Fifth Step
Story > Chapter 5 > Section 4
そぼ降る雨の住宅街。
この時間、淡いクリーム色の傘で雨粒を散らしながら、街路を小幅に歩く人影があった。
晴花は、綾子の家の門扉の前で足を止める。
そして、スマートフォンのアプリで優里に宛ててメッセージを飛ばした。
そのままスマートフォンをバッグに入れると、目の前のインターフォンに指先を掛けた。
アポなしの訪問者を迎えたのは、綾子の母親であった。
綾子の母親と会うたびに、晴花は「遺伝」というしくみに深淵なものを見た気になる。
“へんてこなネーミングセンス” や斜め上の発想、さては独特のテンションといったものが、綾子のそれと大いに重なるのだ
母親は晴花に背を向けると、おっとりとした声色で、階上の綾子の名を階段越しに呼びかけた。
母親の呼びかけからしばらく、廊下の壁を支えにして、綾子が階上からぬぼーっと顔をのぞかせた。そして、口をあけたまま首を小さく縦に振り、「あ、はい」という返事を返す。
晴花は会社近くの洋菓子店で買ってきたマフィンを母親に手渡すと、足元の靴を揃え、ゆっくりと階段を上っていった。
「あ、いい、いい。すぐ帰るから、ほんと」
そう、言いたかったはずだった。
が、眼前の疲弊に満ちた表情の綾子の口から、しばし「食事から遠ざかっていた」事実を聞いた手前、まかり間違ってこの機会をふいにしてはマズイといった思いがよぎる。
それは、自分が口にしたかったはずの言葉を崩しにかかった。
それからしばらく。
キャットタワーの頂から、ふくれたような視線を下界に向けつつ “溶けた” チビ子を余所目にし、晴花たちはダイニングで夕食のときを過ごした。
焼きサバその他手作りの料理を囲む卓は、長くひとり暮らしをつづける晴花の心に沁み入った。最初は「綾子のため」を思っての付き合いのつもりだったはずが、どうにもこうにも、自分が救われたような気がして少し後ろめたくも思ったりした。
その後、綾子の部屋にて、手土産のマフィンをつまみながら。
「訪問(や)ってきた当初にくらべて、ずいぶん生気が戻ってきた」この時、晴花は綾子についてそんな感触を得ていた。
「や…やばい…」
もし、晴花がVRインタフェースを装着していたら、きっと綾子の顔の横には吹き出しとともにそんな文字が見えたことだろう。
綾子は、意に反して事態が思わぬ方向へ向かいつつあることに慄き、その現実を呪わざるを得なかった。
とまれこの瞬間綾子の敗北は決した。むろん晴花に、ではない。内なる自分、そのものに敗北した。
…といって、綾子はパソコンラックのキーボードのあたりを指し示した。
と綾子が言うと、綾子の勢いに押された晴花は綾子の言うようにやってみた。
晴花が立ち上がろうと腰を少し浮かせたとき、スマートフォンの通知音が鳴った。
晴花はバッグからスマートフォンを取り出して、メッセージを確認する。
少しさかのぼって、晴花が綾子の自宅へやってきたのと同じころ。
社長は、翔太を港区域の居酒屋に呼び出していた。
海前ビジネス社のその後と、翔太の日々を気にしたからだ。
と言うと、翔太はズボンのポケットから10円玉のおもちゃを取り出した。
綾子たちに見せた、例のアレだ。
10円玉が、社長の目の前でぐにゃりと曲がる。
「信じられない」といった社長の表情を確認すると、翔太は指を撥ねて開いた。
社長は翔太の話に一度口角をあげると沈黙した。
そして女将に声をかけ、燗酒を少し熱めでオーダーした。
カウンターにそれが届くと、社長は翔太の猪口を満たす。
そしてカウンターに置かれたおもちゃをシャツのポケットに仕舞い、前を見てこう言った。
翌朝。
壁面中央に鎮座する置スリゲルが印象的な日曜のカフェは、モーニングサービスが目当ての客で心地よい活気があった。
そのカフェの窓際のテーブルに、優里はいた。
テーブルにホールスタッフがやってくる。
