Story > Chapter 5 > Section 3
2 月初旬のこの日。綾子と晴花は、社内でいそいで昼食を済ませると、業務課員に電話番を頼みに階上へと駆けた。それを済ませると、今度はロッカーから厚いコートを引きずり出して、事務服の上にそれを羽織った。
ふたりは、くすむ青空の広がる外へと出かけた。

- …スマートフォンを持っていないのは、どっちだ。

- あ…私…です。

- ならこの週末にでも買いに行って来い。…いろいろと、不都合だ。

- ヴぇ!? …お…おカネが…。

- 何のためにわざわざ手当を盛ったのか、少しは考えろ!

- ぬ………買って…きます。

- 次にこの質素な家の間取りについての説明をしておく。

- ええと…冷蔵庫はここ。トイレはそこだ。

- 作業はキッチンのテーブルか…あるいは書斎…というには名ばかりだろうが…ここに 6 畳間があるゆえ問題はないだろう。

- それから、こっちは寝室だ。分別のある大人相手に言うことでもないかもしれんが…オレにもプライバシーはある。ここには立ち入ってくれるな。

- 逆に言えば、それ以外は自由に使ったり消費してもらったりで構わない。どうせ困るようなものなんて、端からない。

- それから…PC は 6 畳間にあるにはあるが…後日それぞれにラップトップを配布するので不要だろう。ただしこの仕事にかかわるデータは、必ずクラウドとで同期しておけ。…使い方は、先に渡したマニュアルで習熟しておくこと。

- あとは着替えだが…クロゼットのような気の利いたものがあるでもなし… 仕方がないので、このビニルロッカーを買った。必要な服はここに用意しておけ。

- いや、オレの住屋にキミらの着替えを置いておけといわれ、何の抵抗も感じずに「はいそうします」というわけにもいかんことは重々承知。…未開封の南京錠をわたしておく。これでビニルロッカーのジッパーを固定できるはずだ。…仕事に集中できるよう、これはキミらで管理しろ。


- …

- いいか。
くどいようだが、外での行動が必要な時は必ずここをハブとするんだ。
BBI はもちろん、いっさいの行動を利害関係者に勘付かれるな。

- 明日、松原の手続きをおこない、皆に彼女の件については告知する。それをもってして、BBI に抗うための一連の行動のはじまりとする。以降、大枠は都度この安堂から指示がでると思うが、とくに現場に立つキミらの判断こそが重要だ。…同時に、オレはそれをできる限り尊重したくも思う。

- それゆえ、だ。その場その場の状況に対応し、最善の行動がとれるよう、常々に思慮を欠かすな。この重責は他の誰でもない、自分でしか果たせないことを肝に銘じて行動しろ。

- …おまかせください。

- わかったな!?

- あの…じゃあ具体的には…はじめに何をすればいいのでしょう…。

- 言った端からそれか。ばかやろう…。
社長はそうつぶやくと、顔を天井に向け、掌でそれを覆った。

- …安堂。ずいぶんと話がちがうな。はては、退路を断った今になって、もしや真実はこれでしたと言ってくれる気じゃねぇだろうな…あ!?

- そ…そうでうす…い、いやちがいます…大丈夫ですから


- 綾っち…直近にやるべきことは 2 つ… まずは “研修” の傘のもとにウチの行動指針および調査行動マニュアルを可能な限り習得してもらうこと。


- ふむふむ…

- それから…時同じくして門井さんとこにアプローチかけないとあかんね。


- え…?

- あの…なんかイヤな予感がするんですが…。
確認させてもらいますけど… ナーヴにこの話…とおっているんですよね? すでに。

- いや。まったく。
なんで? …いちばん顔が利くの、日南さんじゃん。日南さんが算段つける以外に、誰がやれるん?

- はぁあ!?

- …って言うか、そんな “計画の要” をすっ飛ばして、どうやったらここまで話がすすんでくるわけですか?

- あんな大仰な話を聞けば…私の知らないうちにてっきり当然優里のところに話が通っているものだと。うへぇ…ありえないんですけど!

- 常識的には、そうかもねぇ。
ただ今回はそういうわけにはいかないじゃん…。門井さんのところを引き込めなければ、オレたちにはまったく打ち手がなくなるわけだから。

- その程度のことは察してくれるとありがたいんだけどなぁ…。
とにかく、門井さんをプレイヤーとして参加させることは端から必然。あらためて問題視すべきところでもない。でもまぁ、できれば穏便にコトを運びたいんで…ある意味、日南さんたちの力の見せ所…とも言えるかな。

- 穏便…?

- あ、いや、なんでもない。
とにかく頼むよ日南さん。…みんなで門井さんのところを助けよう。BBI に好き勝手される前にさ。

- …そろそろ社に戻った方がいいな。もういい。今日のところはそれぞれが自分たちの仕事に戻れ。

- …あ~あ。しょっぱなから無茶な段取りだzo。まさかのテンプレパワハラワード「契約とるまで帰ってくるな」を地で行かされることになろうとは…言葉もないze。

- う~ん………。ま、でも新品のちっちゃーいノートパソコン、社長が自腹で支給してくれちゃうみたいですし! 「この仕事が終われば私物にしてもいい」って、社長…。

- タナボタでお父さんのお古のデスクトップパソコンともお別れできちゃいそうなので…まぁ、何ですか…良しとしましょう…。これで私のエ○ゲライフもはかどるっても…

- …ん? エノキライス? この時期、ユキノシタ、食べたいし。…でも、パソコンがえのきのごはんとどう関係してくるん? …分からぬ。

- あ…いやぁ何でもないです。忘れてください。

- …ところで綾っち。

- はい?

- 松原さん…って。

- どんな人?

- え……? まぁ…以前は私と入れ替わりってかたちでしたんでわずかな引継ぎ期間しか一緒にいたことないんですけど…そうだなぁ……別に…ふつうの人でしたよ。少しキツメなところはありましたけど。

- そっか…。

- でも、何でですか?

- まさか…気に入らないからハブってやろうなんて邪な考えもってたりしませんか? いけませんよ、晴花さん! 松原さん、リーダーと仲がいいし、何より社長に気に入られてますから、敵に回しても勝てる相手じゃないですよ!

- 少なく見積もっても、あの…冷蔵庫みたいな名前の人と同じくらいの戦闘力はあるんじゃないですか!? それでも、ホントは日南晴花・第 3 形態までまだ余力を残してあるって言うなら話は別ですけど…。

- (そんならとっくにこの生きにくい世の中なんかフっ飛ばして、いまごろウェイストランドでヒャッハーしてると思うわ…間違いなくna)

- ちがうちがう…。お願いする仕事、どこで線引きしよっかなって。

- ほ…ほら…。いくら信頼できるにしたって労務の仕事はセンシティブだし…そういった色彩の濃い部分には触れさせない方がいいかなって思って。な…何かあったら私も他人ごとじゃないしね。…いろんな意味で!

- よくわかりませんけど…ちょっと人を信用しなさすぎじゃないですかぁ? そんなことだから、彼………おっと、これは私にも跳ね返ってきますね………それとも、キャパになみなみならぬ自信でもあるとか? さすが晴花さん…でも、私にはムリだなぁ。ただでさえメンドウな状態なんで、どんどんお願いしちゃうつもりですよ。
翌日。
パートタイムの従業員として、経理課に松原が加わった。
つい先日の処分の直後の人事とあって、社内ではもっぱら、社長の “本気さ” が信ぴょう性を増す。
「あれでは “追い出し” たいことが明らかだ」
「例のふたりは、そのうち辞めてしまうな」
そんな所感を口にする者がいても、無理はなかった。
もちろん、松原の真の役割はそこにはない。彼女の役割は、社の特命にリソースを割かれてしまうことになる綾子たちの仕事を負担し、以前と変わらぬよう、つつがなく経理課を回していくことにある。そこが叶わずば、そもそも秘匿の行動など果せようはずがなかった。

- …………こんなところで。チェックよしっと。

- それから…、先生の講義はそろそろ、か。
左手首の内に傾く時計の文字盤に目をやると、晴花は机上に広げた書類から筆記具やらをまとめてブリーフケースに仕舞っていく。
そして、数枚の用紙を手にして席を立つと、常駐の事務員に

- これ、原稿です。来週の講義用ですので、確定の人数分複写して私のレターボックスに突っ込んでおいてください。
- かしこまりました。
…ええと。これは、情報処理…いや、ビジネス統計演習の方でよかったですか?
事務員は、原稿にちらりと目をやる。そして、恐縮するように聞いた。

