Fifth Step
Story > Chapter 5 > Section 2
月があけて。
リサーチサービス社。全体朝礼の場。
遡ることおよそ二十日社長と安堂の、会議室でのやりとりを経た数日あと。
晴花の返答を受け取ると、部長は経理課を出ていった。
互いに視線を合わせる経理課のふたり。
晴花はビジネスフォンの受話器を上げて、短縮ダイヤルを押し込んだ。
しばしのコール音のあと
と言ってから、晴花は机の上の什器カタログに手を伸ばそうとした。
と翔太は返すと、なかば一方的に電話を切った。
しばらくして。
上半身真っ赤な装いの翔太が、配達をおえて経理課にやってきた。
彼の身体のラインをピタリと浮かび上がらせる細身の七分のポロシャツは、ふたりの目に何とも奇異な印象をあたえるものであった。
と翔太は、心なしか葛藤を抱えたふうな物言いをした。
翔太はチノパンのポケットをまさぐると、鈍く光る10円硬貨を取り出した。
そして硬貨の外周を親指と人差しゆびでつまむと、ふたりに対しそれを向けた。
次の瞬間
と顔を紅潮させ歯をくいしばると、硬貨がぐにゃりと曲がってゆく。
そんなふたりの反応に満足すると、翔太は硬貨をつまんだ指をさっと広げる。
硬貨は元の形状に勢いよく復元した。
綾子は翔太の指から10円玉を奪ってそれを凝視した。
そう言って、翔太は南港海前ビジネス社へと戻っていった。
そして、数日後。
幾度かのやりとりを経て手配された長机等の備品が、無事、リサーチサービス社に納入された。
翌週。
所用で上階に行っていた綾子が血相を変えて経理課に戻ってきた。
別の日。昼休みが終わるころ。
綾子ははめ込み窓の向こう側に、ビルに入ってくる初江の姿を見た。
初江の背後には、白衣を着た女性の姿があった。
パンクチックなヘアスタイルに牛乳瓶の底のような円眼鏡を着用したその女性の姿はあまりにもステレオタイプなアレ!で、怪しげな雰囲気を漂わせていた。
初江とこの女性は、そのまま上階へと階段をのぼっていった。
初江は一時間ほどして白衣の女性を玄関で見送ったあと、自らも所用があるのかその足で会社を離れた。
結局、この日初江があらためて経理課に顔を見せることはなかった。
さらに別の日。終業後の経理課。
と晴花が綾子に声をかけたとき、階上から階段を下る足音が聞こえてくる。
足音の主は、経理課の扉を開けてこう言った。
と綾子に余計なひと言を残し、社長は自転車にまたがってどこかへと出かけていった。
経理課。
そして総務部長は経理課を出て、階段を上っていく。
…という、妙に引きずられる感情にもやもやしながら。
同じ日の夕方。経理課。
総務部長はあわてて席を立つと、小走りで階段を降り経理課へ向かった。
総務部長は受付台の前に立ち止まる。そこから室内へくまなく視線を投げたのち、綾子に言った。
と言って綾子に紙切れを手渡した。
綾子は総務部長に渡された紙切れに眼を落とした。
総務部長の一方的で奇怪な指示に、ふたりはただ呆然とするしかなかった。
ふたりだけの空間に、動揺がひろがった。
ふたりは件の店が入居するタワーまでやってきた。
…が。
タワーの中でいざ立派な店構えをまのあたりにしてしまうと、行く先に透明な壁ができる。
ふたりは店から少し離れた柱のかげで、店に入るのを躊躇っていた。
店内。
店員に案内され、綾子たちは奥の個室に案内される。
この店員が、目的の部屋の閉ざされた戸板を数度ノックした。ふたりの耳に、金属扉らしい低く重厚な反響音が入って来る。
非日常の風景に、ますます萎縮した。
それにしても、だ。この環境で、この扉の向こうにいる人間の正体が、まったくと言っていいほど思いつかない。
そんな綾子らをよそに、店員は、一度小さな礼をしてひざを地面についた。そして、脇からゆっくりと戸をひき、ふたりと中の人間たちとを対顔させた。
広い部屋の中央に置かれた円卓の向こうに座る人間を見て、綾子は率直な感想を口に出した。
綾子たちを対面にして、安堂とひとりの女性の姿もある。
綾子が「松原さん」と呼ぶこの女性は、うっすらと笑って小さく頭を下げた。
そして、綾子たちは何とも解せない表情を浮かべながら、それぞれの席に腰を据えた。
皆に紹興酒が振舞われ、店員がコース料理のひと品目とおぼしき前菜を運んできた。
“いつもと違う” 豪華な様式をいざ目のあたりにすると、興奮が疑念に勝る。
綾子は、およそはじめて知る五感の贅におぼれた。
綾子はいつしか自身が積極的に回転台の主導権を握り出し、卓を囲む皆におせっかいな差配を始めていた。
そんなころ。
めずらしく饒舌な社長の傍らで、晴花はある “違和感” に気づいた。
「いつもにぎやかな人間が、静かだ」
そんなことが気になると、安堂はどうして、ときに左腕に巻いたクロノグラフを気にしながら、さりげなくボタンをポチポチと押し込んでいるのが分かる。
かと思えば例の分厚い手帳を広げ、黒インクの間隙をぬって何やら折に触れて書き足していているではないか。
「またか!」
晴花は安堂という人間のとがった習性が理解できないわけではない。ものとごに長けるということが、ひとつにそうした苦行のような積み重ねの先にあるということを察してきた。
