Fifth Step
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晴花の問いに、安堂は一切の躊躇も見せず返答を口にした。
当惑の混じった脱力ぎみなジェスチャーをとりながら、語尾まで消え入るように吐き出すと、安堂は刹那、社長の顔色を窺った。
そしていささか弛緩ぎみだった空気を、修正するように言う。
安堂が把握するところを見るに、必死感盛り盛りの否定を付すばかりでいては、却って怪しい印象を与えそうだ。
そう考えた晴花は、必要なことだけを漏出させた。
と言うと安堂は、当該情報の引用元たる現物の調書の複写を鞄から取り出した。
表紙に「株式会社山門観光」と書かれたそれだ。
安堂は付箋の付いたところを持ち上げて、「役員一覧」のページをめくる。そして、それをテーブルの中央にゆっくりと差し出した。
と言って、代表権のある役員の名を指し示す。
安堂は、いったん調書を閉じてから拾い上げると、その表裏をひっくりかえして机の上に置き直した。
直近時点の調書の作成者を意味する「担当者」の欄の上空で、安堂は人差し指を2度弾ませてから、言う。
安堂の言を受けたはいいが、容易にそれができるなら綾子たちも苦労しない。
ふたりは顔を見合わせると、自然、ひきつったふうになる。
安堂は、興がさめたような社長の表情を読みながら、ひとたび空気を作り変えようと試みる。会話のバトンを綾子たちから回収すると、安堂は、その他小事に関する話題を持ち出してお茶を濁した。
そして、いくらかのち。
予定された2時間のレビューが、時間を30分ほど余して終わった。はじめてのレビューではあったが、振り返れば全体として消化不良なテイが目立つ内容であったことを否めない。
それもそうだろう。
“門井氏の参画を確保する”
これこそが喫緊になすべきことであることを誰しもが分かっていながら、力押し以外の有効なアプローチのしかたが、どこにも見出せないでいたからだ。
そんなモヤモヤを抱えながら、安堂・綾子・晴花の3人は、社長宅を辞去して駅へと向かう道を歩いていた。
その距離3, 4百メートルだろうか。
社長の家から距離を確保したところを見計らって、安堂があらためてふたりを呼び止めた。
それは社長の家にいたときとは異なる、深刻な空気のからんだ発声だった。
会社に着くと、安堂はふたりを2階の旧倉庫へと引き入れた。
長机に並んで座るふたりに相対して、安堂は、手のひらを机上に吸い付けて立ち上がる。
そして、両腕を支柱にしながら前傾を強めた。
と口にするも、次の句がなめらかに出てこない。
安堂は、深く呼吸をしてリズムを整えなおすと、こう言った。
唐突に耳にした「B案」なるものが、綾子らにはわからない。
ふたりの反応で我に返った安堂は、過ぎた動揺がいささか自らを先走りをさせたことに気づく。そして、咳払いをして仕切りなおすと、慎重にことばを選ぶようにして話しはじめた。
綾子は晴花の左肩を穏やかに擦ると、安堂に言った。
安堂にそこまで見透かされていたことに、晴花は不明を恥じるばかりであった。
が、けがの功名だとも思う。このタイミングで、なら、カフェで優里が漏らした胸のうちを伝えても間違いはないだろう、そう思った。
と言ってから、安堂は自分の鞄からホチキス留めのいくつかの紙束を出して、机に置いた。
と、安堂が問う。
綾子も晴花も、黙って首を2回、縦にふった。
と言うと、安堂は紙束の上に手のひらを置いてから、言った。
と言ってから、晴花は調書を指さし、安堂に反問した。
安堂は、小さく笑ってそう言うと、積み上げた調書の一冊を手に取った。
その向かいの席で、綾子はノートPCを広げてから、ひとたび部屋の外へと出ていった。