- …です。
晴花の返答を待って、事務員は手元の端末を数度叩く。
クエリの返した結果に、事務員は思わず目を丸くした。

- 何か…ありますか?
言葉を失った事務員に、晴花が声をかける。
事務員は申し訳なさげに、口を開いた。
何が、とは事務員も言えない。
それが受講登録者を指すことは、この場の人間であれば容易に察することができる。とかくこの私学では、受講者の数は講義の人気のバロメーターとして重要視される。そういった事情をよく汲む事務員にとって、4 割、という数字は “規格外” だ。
だが事務員とて、晴花をはじめ教員たちの気分を害し、ヘンな因縁を吹っかけられるのは立場上もっとも困る。事務員が主語を外したのも、そうした処世の道に慎重であったからだ。

- あ…でしょうね。

- なら…1, 20 程度ですか。 ともかく、それくらいの用意で、お願いします。
そう言って、晴花は教員控室を出た。
事務員は、動揺の色を全く見せることのなかった日南という教員が、よく理解できなかった。
晴花は階段を下り、情報科学教育研究センター(ISESC)を外に出る。
あたりの日はすっかり沈み、草木を通り抜ける乾いた風の音が、ひどく寂寥な感情をくすぐった。
夜のキャンパスは、昼間とは対照的なほど静かであった。
ISESCを出た晴花は、商学部棟にやってきた。そしてその足で、研究室までエレベータを昇る。
この時間、晴花は、ある研究室の前にいた。晴花はその研究室の向かいから、一枚ガラスの向こうに散らばる煌びやかな街並みを眺めていた。
晴花の背、「講義中」のステータスが表示されている研究室のドアには、「商学部商学科 教授 為原紘史」と書かれたプレートが挿し込まれている。
伏し目に被る長いまつ毛に、街の灯の照り返しがほんのりと映える。長い廊下の向こうで、蛍光灯の青い光をまといながら外を眺める晴花の横顔は、「眉目好い」という形容がよく似合った。
ほどなくして、廊下の向こうから少し背の低い、それでいて恰幅の良い男性が、乾いたカーペットを小幅に蹴りながらやってきた。

- 央部大学商学部教授: 為原紘史これは、日南はん。おひさしゅう。
もしかして、もうずいぶんとお待たせしてます?

- いえ…そんなことは。
先生のおかげで今年度も無事担当が持てましたので、いちどご挨拶を…と思いまして。

- またまた、ご謙遜を。
立ち話も何ですし、ほな、入ってや。
為原が ID カードでロックを外すと、シーリングライトがパッと灯った。
晴花を研究室に招き入れると、為原は、彼女に小さなソファの上座をすすめた。
為原は、ただでさえ小さな身体をますます小さくして、ドアの根元にかんぬきを挟み込んでいた。商学部には、キャンパス・ハラスメント問題が世をにぎわせ始めたころ、彼自身が主導して作った「研究室に他者を招き入れる必要のあるときは、廊下から内部が見える状態にしておくことを強く奨励する」努力規定があるからだ。
もっとも故あって、これにしたがっている教員は多くはないのだが。
ともあれ、律儀な儀式を終えた彼は、インスタントのコーヒーを注いだちいさな紙コップを二つ持って、晴花の左手のソファへと腰掛けた。

- そういや 2, 3 日前でしたかな…日南はんの、恩師の東海(あずみ)先生から連絡をいただいて。
日南はんを「よろしく頼む」、言うてはりましたわ。

- そう…ですか。
東海先生よりご挨拶が遅くなってホント…何を言っても言い訳になってしまいますけど、先生もお忙しいかと思いまして。

- 遅くなりましたが、今年度も本学でお世話になりますので、よろしくお願いいたします。

- いややなぁ、何を言うてはんの。
同窓の友の優秀なお弟子さんとあらば、こちらは端から援助を惜しむ気なんぞありまへんがな。

- …ありがとうございます。

- ほいで、日南はん。どんな按配でっしゃろうか。
今年は?
事務員と同様、為原にも主語がなかった。
もっとも、事務員とは違って遠慮からのものではない。学び舎を同じくした東海という知己が育てた愛弟子とは、すでに十分に意思の疎通が可能な人間関係がある。

- 昨年度よりは、上手くやれるつもりです。
…今年度は、さらに学生が減りそうですから。

- !?
晴花の言葉を聞いて、為原は何とも悩ましげな表情を浮かべた。
そんな彼の表情から言わんとするところを汲み取った晴花は、為原に先んじて言った。

- もちろん、前向きな意図あってのこと、です。
前年は何から何まで初めてで、戸惑う中で流し運転していければいいやって。

- …そう考えてたら、恥ずかしながら結局最後の最後までエンジンを全開…どころか半開にさえできませんでした。

- もっとも、私の講義に付き合うことになった学生たちには申し訳ないとは思ったんですが…

- …大学と言う場では、学力やモチベーションなど一意でない学生に対して、「教える」という行為が決してカンタンなものではないことを痛感させられました。正直に吐露すれば、途中から「今年のコマは来期の講義を有意義なものにするための観測の場とさせてもらおう」なんて気持ちでやっていたのも事実です。でも、それによっていくつかの上手くやる示唆のようなものを得ることができました。

- …と、言いますと?

- 今年はあえて、学生に媚を売ろうかな、と。

- …
晴花の言葉に矛盾を感じた為原は、首を傾げてみせた。

- …ほんなら、受講者数が芳しゅうなさそうなのは、おかしいんちゃいます?

- いえ、一度だけ使える、ズルをさせてもらうつもりで。

- ずる?

- 「選択と集中」…なんて言うと生意気ですけど。…自分の未熟さを実感したゆえ、です。卓越した実績と経験をお持ちの為原先生の真似をさせていただこうにも、私では遠く及びませんから。

- 私は…今年度は…私から学生を選ばせてもらおうかなって思い…。それで初回のガイダンスは、ことごとく好かれないであろうタイプの人間でいようと決心しました。…もともとこれが素の私には近いので抵抗も感じなければ、私が学生の立場だったら「コイツの授業は単位もらうのに余計な労力が要る」と敬遠するくらい厳格に線引きもしてあります。

- と、なれば。効率論しか頭にない学生なら、科目選択の自由がある以上他の科目に移りますし、それがない 1 年生でもおそらく一定数が受講そのものを捨てるだろうなと踏みました。…情報処理に関しては後期に他の先生の科目で回収できますから。

- つまるところ、受講者の固まる次回の講義で残るのは、私のシラバスでホントに勉強したい学生だけじゃないでしょうか。私は、彼・彼女らに硬軟おりまぜ全力でぶつかって感謝されたいと思っています。

- …ほぉ。

- 「媚」なんて言わはるから、どないなことしてくれはるのかとひやひやして頭、かかえましたけども。…心意気、ええでないですか。

- まぁ、いつまでもそげな横着しとるわけにはいかんですけど…まだ若いさかい、それくらいの血の気も必要やろうて。運営とか他の教員とかの目を気にして最初から小さくまとまっても、象牙の塔の住人になりたいんならそんでもええが、これからの時代の学者たらんものを探求していく気構えがあるならば、何よりもまず 3 種の神器 研究・教育・地域貢献のすべてに情熱を注ぐことのできる良き奉仕者でありたいもんやし。

- その意味では、わたしも日南はんの挑戦は否定しまへんで。そうした試行錯誤をへながら、学生に愛され尊敬される、日南はんなりの教育者の姿を探求しておくんなはれ。

- …ありがとうございます。
晴花の返答を聞くと、為原は笑みを浮かべたまま黙していた。
そして少し時間をおいてから、こう、続けた。

- 日南はん…。年度始まったばかりで悪いけんども、時間が許すなら、今日はちびっとばかし、ややこしい話をさせてもろてもええでっしゃろか?

- ややこしい、ですか…。 ええ、はい。
為原は小刻みにうなずいてソファから立ち上がった。そして、ドアに咬まておいたたかんぬきを、身体をかがめて引き抜いた。
為原が戻ってくるその後ろで、ドアの錠が作動する音が聞こえている。
再びソファに腰を据えると、ひと呼吸置いてから為原は晴花に言った。

- 日南はん。自分がこの大学の非常勤になった経緯、ご存知でっしゃろ。
それを、教えておくんなはれ。わたしに。

- はい…?

