Fourth Step
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晴花は小さく、そして何度も小刻みに 優里の身体を揺さぶった。
「うう…」
血の気を失った優里が返せる、精いっぱいの反応だった。
優里の様子にあわてた晴花は、無意識にオーナーの姿を探していた。
はたと、弘毅と目が合う。
グラスの悲鳴のあとで、音のなくなった空間に異変を感じた弘毅が、キッチンから顔をのぞかせた。
視線を落とすと、晴花に抱えられた優里がいる。弘毅は事態を把握した。
「な!」
優里のもとへと 身体を小さくして駆けた。
同じくして、綾子と田中も騒ぎの側へとやって来ていた。
弘毅は幾度か問いかける。その返答さえ危うい優里の顔色を見て、弘毅は決断した。
と言ったとき、優里は目を閉じたまま、弘毅の前腕をがしと掴んだ。
優里は晴花の支えを頼りに、少しだけ身体を起こした。そしてうっすらと目を開けて、弘毅に言った。
ふたりは両脇から優里を抱え、店の奥へと連れていった。
残った弘毅は 思わぬ事態に動揺を隠せずいる。店の切り盛りのことなど頭から失したように、抱え連れられていく優里の後姿を見ながら、ただその場で荒い呼吸を繰り返していた。
「まずいな」
田中は思った。
(他に人員不在の今、弘毅ひとりでは店が回らないだろう)
床に四散してオレンジの光を反射するガラス片を片付けながら、田中は言った。
弘毅は我に返った。目の前の人間は、店を回すことができるよう自分にキッチンの仕事に専念させようとしているのだと。「たしかに、これからパートタイムの学生を緊急でアテにできるかも不確定だ」と弘毅は思う。急場をしのぐには、優里の友人であろう人間を信用してみるしかなかった。
田中は上着を脱いでウエストエプロンを巻きつけると、あたりまえのようにホールの切り盛りをはじめた。物怖じしない彼女の行動をしばらく見届けると、弘毅はひとまず自分の役割を優先してもよさそうだと判断した。
その後しばらくして。
綾子が奥の間から戻ってきた。そして、弘毅のもとへと向かった。
安堵の報告を聞く間も、弘毅の手が休まることはない。
綾子は田中と合流すると、ふたりで補い合いながら優里の空白を埋めていった。
そして、奥の間では。
優里は深いため息をついた。
翌日。
お昼を食べ終わったあと、綾子と晴花はしばしの安息の時間を過ごしていた。
晴花は椅子に深くもたれて、会話のついでに手元でいそがしく編み針を動かしている。
晴花はバツがわるそうに席を立つと、 ロッカーから膨れたトートバッグを取り出した。そこに途中まで編み上げたマフラーをねじ込みながら、言った。
トートバッグの 異様なふくらみに驚いた綾子が言う。
その日の夕方。
晴花は ロッカーからトートバッグを取り出すと、誰もいない応接スペースに入っていった。中からは ガサゴソと衣擦れの音が聞こえてくる。
その音が止んでしばらく晴花が外に出てきた。
グレーのスエット地のパーカー&パンツに着替えた晴花が、面倒くさそうな顔をして綾子の前に立っていた。場違いなほどラフな出で立ちに社員証をつるしたその姿は、綾子にはてんで滑稽に見えてしかたない。
と言って、晴花は幾度か綾子に目線を投げた。
大きな紙マスクを装着した晴花は、机の引き出しを開けて、ペンやらメモやらを掻き出した。
晴花はそれらを手にすると、上階の倉庫へ、まるで日曜ランナーがするように駆けていった。
そして、30分ほどのち。
血相を変えて、晴花が経理課に駆け戻ってきた。
しばらくして。
DEMONSTRATION 18:
晴花は自分の席を立ち、代わりに綾子をそこに座らせた。
五分後。
と言って、晴花は右手の親指を立てた。
後日。
この日の初江の出社にあわせて計画をまとめあげた晴花は、この時間、初江に仔細を説明しているところであった。
「海前ビジネスを減らす」。