そして晴花は、冊子の束をはさんで作業を分担する必要から、安堂の隣席まで荷物を持って移動した。
晴花は、自らもノートPCのヒンジを開いた。安堂と違って、調書の勘所を熟知する人間でない自分が読解に詰まったとき、“プロ” の手をいちいち止めてしまうことが憚られたゆえだ。
やがて部屋に戻ってきた綾子は、カラフルな色の付箋の束をいくつか握っていた。
隣のRS部のいろいろな人のデスクから、バレない程度に少しずつ拝借してきたようだ。
最初は少なからず口頭でのやり取りを挟んでいた3人だったが、それぞれが目先の作業に集中しだすと、部屋の中はいつしか紙を捲る音と、キーボードの打鍵音、そして筆記具で加わる圧をはねかえす、固い机の音だけになった。
綾子は手元にいくらかの付箋が溜まったところを見計らって、席を立ち、壁にそれらをペタペタと貼っていく。
そんな光景が幾度か繰り返されるのと並行して、晴花は、手元の調書の束からかえすがえす冊子を取り替えていた。
拾い上げた冊子のどこかのページを捲ったかと思うと、じっと目を止め何かを確認する。かと思えば、その冊子をまた元の束に戻し、今度は別の冊子を手にして同じように紙を捲るそんな作業を反復していた。
いくらか経って。
晴花は一度口をぎゅっと結ぶと、何かを思い立ったのか、自らのPCを手元にゆっくりと引き寄せる。そして、調書を片手に取っ替え引っ替えしながら、何やらをタイプしはじめた。
そして、しばしのあと。
晴花は安堂に向けて、
と発語した。
安堂は顔を上げ、晴花の方に首を回した。
安堂は、「怪事か」と言わんばかりな、音吐の高い反応を返した。
晴花はいわんとするところを示そうと、PCの画面を、安堂の方にゆっくりと向けた。
※ここでネットワーク図は,姉妹サイトによる次の解説ページ:
の考え方を下敷きに描画します。ローデータは用意していませんが、雰囲気を追うには引用元か、あるいは引用元の詳解となるPart1(無向グラフ)のページなどを参照ください。
と言って、安堂は手元で少しの時間を使って、彼我数個の調書を照らし合わせた。
安堂は、さらにいくつかの調書を流し始める。
安堂は、画面の一点を指で示した。
何かに気づいた様子の綾子は、ひと呼吸おいて、こう言った。
と言うと、綾子は席を立って、壁の一角を彩る付箋の前で掌を広げた。
晴花は、綾子の説明を遮るようにして、言葉を被せた。
無理もない。赤や青の付箋に比べて、黄色の付箋の固まりがあまりにも巨大だった。
そう感想をつぶやくと、安堂は綾子に問うた。
と言うと、綾子は晴花のPCに映る “山門食堂” ノードを指差した。
安堂は少しの時間思考に耽ると、顎を撫でながらつぶやいた。
翌日。どんよりと黒い雲の広がる空から、凍てつく寒さが降ってくるような朝を迎えた。天気予報によると、南の方でもめずらしく降雪の可能性があるとかないとか。
そんな中、ふたりは綾子の自宅近くの駅で待ち合わせをしてから、電車に揺られて小一時間。目的地よりやや手前の、古びた駅舎をもつ朽ちたアスファルトのホームに、4両編成の電車が入ってきた。
乾いたブレーキ音を響かせながら、電車は止まった。そして、前2両のホーム側の扉が、排気の音とともに一斉に開放された。
そのひとつから、綾子らが降りてきた。
ふたりは改札を抜けると、駅を離れてしばらくのところにあるコンビニまで徒歩で向かう。
晴花はその道すがら、スマートフォンでタクシーを手配した。「できたら、地域の飲食店をよく知ってる運転手さんだったらうれしいんですけど」と注文を付けるのを忘れない。これも、計画のうちだった。