- いや、なに。日南はんの理解をそのまま話してくれればええんでっせ。

- なにも特段…おもしろい話でもないと思うんですけど…。
博論を審査に上げてからはそのまま住み慣れた関東でアカデミックポストを探そうかなって思っていたんですけど…

- ちょうど母親が体調を崩した折と重なりまして、そうした点に不安を残すなら地元に帰った方がいいのかも…なんて思いに傾いていったといいますか…

- それを東海先生に相談したところ、それはもう運よく地元中の地元の本学で専攻分野の公募が出るらしいことを教えていただいたので…

- 出たら出たで…これまた幸運にも、複数コマでありましたし。…生活を考えると、条件は魅力的です。もっとも「自分の力量が足りているか」についての不安はありました。けれど「もし受かったらそれが天命。喜んで地元に帰ればいいじゃない」なんて結構安直な開き直りから応募していたかもしれません。

- おおきに。わずらわせてまってすんまへんな。

- …実はな、日南はん。それは「天命」やないのや。日南はんの言葉を借りれば、ほんまは「為原命」なんですわ。

- ……え。
晴花は反応に窮した。
為原の発言が、質の悪い冗談にしか聞こえなかったからだ。しかし、晴花から見れば学問の府の偉大な先人たる為原に、率直に笑いを返していいものか、で逡巡する。

- さっきの日南はんの言葉を聞かせてもろて、わたしもそろそろ潮時やと思いましたわ。日南はんがそうして人生を切り拓いていきまんなら、わたしもそろそろ本当のことをお伝えせんとあきまへん。日南はんの選択に、支障を及ぼすことがあってはいけへんから。

- 爾後、わたしにもひとりでも多くの味方が必要になります。
時代錯誤と思われるかもしれまへんが、ここでは今だ学閥を育てることがそれを実現するための最短ルートですわ。

- ああ、誤解せえへんでほしいです。
わたしは、学内政治なんて、本来毛の先ほども興味あらしまへん。わたしが欲しいのは、さっきの 3 本柱に傾注できる誇りに満ちた環境だけです。

- 問題は、今、それが、おびやかされとる…ちゅうことですわ。

- ……。

- 現学長閥は、ここをテーマパークにでもする気満々なんでしょうな。困ったことに。

- テーマ……パーク?

- いや、「学長」という呼称を大っぴらに出すのはちょっとマズイですな。「実学はん」とでも呼んでおきましょか。

- 実学はんはやり手です。昨今の大学全入時代を迎えて、本学も守勢でいてはあかんといろんな手筈を打ち始めてますわ。

- いや、それ自体は貴い試みだと思います。
せやけど、実学はん閥は、はき違えとやせえへんかと。

- 学内でゆるきゃら? エレクトリックパレード? 人を集めるための工夫?
関東のテーマ―パークでも似たようなもんがありましたな。…むこうのは商業的にはるかに洗練されたもんでっしゃろうが。

- ま、それはええですわ。瞬発的な意外性も必要ですしな。
われわれが実学はん閥に我慢ならんのは…

- 論文ひとつ…まともに書けへんような輩を…外部から見境もなくアカポスにひっぱってくること、ですわ。むろん、同学閥(みうち)やな。“実学” 適応のためなら学問の府としての矜持もないんかと。もう悲しいったらあらへん。最近は自分が間違えて職業訓練校にでも配置換えにあったかのような気分ですわ。

- ここが不満なら、他所へ行けばいい。
…こんなふうに言う人間もいますわな。けれど、本学は私の知る限りインフラとしては最高のもんを持っとります。研究者・教育者・地域貢献者として円滑でありたいと願うなら、わたしも、この環境はおいそれと捨てとうはありまへん。

- だから、ですわ日南はん。
わたしも傍観者じゃあかん時期が来たなと。実学はんにとって代わるべき人間がおらへんなら、自分でやらなきゃあきまへんな、と。

- !

- でもいきなり大将の首を狙うような真似はわたしには無理やさかい。そげな智勇、幸村公にしかありしまへんわ。
ほな具合ですから、ここにきて政治に首を突っ込んでこなかったツケを精一杯支払うてます。

- そこで、ですがな。
来年度の半ばに、学部長の改選があります。ここを、わたしは獲りにいこうと今しずかーに動いてます。今の学部長は実学はん閥ですし、無駄にはなりゃしまへん。少なくとも商学部への影響は弱められます。

- …

- いったんさっきの話に戻ってもええでっか?
日南はんに、この大学に来てもろうた経緯の話。

- あ…はい…。

- 日南はんが話してくれた経緯には、実のところ偶然なんてひとつもありまへん。

- 日南はんが必然的に選ばれるような話を仕上げたんですわな。…われわれ心ある者で。

- …っ!

- ことのはじまりは、適任者に恵まれず、長年休眠状態の科目だった「マーケティング・リサーチ論」をリブートしよう、とかいうきな臭い話が沸いてきたときやな。
そう、今の日南はんの科目のひとつ、ですわ。

- 仔細が見えてきたら、これがまた、筋の悪い話でっせ。
どこぞのなんちゃらいう広告代理店出身の人間を、公募さえ通さずに引っ張ってこようなんて話しが、まるで既定路線かのように出来上がっているわけで。それに輪をかけて、件の人間は学士やいうやないですか。

- ならば皆を黙らせるに十分な実績があるんかもしれへんなとレジュメを見れば、自己啓発書の延長のようなタイトルの著書の山。…聞くところによると、どうやらネットの世界では、一部から「カリスマ」と呼ばれるほどの絶大な信奉を集めているとか。ひとたびセミナーと呼ばれる集会を開けばたくさんの人間を集めるいいますわ。…まったく、悪趣味なカルトとどこがちがうのか。

- …わたしと、心ある先生方とで、これだけは阻止しなあきまへんでした。

- せやけど実学はん閥と全面戦争はできまへん。われらは少数派ですし、そもそも度胸もありまへん。でも、そんときですよ。…東海先生んとこの、お弟子さんの話を思い出したんは。

- 以前から東海先生が優秀な日南はんのことをそりゃーもう細こうわたしに自慢してきよるのが小憎たらしいもんでしたが、こんときばかりは東海くんに頭下げたろと思いましたわ。

- 「公募を通さず」
ちゅうとこ以外は、すべて譲歩しましょ、と。加えて、ちょうど演習 2 科目の担当も俎上に上って来たところやったさかい、採用する先生にまとめてお願いしてしまえばええですがなと。

- …学部長もニンマリですわ。煙たい存在からたいしたケチもつかなければ、プラス 2 コマのおまけ付きですから。

- てなわけで、あの公募がでたわけです。これで、われわれがほぼ勝ったも同然でしたわ。

- マーケティング・リサーチ論を専攻にされていて、統計学に造詣をもち、あわせて PC を十二分に活用できる学問的裏付けをお持ちのドンピシャな人間を否定する理由を作るのは、日南はん…いかなる立場であれ相当に困難でっせ。「カリスマ」には、気ィ悪い思いをさせましたけどな。
為原の傍で、晴花は血の気が引いていくような思いがした。

- ここから先は、選択によっちゃ日南はんの人生にも関わってくる話ですわ。せやけど、わたしは重責ばかり押し付けて、日南はんから自由な意思を奪うのは、あかん思うとります。せや、誰がどうのこうのでなく、自分をしっかり持って聞いてくだはれ。

- 日南はんがわたしにとって不利益のある決断をされても、わたしは待遇のしかたを変えたりしまへん。東海先生は生涯の友。彼の影響力を失うことは、わたしだってこの界隈で失うものが大きいです。だから東海くんを裏切るような真似…つまり、日南はんを貶めるような真似は絶対にできへん。安心してください。約束します。

- マーケティング論の、上重(かみしげ)はん。

- 特任の先生やな。そりゃもう、ご存知の通り、有名な、お人、でっせ。
もともと極論を振りかざし悪目立ちするのが好きなこの男を、研究界隈は “イロモノ” 扱いしていたが、当学が特任の肩書を与えたのを上手く利用し、近頃はいよいよ中央のメディアまでもが担ぎ上げるところとなっていた。エンタテイメントとしての “イロモノ” が大衆の心をつかむと徐々に露出も拡大し、近頃はパネリストとしての役割からひどく下品なバラエティ番組でお笑い芸人のような役割までこなしている。
「学究というひどく深遠な行為が軽んじられる」為原は晴花に対し憤懣やるかたない思いをにじませた。

