Fifth Step
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この年最後の営業日。
仕事を終えた 綾子・晴花・田中そして翔太の四人が、安堂のアパートにいた。
綾子の “勉強” が主目的ではあったが、翔太に降って湧いた辞令の件もあって、この日は即席の壮行会と時節柄の忘年会を兼ねることとなっていた。
にぎやかなひとときを過ごし。
この集まりに参加した者たちが、ちょうどこの時、安堂の家を辞去しようとしていた。
「駅の近くまで見送る」と言う安堂の心づかいを断ると、四人は、錆びた金属の鈍い音を響かせながら階段を下り、街路へと出た。
一方、冷たい金属の扉の内側ではつい数分前までとは打って変わって静まり返った佇まいが、安堂にこれでもかとうら寂しさを投げつけていた。安堂はたまりかね、おおきく重い息を吐く。
街路を行く綾子たち。
へらへらと駆け出す翔太。
綾子たちの先、数十メートルほどは逃げ切ったであろうか。唐突に振り返ったかと思えば、敢えなく両手を挙げて捕まった。
綾子たちの視界の先に、ヘッドロックを決められ、こめかみにぐりぐりと拳をめり込ませられている翔太がいた。
綾子たちの歩みが、翔太と田中に追いついた。
それに気づいた田中が してやったりの顔をして、翔太を拘束する腕を解く。
その瞬間。
翔太の鼻腔から垂れ落ちる、ひと筋の鮮血。
紅潮著しい様相に、田中も動揺を禁じ得ない。
そのとき、翔太が顔を上げ、頭を掻きながら言った。
田中は、翔太をがしと抱擁した。
年の瀬の街路に、田中の悲鳴がとどろいた。
その日の午後。
PCルーム。
やれやれ、といった表情を翔太が湖花に向けたとき、
入り口のドアが開く。
瞬間、部屋の中の喧騒がハタと止まった。
この演習の担当者であろう人間が、教室の中に座る学生たちを値踏みでもするかのように見回しながら、スタスタと教室を横断し、教員卓に着座する。つづけて入ってきたチューターは、教室の端のあたりに散っていった。
ただでさえ、男性比の高い教室の中だ。教員卓に座ったこの女性の第一印象に対して、いかにもなざわつきが起こった。
教員卓に座ったこの女性は、いちど、咳払いをした。それで雑音が消えぬとみるや、次の瞬間「静かに!」とけん制の声を上げる。
雑音が、凪ぐ。女性は、威圧感のにじむ、重たい視線を学生たちにまんべんなく投げながら、この演習科目のアウトラインを、外見の雰囲気からは想像しがたい、男性的な口調で諳んじはじめた。
気の利いた話で気を惹くでも、ない。ましてや、長きにわたる関係性を学生たちと築くにあたって、自己紹介をすることさえもすっとばした。
これに呆気にとられたのか好奇心を持ったのか。いずれかの衝動に駆りたてられたのであろう向こう見ずな学生のひとりが、手をあげ立ち上がると、突如水を差した。
女性は、不機嫌な眼差しを向ける。
不意に進行を止められ癇に障ったのか、女性は、二・三秒この学生を凝視したまま言葉を発しなかった。そして
とだけ告げ、よりいっそうの声量で説明のつづきを始めた。
質問を投げかけた学生は、予想外の反応でどう身を処したらいいのかわからずに立ちつくしている。女性はその様子に気がつくと、再度
と、木で鼻をくくったような反応を、返した。
同感、憂いの種だ。
翔太の右手は、悩ましくもシラバスの載った「科目ガイド」を手繰っていく。
それからしばらく。女性は、これまでしていたように講義に関する詳説を紡いでいった。
見た目に違う女性の迫力に圧倒された教室は、なお静まり返っている。
別の日。
空手部。
年が明けて。
同じ日。しばらくの後。
映画館をあとにした晴花は、イートインスタイルのカフェに入る。
初詣、あるいは初売りの買い物を満喫してきたふうなカップルらの目立つ店内に、晴花は、新年早々ツキのなさを感じないでもなかった。が、時間を潰すのに格好の場所は、ここしか思いあたるところがない。