10分ほど待って、タクシーがやってきた。ふたりは一刻も早く寒さから逃れようと、後部座席にいそいそと乗り込んでいった。
年の頃、五十を過ぎた印象の運転手であろうか。
彼は、ふたりに「観光ですか」といの一番に訪ねた。なんとも配車センターから “注文” を聞いているという。
幸先を占う意味では渡りに船、だった。
食事だけはノープランで来たことを綾子が告げると、重ねて人懐っこい声色で運転手におすすめの有無を問うた。
運転手は海鮮料理時節柄、てっちりなどのフグ料理を勧めている。客の好みは万別なれど、海のさちを売りにしているこの地ならでは、旬のものなら嫌われにくい。運転手の選択として、当然の帰結だろう。
運転手は、おすすめのレストランとして、晴花の円環の中で見た、聞き覚えのある旅館の名のいくつかを列挙していた。
機をはかって、綾子は肝心の店の名前を口にする。
「そういえば、あの、『山門食堂』っていう名前の旅館はどうなんですか? タコの唐揚げが美味しいとか、そんな話を…」
と尋ねると、「うーん、どうだろう。派手さはないねぇ」と、バックミラー越しにゆがむ運転手の顔が、綾子に見えた。
聞けば、鍋・刺身・唐揚げとバリエーションに富むフグ料理とくらべると、いかんせん地味すぎて客の反応も数段落ちるという。おまけに地元の人間からは、「代替わりしてから味が落ちた」という評判を耳にするのも常で、あげくの果てに、ここ最近では身売りやなんやらのうわさ話も出てくる始末といったわけで、運転手自身にとっても、ヤマカドはどうにも食指の動かぬ存在のようだ。
綾子は言う。
「じゃあ、行先はその山門食堂でお願いします」
怖いもの見たさで、と言う。SNSで目立てるからと、てきとうな補強も加えた。
運転手は「たのむから、あとから本部にクレームをよこさないで」と、冗談をまじえ再度意思を確認した。綾子は、晴花のうなずきを待ってから、運転手に諾を返した。
車は一路、ヤマカドへと向かった。
しばらく走ると、綾子らは旅館街から少し離れた県道沿いに、くすんだ凸の字型の建物の、目的地の姿を認めた。
外見から判断するに、凸の字の上半分が「旅館」としての機能を果たしているようだ。
この隣地には、いくつかの車両が止められていまだ十分な余力を残す大きな駐車場が見えた。その過半くらいであろうか。敷地は、近くの浜から舞ってきたであろう砂塵で駐車ラインさえ埋もれてしまったありさまで、盛衰の時を経た今を綾子らにも十分に窺うことができるそんな、状態であった。
「2500円、です」
路傍でハザードを焚く車中にて、運転手は言った。
精算を終え、ふたりはタクシーを降りた。外気は変わらず、歯が鳴るような厳しさだ。
車は彼女らを背に、来た道をUターンして、やがて視界から消えていった。
目的の店は、旅館を経ずとも、公道に面した専用の出入り口から行き来できる構造になっていた。
綾子は店ののれんを掻きあげる。そして、エンボスガラスのはまったアルミの引き戸に手をかけると、ゆっくりと、力を込めた。
厨房を含めて、一般的なコンビニエンスストアの売り場くらいの広さであろうか。入口の戸を引いた瞬間、この空間から揚げ油の匂いが香ってきた。
お昼には少し早いこの時間、カウンターの席はほぼカラだった。他方、テーブルを利用するグループ客が、まばらにいた。
綾子らは店員に案内されると、小ぶりな黒いテーブルを囲んで着座した。そして、お目当ての「タコのから揚げ定食」を注文し、周囲をちらちらと観察目で追える範囲には、弘毅の姉と推定できるような人物の姿を認めることができなかったがしながら料理を待った。
10分弱で、ふたりのもとに「タコのから揚げ定食」が運ばれてきた。
およそ一時間も経ったころ、ふたりはヤマカドをあとにした。