頭ではわかっていても、いざ、この言葉を耳に入れると初江は反射的にたじろぎの表情を見せる。穏やかに心の奥底にしまったはずの思いであったが、初江にはこれを上手に消化することは難しいだろうことを、晴花は当初から予期はしていた。
初江は取引条件の記された紙を受け取ると、しばらく紙面の文字列を追った。
そう言って、晴花は目の前の本立てから 一冊のスケッチブックをつまみ出した。
そして初江の方へ向き直り、胸の前でそれを抱えながら、表紙をめくった。
後日社長のデスク。
社長は、鼻で笑う。
一度痛い目にあえば、誰だって冒険はしたくない。あらたに問題を提起するような “目立つ” 案など鬼門以外の何物にもならない。
だからこそ、以前の案をそのままに進めるものと社長も思う。…この時までは。
が、目の前の人間は、転んでもタダでは起きたくなかったのか どうやらそうした摂理に反した行動をとってきたように見える。
「快哉だ」社長は、晴花の態度に昂奮をおぼえた。
社長の煽りに耐え切れず、晴花の中で、我慢が弾けた。
心の内のほとんどを吐き出したところで、晴花は冷静さを取り戻す。
「短慮を起こした」
焼け焦げんばかりに強烈な自責の念が、晴花を襲った。
そう言って、社長は晴花から視線を外した。
社長は机の上に放った両手を重ねると、それを握った。
対面するふたりの間を、無言の時間が流れていく。
先に沈黙を破ったのは、社長であった。
歓喜そんな感情がどっと押し寄せる。
自分の主張を汲んでもらえたことが、晴花にはうれしかった。
しかし。
それは 晴花の抱える大きな期待がつくりだした、都合のいい早合点であったことを思い知らされることになる。
と言う晴花のうえに、社長は躊躇もなく言葉をかぶせた。
晴花は、黙るしかなかった。
それから。経理課。
それからふたりは、商店街の一角に限られた季節のみ開設される、屋台村の灯りへと吸い寄せられていった。
…しばらくの時間が経ったであろうか。このとき、リサーチサービス社の灯りも、そのほとんどが落ちていた。ただ一ヵ所を除いては。
社長の姿が、薄暗い灯の中にうかぶ。
身体を椅子にどっかり預け、左手で何度も顎をなでながら一片の書類を眼前に掲げていた。
と言った後、社長は書類を机上に置いた。
と言って社長はにやける。
が、それもつかの間。すぐに表情をキリリと締めた。
社長は引き出しから名刺ケースを取り出すと、一枚のカードを選り出した。
そして机上の電話機のボタンを幾度かはじいたのち、呼び出し音を聞いていた。
呼び出し音の先に聞こえた声は、
南港海前ビジネス社の社長・館林のものであった。
舘林は思っていた。これは、“外交辞令を超える意味を含んだ電話でない” と。
体裁よく会話を締めようとしたのも、それゆえのことだ。
だが次の瞬間、それが誤りであったことを気づかされる。
社長のかぶせた言葉によって。
美味しいおでんを十分に堪能したふたりは、家路につこうと屋台を出た。
胃の鈍い重さに悩み、前屈みになって鳩尾のあたりを擦りながら歩く晴花の数歩先を、綾子がゆく。
街路へ出ようとふたりがおでん屋台の角を折れたとき、向かいの居酒屋ののれんの向こうに、ふと、見覚えのある人物の後ろ姿があるのがわかった。
後日。
「初江はきっと不憫な思いをするだろう。しかし、自分では もう どうすることもできない」…そうしたもどかしい葛藤を引きずりながらも、晴花は苦渋の思いで 仕入れ比率が 50:50 に決められたことを初江に伝えた。
…しかし。
予想に反して初江の反応は乾いたものであった。
「すでに社長から直接伝えられ 心の整理をつけているんだ」
晴花はそう思う。これについては、実際にその通りではあった。
とにもかくにも。
よくは分からずとも、抱えていたもやもやが意外にも穏やかに着地しかけた。そのことに、晴花はひとまず安堵の胸を撫で下ろした。
冷たい雨がそぼ降るクリスマス・イヴ。
この日、会社のカレンダーは休日ではあったのだが、数日前、それが急遽変更になった。