なす術もなく場所代がわりのカフェオレを手にすると、シアワセ臭に満ちていた店奥のソファ席周辺を嫌って、入り口近くの二人掛けの小さな円卓を自らのものとした。そして、バッグからそそくさと文庫本を取り出すと、それを胸の下のあたりでひろげ、自分だけの世界をつくっていた。
いくらかの時間が経って、突如頭上から聞こえてきたとんちんかんな男の問いが、晴花ひとりの世界を穿つ。
「あぁ…誰かに間違われてる。面倒だ」と晴花は思う。
「不用意な錯誤につき合わされる身にもなれ!」
えもいわれぬ不幸なめぐり合わせが、怨嗟の念を刺激する。晴花は煩わしそうに視線を上げた。
安堂は、ラージサイズのジュースを卓の上に据えてから、大きな紙袋を床にドサッと降ろした。
そして晴花の対面に着座してから、難儀な仕事に精魂をはらい尽くしてきたときのような息を吐く。
床の上の紙袋を指して、晴花が言う。
と冗談を言うやいなや、安堂は手帳をひらく。
そして何やら筆を走らせながら、卓上に置いたままのジュースをストローで勢いよく吸い上げた。
床の紙袋を「うしっ」と持ち上げると、ほとんど空になったジュースのカップを手にして、安堂は店の外に出ていった。
晴花は、安堂のことばの裏にあったであろうものを図りかねた。
安堂が去ってひとりを認識し直すと、同席者を失った円卓の景色が、不意にくすぐったく思えてくる。
晴花は、店の中をぐるりと見た。
奥のソファ席の一角が空いているのが視界に入るや、減ってもいないカフェオレを手にして、ゆっくりと席を立つ。
晴花は、ソファ席へと身体を運んだ。
いったい自分が何をしているのか自分でさえも、わからぬままに。
リサーチサービス社は、あたらしい年はじめての営業日を迎えた。
社の慣例である全体朝礼を終えるや否や、多くの人間が嵐のようなコールに追われる。長い休みのあとには、きまって反動のような一日がやってくるのが常だった。
一方、反動とは無縁の人間も、いた。
周囲の繁忙の中でも、己の手持無沙汰なさまをつつみ隠さずいられるほどに、安堂は剛毅でない。このとき、安堂は早々に皆の戦場から離脱していた。
そしてこの時間。
ナーヴのパーキングに停まる一台の車があった。安堂は、その中にいた。
晴花の言う「心労」の具象道路に面して掲げた看板が、安堂の目にもよく目立つ。
すると安堂は、店の前に停められた何台かの自動車に関心を寄せた。単眼鏡でひとつ車を認めては、手元の手帳に視線を落とし、さらに次の車を認めては、ふたたび手帳へと視線を落とす。安堂は、しばらくそんな行動を続けていた。
一台の車の側面に描かれたロゴが、安堂の視線を釘付けにした。
ナーヴの駐車場がランチタイムの客によってにぎわいを見せはじめる少し前、安堂は周辺に不審がられるのを嫌って車を出した。
翌日。経理課。
そのとき、外から戻った社長が経理課に入ってきた。
社長は、晴花に帳票を手渡した。
社長が何のことを言っているのか、晴花にはわからない。その反応を最初から見越したようにして、社長は棚の方を指差した。
晴花の返事を聞きとげると、社長はその場にいた他の人間の方に関心を移した。
安堂に向かって、言う。
安堂は、狼狽した。
そう安堂に告げると、社長は経理課を出ていった。
筋の悪い冗談かそう思った安堂が経理課を出ると、どこから用意してきたのか…雑居ビルの前に停められた軽トラックが目に入る。安堂は、この場に居合わせたタイミングの悪さを呪うしかなかった。
同じ日。
社長と安堂のふたりは、さっそく作業を開始した。
年初め早々の力仕事だ。はかどろうはずもなかった。ときおり休みを入れながら、ふたりはゆっくりと階段と軽トラを往復する。
ふたりのワイシャツがいくぶん黒みを帯びたように見えたとき、やるべきすべての作業を終えた。
ようやく、解放される。
安堵に満ちた表情の安堂に、社長は「まだ早い」と言わんばかりに、彼の背中を拳の背でいちど弾いた。社長と安堂は、その足で廃棄物処理センターまで向かう。