ボアミトンの手袋、長い厚手のマフラーといった防寒装備を、それぞれが思い出したようにととのえはじめた。それで身を固めると、ふたりは、この店から半キロほど離れたホテルへ、海風にもまれながら歩いていった。
しばらくして、目的のホテルに着いた。
ここで「スパ&エステ」の看板につられた綾子はあやうく戦線を放棄しかけたが、晴花に脳天を割られ軌道修正を図られると、やむなくというか、予定どおりに1台のレンタルサイクルを手配するに至った。
そのあとふたりは真っ赤な自転車を引きずって、この町の小さな図書館へと向かった。
外気と隔離されたこの空間は、およそ快適なものであった。
簡素ではあるがイートインスペースも揃えるとあって、ふたりは予め、ここをこの時間以降の行動に臨んでの、ハブとして利用しようと決めていた。
ふたりは、壁と正対するように配置されたカウンターテーブルの一角を確保すると、コートを脱いで、椅子に並んで腰を下ろした。
綾子は膝の上にコートをたたんで置いた。その上に握った両手をのせて、晴花の方に向け座面を回した。
DEMONSTRATION 21:
晴花は装備を固めると、再び建物の外に出た。
駐輪場に停めた、大きなカゴのついた自転車にまたがって、晴花はD地区へとペダルを漕ぐ。
いよいよ探索を開始した晴花。
街路という街路を、鈍足の自転車がゆく。気に留まるものを見つけるたびに、銀輪から足を下ろして可能性を潰していった。
そして、40分後。
晴花は図書館へと戻ってきた。自動ドアをくぐってからの一歩が、南国の楽園を想起させる心地よさだ。
そして、40分後。
またまた、40分後。
綾子はA地区を探索中、一軒の朽ちた倉庫を見つけた。
あたりの敷地は、雑多な物資が投げ捨てられいる。その隙間を、枯れた果てた草木が覆っていた。
錆びたシャッターにふと目をやると、前面に積まれた段ボールの隙間から「蠣」の字が覗いている。
綾子は自転車を降り、シャッターを目指し障害物を避けながら近寄っていく。
「蠣崎商店」あるいは「蠣崎旅館」その他屋号。それらに類する文字が書いてあることを期待して、綾子は段ボールの横からシャッターを覗き見た。
そんなこともありつつ、40分後。
すっかり日も落ちて、捜索も限界に近づいていたころ。
晴花にとっては三度目の正直、D地区の上にいた。
廃小学校の脇を流していた晴花は、ゆっくりと自転車のブレーキを握った。
路面にスタと足を降ろすと、敷地を囲む壁に向かって首を傾けた。
ブロックの壁面に並ぶいくつかの茶色の矩形が、どうやら単純な模様でもなさそうなことが気になった。
晴花は “模様” に近づいていく。
よく見れば、人物のアップショットが模られた陶板のレリーフであった。
晴花はスマホのLEDで、そのひとつを照らした。
そして陶板の下部に、制作年度と制作者の名前とが刻まれていることに気がついた。
その瞬間、晴花はスマホを片手にブロック塀にとりついた。
24年前のそれが、存在することを期待して。
思わず神経が昂った。鼓動が漏れ伝わるくらいに張り詰めた調子でいくつかの陶板を調べていくと、晴花は、それらが反時計回りで時代を遡っていっていることを知る。
晴花は左方向に、ひとつずつ制作年度をのぼっていった。
そのとき、晴花は目の前の陶板をなでながら、
と、言った。
手袋の向こうの色褪せた陶板に「蠣崎胤次」と、
そして、1ブロック左方向のそれには「門井弘毅」と、
風化がすすんで輪郭の薄れゆく2つの刻みを晴花は見つけた。
晴花は思わず、苦労が実を結んだ喜びを素通りして、戸惑いに満ちた所懐の方を口にした。
翌朝。
晴花はアポをとってナーヴまで足を運んでいた。