- 昨晩も裸同然の若い子ぉらと鼻の下伸ばしながらテレビの番組で下品に戯れとったですわ。昨今の大学教員ってもんは、われわれの若かりし頃とは違ってずいぶん浅薄なものになったんや思うて見とりました。これが、長く講義を休んでやることかと。

- ま、裏で糸引いてはる人間たちが浅薄な考えやからしゃあないけんど。

- 大衆的な認知度の高い人間がおれば学生が沸いてくる思うとる。…あれは麻薬ですわ。きたない言葉や思いますが “集客” には効果覿面ですからな。だけれど、長い目で見ればあれは自分たちの手足を喰らい始めるに等しい行為や。研究機関としての深化がない。ひいては世間様へ誇りをもって還元できる学究的な成果さえ得られへんようになってまう。

- ええでっか、日南はん。よく聞いておくんなはれ。
上重はん、任期は来年いっぱいや。特任は延長があれへん。つまり、来年のおそらく 9 月までには公募がかかるいうことや。

- マーケティング論は商学における必須科目。
いわば商学部の看板といっていいこの科目は、本来教授会の一員たる専任の担うべき重要なしごとですわ。…今の状態が、おかしいだけで。

- 前回は学部長の無理がとおってこのような形に甘んじましたけれども、二度は叶いまへん。“人事の私物化” と一斉に批判を浴びるさかい、おまけに、自身もその翌月の学部長選挙を控える身で、無理なんかできようはずもありまへん。次回のマーケティング論にかんする方針は、公募・専任のかたちにおさまるのはまず固いと言っていいでしょう。

- そこで、わたしの考えを言わせてもらいます。

- 日南はんには、ここを、狙ってほしい、思うとります。

- …!

- 「義憤を晴らさんがため」なんて男前なこと言うておのれを隠すつもりはありまへん。わたしは、もっと汚いですわ。日南はんの票をあてにしたいのが本音やさかい。

- 学部長選は、その時点までに専任に内定している人間にも票が与えられとります。つまり、もし 9 月の公募で日南はんが専任の地位を勝ち取れば、わたしの命運を左右する一票になるかもしれまへん。

- もっとも、専任への道は人それぞれです。その人その人にやり方ちゅうもんがあるでしょう。だから何度も言いますが、強要する気はありまへん。

- 日南はんが、これをリスクととらえるなら、今の話は忘れてください。そして、これまでどおり、余計なことを考えずに、ほんま、仲ようやっていきましょう。

- でももし、これをチャンスととらえるなら、また後日にでも続きをお話ししましょう。…とにかく、なんかえろうすんませんな。この部屋をひどく辛気臭くさせてもうた。

- …べっぴんさんをこれ以上わたしの部屋に引き留めておかんほうがええな。なんや、他の先生に見つかったら嫉妬されるさかいに。

- …
結論を持ち帰るよう冗談まじりに促されると、晴花は青い顔で笑顔にならない笑顔を作ってソファを立った。
そんな晴花の身を案じてか、為原は、商学部棟の玄関先まで彼女に差し添っていた。
この日より、綾子たちのミッションが秘密裏に開始された。
ふたりは早朝、社長宅ですでにセッティングを施されたモバイルノートを受け取っている。
この日の日中、綾子は早速旧倉庫にカンヅメになってマニュアルと格闘していた。もちろん表向きには、戒告処分にともなう “業務研修” だ。

- ふあぁぁあぁ……。
丸一日、なんだか神妙にかしこまってなきゃいけないのも、それはそれで疲れます…。

- それにしても…すごいや…。

- ?

- 何が?

- 松原さんですよ…。見込みより多めで仕事、お願いしておいたのに…。3 時に退社するまでに全部片づけてありました。

- 正直、何がショックってこれが一番ショックですよー。ブランクあったはずなのに、これでは…。私の 3 年間は何だったんだ…ってカンジです…。

- ばかっ。

- ま…昔とった杵柄なんて言葉もあるし、そういう人だからこそ社長が信頼するん、かもね。でもさ、綾っちだって綾っちの良さが評価されたからこそ、こうして大役を担うことになったわけじゃん。ほら…、一瞬を切り取ってヒトの能力の優劣を判断しようだなんて、たいていは疲れておわるだけ。やめときなYO。

- …ところで綾っち、今日の進ちょくは?
はかどった?

- あ! そうだ。
日報で上げなきゃいけなかったですね、これ。

- …うん。ネットのクラウドサービスの方に残しておくよう聞いたけど。…あの、社長と安堂さんがこの案件のために用意した、私たちしか知らないヤツ。この前、社長の家でマニュアル渡されたじゃん。

- 実はマニュアルまだよく読んでないんですけど、むぅぅ…今からまとめます…。

- …ひぃ…おわった…。慣れるまであたらしい PC はタイヘンですね…。

-
どれどれ…。じゃ、私もこのイカした PC で早速綾っちの進ちょくを確認させてもらおうかな…と。
カタカタ…。

-
アカン…。

-
まじすか綾っち…。もうこんなに進んだの!? 必然的に、明日の私にも同量をこなさざるをえないプレッシャーがかるんでございやすけど!

- …晴花さんの仕事は、いくら松原さんといえど基本的にはらち外ですから。しばらくは都度解説してお願いしながらのタスクですから、私のようにはムリですよ。安堂さんや社長だって、そんなことはがってん承知だと思いますけど、どうでしょう?

- それに晴花さんの場合はなんてったって私とは違って素地があるからへっちゃらじゃないですか。ホント、私もいろいろと教えてもらいましたし。

- …ということで私がとってもとぉってーも尊敬してやまない晴花しゃん、に実はお話しがあるんですが。

-
告白だけは…やめてね。

- あぁ…なんで現実世界はセーブできないんだろ…。開発元が現実世界に実装してくれれば…絶対にノーベル賞ものですね…。

- …はい?

- ああ…いえ。あの… z 分布と t 分布との “どっちか選んで使えばいいよ” みたいな話、あるじゃないですか。母平均の推定や検定でやるような。

- 私、以前晴花さんに教えてもらったとき、虎の巻にも書いてあった「(母分散が未知の場合)小標本に対しては t 分布を使えば OK」ってくだりをあたりまえのように受け入れてやってきたわけですYO。でも、以前、安堂さんにお借りした統計学の歴史の本を読んでたら、これ…

- 実はビール会社のゴセットさんの “発見”…とあるじゃないですか。

- なにか数学的な感覚の鋭い人なら、z 分布から ほろほろ~ってカンジでサクッと出せる…くらいのもののように思ってたのに、 “発見” と来たわけですよ。

- z 分布だと酵母樽の菌の数を調べるに「なんかハマリが悪いzo」ってところから始まって、どうしたことか、後に t 分布って呼ばれることになる便利な分布を、なんとも地道な観測にすこぶる面倒でたいへんな労力を費やして見つけるに至ったとは!

- …まさか、聞くも涙、語るも涙の苦労話が t 分布の背景にあったなんて、まさに「全米が泣いた!」的な衝撃ですYO。こんなの知っちゃったら、さらりと流せなくなくないじゃないですか…。

- …っていうことで。

-
…綾っちも、ビールをつくってひと山あてようと? …チッチッチ! 少なくとも現代のこの国じゃ、無免許の密造酒は罰金くらうよ。知らないよ。

- …う……。そ…それはまずいので………や…やめます…。

-
ま…待つんだ…。同じ発酵ものなら、「シュールストレミング」や 「くさや」や 「納豆」、百歩譲って「ヨーグルト」って手もある。これならケチはつかないわ!

- …ならよ…ヨーグルトにします。他のは臭い的に荒ぶる猛者ばかりなので。

- …ていうか違う!