しばらくして。
処理センターで不要の品の搬入を済ませたふたりは、会社に戻る道中にあった。
軽トラックのハンドルを、安堂が握る。
その傍らで、社長が、言った。
社長と一緒にいる限り、そんなことを感じていられる心のゆとりがあるわけでもない。だが社長の言をいちいち否定して、得られるものがあるかといったら。安堂は、社長の言にてきとうに同意した。
殺生な安堂は、心の中で苦虫をかみつぶした。
「ぎすぎすした社長との時間にロスタイムがあろうとは! メシとはいえ仕事と同じだ!」
それは、提案という体裁をした命令だ。誰にも干渉を受けない、唯一の時間を失いつつある現状を、安堂は受け入れるしかなくなった。
安堂は、とまどいをみせる。
社長とサシで食事をとる機会など、少なくとも現時点まではなかった。ましてや社長の嗜好など、知るはずもない。…いや、社長のこととなるとどうしても避けてしまうと言った方が正しいか。
そもそもが小さな会社だ。節目節目で、杯を合わせる機会は、ある。ただ不思議と、そうした折に社長が好みを主張するような場面を、てんで思いかえすことができない。
「思えば、仕事を離れた場での生き様となると、誰ぞに何かを語ったという話を聞いたことがないな」安堂は、この社長の性分に、ここに至って辟易させられた。
そのとき、だった。
瞬間、安堂の脳裏をするどい閃光が貫いた。
頭の中に散らけてきたあまたの事象が、不意に、ひとつになっていく。
ひょっとして、今、この瞬間から、“人生の修正” をはじめられるんじゃないだろうか。
あれこれと複雑に絡みあって自分を苦しめる厄介ごとの整理をつけろ、と天がきっかけを与えてくれたのか…そんなふうにさえ、安堂は思った。
李下に冠を正さず。この会社に入社して以来、安堂は不本意にも関心のほとんどをそんなところに払ってきたように思う。それが人生に実りを与えるものだと信じてきた。
ところが、どうだろう、現実は。
「どのみち、退くも困難なしがらみをためすぎた。
かといって…この道を信じていけば光を見出せるのか?
否。先に逝くほど幅の痩せるこの道の先に待っているのは、十中八九、深い森だ。
気がつけば、もう、そんなところまで来てしまっているではないか。
きれいに、清算したい。
もう、この道を誰かのためにご丁寧にたどってやるのは、おわりだ」
前を走る車のテールに視線を置いたまま、安堂は唇をいちど咬む。
そして、開口した。
そう言って、安堂は社長に諒解を強いた。ふたりは車を降り、店へと向かう。
木製の洋扉を安堂が引くと、それに気づいた優里がふたりを迎えにやってきた。
安堂の背にいる男との出会いを、優里はいささかオーバーに表現して見せた。
ふたりは、優里に先導され店の奥へ歩いていく。優里と安堂のやりとりから何らのつながりを察した社長は、案内されたテーブルに腰を据える前に、懐から名刺を取り出し、優里に対して己の名を明かした。
社長は暖められたオシボリで両手を拭いながら、そう問うた。
しばらくの後。
安堂は、食事をしながら社長へと切り出した。
安堂は、その方角を指で示した。
…もっとも、店の中からは、その姿を臨めない。
社長は、歯噛みした。
そして突如席を立つ。
安堂の声を無視して、社長は店の出入り口に向かった。
その足で懐からスマホを取り出すと、扉を開け外に出る。道路から死角になる店の陰に身を運んで、社長はフォーンブックから初江を選りだし、コールした。
電話を切ると、社長はその場でちいさく安堵の息を吐いた。
そして懐にスマホを戻すと、店の中へと踵を返した。
その日の夕方。
RS部。
フロアに二・三度くらいこだまするかのような声量で、社長はデスクから安堂を呼びつけた。
安堂を同じフロアの応接に押し込めると、社長もその後につづく。
ソファに着座するや否や、社長は安堂に向かって言った。
と言って、いちど、ことばを切った。