ふたりは、コーヒーを注文した。
。
そして数分ののち、いい塩梅に焦げ目の付いた、風味の良い香りを漂わせるもちもちのトーストと、淡白い揺らぎを立ち昇らせるコーヒーが運ばれてきた。
ふたりはそれらを喫しながら、会話を続けた。
晴花は優里と別れると、その足で社長のマンションへと向かった。
晴花がそこに到着したときには、ダイニングには綾子の姿がすでにあった。
白い歯をみせている綾子の様子に、晴花はとりあえず安堵した。
そして、綾子の座るダイニングのチェアの向こうのソファを見れば、社長の姿がある。が、晴花から死角となっている方角を指しながら、何やらを茶化しているようだった。
一体どうしたことか…と疑問に思うも、死角からあらわれた人物の姿に、そのもやもやは一瞬で氷解した。
安堂は、それはもうすっきりとした丸刈りになっていた。
「今日日、こんなアタマが似合うのも野球少年かオレくらいなもんで」
そう洒落を返すと、安堂は晴花にチェアに座るよう促した。そして、その足でいくつかのカーテンを閉めに掛かった。
安堂によって、ノートパソコンの画面が、プロジェクタを通して白い壁面に投影される。
この瞬間、この「ミッション」の第一回目のレビューがはじまった。
綾子が首を、横に振る。
晴花は迷った。
何よりまず、いまさっきの、優里の吐露したところを申告すべきじゃないのか、と。
しかし、場合によっては、このミッションを無用のものにさえしてしまう内容のそれだ。会社の利害の方に考えを拡げると、やはり、 無思慮な発言は憚られた。
もちろん、優里からすれば、晴花の口より会社に伝わることを含んでの行動であっただろう。が、この時点の晴花にとっての天秤は、「親友」としての情もからんで、沈黙の誉れの方に大きく傾くものであった。
結果晴花は綾子に続いて、首を横に振った。
安堂の示したあらたなマトリクを見た途端、晴花の脳裏に先刻の優里との会話が蘇った。
一瞬の晴花の変化を見逃さなかった安堂が、そう声をかけた。
綾子は首を2回、縦に振った。
綾子の返答を受け、安堂は笑いながら晴花に問う。
綾子が、挙手をした。
安堂は予定していた話の筋を入れ替えて、外観、店内、料理といったものに関するいくつかの写真をプロジェクタ上に散りばめた。
さすがの安堂も、綾子のあまりにド直球な物言いには苦笑するしかなかった。
が、その言を受けた安堂は綾子たちに背を向けると、バッグを何やらガサゴソとあさり始めた。
しばらく丸くなって屈んでいた安堂が次に振り返ったとき、そこにはどこか生活感にあふれる黒毛ちょいボサヘアの、無精ひげを生やした伊達眼鏡の人間が立っていた。
その刹那、綾子たちの後ろのソファから進行を眺めていた社長が、思わずどっと吹き出した。
綾子と晴花が醒めた視線で揃って後ろを振り向くと、社長は我に返ったのか素に戻って、
…と、言った。
安堂はいちど咳を払って、話をつづけた。
安堂は、壁に重なって映った写真のいくつかを上下に弾いた。
そして、背ろの方で見つかった写真をつまんで、手前へと引きずり出す。そこにはメニューが記録されていた。
と言って、安堂は再びたくさんの写真の中からカルボナーラのそれをつまみ出した。
安堂はプロジェクタの画面を切り替えると、動画投稿サイトを呼び出した。
画面に映る、モンテ・ディ・コッチのカウンター席からの映像。
下を見たまま視線を上げない無表情なシェフたちがそこにいた。瞬間、彼・彼女らによって、お手玉のように卵が次々と虚空にと放たれていく。そして、それが再び手に返ってきた瞬間に、卵黄が生き物のようにしてボールへと収まっていった。
安堂は、動画プレーヤーのポーズボタンを押してから、話を続けた。
と言ってから、安堂はふたたび停止させた動画へと皆の注意を向ける。
そして、シェフの胸についているネームプレートを、ポインタで示した。
と言って、シェフの上でポインタを数度回した。