安堂から耳にした社長の無理押しも気になるところで、事実上、これが最後の説得の機会になるだろうと踏んでいた。
「しくじれば、船頭が多くなる」
風を味方にテイクオフできるかどうか、晴花の関心はその一点にのみあった。これを失敗したならば、舵取りにおける晴花らの影響力は相対的に弱くなる。説得はとてもむずかしいことだが、弘毅や優里をとりまく脅威を想えば、退路を断ってでも成し遂げねばならぬことであった。
この名前をフルで口にしたとき、弘毅は、怪訝な顔を見せたり、その者の何人たるやを質すこともせず、表情ひとつ変えなかった。
(この名前に、相当の免疫を持っているかな)
内心でそんな予断を組み立てながら、淡々と晴花は続けた。
「!?」
テーブルで対面する晴花と弘毅の真ん中で、立ったまま聞いていた優里の顔が、とっさに曇った。
「私の思いを、全然酌んでくれていない」
優里は口を挟もうとした。
テーブルの木目を見つめて沈黙する弘毅の隙をついて、刹那、晴花は優里に強い視線を向ける。
優里は、機先を制されるかたちとなった。
卒爾のこと、弘毅は晴花をカッとにらみつけ、まくし立てた。
晴花に対し礼を欠いた発言をした弘毅に対し、優里はやにわに感情を出した。
と晴花は優里に言って、再び弘毅と向きなおる。
晴花のひとことを聞いて、弘毅は思わず目を皿のようにした。
弘毅はうつむいて、首をひねりながら一度「フッ」と呼気をこねた。
かと思うと、やにわに上体を起こして、のけぞるように頭を反らす。そして、両手で頭をがしと抱えながら、悲鳴をあげた。
と、錯乱したかのようなことばを放った。
水気を帯びてうなだれる弘毅を前に、晴花は諫めるように言った。
弘毅は歯をかみしめ、うつむいたまま無言、だった。
いや、それは誤りだ。
よく見れば、晴花らの目の前で、首を小刻みに縦に揺らしているではないか。
それが数秒間繰り返されたとき、晴花は、肯定を意味する所作であることを確信した。
弘毅は優里を見上げると、打ち手を失って茫然とするような、どこか苛まれたような笑みを浮かべた。
そして、晴花の方に身体を向かいなおしてから、言った。
と言ったとき、優里のスマートフォンが通知音を響かせる。
これは、勝手口のドアホン子機が押された時の音だった。
添付されたモニタ画像は、見知らぬ人物の一瞬のうつむき顔をとらえていた。
(たく、タイミングが悪いって言ったら…)
もとより風が吹けば桶屋が儲かるどちらかと言えば、この句の良いほうの意味を、箴言のように用いてきた飲食ビジネスの世界。SNSの隆盛にともなって、それが笑い話ですまなくなってきた昨今、たとえ売り込みであれ無作法に追い払うことは軽率だ。
優里は、いつものように当たり障りなくいなそうと、ふたりから離れ、親機のある事務室へと向かった。
事務室のモニタに、勝手口の映像が映る。
薄手のスタンドカラーのコートをまとった、背の高い男がモニタ越しに立っていた。金色に光る刈り込まれたアシンメトリーの髪が異彩を放つ、どこか強烈なオーラをまとった男だった。
(あら、モデルさんみたいなひと。でもご縁がないのが残念ね)
優里は受話器を持ち上げると、「はい」と答えた。
優里の脳天に、稲妻が貫いたような衝撃が走る。「渦中の人物が、ついに現れた」そう思った瞬間、冷静さが消し飛んだ。
狼狽した優里は、それだけを口に出すのが精いっぱいだ。あわててインターホンをフックに戻すと、弘毅のもとへと駆け出した。
まるでこの日を予想していたかのような冷静さで、優里に言う。
と言って、ゆっくりと席を立ち、勝手口へと向かった。
その傍らで、優里は晴花に「事務室!事務室!」と連呼して、人差し指の伸びた右手を一生懸命左右に往復させている。