社のスケジュール的な事情から、倉庫の統合作業に充てることができる時間がこの日の午後しかないと分かると、社長は “休日出勤” を命じた。
ということで、この日、所帯を持たない単身者のみが作業に投入されるに至った。
まったくもって空気の読めない決定に、晴花の心も気が気でない。作業を統括する立場にある晴花は、いろんな意味で針のむしろに座らされる思いと格闘していかなければならなかった。
さて、このとき、皆の指揮を執るハメになった総務部長が、作業に耐えうる服装に着替えを終えた社員たちを前に揃え、予定される作業の概要を説いていた。
不安たっぷりな表情の晴花を見かねて、翔太はひっそりとその傍へ近づいた。そして、晴花の頭上斜め上から 目立たないようにささやきを投げた。
総務部長の号令を合図に、作業があわただしく始まった。
社内いや、この建物のいたるところに段ボールをはじめとした荷が仮置きされていく。
その度、周囲に埃が舞った。
二階の倉庫からは、時折悲鳴のような声も響いてきていた。
二階倉庫の棚が、男性社員の器用な手によって次々と解体されていく。
ばらばらの部品となったそれが、他の者たちによって階下の経理課に運ばれていった。
ちょうど日が落ちきった頃、予定されたすべての作業を滞りなく完遂した。
すっかり様変わりした各倉庫の様相に、皆、充実したものを感じとっているようだった。
それからしばらく。
いつからか空にはぼたん雪が舞っていた。
帰り支度を終えた社員たちに対し、初江が身銭を切って用意していたホールケーキが手渡される。皆、それを受け取ってにぎやかしく会社から離れていった。
会社を出た綾子と晴花は、屋台村のラーメン店へと足を向けた。
ラーメン店では、遅れて翔太が合流することになっている。
我田引水極まれり。羞恥のあまり、階段の踊り場で自らをせせら笑う翔太。
その不気味な笑い声に、二階フロアの出入り口近くにいた社長が反応した。
しばらくの後。
大きなイベントを無事やりすごせた安堵の中に、ふたりはいた。
ラーメン屋台の少し離れた場所に据えられた いかにも急ごしらえと言わんばかりな簡易テーブルを挟んで、ふたりは枝豆を肴にしながら 互いに会話を弾ませている。
どことなくさえない表情で、翔太は、ふたりの座るテーブルへと歩みを進めた。
綾子が彼を晴花の隣に強引に座らせると、晴花は、翔太がちいさなため息をついたような、そんな一瞬を見た。
「様子がヘンだ」と晴花は思う。
しかし、次の瞬間には いつもの笑顔で綾子と丁々発止をひろげている。そんな翔太を見ると、ちいさなため息も杞憂だったように晴花は思う。
それから、いくらかの時間。
皆で夕食を兼ねたささやかなクリスマスパーティーを十二分に楽しんで、三人は駅へ向かった。
きらびやかなイルミネーションが煌々と輝く駅。しとしとと舞う雪が、いつも見慣れた単調な景色に イヴの夜にふさわしい非日常の色を添えていた。
三人が並んで駅の入り口までやってきたとき、突然、翔太が立ち止まる。
それに気づいた晴花たちが、遅れて足を止めた。
と晴花が振り返りざまに声をかけ、翔太へと視線を向けた。
翔太が、目に涙をためていた。
…おかしくも、笑いながらに。
応接室。
そう言って、翔太はふたりに対し慇懃に頭を下げた。
ゆっくりと頭を持ちあげると、翔太は、ふたりに背を向け改札に向かって歩き出そうとする。その瞬間のこと、だった。
晴花は毛編みのマフラーをさっとほどくと、翔太の首元めがけ、円弧を描くようにして しなやかに投げつけた。
翔太の首に 晴花の体温を残すマフラーがゆるりとからみつく。
予想だにせぬできごとに、翔太は ただ目を丸くしていた。
ぷるぷると震えながら、翔太は時折ガッツポーズをつくっては空に跳ねる。それに合わせてマフラーが上下に舞った。
翔太は、マフラー何度も何度も大事そうに巻きなおす。
そんな彼流の歓喜の動作を繰り返したあと、翔太はあらためて綾子たちに別れを告げ、改札の人いきれの中に消えていった。
Chapter4 Finished.