- … z 分布と t 分布とで推定や検定の結果が違ってくるところを、実際に眺めてみて納得してみたくなったのですYO。…母平均の。

-
マジすか…実験じゃん!? 以前綾っち「実験いやや」って言ってたのに。

- ヴぇ…。た…確かにそうですけど…。
まぁ…私も少しは成長できたということで…そこは矛を収めてくれるとうれしいんですga…。ほ…ほら…追体験ってやっぱりなんだか自分の理解に自信がつきそうじゃないですか…。

- ええと…ちょっと待ってくださいね。カタカタ…タタタ…カチカチ…ターン…………

- いくら私といえど…これはわかりますよ。サイズが大きくなれば、t 分布だってどんどん標準正規分布に近づいていくってことくらいは。…たとえば、n を 3, 5, 10, 20, 30 と増やしていくとこんなカンジにグラフが描けますよね(ブルー:t, パープル:z)。

- よくテキストなんかで「サイズ 30 を目安に z 分布を使っても OK」みたいなこと書いてあるのはおそらくこういうことだと思うんですけど。ほら…ここでもサイズが 30 もあれば t と z とほぼ曲線で重なりますし。

- そんなことから感覚的にはサイズが小さくなると検定や推定の結果が大きく違ってくるのは予想がつくところなんですけど、実際、どの程度ちがってくるものなのかなって。定量的…というか具体的なところを見てみたいです。

-
むむ…なるなる。じゃあ、どうやってやりたい?

- …それが思い浮かばないから晴花さんに頼るのであります!

-
なら、何か筋書きをおいておこうよ。私がたのしくないし。
何なら、さっきのゴセットさんのビール会社シチュをコピる? ヨーグルト商店で。

- もちろん。…綾っちヨーグルト商店でいちばんおいしいヨーグルトをつくるためには、おおむね 215 個のヨーグルト菌を原料の牛乳に投入するのが最適なんです。

-
そ…それだけ? よ…ヨーグルトってそれだけでできちゃうの?

- この際現実的な話は無視に決まってるのれす! がるる!

-
ご…ごめんなさいなの。

- ヨーグルト菌は生きものですから大樽のなかで増えたり減ったり、ムラができたりします。カミサマだけが知っている、時々のタイミングでの綾っちヨーグルト商店の大樽のなかのヨーグルト菌の数は…

-
他所で買ってくるか、まぜ…

- はぁあ!? ちょっとオモテへ出んかい、ワレ!

-
ひ… こころより お詫び 申し上げる 次第で…あります…。

- …は、次のようになってます。

-
これ…正規乱数? あ、いや…あの Norm.Inv と Rand 関数組み合わせて作ったん?

- いえ…。
これで。

- 思い切って駅前の本屋さんで買ったにもかかわらず、未だ決して有効に活用できているとは言いがたいエクセルの関数事典…。
これ、すごく厚くて紙質もいいし、しかも小口がなめらかだったので、正規分布するんじゃないかって…。

-
は…!?

-
ぴったりめくりですよ。…ぴったりめくり。なかなかの有効活用、じゃないですか?

-
この本のですね…、まんなかより少し後ろくらいかな… 430 ページ目、つまり 215 枚目の紙に、こう…目印をつけておいて…。
綾子が晴花に開いて見せたページの肩には、鉛筆で描かれた “はなまる” マークがあった。それはうっすらではあるが、小口の側に黒鉛をのせて位置を識別できるように描かれている。

-
目をつむって本の小口の左端に親指をあてたまま、それを傾けてパラパラとめくっていってですね…

-
テヤっ! …と目印のとこらへんで止めるわけですよ。

-
ゴセットさんの逸話に触発された私は、到底ゴセットさんの足元にも及ばずも、「あ」の字の半分くらいに追体験ができるんじゃないかって思って苦節 1 ヵ月…これを地道に 1000 回繰り返して、都度記録していったんです。

-
そもそも“ノーマル(normal, 正規)” なんて冠がついた分布ですよ!? 本当に、名前に違わずどこにでもありそな ありふれた分布なのか、好奇心が尽きませんれす。

-
ああ…やっぱこの人転んでもただでは起きない変態だわ…………

-
なら綾っち、分布はもう見た?

- そんなぁ…。晴花さんに抜けがけてやるわけないじゃないですか。
…いちばんおいしい部分ですし?

- 私は何だって晴花さんと分かち合うと誓ったんです…。酸いも、辛苦も、骨折りも、はては困難も、厄介事も、波乱・修羅場でさえも。

- (ネガティブ、しかないのは気のせいかな?)

-
じゃ、綾っち、histogram 作っちゃいなよ。…できたら見せてもらうから。

- …がってんです。
※以下ヒストグラムの作成のプロセスは, 姉妹サイトによる 2 つの手順解説ページ:
および,
での考え方を下敷きとするものです。仔細が必要であれば、引用元を参照ください。

- じゃあ、とりあえず…階級の数を決めようかな。
「平方根選択」に頼ると √1000 (の天井関数, 切り上げ)なわけだから、階級の数の目安は 32。…いくらなんでも、多すぎだよね。

- なら「スコットの選択」はどうだろう?
この場合、階級の幅(w)を確か…次の式で計算するんだっけ。

- …エクセルではこんな式、だね。

- と、いうことで…階級の数(k)は範囲(range)を w で割って切り上げるわけだから…(下式)

- …エクセルではこんな式、だよね。

- ふむふむ。「スコットの選択」に頼ると、階級の数の目安は 19。…このくらいなら、悪くないかも。…これでやってみよっと。

- …てっことで、まずは最小単位の半分をずらして最初の階級の上限に決めよかな…

- うん。このデータは整数だし…値もそう大きいわけじゃないので…階級幅は最小単位そのものでまるめよう。

- うっ…ちょうど 19 階級…。き…気持ちよくハマってくれた…


- これで、度数がとれるNe。…この場合は、Frequency 関数でいっかな。

- 配列数式いいいいいいいいぃ! テヤああああああああっぁッ!

- …度数分布表が無事とれたところで、次は正規分布曲線を描く準備をしよっと。

- …こっちは、標準偏差の 1/50 倍くらいの幅をとればいっかな。…それなりになめらかに描きたいし。

- 先の設定だと 400 弱の描画ポイントが用意できたNe。…これなら、まぁ、十分すぎるくらいじゃないかな。

- じゃあ次は…ええと… x のポイントそれぞれで正規分布曲線の高さを求めて…

- スケールを合わせれば…

- ヒストグラムに正規分布曲線を重ねて描くために、必要なシートの準備ができましたよっ…と。

- いよいよ、グラフを作っていくわけですが…カタカタ…カチ…………

- むむ…カタ…カチ………カチ…

- にゃおおおぉぉぉぉん
…できた。

- 晴花さん、晴花さん。できましたよ!
綾子は、モバイルノートを晴花に向けて回転させた。
この日の残務に手を付けていた晴花は、ひとたび手を休めると、小さな画面へ視線をやった。

-
へぇ。なら綾っちは…これ、どう見たん?

- 大樽の中のヨーグルト菌の数は正規分布にしたがうと考えても OK では?

- …ていうかこんなにあぷろくしめいとなフィッティングにもかかわらず、晴花さん…きっとイチャモンをつけて無知な私を陥れてやろうなんて企んでいるんですよね!? ひ…ひどぃっ!!

- ………………………おい。

- ま…でもせっかくのひどい言われようだし…ここはお言葉に甘えるとして。

- じゃあ…私が描いてみたり…カタカタ……。

- 階級の幅を 7 にして…こんな…カンジ? ヒストグラムのいちばん大きな柱…正規分布曲線を突き抜けたじゃん。「あれ!? 実は、とがって、いるよ」

- …ぬぬ。

- じゃあ、今度は階級幅を測定単位で丸めず行こうか。とりあえず、スタートラインだけでも区切りのいい数字…そうだな… 160 にしてやってみよっか。カタカタ…………っと。

- 「あれ!? 実は、つぶれて、いるよ」「もしかしたら、ゆがんでいるようにも…」

- …ぬぬぬぬ。

- ま… 2 番目の方は、かなりのおイタなわけだけど。

- データの数が少ないときとか、階級幅のとり方、はては最初の階級の下限の決め方によっては、ヒストグラムと正規分布曲線の関係…とりわけゆがみやとがりなんかが、また違って見えてくることもあるんだな、これが。

-
その意味では、綾っちが今やったように正規分布曲線とヒストグラムを重ねるような場合には、オペレータの “センス” がちょびっとばかり問われてくると言えるのかもしんないね。…そう考えると、階級幅を適切に丸めるのはもちろんのこと、目安とした階級幅の前後くらいは、最低限目視しといたほうが better なんかも。そのぶん、時間はかかっちゃうけどsa。

- ふうむ…なるなる。

- じゃ、そろそろ階級幅を元に戻さないと…せっかくの綾っち謹製のものだからNe。

- その上で、ええと、わかりやすいように、期待度数(リクツの上でそうなるはずの値; ここでは正規分布にしたがうという前提で)を histogram に重ねてさ…多い少ない…をさらに強調してみよっか…カタカタ………カチカチ………ターン。

- 結局、パープルや空色の部分…つまり、理論値との間にこれだけの差が発生していることを、正規分布とみなすにあたって見た目(目視)でどう考えるかなわけだけど…

- このデータの数なら…こんなもんかな? “normal” という冠のある分布と考えて良さそう?