「自分と一緒に事務室にこい」そういうこと、らしい。
晴花はうなずきを返す猶予も与えられぬまま席を立つと、優里と一緒に事務室へ小走りで駆けていった。
弘毅は勝手口のドアを前にして、瞬時、動きを止めた。
そして、ロックを外してゆっくりとドアノブを回した。
優里と晴花は、ドアの向こうの蠣崎の姿を、モニタを通して見つめている。
弘毅と蠣崎が、わずかの距離を隔てて対面した。
と言って蠣崎は、名刺とともに菓子折りを弘毅に手渡した。
弘毅にとって、目の前の人物の声やかたちは、薄れつつあった記憶の中の「蠣崎」と、簡単に結びつきはしなかった。
人生の時間において、再び空間が交錯するなぞ最近までついぞ考えもしなかった。だが自らの掌の上にある名刺には、確かに「蠣崎胤次」と書いてある。自分の知らない幾多もの年月が、蠣崎という人間を目の前の姿にしたのだろう
そんな思考の背後で、弘毅は自らの名刺を差し出した。
名刺に目を落とした蠣崎は、にわかに吃驚の表情を浮かべた。
この瞬間、蠣崎の声色が明確に変わった。
弘毅は思う。
「あの時の彼は、まだ彼の中にいるのだろうか」と。
それにしても、蠣崎が偶発的な再会を装っていることが気になった。
自身で調べ、あるいは耳にした情報から思料して、弘毅はひとつだけ確信めいたものを持っている。
「彼の行動は、計算以外にない」
今さら、偶然などありえないそう考えるからこそ、弘毅は目の前の男の三文芝居に腹を立てた。
と言うと、蠣崎は懐から洋型の封筒を取り出し、弘毅に渡そうとした。
「そんな暇ないよ」
と弘毅が受け取りを拒んでいると、蠣崎は「他の誰かにあげてもいいし、捨ててくれてもいい」と言って弘毅に強引に押しつけた。そして蠣崎は、手を振りつつ、
と言ってから、踵を返す。が、束の間、
と嘆息して振り返ると、弘毅に向かって言った。
蠣崎は一度にこりと微笑んで、ナーヴから去っていった。
事務室では。
モニタを通して一部始終を聞いていた優里が、目をしばたかせながら、晴花に質した。
しばらくして、愁然とした顔をした弘毅が事務室にやってきた。
弘毅は、にわかに優里の右肩に左手をのせると、
「結局、ここに至るまで、自分じゃ決断できなかった。最初から、わかっていたのに」
と言った。
つづけて晴花に向きなおると、弘毅は言う。
その日の夜。
仕事をおえた綾子と晴花は、屋台村のおでん屋台にいた。
同じ頃。
安堂は、駅の東の賑わいの中を歩いていた。
乾いた風に逆らいながら、高層ビルの街を往く。
そして、隘路を折れて、くすんだ色をしたビルの地下への階段を、一歩ずつ、踏みしめて降りた。
古めかしいランタンに揺れる淡いオレンジの光で照らされた、背の低いウッドドアを目前にしたとき、安堂のスマホが震えた。
安堂は、立ち止まったままコートの右ポケットからスマホを取り出した。かじかんだ手で、ロックを外す。
安堂は画面を覗くと、存在する限りの、と修飾を加えても不自然でないほどに、表情筋をいっせいに緩めた。
安堂はポケットにスマホを戻すと、まっくろなドアを押した。
カウンター越しに見える幾多もの澄んだグラスが、ダウンライトの照り返しとバーテンダーの影に揺れ、光彩をつくる。その小さな店は、星空のような艶美なかがやきを満たしていた。
安堂は、カウンターの一角に、ひとりの女性の後ろ姿を見た。
そのすぐ側まで、安堂は近づいた。彼女の肩越しに、汗をかいたコリンズグラスに半分ほどの、ウイスキーソーダが見える。
(待たせたみたいだ)
安堂はにこりと笑って、女性の隣のハイスツールに腰を下ろした。
「しばらくぶり。 と、言うのが正解なんかな」
Chapter5 Finished.