「いや、それを苦行と感じるようでは端から資質に欠けるのだろう」
安堂を見ていると、自分の経験の中で得た感触を肯定してもいいような気がした。
だがしかし。それはわずかながら心のうちに苦いものを染み出させる。
人生の選択においてそれを錯誤することは、この世界ではいくばくかの代償を伴う。今、そのツケを払わされている自分が安堂によって照らされているようで、晴花はどこかバツの悪さも感じた。
コース最後のデザートを食べ終わった頃。
社長はアイロニカルな表情を綾子に返し、こう言った。
社長は会社をとりまく歓迎されざる局勢を、綾子たちにつまびらかに説明した。
安堂は、床に置いたブリーフケースをまさぐった。
安堂は、ブリーフケースからタブレットPCを取り出した。つづいて、茶褐色のフォルダから1枚の紙を引っ張りだしたかと思うと、手帳を見ながらその紙にいくつかの数字を書き足している。
安堂はタブレットの上で数度指を走らせ、綾子にそれを手渡した。
今度は、卓に置かれた紙をつまみ上げて綾子に示した。
いちど綾子からタブレットを取り返すと、安堂はふたたび幾度かその上で指を走らせ画像をひらく。そして、タブレットを再度綾子に手渡した。
安堂は顔を伏せて涙を流すうさんくささ満点の演技を見せると、左手だけをこっそり動かして再度ブリーフケースをまさぐり始めた。
次の瞬間。安堂の前に置かれた紙を、綾子は身体を伸ばして奪い取った。…そしてそれを一瞬凝視したかと思うと、顔をあげた。
DEMONSTRATION 19:
安堂は綾子の向かいから画像をいちどスワイプした。
と言って、安堂は円卓の中心を指でさした。
タブレットには、円卓の背面中心と思われる場所に、同心円状の金属部品のようなものが据えつけられている写真が表示されている。
安堂は、じゅうぶんなタメを意図してつくる。
そして、言った。
社長は安堂が話をしている間、口を挟まず長く黙したまま綾子らの表情を観察していたが、ここにきて安堂のつくってきた文脈にのってたたみ掛けた。
餌場で水面から顔を突き出す鯉のように、ただその場でパクパクと音のない言葉を製造していた綾子の横で、晴花は、迷わなかった。
躊躇のかけらさえのぞかせない晴花の肯定が、綾子にはてんで解せない。
「らしくない」
率直に、そう感じた。
瞬間、安堂が苦い顔をして首を垂らしたのを見て、綾子たちは悪い予感をいだいた。
中華料理店からの帰りみち。
翌日夕刻。
大勢の人間がRS部のフロアを満たし始めた頃合いを見定めて、社長は経理課のふたりを上へと呼びつけた。
「これも仕事らしいから」
とやむなく悲痛な表情をこしらえ背中を丸めて社長のデスクにふたりが向かうと、社長は机上にあった紙束を荒々しくつかんで、不意に立ち上がる。
そして紙束をふたりの足元めがけて地を揺らす勢いで投げつけた。
「なんだこれは!」
周囲に紙片が散る。紙片…の実は事前に経理課から持ってきていたミスコピー紙の束にすぎなかったのだが、フロアを貫く怒声と相まって、背後で見つめるあまたの視線に対しては迫力のある演出となった。
ふたりは、まるで社長の怒気が本物であるかのような錯覚を受ける。
ふたりでさえそうしたありさまなのだから、同じフロアにいる人間は余計にたまったものじゃない。せわしく手を動かしていた人間はその手をとめ、また電話で顧客や関係先とやりとりをしていた人間は、各先に社内のゴタゴタが受話器を通じて抜けるのを嫌い、ひとたび通話を止めた。
「いいかげんな仕事がいつまでもまかり通ると思ったか!」
「皆が血を吐くような思いをして会社を盛り立てているときに、お前らはいつまでひょろい仕事をするつもりだ!」
「一度ならずも二度までもなめたまねしやがって!」
「お前らの一生分の給料でも補えん大損失を出すところだったじゃねえか!」
皆の視線を一点にあつめ、矢継ぎ早の激しい叱責を受けながら、ふたりは、ただ、申し訳なさそうに下を向いていた。
「ああ…私たちは会社を転覆させる寸前の大きなミスをやらかしたことになったのか…。“緊張感のないしごとをする人間がいたらこうなるぞ” っていうRS部員への警鐘にもなるわけだ…」
晴花は心中、そう、考えた。
しばらくの間、社長はふたりへの一方的な叱責を続けていたが、罵倒のためのイディオムもそろそろ限界とみて
「もういい! オレの前にその憎らしいツラを並べるな! さっさと去ね!」
と叫んで、ふたりをフロアから追い出した。
綾子は泣いていた。
「ああ…これぞ主演女優のしごとだ…」
晴花は綾子の才能に、お門違いな嫉妬をおぼえた。
が、綾子も別に演技で涙を流したわけではない。
社長のあまりの迫力にふれると、自分が立っている舞台も忘れ、恐怖で震えが止まらなかった。
ふたりが去った後のフロアでは、皆が目の前で起こったゆゆしき事態に呑まれ、声を発する者が長い間でなかった。なんとも気まずい空気と沈黙が、この日ずっとフロアを支配しつづけた。
後日。
「あの怒りっぷりは尋常じゃない」
「あのふたりが、社長をあれほど激怒させるような大それたことをやらかすとは…」
社長は、社員たちの間でそうした話題が活発に交わされているさまを耳に入れると、次のステップへと行動を移した。
月があけて。
リサーチサービス社。全体朝礼の場。