- 許容…範囲で… FA です…。たぶん。

- 主観的判定…な以上、極論で逃げれば人それぞれの結論があって間違いないわけだけれども、ここは私も…思うことは綾っちと同じかな。パープルと空色の面積が、たいした違和感もともなわずに相殺できそなところを見せられれば、私も You の見立てにはこれっぽっちも異論ないYO。

- ………ほっ。

- 今みたいにさ、目視で正規分布にしたがっているかどうかを確認する方法(正規性の検定)は、実はもっとカンタンなものがあるんだ。…作図的な意味でカンタン、ってことだけど。

- ?

- 綾っちの本しかり、how-to 本をはじめとして ふだんはなぜだかことごとく触れられる機会を見ない薄幸な方法なんだけど。

- レ…レアアイテム!?

- …ある意味では、そう、かも。簡単に作れて実用的な方法だって私は思うんだけど、ヒストグラムがあまりに “ビッグネーム” すぎちゃってどうにもこうにも陽の目が…ね。なんだか、おかしくもちょっと同情しちゃうとこがあるんだ…私には。

- どう? やってみる?

- もち!ろん!です!


- …やってることは、さっき綾っちがやった ヒストグラム+正規分布曲線重ね とまったく同じで。

- たとえば…(だいたい)平均 50, 標準偏差 10 のデータを仮定しよっか。

- このデータは、いくらかの大きさ n をもっているとして、そうだね…ええと…
とりあえず 0~1 までの範囲(全体の 0% ~ 100%)を均等に 10 等分にでもしてみよっか(厳密には、境界はともに含めず)。…区切りがいいし。

- 9 個の測定ポイントができたから、単純に n=9 としたとき…

- 綾っち。
これを累積(下側)確率と考えたとして、最初の 平均 50, 標準偏差 10 のデータが正規分布ジャストフィットなものだったとしたらさ… 0.1 ~ 0.9 までのおのおののポイントで、理論値(exp.列)はいくつになるんだろ?

- Yes! Sir! Norm.Inv 関数の出番であります!

- ご名答。
…こんなん、だね。

- …で、実際の 9 個の観測値(x列)もこれと同じだったとしてさ。つまり、正規分布ドンピシャ、と。

- ここで理論値―観測値で散布図を作ってみると…この場合は、こんなカンジに、気持ちよーく一直線にマーカーが並ぶんだ。

- でも 理論値からわざとちょっぴりハズした x を用意すれば…

- マーカーは当然、理論値(パープルのライン)の上に一直線には並ばないよ。

- この性質を利用すれば、正規分布にしたがうかどうかの判断に役に立つね。

- …と、いうことで綾っちの作ったひな形の方に再登場してもらおう。…ストッ。

- うん……誰が何と言おうと…すごく…正規分布…です。

- だね。でもま、それではつまらないんで、ここは比較のため極端な例を持ち出してみるね。

- β 分布 っていうちょっと変わった分布にしたがう乱数をエクセルで作って…っと…(参考:α=1, β=5)… 100 個でいっか。

- この乱数の分布はどうなったかを、まずヒストグラムで見てみよぉ。…えい。

- うん……誰が何と言おうと…もう… Q-Q プロット…必要あ…

- …やめろ。陽を当てたいんだ、私は。

- ………

- コホン…。…ってことで、ま、正規確率プロットを見てみよう。

- あ……ホントだ。今回は S 字のような形になりましたね。

- おもいっきりわかりやすい例、ならばこそ。…もち、微妙なのを上手に裁くには経験も必要だろうね。

- そうした点さえ埋められれば、手続き的には ヒストグラム+正規分布曲線 よりすこぶる簡単なのは間違いないと思うの。素材はプレーンな散布図だから。あ…エクセルならば、の話ね。

- …なるほどなぁ。

- あ! そうそう…この…

- この…今見たような正規分布にしたがっているかの判断… 目視以外にも機械的にできるんですよね? たしか…

- 「適合度の検定」とか…むむ…こ…ころ…「コルモゴロフ・スミルノフ検定」とか。
晴花は “虎の巻” をしばらく覗き込んで、綾子に言った。

- あぁ……そういやそんなのがあったかも。
私たちが実際に稼働をはじめたとして、なんか…いずれイヤでも向き合わなきゃならなくなりそなシロモノってカンジじゃん? じゃ…またそんときにでも、私は綾っちに教えてもらおっかな。

- ……ところで。

- ?

- ヨーグルト菌の正規性を確認したところで……。実験、だよね?
母平均の…検定。z か t で…検定統計量を…試してみたい…んだったっけ?

- そうだったです!
小さい標本だとホントに樽の中のヨーグルト菌が正規分布で検定とか推定とかするのが難しいのか見てみたいです。

- …でもですよ。
何回も何回も何回も標本作って計算を繰り返すのって、ウルトラメンドウじゃないですかぁ、晴花しゃ~ん 

- ……くっそ。猫撫声で乞われしに、承り給はでありなむや。

- いろんな面でエクセルちゃんはそうしたシミュは苦手…というかそれ用にできていないとは思うけど、新マシーンの Get 記念にゃのだ…。ここはチキンゲームしてみたくはある。いいよ、その話、乗る。

- V8! V8! はるか神! はるか神!

- それじゃ……私の仕事代わりに頼むわ。小口現金の集計がどっさり残ってるし。

- Aye, aye, さー!

- できた……。
ずいぶんと危険なかほりのするものをつくってしまったような気がするze…。
Sub Type1ErrorSimulation()
Randomize
Dim Sample As Long
Dim Val() As Long
Dim Size As Long
Dim Alpha As Double
Dim Rep As Long
Dim Rn As Variant
Dim Ckr(999) As Boolean
Dim Mu As Variant
Dim Mean As Variant
Dim SDu As Variant
Dim Lower As Variant
Dim Upper As Variant
Dim Tmp As Variant
Dim i As Long
Application.ScreenUpdating = False
Workbooks.Add
Alpha = 0.05
Mu = Workbooks("ぴったりめくり.xlsx").Worksheets("記録").Range("D3").Value
MsgBox Mu
Size = 3
ReDim Val(Size)
For Sample = 1 To 1000
Worksheets.Add
With ActiveSheet
.Range("A1").Value = "試行x回目"
.Range("B1").Value = "標本平均"
.Range("D1").Value = "下限[t]"
.Range("E1").Value = "上限[t]"
.Range("H1").Value = "下限[z]"
.Range("I1").Value = "上限[z]"
End With
For Rep = 1 To 100
For i = 0 To 999
Ckr(i) = False
Next i
ReTryB: Mean = 0
For i = 1 To Size
ReTryA: Rn = Application.WorksheetFunction.RandBetween(0, 999)
If Ckr(Rn) = True Then
GoTo ReTryA
End If
Val(i) = Workbooks("ぴったりめくり.xlsx").Worksheets("記録").Range("A1").Offset(Rn, 0).Value
Mean = Mean + Workbooks("ぴったりめくり.xlsx").Worksheets("記録").Range("A1").Offset(Rn, 0).Value
Ckr(Rn) = True
Next i
For i = 1 To Size
Range("L1").Offset(Rep, i - 1).Value = Val(i)
Next i
Mean = Mean / Size
SDu = 0
For i = 1 To Size
SDu = SDu + (Val(i) - Mean) ^ 2
Next i
SDu = (SDu / (Size - 1)) ^ (1 / 2)
If SDu = 0 Then GoTo ReTryB
Lower = Mean - Application.WorksheetFunction.Confidence_T(Alpha, SDu, Size)
Upper = Mean + Application.WorksheetFunction.Confidence_T(Alpha, SDu, Size)
With ActiveSheet
.Range("A1").Offset(Rep, 0).Value = Rep
.Range("B1").Offset(Rep, 0).Value = Mean
.Range("D1").Offset(Rep, 0).Value = Lower
.Range("E1").Offset(Rep, 0).Value = Upper
End With
If Mu <= Lower Or Mu >= Upper Then
ActiveSheet.Range("F1").Offset(Rep, 0).Value = "*"
End If
Lower = Mean - Application.WorksheetFunction.Confidence_Norm(Alpha, SDu, Size)
Upper = Mean + Application.WorksheetFunction.Confidence_Norm(Alpha, SDu, Size)
ActiveSheet.Range("H1").Offset(Rep, 0).Value = Lower
ActiveSheet.Range("I1").Offset(Rep, 0).Value = Upper
If Mu <= Lower Or Mu >= Upper Then
ActiveSheet.Range("J1").Offset(Rep, 0).Value = "*"
End If
Next Rep
ActiveSheet.Range("F1").Formula = "=counta(F2:F101)"
ActiveSheet.Range("J1").Formula = "=counta(J2:J101)"
Next Sample
For i = 1 To 1000
With Worksheets("Sheet1")
.Range("A1").Offset(i - 1, 0).Value = Worksheets(i).Range("F1").Value
.Range("B1").Offset(i - 1, 0).Value = Worksheets(i).Range("J1").Value
End With
Next i
Application.ScreenUpdating = True
End Sub

- お疲れさまであります!

