にあるわけではない。
「しょせん脆い関係だ。ちいさな変化で、すぐに綻ぶ」
固いと信じていた家族の絆さえ失いかけているありさまなのだ。もうこれ以上、自分にとって大切な関係性に傷をつけたくはないと思う。
だからこそ、綾子たちのなかに築いた "自分というもの" を崩したくない。安堂が応接に籠ったのは、そんな理由からだった。
綾子は「マンガ・OLのためのビジネスデータ分析」を手に取る。そして席を立ち給湯室に足を運んだ。
給湯室で湯呑にお茶を七分ほど注ぐと、それを盆にのせ応接スペースの前へとやってきた。
ドアを二度ノックして、静かに開ける。
予期せぬ綾子の来訪に驚いて呆然とする安堂をよそに、綾子は、コーヒーテーブルの上で茶托をすべらせた。
綾子がにわかに手を挙げた。
綾子は両手で「マンガ・OLのためのビジネスデータ分析」を胸の前に掲げた。
安堂は、ごくりと唾をのむ。
綾子の話を聞いて、安堂の頭にふと、浮かんでくることがあった。
キッチンの晴花を指して言う。
安堂は、笑って言った。
安堂のレクチャーがひと段落ついたころ、キッチンでは、翔太がぐつぐつと音を立てる土鍋にフタをかぶせていた。そして、空色の水玉模様がプリントされた、青いキルト地の鍋つかみに手を挿し入れる。
晴花の生活のにおいを感じられるものに触れられた喜びに、しばらくは浸っていたいとも思う。が、その本人に怪訝な視線を向けられては意味がない。観念して、電気コンロから土鍋をぐいと持ち上げた。
翔太は白い歯を覗かせながら、小さなキッチンから綾子たちのいる居室へと、ふつふつとした重たい音を響かせる鍋を運んでいった。
本来、この部屋は、人ひとりが寝起きするには余裕があるくらいの広さだろう。生活に必要なものも、最低限しかみあたらない。しかし翔太には、それでいてひどく圧迫感のある部屋のように感じられる。
理由は、わかる。この部屋を狭く見せているのは、まぎれもない…部屋の片隅に裸のまま高々と積み上げられた書籍の束以外にありえなかった。
翔太は、先程まで安堂が教卓代わりに使っていた平机の上に、鍋をおろした。
その傍らで、綾子は道中で買ってきたジュースやお酒、はたまた使い捨ての食器類を並べている。そして晴花の支度が整うのを待ってから、四人が鍋を囲って向かい合った。
皆、翔太の手元をまじまじと見つめていた。
それぞれが箸をすすめながら、取るに足らない話に花を咲かせる。
こと小さな空間を共有して囲む鍋の温かさが、日々、ひとりの夜を甘受する安堂の心に深く染み入った。
安堂の顔が、にやける。
しばらく間をおいて、そう、安堂はつぶやいた。
…なごやかだった空気が、一瞬にして凍りつく。
安堂は、思わず綾子から目をそらす。
と言ったところで言葉を切った。安堂は、狼狽の色を強くする。しばし黙ったまま、心の内にあるさまざまなものを天秤にかけ、逡巡した。
片づけを終えた三人は、安堂のアパートを辞去した。
安堂は、綾子たちを駅へと向かう途中まで送っていくと買って出る。
皆、切り替えのできる大人だ。先ほどの重い空気は、ここにない。暗んだ裏路地を横一列になって、話を交わしながら歩みを進めた。
夜空にさす駅の灯りがはっきりとしてきたころ、綾子たちは安堂に礼を告げる。そして、安堂はもと来た道を背中を丸めて帰っていった。安堂は、ときおり柔和な表情で綾子たちの方を振り返り、二,三度大きく手を振りながら遠くなっていく。
そんな安堂を、綾子たちはしばらく笑顔で見送っていた。
別の日。経理課。
綾子は、角型の茶封筒を田中に渡した。
田中は、封の中から一枚の紙を取り出した。
田中はあたりを見回して、他に人がいないのを確認した。
笑いながら、再びあたりを見回した。
DEMONSTRATION 17:
晴花は、キッチンの側にいた優里を呼んだ。
伝票を携え、優里は店の一角のワインセラーへ向かった。
と田中が言ったとき、
パッリーン!
と、いくつかのグラスの悲鳴が空間をつんざいた。
一瞬にして、喧噪を失う店内。
音の出どころである、ワインセラーの方角を誰しもが振り向いた。
割れたガラスの散乱する床に、手をついてかろうじて身体を支える優里の姿があった。
「っ!」
晴花は椅子をはね退けた。そして、優里のもとへ一目散に駆け寄って、彼女の身体を背後から抱き支えた。