- …それじゃ早速。

- STOP!
やめるんだ…。

- …え? せっかく作ったのに、何で…??

- 実行したが最後、いくら New Machine であれおそろしく時間がかかるのは必定。
私のコードは…速度のことなんてこれっぽちも考えてない。

- 家に帰ってから、ご飯食べながら…テレビ見ながら…お風呂入りながら実行させとくよ、私が。

- いいんですか? …何だかわるいです。

- …Non, Non。自由なひとり暮らしだし。…どうせヒマだし。任せなYo。

- 晴花さん、昨日のアレ、どうなりました? …わくわくして待機中なんですけど。

- え……今? ここで?

- ダメですか? 松原さんは私たちの事情をご存知ですし、今でいいじゃないですか。

- え…ほら……誰か来るかもしれな…

- え、何この空気…いったい何が始まろうとしてる??

- はるか神に実験をお願いしたんですYo。昨日はるか神にそのためのコードを作ってもらったんです。

- 実験って…何の?

- ヨーグルト! です。

- …は!?

- …あ。いやいや。

- 「なぜ t 検定なのか!」…実験でして。サンプルサイズが小さいとき、母平均を推定したり、検定したりするのに、 z じゃなくて t 分布が使われる理由がなんと今!ここで明かされるのです!

- …あん? 何だかトラウマが呼び起こされそうなワード群が聞こえる気がするのね…。

- トラウマ…。トラウマ…って何ですか?

- …央部大学の。統計の授業担当してた、キヤツのことを思い出すし。…チッ。

- キヤツ…。こわっ…。

- …あぁ。ゴメン。
あそこにひとりひどくとんでもなくムカツク男がいてさ。少しの間だったけど、あの男には、ひどくイヤな思いをさせられた経験が重かったもんだからね…。つい…。

- 何ですかそれ…。
そっちのほうを、少し聞いてみたくなったです…。

- あぁあぁ…何でもない、何でもない。ホント、カンベン。
脱線させるつもりじゃないし…。さっきの話を続けてよ。きっと大事なことだし。社長の力になると誓った端からふたりの足を引っ張ってしまっては、まったくどんな冗談だよってカンジだし。

- むむぅ…。

- ……うん、ヒトのトラウマを揺さぶる話はよくない…。というわけだから、綾っち、あとにしよう。
そうだ、後でいいじゃん。後で。

- ちょっと日南さんまでカンベン。
そんなつもりじゃないってば。ふたりの仕事を円滑にサポートできれば、わたしはそれだけでシアワセなんだし。…疑う余地なく。

- …むむ。でも今度聞かせてくださいよ。その話。

- ……もういいよ


- …では晴花さん、やりましょう。

- ……ぬぬ。

- じゃ……昨日のふりかえりを端緒として。

- 母集団のサイズ(N)は 1000。綾っちヨーグルト商店の種菌の数の変動…というか、そのときどきの状態だね。

- 母平均(μ)…つまり真の平均は 215.92。同様に母分散(σ)も計算できるわけだけど、この状況設定の場合…ほんとは母分散もカミサマしか知らないわけだから、ま、あんまり意味ないけど一応ならべておくとこんなカンジ。

- …でもって、母集団の正規性も確認したっけ。正規確率プロットで。
…母集団の正規分布を仮定しなきゃすすまないパラメトリックな手続きをシミュレーションしようなんてするまさにこの場合には…まぁ…なかなか叶ったりの母集団だよね。

- こっからが綾っちに頼まれたもの。
母集団から、いくつかのサイズ(n)の標本をつくるよ。ちいさなサイズをすべて網羅すると きっとこの New Machine がリアルに火を噴くだろうから、具体的には、3, 5, 10, 20, 30 の 5 つのパターンで試してみたんだ。

- それぞれの標本で平均…つまり標本平均(x bar)を計算してみることが、まず目的。

- 母平均は 215.92 ってあらかじめ分かってるわけだし…コードでは、抽出した標本から母平均の信頼区間を求めてみたんだ。

- で…こんな感じで、1 回 1 回ステディに試していくとして…さ。
標本は母集団と同じ分布なわけだし…母平均は標本平均をもとに計算した信頼区間の範囲内にゲンソクはおさまってくれるハズだよね。
検定でいえば、有意な差はでないはず…っと。

- でもときにはこんなふうに、母平均を信頼区間の範囲内にとらえられないこともあっちゃうわけで。

- …と、いうことで綾っち。こうした試行を 100 回くりかえすとして、母平均…つまり真の平均を信頼区間のなかにとらえられないケースは、いったい何回発生するんだろう?

- 信頼係数を 95% としたとして… のこりの 5%、晴花さんのコードでは 100 回試行するということですから 5 回、です。

- うん。
これは検定でいえば、綾っちが以前安堂さんに教えてもらったαエラー(第 1 種の過誤)…つまり帰無仮説が正しい(母集団と標本の分布は同じ)にもかかわらず誤って棄却しちゃう(母集団と標本の分布は異なる)確率なんかを、100 回中 5 回程度にコントロールすることと同じだね。換言すれば。

- 昨日のコードは、そのコントロールのありようを 統計量が想定する分布を変えて観察してみようって趣旨で組み立ててみたんだ。…アウトプットは、こんなカンジ。

- n=3 の場合を例として…
左が t, 右が z による 標本平均をもとに計算した 95% 信頼区間ね。

- んでもって、母平均…つまり真の平均(215.92)を信頼区間にとらえられなかったとき、アスタリスクでマークしといて…

- こうした作業が 100 回おわった時点で、アスタリスクの数を上で求めみたんだYO。
t はドンピシャ狙い通り、でも z はといえば… この結果じゃ、最初に設定したαの大きさを、あまりに少なく見積もっちゃったとしか言いようがなくないかな…。100 回中 20 回近くも外してしまって、5% と強弁するのも難しいよNe。

- うぉぉおお! これぞまさに t 分布の発見に至る偉大な第一歩となったゴセットさんの感じた疑問のカケラだああぁ。なんだかうれしいぞぉぉぉぉ!

- いやいや、まだまだ喜ぶには早くない?
…この結果、たまたまかもしんないし。

- …って、ことで。
この 100 回の試行を 1 セットとして、これを 1000 セット繰り返させてみたんだ。中心極限定理の力を借りれば、ほどほどにツカエル値を出せるっしょ。

- んで、気になる結果は、これ。
とても小さな標本… n=3 のとき、正規分布に依存すると αは 0.05 と設定したつもりが実際はおよそ 0.18(18.426/100)になったのさ。

- もちろん、のこり 4 パターンでもやってみたいよね、同じこと。…比較できるし。

- …てことで、おそらくいちばんのご希望だったものがこれ、だよね。n=3, 5, 10, 20, 30 とサイズを大きくしていった時、αエラーの発生回数が t 分布の場合にはおおむね狙ったところでフラットなさま、z 分布の場合には狙ったところめがけてだんだんと減っていくさま。
…あ、言うまでもなく 横軸はサイズ(n), 縦軸は 100 回の試行で信頼区間にとらえられなかった回数の平均, んでもってマーカーの間の線は補完したもの、ね。

- うぉぉおお! これですよ、これ!

- たしかに小さな標本ほど z 分布を使うのがマズそうなのがわかりますです! t のフラットっぷりに対して、たとえば n=3 だと z は 100 回中 18 回も外すんですよ! 18 回! 前提は 5 回程度と見積もっているはずなのに!

- もし小さな標本の場合に何も考えず z 分布を使ったとして、第 1 種の過誤が発生する確率が…実は自分で思ってるよりかなり高くなっちゃってるなんて、悲しすぎますYo。

- たしかにサイズが大きくなるにつれ t と z の差も小さくなりますけど…それでもこの結果をかんがみれば…小さな標本の場合には z 分布をあてはめる理由はなさそうです!

- …だね。当初綾っちの期待したとおりの結果が導けて、時間を費やした甲斐が、あったってもンだYO。

- …あ、そうだ。
ちなみにこれ結局いくらかかったんですか、時間…。

- う~ん…正確なところはどうだろう…。
昨日は、テレビ見てたらテンション MAX になって手を付けるのが遅れちゃったからなぁ…ええと…

- だって連ドラ十兵衛サイコーじゃん? 昨日なんか第六天魔王十本刀の遠距離狙撃を外した結果執拗に追い詰められて鳴門に身を隠しているとき渦潮投身修行を経て実用的なライフリング技術を世界に先駆けて開眼しちゃったんだぜぃ! 十兵衛カッコよすぎ!

- いや…私はダムホール派なんで……あの展開はちょっと…………

- は!? ちょっとオモテへ出な! …クイッ。

- …てなアホなことやってる場合じゃなかった。
あれから手をつけたまま放置して、朝起きたら終わってたから…長くとも 6, 7 時間くらいじゃないかな。

- うげ…なんとお礼を申し上げてよいか…
とにかく…今度ごはんごちそうしますから。

- うにゃにゃ。実のところ昨日のコードに少し手を加えて完全に自動化してやっちゃったから、私はなんの苦労もしてないんだな。
…それでもゴチってくれるっていうんなら、それこそダムホールのように吸い込むけどNe。

- …。
ふたりの話がひと区切りついたかというとき、黙々と手を動かしていた松原が、口を開けてふたりを眺めていた。

- な…何かあ…あります?

- あぁ…。社長やっぱりどこかまた狂気に蝕ま…なんてわけじゃないのか…。

- ……?
そう小さくつぶやくと、ふたたび下を向いて手を動かし始めた。
安堂から「そろそろ対象へアプローチを」とメールで直接指示を受けていた晴花は、この日、ナーヴが忙しくなる時間帯までにカタをつけようと気をもみながら、会社へとやって来たが…。

- え…綾っち今日お休みですか…!?

- 体調不良でダメらしいと…。皆口さんがさっき。

- マジっすか……綾っちにしてはおっかしいな…メール来てない……。

- う…ん、どうしよう…。先方にアポとってしまった以上、行かないわけにはいかないし…。

- どっか用事? それ、例の関連でしょ?
ま、ここはひとりでナントカするから…行っておいでよ。

- ………。

- ねぇ!

- ………すみません。じゃ、お言葉に甘えます。
と、躊躇をたしなめられるようにして晴花は答えた。
そしてしばらく経ってから、経理課を松原に任せ、晴花は社長の家へと向かう。そこで私服に着替えると、晴花はナーヴへと出かけて行った。
2月中旬 9:50
Navi in Bottiglia
ナーヴに着いた晴花は、まだ薄暗い店内の一角に案内されると、どこか落ち着きのない様子で優里の支度がととのうのを待っていた。
優里はキッチンの弘毅にひとことふたこと言葉をかけてから、晴花の対面の椅子を引いて、晴花におくれて腰を下ろした。
優里は、テーブルの上で手のひらを合わせ、体を前のめりにして晴花に問うた。

- あらたまって話って、何? アンタ、まさか…。いよいよ結婚、なんて話だったらブンなぐっちゃおうかな。
まったくそんな気配さえ見せなかったのに、実は… なんて私は悲しいゾ。でもそれも実にアンタらしい、といえばアンタらしいんだけど。

- ちゃうちゃう………。ハタハタ…。

- 実は仕事の話を………。
ナーヴに協力させてもらえないかな、と思って。…社として。

- …ぷっ。何よ、いまさら。何を言い出すのかと思えば。
十分協力してくれてるじゃない。アンタたちしかり、美希ちゃんしかり。まぁ、今以上に足を運んでくれるって言うのならわたくしは歓迎いたしますわ 

- 違うんだ………。
ナーヴとはす向かいのお店との攻防戦に。お客としてでなく、ここの利害関係者として。

- …。
それは…いったい…。

- なんだかこう…上手く説明することが難しいんだけど……。
優里のお店の問題は、実際は他人ごとではもなく…。ウチの会社が当事者だって話なんだ…。この一件は…。

- むこうの背後に BBI っていう大手のリサーチ会社がいるのがわかって…。事業領域に照らして、ウチの誰もが最大のライバルと考える、そういう会社があるの。もっとも、むこうにとっちゃウチは芥子粒みたいなものだけれど。

- これがウチにとっては問題なんだ…。この地域で社長が死守してきたと言う文字通りの生存領域を、ここにきて優里のお店をかわきりに、土足で踏み荒らしはじめようとしている。…まるで挑発でもするかのように堂々と。

- つまるところ…ウチも BBI の攻勢をしのげるかに、会社生命が係ってるわけで。目の上のたんこぶを指をくわえてみているだけなんてていたらくでは…私たちも遅かれ早かれ、退場を迫られるのは同じさ。

- 唐突な話だけれど、非力かもしれないけれど… 私たちにとっても差し迫った状況だからこそ、優里のお店に協力したいんだ。
もちろん、これは私の勝手な妄言じゃない。…オフィシャル。社長の意向。優里のお店は、社長もとても気に入ってる。

- なんと…。
最初は前のめりだった優里の身体が、このときにはすっかり椅子の背にはりついていた。
優里は真顔で席を立つと、晴花を待たせてキッチンへ向かって歩いていった。
やがて弘毅がやってきて、晴花の対面に座った。弘毅は優里が隣に座るのを待って、晴花に言った。

- …いったいどうしちゃったのかと。日南さん、われわれの関係に仕事の話を持ち込むのはやめませんか。あなたは優里の大切なお友達じゃないですか。

- もちろん、いつものご贔屓は本当に感謝してますよ。でも、大切な友人関係なればこそ、安易にカネの話をからませ、関係を崩す危険をはらませるのは、避けるべきではないですか。

- 弘毅さん…違う……違います…。

- 営業に来たわけではない…いや……ある意味営業というのか、これは…。

- とにかく、おカネを頂戴しようなんて話ではないんです。一切の費用はウチの会社持ちですから。弘毅さんたちからは、1 円たりともいただく話じゃありません。
弘毅の誤解を察すると、晴花は、自らの他人を説得するためのアビリティに憫然たるものを感じながら歯噛みした。
「もう一度、今度は詳細に話してみるしかないか」
晴花は、社長の利己的な部分を表に出さないように注意しながら、目の前のふたりに対し、リサーチサービス社が置かれている状況を可能な限り開示していった。

- …ということで、ホント、弘毅さんたちを信用しているからこその話で…。
私は、ウチの会社と…こちらとで、十分利害が一致すると思ってます。
共闘、できたらこれにまさる話はないと社長が…いや、私だって考えてます。何分、強大で老獪な相手に対抗していかなければならないですから。

- うーん……………。
当惑といささかの嫌悪を含んだ生返事を返すと、弘毅は「突然のことで、よく考えたい」としてそっけなく場を閉じた。
晴花と弘毅との間で板挟みになったかたちの優里は、晴花に対しとりあえずのところ意に沿えなかったことを詫びると、とがった空気を変えようと、つとめて明るく晴花を店から送り出した。
その日の夜。
晴花は、ナーヴの感触思わしくなくなかったことを引きずって、気重なままこの日の残務に取り掛かっていた。
静かに、そしてゆっくりとドアを開けて、経理課にやってきた人物がいた。

- 日南…。今、ひとりだな。

- ?
問いかけの先に何を含むのか、晴花は理解できなかった。
晴花は 2, 3 秒固まったのち、そのまま首を縦に振った。

- ひとつ、無理を承知で頼まれてほしい。…これから。

- これから…。 ちょっとイヤな予感がしない気もしなくはないですが………はて、私にできるお仕事は何でしょうか…?

- 寺畠に、さぐりを入れてもらいたい。